「リヴァ」
翌朝、アルノに呼ばれた。
時刻は9時きっかり。場所は地下1階の会議室。アルノが指定する集合時間は常に正時か半時で、30秒でも遅れると機嫌が変わるとカイに聞いた。昨夜のうちに。
会議室のドアを開けると、アルノはすでに座っていた。
細身のグレースーツ。179センチ。ネクタイはスーツより濃いグレー。薄いフレームのメガネの奥の目が、私を見た。テーブルの上にはファイルが一冊と、細いペンが一本。銀のジッポライター。JPS。煙草の箱がその隣にある。
「おはようございます」とアルノは言った。「昨夜はよく眠れましたか」
「まあ」
「まあ、とは何時間を指しているんですか」
「6時間」
「わかりました」
そう言って、彼はファイルを開いた。
私の名前が書いてある。正確には、私に与えられたコードネームが。
リヴァ。
アルカが付けた名前だった。どうやら今日からそう呼ばれるらしい。
「正式に、あなたのアルカへの所属が承認されました」とアルノは言った。「ただし」
ペンの先をテーブルに一度置いた。
「相当の監視下に置きます。行動制限はありませんが、全ての外出には同行者が必要です。端末の通信ログは記録されます。外部への個人的な接触は、事前申請が必要です。以上の条件に同意しますか」
「同意する」
「…即答ですね」
「うん」
アルノは3秒、彼女を見た。
「……わかりました。その一貫した態度も、今回の特別措置の理由ですから」と彼は言った。
「リヴァ。ようこそ、超法規的独立機関へ」
アルノがファイルを一枚めくった。
「では、改めて。あなたに関わる人間の説明をしておきます」
テーブルの上に、薄いカードが並んだ。写真と名前だけが印刷された、簡素なものだった。
「まず私は、アルノ・ヴァルツ。戦略立案と作戦指揮を担当します。出身はドイツです。そして、あなたの案件の総責任者です」
自分の説明を、淡々と、他人事のようにした。
「ドイツのどこ?」
「ネルトリンゲン」
「知らないとこだった」
アルノはペースを止められたことに対してため息をついて、続けた。
「カイ・レオン。護衛と前線対応。29歳。与那国と米軍、両方の血と訓練を持っています。前職ではSPとして働いていたようです。今後、彼があなたの専任の護衛兼スポッターになります。」
スポッターということは、射撃のサポートもしてくれるのか。
「決まってたの」
「昨夜、本人が申請しました」とアルノは言った。メガネの奥の目が、少しだけ動いた。「私が決めたわけではありません」
私は何も言わなかった。
「ローワン・フィッツジェラルド。組織所属の医師です。36歳。アイスランド出身。外科を中心に、応急処置から再建まで一通りをこなします。銃創、骨折、薬物中毒。アルカに運ばれてくるものはだいたい彼の管轄です。手は正確です」
「正確、というのは」
「信用していい、という意味です」とアルノは言った。「私の言葉では最大限の評価です」
次のカードに手が移った。
「ユキナガ・トウマ。情報収集と電子戦担当のハッカーです。24歳。福井で生まれたらしいですが、歌舞伎町育ちと言った方が正確かもしれません。端末とドローンが武器です。あなたの記録を昨日…いや、連日調べているのも彼です」
「勝手に」
「はい」とアルノは言った。「ただし本人は悪びれません。そういう人間です」
カードを揃えて、少し間を置いた。
「この4人が、いえ...正確にはもう1人居ますが今はいいでしょう。こちらが現在の横浜拠点のメイン構成です。案件によって外部協力者が加わります」
「ほかには」
「それは案件ごとに説明します」とアルノは言った。「ただ、明日ひとりが来ます」
最後のカードをテーブルに置いた。写真だけで、名前は伏せてあった。
「ヴィクトル・ミハイ。モルドバ出身、33歳。偽造師です。書類、身分、記録、何でも作れます。人身掌握に長けていて、出どころ不明な資金を持っています。外部協力者として、必要な案件で動いてもらっています」
「モルドバってどこ」
「後で地図帳でも開いてください」
「…大丈夫な人なの」
「有能な人間です」とアルノは言った。「ただし、信頼と有能は、別の話です。覚えておいてください」
それだけ言って、ファイルを閉じた。カードを回収した。写真も名前も、テーブルの上から消えた。
「何か質問は」
「アルノって何歳?」
「......32です」
「え」
もっといってるとおもった。
「...では」とアルノは言った。「アルカについて説明します」
そこでドアが開いた。
カイだった。
無言で壁際に立った。アルノは一瞥した。
「来なくていいと言いましたが」
「俺が判断する」
「護衛対象が会議室の中にいる間は、その必要がないと」
「俺が判断する」
アルノは一秒の沈黙の後、視線をファイルに戻した。
「……どうぞ勝手に」
そのやり取りを私は聞いていた。特に何も言わなかった。
アルノがペンを手に取った。
アルカ、と彼は言った。
多国籍の超法規的独立機関。表に出せない事象の処理と、世界の均衡維持を担う。加盟国はなく、特定の政府にも属さない。資金源は複数ルートで分散されており、単一の追跡を不可能にしてある。拠点は世界中に。横浜はそのひとつだ。
「規模は?」とリヴァは聞いた。
「各拠点に実働班が複数。サポートが数名。案件ごとに外部協力者が加わります。人数は必要最低限に絞っています。多すぎると漏れが出る」
そこまで言って、アルノは眼鏡を上げた。
「この組織で最も希少なのは、信頼できる個体です」
個体、という言い方だった。
施設の説明は、カイが案内した。
アルノが「私が説明します」と言いかけたところを、カイが「俺がやる」と遮った。アルノは薄く息を吐いて、「そうしてください」と言った。
地下2階にシミュレーター室と射撃場。地下1階に会議室とモニタールームと資料室。地上1階にエントランスと共用スペースとキッチンと医務室。2階以上が個室だった。掃除は週に3回専門に手配されたスタッフが入るらしい。昼・夜もキッチンに勝手に補充される。便利。
「個室は来た時からずっと使ってたけど、同じ?」
「ああ」
「最初から決まってた?」
「ある程度はそうだ」とカイは言った。廊下を歩きながら、常に私の半歩斜め後ろにいた。意識してやっているのか、自然にそうなるのか、判別できない。「お前が初めて来たときから、見越していた」
「アルノが」
「アルノが」
廊下の突き当たりにキッチンがあった。カイがドアを開けて、私が先に入るのを待った。昨夜と同じだった。
キッチンに入ると、カップが2つ、カウンターに並んでいた。先にカイが準備していたようだった。
「…私の分もある」
「ああ」
「聞いてないけど」
「毎朝飲むだろうと」
反論できなかった。飲む。毎朝。ブラックで。それをカイは最初から知っていた。
カイがカップを一つ持ち上げて、こちらに差し出した。受け取る時に、指が一瞬だけ触れた。
カイは気にしていない顔をしていた。
「いつから」と私は聞いた。
「最初から」
「最初って、屋上の次の日から?」
「ああ」
カップを両手で包んだ。温かかった。
一口飲んだ。おいしかった。それがカイが淹れているからなのか、コーヒーそのものがおいしいのかは、確かめたことがなかった。
「入れてくれてたなら、言ってよね」
「お前がどうしたいか、わからなかったから」
カイらしい、と思った。
ユキナガはカウンターに肘をついて端末を見ていた。コーヒーのカップが隣にある。手つかずだ。起きたばかりの顔をしている。
「おはよ」とユキナガは言った。私に向けたのか端末に向けたのかわからない声で。
「おはよう」
「昨日の射撃データも、バケモノすぎ」
「そう」
「そう、じゃないんだよな」
奥でローワンはハーブを刻んでいた。まな板の上で、細かく、丁寧に。
「おはようございます。リヴァ。先日のお茶はいかがでしたか」
「美味しかった」
「それは良かった」と彼は言った。口元が少し動いた。笑ったのかもしれない。
カイがカウンターの椅子を引いた。私が座る方の椅子を。
ユキナガがその一連を横目で見た。端末から目を離さないまま、薄く笑った。
「カイ、働くじゃん」
「うるさい」
「いや、感心してるんだって。自然だなーって」
「お前には一生できない」
「いや、俺が元歌舞伎のホストって忘れてない?」
「え」その言葉に、リヴァは思わず目を丸くする。「ユキナガ、それほんと?」
「さあ。どうでしょうね」
ユキナガは端末から目を離さず、マルボロに火をつけていた。Marlboro Black Menthol Edge Capsule。カプセルを押す前の、まだメンソールになっていない一口目を深く吸った。
「わたしにも姫のコールってやつやって」
「狙撃のバケモンは姫じゃねーだろ」そう言いながら、煙草を一本取り出した。カプセルを一つつぶしてリヴァに差し出す。「はい」
「…バケモンはひどい…」でも、少し笑った。
ユキナガが慣れた手つきでリヴァの火をつけた。煙草は、安っぽい林檎のガムみたいな味がした。
ローワンがエプロンを外しながら、ダンヒルを一本指に挟んだ。細身のネイビーに金のライン。彼の指は長く、外科的な正確さで煙草を持つ。火は自分でつけない。ライターを出さない。持っていないわけではないはずだが。
カイはGauloisesをすでに持っていた。一本取るより前にマッチ箱を取り出して、マッチを一本擦った。
ローワンが少し前に屈む。火がつく。
「ありがとうございます」
ユキナガが窓の外に煙を吐いた。半開きにした窓から、横浜の朝の空気が入ってくる。
少し遅れて、カイの煙草に火が付いた。
施設説明の続きは午後だった。
資料室をアルノが案内した。カイがついてきた。アルノは一度だけカイを見たが、何も言わなかった。学習した、ということかもしれない。
資料室は壁一面が棚だった。物理的なファイルが並んでいる。端末からアクセスできない情報はここにある、とアルノは言った。
「見てもいい?」
「権限によります」とアルノは言った。「現時点では閲覧制限があります。解除は順次行います」
「いつ」
「信頼が蓄積されてから」
「どうやって」
「任務をこなすことです。それ以外に方法はありません」
夜。
廊下でアルノとローワンが話しているのを、偶然聞いた。
2人は突き当たりの窓際にいた。アルノはJPSを持っていた。ローワンはすでに煙草を持っていない。飲み終えたのか、ハーブティーのカップを片手で持って、もう片手はスラックスのポケットに入って、体重を壁に預けていた。
私が廊下を曲がる前に、声が聞こえた。
「お前、さすがに急ぎすぎでしょう」
ローワンの声だった。敬語が崩れていた。
「何が」とアルノが言った。こちらも敬語ではない。
「あの子に対しての段階設定が細かすぎますよ。お前のシートを見た」
「うるさい。必要な手順だ」
「必要と、お前が安心したいのは別でしょう。自分の仕事を増やしすぎています」
短い沈黙。
「……お前に言われたくない」とアルノは言った。
「俺は正直に言ってるだけ。お前だけ書類や規則で測ろうとしてるの気づいてますか」
「それが私のやり方だ」
「知ってます」とローワンは言った。「だから言ってる。お前のやり方で、あの子が測れると思っていますか」
また沈黙。JPSの煙が、細く、窓の外に流れた。
「……明日、ヴィクトルが来る」とアルノは言った。話を変えた。
「ああ」
「悪影響がないかだけが気がかりだ。測れない人間が来るから、ほかは整備しておきたかった」
その夜、カイが私の個室のドアを一度ノックした。
カイの足音を直前に感じたので「いいよ」と答える。
「明日、ヴィクトルが来る」
「アルノに聞いたよ」
「外部協力者だ。偽造師。人身掌握に長けてる」とカイは言った。「近づいてくる」
「そう」
「気をつけろ」
「なんで」
カイは少し間を置いた。
「気をつけろ」
繰り返しただけだった。理由は言わなかった。でも、そのドアの前に立つ時間が、少しだけ長かった。
足音が廊下を離れていった。
明日、ヴィクトルが来る。どんな人間か、まだ知らない。
ただ、それを知らせに来たカイの声の質を、少し考えた。命令でも確認でもなかった。それは、なんだったのだろうと。
"Tom's Diner" / Suzanne Vega




