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『リヴァ・アルカ ―世界を確定させるアンカーと最強たちの執着譚―』  作者: Ilir Noct
第一章「観測地点の虚― The Empty Origin」

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JPS



 小会議室はテーブルが一つ、椅子が四脚。


 窓がない部屋だった。空調の音だけがしている。テーブルの上にボイスレコーダーと、アルノのノートが置いてあった。万年筆が一本、ノートの端に置いてある。


 アルノが向かいに座った。


 JPSを一本、指に挟んでいた。


 火はついていない。煙草を持つことが、彼の集中の補助具になっているのだと思った。


「時間をいただいてありがとうございます」とアルノは言った。


「別に」


「できるだけ詳しく聞きたいのですが、答えられない範囲は無理に答えなくて構いません」


「わかった」


「では」と彼はノートを開いた。「最初に覚えている記憶から教えてください」


 少し考えた。


「気づいたら、ここにいた」


「ここ、というのは」


「日本。この国。気づいたら屋上にいた。それ以前の記憶がない」


「身元を証明するものは」


「何もなかった。話せるのは今のところ日本語と、英語」


 アルノのペン先が一度だけ止まった。


 顔を上げる。


 そのまま、自然に言った。


「Wer sind Sie?」


 抑揚は薄い。問いかけというより、事実確認の音。


 私は一瞬、言葉の意味を測ろうとした。


 拾えない。


「……アルノの言葉?」


「…一応」


「もう少し話してみて」


「Wenn Sie das nicht verstehen, dann wohl gar nichts.」独り言のように。アルノは数秒こちらを見ていたが、すぐに視線を落とした。「そして。名前もない、と」


「うん」


「家族の記憶は」


「ない」


「友人、知人、住んでいた場所」


「ない」


「身体的な傷や、特徴的な痕は」


「ところどころ。でもいつついたか分からないし、肩の怪我のことも覚えてない。多分ナイフで切られてるってローワンが言ってた」


 アルノは書いた。


「夢は見ますか」


「…見る。白い部屋。それだけ」


「同じ夢を繰り返す?」


「少しだけ変わるかも。でも蛍光灯と白い机はいつも同じ」


「感情は夢の中でどんな状態ですか」


「何も感じない。自分が自分じゃないみたいに」


 アルノが少し止まった。書く手が一瞬だけ遅くなった。


「他に繰り返す感覚や、感触はありますか。夢でなくても」


 私は少し考えた。


「毎朝カイが入れてくれるコーヒーがおいしい」


「…それから」


「おなかがすいた」アルノのポケットを指した。


「…真面目に答えてください」ポケットから、小さなチョコを取り出して差し出した。「見抜いてましたね」


「そんなことない」包みをはがし、口に入れる。シュシャール。ヨーロッパのチョコだった。


 アルノは黙って開かれた包み紙をポケットに回収した。


「続けてください。他に気になる感覚があれば」


「銃は自然に持てた。最初から。練習した記憶はないのに、構え方を知っていた。それが一番、不思議だと思う」


 アルノは書き続けた。


 それから、溜息を吐き、煙草をテーブルに置いて、ライターを出した。


 銀色のジッポだった。


 開けた。


 金属と金属がぶつかる、小さな音が鳴った。


 カン。


 私は反射で少しだけ、身体が動いた。


 小さな動作だった。肩が一センチ上がって、戻った。それだけ。


 でも動いた。


 アルノがライターを閉じた。火はついていなかった。ただ開けただけだった。


 部屋が静かになった。


「……」何も言わなかった。


「大丈夫ですか」とアルノが言った。声が変わっていない。動じていない。ただ聞いている。


「大丈夫」と私は言った。「なんか、びっくりした。なんでか分からないけど」


「ジッポの音で」


「そう。……なんで?」


 自分で聞いた。アルノに聞いたのではなく、自分に向けて。


「分からない」と続けた。「そういう感じじゃなかったんだけど。ただの音なのに」


 アルノはライターを手の中に持ったまま、私を見た。


 判断を急がない目だった。


「こういうことは、他にもありますか。音や、動作に対して、理由の分からない反応をすることが」


「……あるかもしれない。意識してなかった」


「今後、気になったら教えてください」


「わかった」


 彼はライターをスーツのポケットに入れた。テーブルから消えた。


 部屋の空気が少し緩んだ。


「ヒアリングは以上です」とアルノが言った。「無理に急ぐ必要はありません」


「もっと聞かなくていいの」


「今日のところは」と彼は言った。「充分です」


 ノートを閉じた。ボイスレコーダーを止めた。


 私はテーブルの上に視線を落とした。


 ジッポの音が、まだ耳の奥に残っていた。


 何の音だった、あれは。口の中に残るチョコの甘みが安心する。


 どこかで聞いた。どこかで、あの音の後に、何かが起きた?


 でも何かが、分からない。


「アルノ」と私は言った。


「はい」


「私は、記憶を取り戻せると思う?」


 アルノは少し間を置いた。


「可能性の話をするなら、はい。」と彼は言った。


「そうじゃなくて」


「そうじゃない?」


「あなたの感覚として」


 彼は眼鏡のブリッジを押し上げた。


「……根拠のある答えは出せません」と彼は言った。「ただ」


 一拍。


「あなたが望んでいるなら、調べる価値はあります。私はそう思っています」


 私はアルノを見た。


 白いシャツ、整った姿勢、静かな目。


「ありがとう」と私は言った。


 彼は少し止まった。


「いいえ」と彼は言った。




 アルノがノートをかばんに入れていた。


 立ち上がりかけた。


「アルノ」と私は言った。


「はい」


「私、ここに残りたい」


 彼は手を止めた。かばんを持ったまま、私を見た。


「任務を続けるということですか」


「それもあるけど」と私は言った。「そっちじゃなくて。アルカにいる理由、ちゃんとしたやつを見つけた」


「聞かせてもらえますか」


 私はテーブルの上を見た。


 何もないテーブルだった。でも少し前まで、ジッポがそこにあった。


「記憶が欲しい」と私は言った。「前の私が何者だったのか、知りたい。この組織にいれば、ユキナガも、アルノも、調べる手段を持ってる。カイもいる。私一人じゃできないことが、ここならできる」


「それがアルカに残る理由ですか」


「うん。あとは」と私は続けた。


「ジッポのあれが何なのか、知りたい。誰かに何かされた記憶が、私の体の中にあるかもしれない。それを知らないまま、銃を持ち続けるのが嫌だ」


 アルノは私を見ていた。


 眼鏡の奥の目が、静かだった。


「ちゃんと自分で選んで、ここにいたい。そのためには、まず自分のことを知らないといけない」


 部屋が静かだった。


 空調の音だけがしていた。


「分かりました」とアルノは言った。


 それだけだった。


 了承ではなく、受け取った、という言葉だった。


「協力します」と彼は続けた。「使えるものは全部使います」


「全部って言っていいの」


「あなたの目標に使うなら、合理的です」


 私は少し笑った。


「合理的って言えばなんでも通るんだね」


「そういうわけでは」と彼は言いかけて、止まった。


 眼鏡のブリッジを押し上げた。


「……そういうわけでは、ありませんが」


「わかった。ありがとう、アルノ」


 彼は何も言わなかった。


 会議室の照明が均一な白で落ちていた。外がないから時間が分からない。でもここに来てから二時間近く経っていると思った。


 アルノが少し身体を前に傾けた。


 彼は手を伸ばした。


 私の頭に、手が乗った。


 軽かった。重さをかけない触れ方だった。ただ、乗っている。


 ゆっくり、二度だけ動いた。


「よくできました」と彼は言った。


 声が、会議室に入ってからずっとと少し違った。


 冷たさが抜けていた。


「えらいですね」


 私はしばらく何も言わなかった。


 頭に乗った手が静かだった。重さがほとんどない。でもそこにある。


「……なにそれ」と私は言った。


「なにそれ、とは」


「急に」


「急ではありません。話を全部聞いてもらいました。それに対する評価です」


「評価」


「合理的な行動には、適切なフィードバックを返すべきです」


「フィードバック」


「そうです」


 私はアルノを見た。


 彼は真顔だった。眼鏡の奥の目が、真剣だった。本気でそう言っている顔だった。


 でも手は、まだ頭に乗っていた。


「……わかった」と私は言った。


「もう少しだけ」


 手がもう一度、ゆっくりと動いた。髪の上を、静かに滑った。


「ありがとうございます」と彼は言った。


 さっきの「いいえ」と同じ種類の声だった。


 管理職でも分析官でもない、ただの声だった。


「……うん」と私は言った。


 会議室の空調の音が続いていた。


 外では拠点の誰かが廊下を歩いていく音がした。遠くでユキナガが何か言っている声がした。内容は聞こえない。


 アルノが手を引いた。


 姿勢を戻した。


 眼鏡のブリッジを押し上げた。


「では、続きはまた明日以降に」と彼は言った。声が戻っていた。ポケットからもう一つ小さなチョコを出して、渡した。


「わかった」


「次は記憶の断片をもう少し整理しましょう。夢の内容や、身体的な反応のパターンをメモしておいてください」


「する」


「よろしく」


 彼は立ち上がった。かばんを持った。


 ドアの前で、少しだけ止まった。


 振り返らなかった。


「記憶を取り戻すまで」と彼は言った。背中のままで。「私はここにいます」


 それだけ言って、ドアを開けた。


 廊下の光が会議室に差し込んで、消えた。


 ドアが閉まった。


 私は少しの間、会議室に一人でいた。


 頭のてっぺんが、まだ少し温かかった。


 窓のない部屋に、空調の音だけが続いていた。


”Für immer Frühling” / SOFFIE

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