神の領域
アルノ、フィン、カラムがオーナー区画の最奥まで進んだ。
突き当たりの両開き扉を開けた。
小さなホワイエだった。
白い大理石の床。淡い金の装飾。天井にシャンデリアがあった。
その真下に、リヴァが横向きに寝かされていた。
バーガンディのベルベットが、大理石の上に広がっていた。裾は左右に整えられていた。
ほどけかけた髪は、顔にかからない位置へ流されていた。
ドレスの胸元に、吐いた跡があった。
左肩の傷から、薄く血が滲んでいた。
頬に乾いた涙の跡があった。
唇の端は拭われていた。
呼吸があった。胸が静かに動いていた。
カラムが片膝をついた。
手がリヴァの肩に伸びた。
「触るな」
アルノの声だった。
カラムが止まった。
アルノの眼鏡のフレームが、シャンデリアの光を反射していた。
「……」
カラムは立ち上がった。
一歩、引いた。
アルノが片膝をついた。リヴァの背中に手を回した。膝の裏に手を入れた。ゆっくりと抱き上げた。
リヴァの頭が、アルノの肩に落ちた。
ドレスの裾が床を引いた。
裾が、大理石の上を滑った。
客室に戻った。
カラムも一緒に入ってきた。
ユキナガがそれを見た。
「うわ。まじ?」
アルノは一度も目線を外すことなくリヴァを見ていた。
フィンは肩をすくめた。
「だってついてきちゃったんだもん。拘束できないし」
「……嫌だな」
フィンが寝室への引き戸を二枚開いて、リヴァを抱えたアルノを通した。
「追い出して船内を自由に歩かせる方が危険だから。俺の視界に置いとく」フィンがユキナガに言った。
アルノがリヴァをベッドに寝かせた。
上から薄いブランケットをかけた。
左肩を確認した。血の滲みを見た。縫合は保っている。
アルノがリヴァの額に手を当てた。
それから手を引いて、立ち上がった。
フィンがソファに座った。アルノが窓際に立った。
カラムが壁際に立った。
コートのポケットから煙草を取り出した。Rothmansに火をつけた。
カラムが煙を吐いた。
白い煙が、天井に向かって広がった。
リヴァが寝ているのが、全員の視点から見えた。
ユキナガがカラムを見ていた。
大きな体だった。煙草を吸いながら、壁に背をもたせていた。動きが少なかった。
どこかに意識が向いているようだった。壁際を選んだ。出口が見える位置に立っていた。
「依頼主誰なの」ユキナガは言った。
フィンがユキナガを見ようとして、カラムを視界から外さないようにとどまった。
「お前の心臓どうなってんの」フィンは言った。
「帰る気なさそうだし、聞かないと進まないじゃん」
「まあ」フィンは言った。「それはそう」
カラムが煙草を指に挟んだまま、少し間を置いた。
長く息を吐いた。
「……もういいや」
低く言った。
「グレイ」
煙を吐いた。
ユキナガが苦い顔をした。
「依頼内容は」アルノが言った。
「スナイパーとして使い物にならなくしろって」
「東京でも」アルノが言った。
部屋が静かになった。
カラムがリヴァの方を見た。
「あれで失敗扱いになった」言いながら、煙を吐いた。「当てたから」
「………どういうこと?」フィンが言った。
「当てるなって言われてた」
カラムは煙草の火を見た。
「…精神的に壊すだけ」
少し間があった。
「だから、当てなかった」
カラムが目を伏せた。
「なのに当たった」カラムが言った。「さっき、白い部屋から出た時には、グレイからの通信全部切られてた」
ドアが開いた。
ヴィクトルがカイを支えながら入ってきた。
カイは顔色が悪かった。汗が残っていた。シャツが湿っていた。
「……誰だ」ヴィクトルが言った。
「リヴァが戻ってきた」フィンは言った。「そこで寝てる」
「それは聞いた。こいつは誰だ」
「東京でリヴァを狙撃した別部隊の狙撃手」フィンは言った。「カラム」
カイが動いた。
カラムに向かった。いつもよりも動きは鈍かった。
フィンが立ち上がって、カイの前に出た。
足を払った。
カイの足が流れ、崩れた。フィンがカイの腕を取って、床への衝撃を殺した。
「カイ」フィンは言った。「落ち着け」
「離せ」
「今動いたら全員死ぬかも」フィンは言った。「リヴァも」
カイがフィンを見た。
フィンはカイの目を見た。アンバーの垂れた目が、カイを見ていた。
「今は無理」フィンは小声で言った。
カイは少し間を置いた。
カラムを見た。
カラムは壁際で、煙草を吸っていた。
こちらを見ていた。
表情がなかった。
「……」
カイは立ち上がって、リヴァのもとに向かった。
フィンが座り直した。
カラムが煙を吐いた。
ヴィクトルがSobranieを取り出した。火をつけた。
「苗字は」
カラムはリヴァに向かったカイの背中を見ていた。
「…アルスラン」
「……成る程。フリーの狙撃手だな」
「ヴィクトル、知ってるの」
「情報を見たことがある。顔は初めて見た」
カラムは何も反応しなかった。
「で」フィンはカラムに言った。「リヴァが寝てるから話せないんだけど」
「待つ」カラムが言った。
そこでアルノが口を開いた。
「هل أنت من الشرق الأوسط؟ من لبنان مثلاً؟(中東ですか? レバノンとか)」
カラムが静かになった。
ヴィクトルが眉を寄せてアルノの方を見た。
ゆっくり、カラムが話し出した。
「……ليش فكّرت هيك؟(何故そう思った)」
「مو مخبّيها زين.(隠せてないですよ)」
カラムは一度黙った。そして続けた。
「ما عشت بلبنان غير لتسع سنين.(レバノンには九歳までしか住んでない)」
「なにが起きてんの?」ユキナガが言った。
「レバノンに九歳まで居たそうです」
「へー、じゃあイギリスの方が長いんだ。どこ?」フィンが言った。
カラムが止まった。
「発音がイギリスぽかったから」
「……スラウ」カラムは言った。「ウィンザーの近く」
「ああ」フィンは言った。「西側か。俺はロンドンだった」
「…あんたの話し方、嫌い」
「ちょっと上品すぎたか、ごめんね」フィンが言った。「白人の血も入ってるよね?」
「……半分…らしい」
フィンが笑った。
「そんなに話して大丈夫?」
カラムは少し間を置いた。
「……弾道の説明が欲しい」カラムは言った。「それがないと落ち着かない」
「そうなんだ」
「…どうしても」
フィンはカラムを見た。
壁際に立っていた。煙草を吸っていた。
カイはベッドの脇に椅子を引き寄せて、そこに突っ伏していた。
顔を上げた。顔色がまだ悪かった。
カイは、まだ毒で思い通りに動かない腕を睨みつけた。
「…1500メートル以上は。神の領域だと、イーサンが」
カラムは何も言わなかった。
「地球の自転、地熱、風の層。人間が計算できる限界を超えている」
ヴィクトルが煙を吐いた。
「だから、そこまで執着してんのか。制御できない何かが起きたから」
ヴィクトルが続けた。
「まるで神でも見つけたみたいだな」
カラムは答えなかった。
煙草の灰が、伸びていた。
「もう、彼女のことは、撃てない」
静かにそう言った。
声が小さかった。




