揉み消し
ベッドルームの引き戸は、開け放してあった。
アルノはリビングからリヴァが見える位置に座っていた。ベッドへ視線を向けたまま動かなかった。
カイはベッドの脇へ椅子を寄せ、そこに突っ伏していた。リヴァが少し動くたびに顔を上げた。
フィンは引き戸の脇にいた。ユキナガはモニターの前に座っていた。ヴィクトルはリビングの壁へ背を預け、腕を組んでいる。
カラムは部屋の端にいた。ベッドから離れ、出入口も見える位置だった。
誰も話さなかった。船体の低い振動と、空調の音が続いていた。
最初に動いたのは、リヴァの指だった。
「……」
シーツを掴んだ。
アルノが顔を上げた。
リヴァは右腕をついて起き上がろうとした。肘から力が抜け、身体が崩れた。
カイが顔を上げた。
「リヴァ」
リヴァが止まった。
カイを見て、次に天井へ視線を動かした。
「……グレイ」リヴァは言った。
「いない」カイが言った。「ここにはいない」
リヴァは部屋を見た。
アルノとヴィクトルが視界に入った。
右手を持ち上げた。手首に赤い痕が一周していた。
「……なんで」
左肩へ触れた。傷の奥まで軋んだ。
「何が……」
弾が手すりに当たった。甘い匂いがした。カイと一緒に倒れた。
そこから先がなかった。
頭の奥が鈍く痛み、右手が震えていた。
リヴァはその手を見た。
アルノが立ち上がり、ベッドルームへ入ってきた。
「……続きがない」リヴァが言った。
アルノはカイを見た。
カイは視線を下げた。
「今は安全です」アルノが言った。
「わたし、何か…されたの」
壁際からカラムが離れた。リヴァの方へ向かう。
「待て」ヴィクトルが間へ一歩入った。「見てわからないのか」
カラムが止まった。
「今は話せる状態じゃない。そこにいろ」
ヴィクトルがリヴァを向いた。
「もう終わった」ヴィクトルは言った。「お前が頑張ったから、終わった」
リヴァが息を吐いた。
フィンが引き戸へ肩を預けたまま言った。
「脈と呼吸は安定してる。痛みもすぐに引くよ」
リヴァがフィンを見た。
ユキナガがモニターの前から離れた。ベッドルームへ入ろうとして、一度足を止めた。
「……お帰り」
リヴァがユキナガを見た。
ユキナガはそのまま視線を落とした。
カイがリヴァの背中を支えて枕へ戻した。
リヴァの左手へ、自分の右手を重ねる。そのまま握った。
リヴァは目を閉じた。
壁際で、カラムが煙草の煙を吐いた。
船内放送が廊下から聞こえた。
穏やかな女性の声で、英語、日本語、フランス語が順に流れていく。
『船内にて設備トラブルが発生しております。ご安全のため、しばらくの間お部屋でお過ごしくださいますようお願い申し上げます』
ユキナガは端末を開いた。
「十二階後部、完全封鎖された。保安と設備以外は入れない」
画面を切り替えた。
「プールも排水準備に入ってる。ガラス割れて水の中まで入ってるし、バーや柱にも弾痕。血痕も複数あるしね」
アルノが端末へ視線を向けた。
「サービスルームは?」
「入れてた四人も船側がもう回収してる」
ユキナガは別のログを開いた。
「船員側はもう銃撃だって分かってる。でも内部報告が上で止められてる。外への通報も、まだ確認できない」
「揉み消しにかかってるな」ヴィクトルが言った。アルノを見た。「お前が言ってた通り」
アルノが頷いた。
「コストフ、この船の上客だったんじゃないかな。死人まで出てプールもあれじゃ、表に出したくないでしょ」フィンが言った。
「船にいるうちにグレイを探す」カイが顔を上げて言った。
「無理だ」
ヴィクトルが遮った。
壁際のソファへ深く沈み、Sobranieを口の端に咥えていた。
「廊下へ出た瞬間に目立つ。今から動く客を、船側は真っ先に見る」
煙を吐いた。
フィンが立ち上がった。
「静かにしておくしかなさそうだね」
カーテンをすべて閉め、窓際のソファへ手をかける。外から室内が見えにくい位置まで押すと、ヴィクトルも座ったまま足を伸ばして手伝った。
アルノは眠っているリヴァを一度見てから、Walther PPKのホルスターへ触れた。予備マガジンの位置まで指で確かめる。
ユキナガもカウンターの下へ手を入れた。
VP9のグリップを握った。そのまま手を戻した。
「ねえカラム。武器、そろそろ預けてくれない?」
フィンが言った。
「……」
「そっか」
フィンはカラムの腰を見た。
「じゃあ一つ。ここにいる間は抜かない。それでいい」
カラムは少し黙った。
「……ここにいる間は、抜かない」
「ありがとう」
アルノがフィンを見た。
フィンは小さく肩をすくめた。
「航路の変更はありましたか」アルノが言った。
「明日の午前中、石垣港へ予定通り寄港するって運航ログに出てる」
ユキナガがカラムを見た。
「てか、一旦帰れば?自分の部屋」
「部屋、ない」
ユキナガが端末から顔を上げた。
「どういうこと」
「乗客じゃない。船外から来た。……ボートで」
「……どこから乗り込んだの」
「貨物用のハッチ」
ユキナガは少し黙った。
「じゃあボートで帰れよ」
「……繋げなかったから、放棄した」
ユキナガがフィンを見た。
フィンが口元を緩めた。
「最悪だね」
フィンはカラムを見た。
「で、石垣に着いたらどうするの」
カラムは少し黙った。
「……あんたらは降りる?」
「降りるよ」
「なら、俺も降りる。ついてく」
「『ついていく』ではありません」アルノが言った。
カラムがアルノを見た。
「あなたはリヴァをグレイのもとへ運んだ側です。つい先ほどはユキナガへ銃口を向けた。今ここにいるのも、こちらがあなたを信用したからではありません」
カラムは黙っていた。
「石垣で降りた後も、こちらの監視下に置きます。勝手な行動は認めません。もう一度こちらへ武器を向けた場合は、同行ではなく拘束に切り替えます」
少し間があった。
「……わかった」
アルノはヴィクトルを見た。
「彼を石垣で降ろせますか」
「一人くらいなら、なんとかなる」
「お願いします」
ヴィクトルはミニバーからスコッチを注いだ。
「ヴィクトル」アルノが言った。
「俺は軍人じゃない」ヴィクトルは一口飲んで、言った。「今夜の仕事は終わった」
アルノが眼鏡を押し上げた。
ユキナガはケトルに水を入れ、スイッチを押した。棚からカモミールを探し、カップと一緒にカウンターへ置く。
それからグラスを取り出した。
「じゃ、俺も」
ブラックラム、氷とソーダを入れた。
壁際から、カラムが見ていた。
「……それ、なに」
「モヒート。ミント無いけど」ユキナガが言った。「飲む?」
「……うん」
ユキナガの手が止まった。
フィンとアルノがカラムを見た。ヴィクトルもグラスを持ったまま顔を上げた。
「飲むの?」フィンが言った。
「……もう終わったから」
ユキナガは数秒カラムを見てから、もう一つグラスを出した。
モヒートを注ぎ、カウンターへ置く。
カラムが壁から離れた。
グラスを取り、一口飲んだ。
元いた壁際へ戻った。グラスは手に持っていた。
「座れば?」フィンが言った。
「……見てる」
カラムはベッドへ視線を向けた。
フィンはそれ以上言わなかった。
しばらくして、フィンがカラムへ顔を向けた。
「普段どこにいるの?フリーの傭兵なんでしょ?」
カラムは左手でグラスを持ったまま、右手で煙草を出して火をつけた。
煙を吐いた。
「…依頼のあるとこ」
「次はどこ行くの」
カラムが止まった。声が小さかった。
「……今夜以降、決まってない」カラムは言った。「グレイの仕事はもう受けない」
「他のクライアントは」
カラムはフィンから視線を外し、モヒートを飲んだ。
「……少し考える」
「なんか、無職になりそうな雰囲気あるけど」ユキナガは言った。
「……黙って」カラムが言った。
ユキナガは自分のモヒートへ視線を戻した。
深夜だった。
ヴィクトルは、いつの間にかソファで眠っていた。
規則的な寝息が聞こえる。
フィンがブランケットを一枚取り、ヴィクトルの上へ投げた。
ヴィクトルは起きなかった。
しばらくして寝返りを打った。
口が少し開く。
「……Я никогда больше не вернусь в Бухарест」
フィンが顔を上げた。
「何て言ったの」
「ブカレストには二度と行かないと」アルノが言った。
ヴィクトルがまた動いた。
フィンが見た。
「……アルバンの野郎」ヴィクトルが言った。
今度は日本語だった。
フィンはブランケットの下で眠っているヴィクトルを見た。
六時が近づいた頃だった。
引き戸の向こうでシーツが動いた。
リヴァが起き上がっていた。
眠っている間も、左手はカイの右手に包まれていて、汗ばんでいた。
バーガンディのベルベットを着たままだった。髪はほどけ、肩から胸元へ落ちている。
目を薄く開き、自分の手を見た。それから部屋を見回し、そこにいる顔を順に確かめた。
「おはよ」ユキナガが立ち上がり、ケトルへ手を伸ばした。
「カモミールあるよ。飲めそう?」
「……うん」
リヴァの声で、ヴィクトルが目を開けた。
「おはよう、姫」
「……ん」
「とうとう同じ部屋で眠ったな」
「はい、リヴァ」ユキナガが遮ってカップを渡した。
リヴァの右腕に力が入らず、湯の入ったカップが揺れた。
ユキナガがすぐに受け取った。
湯を少し減らしてから、もう一度渡す。
「…ありがと」
カイも顔を上げていた。
何も言わず、つないでいる手を見た。
リヴァはカモミールを一口飲んだ。
アルノを見る。
「変な匂いがして倒れた後、何されたか、わからない」
「わかりました」アルノが言った。「今はそれで充分です」
リヴァはもう一口飲んだ。
視線が部屋の端へ動いた。
壁際に、大きな男が立っていた。
茶色の長い髪。アンバーの瞳。手にはグラスを持ち、Rothmansを吸っている。
リヴァの目が止まった。
「……ホールに、いた人」
「一旦ここに居てもらってる」フィンは言った。「カラム」
リヴァはもう一度カラムを見た。
カラムもリヴァを見ていた。
「……聞きたいことが、ある」
フィンがカラムを見た。
カラムはそこで口を閉じた。
グラスを持ったまま壁へ背を戻した。
カーテンの隙間から入る光が、少しずつ明るくなっていた。
水平線が白み始めていた。
夜が終わりかけていた。




