七時、世界が始まるまで
カラムが居なくなった後、部屋は静かだった。
カイは床に座っていた。壁に背をもたせかけていた。前を向いていた。
しばらく、何も言わなかった。
「毒が来た時」カイは言った。「先に気づくべきだった」
ぽつりとした声だった。
「空気の匂いが変わっていた。わかった、のに」
リヴァは何も言わなかった。
「動けなかった」カイは言った。「連れて行かれた時、俺は床に倒れていた」
カイは背を離し、膝に両肘を乗せてうつむいていた。
少し黙った。
「……二回目だ」
リヴァが顔を上げる。
カイは自分のこめかみの横で右手を握った。少しだけ震えていた。
「…守るって言って、守れなかったのは」
言葉の重さが、部屋に残った。
「カイ」リヴァは言った。
「……」カイは顔を上げた。
「おいで」リヴァが立ち上がって、手を出した。
少し間があった。
カイがゆっくりと立ち上がった。
その手をとった。
顔を上げても、まだ見上げる形になる。
ベッドの端に座った。
リヴァがカイの腕を引いた。
びくともしないと思った。
けれど、意外なほど素直に、その大きな体は傾いた。
188センチの身体が、静かにもたれかかってきた。
広い肩が視界を埋める。
鍛えられた背中は、薄いシャツ越しでも硬さがわかった。
その重みを受け止めるには、リヴァの身体はあまりにも小さかった。
それでも逃がしたくなくて、そっと頭を抱き寄せた。
額が胸元へ沈む。
深緑の髪が鎖骨を撫でた。
白檀が、静かに香った。
カイは抵抗しなかった。
首筋に呼吸が当たった。
想像より熱があった。
銃も装備もないのに、体だけがまだ戦場に残っているみたいだった。
「あの時」カイが言った。
声が低かった。
「…死なせたと思った」
リヴァは動かなかった。
「部屋に入った時」
「……」
「もう遅かったと、思った」
カイの呼吸が、少しずつ深くなった。
張りつめていた何かが、少し解けていった。
しばらくして、リヴァが言った。
「私はここにいるよ」
カイは何も言わなかった。
もう少しだけ、リヴァの方に重心が動いた。
額が、リヴァの鎖骨の近くに触れた。
確かめるみたいだった。
それだけで、身体の大きさの違いがわかった。
リヴァはカイの背中に腕を回した。
抱き締めているつもりなのに、腕は背中の半分も回らない。
肩幅は倍近くある。
カイの肩が、ほんの少し止まった。
ゆっくり息を吐いた。
「……学んでない」カイは低く言った。
「え?」
カイが顔を上げた。距離が近かった。
黒に近い瞳が、薄暗い中で揺れていた。
感情の出ない目だと、リヴァは思っていた。
その目が、今は揺れていた。
カイの手が、リヴァの髪に触れた。
指は節だっていた。
引き金を絞るために鍛えられた手だった。
自分の頬など簡単に覆えてしまう大きさなのに、
髪へ触れる力だけは、拍子抜けするほど弱かった。
今だけ、迷っていた。
部屋に入る前の確認も、隣の椅子も、窓との間に立つことも、リヴァの時だけ、手順がひとつ多かった。
ずっと、そうだった。
リヴァの指先が、カイの頬に触れた。
カイの視線が唇へ落ちた。
そのまま動かなかった。
触れるのを許される距離まで来て、それでも迷っていた。
鼻が触れそうな距離で、目が合った。
呼吸だけが重なった。
カイが目を閉じて、唇を寄せた。
リヴァは目を瞑るのを忘れた。
カイの閉じた目を、リヴァはあまり見たことがなかった。
離れると、カイがリヴァの瞳をまっすぐに見つめた。
その視線が、頬に動いて、唇に動いて、また目に戻った。
初めて見るものみたいだった。
小さく息を吐いて、カイの額が首元に落ちた。
もう一度、重みが来た。
今度は少し甘えるみたいに動いた。
カイの腕が、リヴァの背中に回った。
腕一本で体がすっぽり収まった。
部屋は静かだった。
でも、静かすぎなかった。
呼吸の音があった。体温があった。触れている感覚があった。
右手が、カイの左手と指を絡めていた。左手首の、ダイブコンピュータの縁が、硬く当たっていた。
だから、あの狙撃前の静寂とは違った。
リヴァはぼんやりと、そう思った。
目が開いた。
部屋が薄明るかった。カーテンの隙間から光が入っていた。
「……ん」
リヴァは少しだけ動かなかった。普段は七時に起きる。
まだ早そうだった。
隣で、気配があった。
リヴァは目だけ動かした。
カイだった。
起きていた。静かにこちらを見ていた。
いつから見ていたのか、わからなかった。
リヴァは止まった。
「……起きてたの」
「ああ」
「いつから」
「毎朝五時に起きる」
少し間があった。
「見ていたかった」
カイが視線を外した。天井を見た。前髪をかき上げて、そのまま額に手を当てた。
リヴァが少し体を起こした。
「……リヴァ」
低かった。昨日までとは違う声だった。
リヴァは少し黙った。
「…今何時」リヴァが言った。
「五時半」
カイの手が、自然に伸びた。リヴァの髪を、耳の後ろに流した。
触れ方が変わっていた。
「……見ないで」
「無理だ」
即答だった。
カイは少しだけ目を細めた。
二人の距離は、もう腕一本もなかった。
呼吸が混じる。
カイは何もしてこなかった。
ただ、そこにいた。
その静けさのほうが危なかった。
「……七時まで、まだある」
その言い方が、駄目だった。




