JPS
小会議室はテーブルが一つ、椅子が四脚。
窓がない部屋だった。空調の音だけがしている。テーブルの上にボイスレコーダーと、アルノのノートが置いてあった。万年筆が一本、ノートの端に置いてある。
アルノが向かいに座った。
JPSを一本、指に挟んでいた。
火はついていない。煙草を持つことが、彼の集中の補助具になっているのだと思った。
「時間をいただいてありがとうございます」とアルノは言った。
「別に」
「できるだけ詳しく聞きたいのですが、答えられない範囲は無理に答えなくて構いません」
「わかった」
「では」と彼はノートを開いた。「最初に覚えている記憶から教えてください」
少し考えた。
「気づいたら、ここにいた」
「ここ、というのは」
「日本。この国。気づいたら屋上にいた。それ以前の記憶がない」
「身元を証明するものは」
「何もなかった。話せるのは今のところ日本語と、英語」
アルノのペン先が一度だけ止まった。
顔を上げる。
そのまま、自然に言った。
「Wer sind Sie?」
抑揚は薄い。問いかけというより、事実確認の音。
私は一瞬、言葉の意味を測ろうとした。
拾えない。
「……アルノの言葉?」
「…一応」
「もう少し話してみて」
「Wenn Sie das nicht verstehen, dann wohl gar nichts.」独り言のように。アルノは数秒こちらを見ていたが、すぐに視線を落とした。「そして。名前もない、と」
「うん」
「家族の記憶は」
「ない」
「友人、知人、住んでいた場所」
「ない」
「身体的な傷や、特徴的な痕は」
「ところどころ。でもいつついたか分からないし、肩の怪我のことも覚えてない。多分ナイフで切られてるってローワンが言ってた」
アルノは書いた。
「夢は見ますか」
「…見る。白い部屋。それだけ」
「同じ夢を繰り返す?」
「少しだけ変わるかも。でも蛍光灯と白い机はいつも同じ」
「感情は夢の中でどんな状態ですか」
「何も感じない。自分が自分じゃないみたいに」
アルノが少し止まった。書く手が一瞬だけ遅くなった。
「他に繰り返す感覚や、感触はありますか。夢でなくても」
私は少し考えた。
「毎朝カイが入れてくれるコーヒーがおいしい」
「…それから」
「おなかがすいた」アルノのポケットを指した。
「…真面目に答えてください」ポケットから、小さなチョコを取り出して差し出した。「見抜いてましたね」
「そんなことない」包みをはがし、口に入れる。シュシャール。ヨーロッパのチョコだった。
アルノは黙って開かれた包み紙をポケットに回収した。
「続けてください。他に気になる感覚があれば」
「銃は自然に持てた。最初から。練習した記憶はないのに、構え方を知っていた。それが一番、不思議だと思う」
アルノは書き続けた。
それから、溜息を吐き、煙草をテーブルに置いて、ライターを出した。
銀色のジッポだった。
開けた。
金属と金属がぶつかる、小さな音が鳴った。
カン。
私は反射で少しだけ、身体が動いた。
小さな動作だった。肩が一センチ上がって、戻った。それだけ。
でも動いた。
アルノがライターを閉じた。火はついていなかった。ただ開けただけだった。
部屋が静かになった。
「……」何も言わなかった。
「大丈夫ですか」とアルノが言った。声が変わっていない。動じていない。ただ聞いている。
「大丈夫」と私は言った。「なんか、びっくりした。なんでか分からないけど」
「ジッポの音で」
「そう。……なんで?」
自分で聞いた。アルノに聞いたのではなく、自分に向けて。
「分からない」と続けた。「そういう感じじゃなかったんだけど。ただの音なのに」
アルノはライターを手の中に持ったまま、私を見た。
判断を急がない目だった。
「こういうことは、他にもありますか。音や、動作に対して、理由の分からない反応をすることが」
「……あるかもしれない。意識してなかった」
「今後、気になったら教えてください」
「わかった」
彼はライターをスーツのポケットに入れた。テーブルから消えた。
部屋の空気が少し緩んだ。
「ヒアリングは以上です」とアルノが言った。「無理に急ぐ必要はありません」
「もっと聞かなくていいの」
「今日のところは」と彼は言った。「充分です」
ノートを閉じた。ボイスレコーダーを止めた。
私はテーブルの上に視線を落とした。
ジッポの音が、まだ耳の奥に残っていた。
何の音だった、あれは。口の中に残るチョコの甘みが安心する。
どこかで聞いた。どこかで、あの音の後に、何かが起きた?
でも何かが、分からない。
「アルノ」と私は言った。
「はい」
「私は、記憶を取り戻せると思う?」
アルノは少し間を置いた。
「可能性の話をするなら、はい。」と彼は言った。
「そうじゃなくて」
「そうじゃない?」
「あなたの感覚として」
彼は眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……根拠のある答えは出せません」と彼は言った。「ただ」
一拍。
「あなたが望んでいるなら、調べる価値はあります。私はそう思っています」
私はアルノを見た。
白いシャツ、整った姿勢、静かな目。
「ありがとう」と私は言った。
彼は少し止まった。
「いいえ」と彼は言った。
アルノがノートをかばんに入れていた。
立ち上がりかけた。
「アルノ」と私は言った。
「はい」
「私、ここに残りたい」
彼は手を止めた。かばんを持ったまま、私を見た。
「任務を続けるということですか」
「それもあるけど」と私は言った。「そっちじゃなくて。アルカにいる理由、ちゃんとしたやつを見つけた」
「聞かせてもらえますか」
私はテーブルの上を見た。
何もないテーブルだった。でも少し前まで、ジッポがそこにあった。
「記憶が欲しい」と私は言った。「前の私が何者だったのか、知りたい。この組織にいれば、ユキナガも、アルノも、調べる手段を持ってる。カイもいる。私一人じゃできないことが、ここならできる」
「それがアルカに残る理由ですか」
「うん。あとは」と私は続けた。
「ジッポのあれが何なのか、知りたい。誰かに何かされた記憶が、私の体の中にあるかもしれない。それを知らないまま、銃を持ち続けるのが嫌だ」
アルノは私を見ていた。
眼鏡の奥の目が、静かだった。
「ちゃんと自分で選んで、ここにいたい。そのためには、まず自分のことを知らないといけない」
部屋が静かだった。
空調の音だけがしていた。
「分かりました」とアルノは言った。
それだけだった。
了承ではなく、受け取った、という言葉だった。
「協力します」と彼は続けた。「使えるものは全部使います」
「全部って言っていいの」
「あなたの目標に使うなら、合理的です」
私は少し笑った。
「合理的って言えばなんでも通るんだね」
「そういうわけでは」と彼は言いかけて、止まった。
眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……そういうわけでは、ありませんが」
「わかった。ありがとう、アルノ」
彼は何も言わなかった。
会議室の照明が均一な白で落ちていた。外がないから時間が分からない。でもここに来てから二時間近く経っていると思った。
アルノが少し身体を前に傾けた。
彼は手を伸ばした。
私の頭に、手が乗った。
軽かった。重さをかけない触れ方だった。ただ、乗っている。
ゆっくり、二度だけ動いた。
「よくできました」と彼は言った。
声が、会議室に入ってからずっとと少し違った。
冷たさが抜けていた。
「えらいですね」
私はしばらく何も言わなかった。
頭に乗った手が静かだった。重さがほとんどない。でもそこにある。
「……なにそれ」と私は言った。
「なにそれ、とは」
「急に」
「急ではありません。話を全部聞いてもらいました。それに対する評価です」
「評価」
「合理的な行動には、適切なフィードバックを返すべきです」
「フィードバック」
「そうです」
私はアルノを見た。
彼は真顔だった。眼鏡の奥の目が、真剣だった。本気でそう言っている顔だった。
でも手は、まだ頭に乗っていた。
「……わかった」と私は言った。
「もう少しだけ」
手がもう一度、ゆっくりと動いた。髪の上を、静かに滑った。
「ありがとうございます」と彼は言った。
さっきの「いいえ」と同じ種類の声だった。
管理職でも分析官でもない、ただの声だった。
「……うん」と私は言った。
会議室の空調の音が続いていた。
外では拠点の誰かが廊下を歩いていく音がした。遠くでユキナガが何か言っている声がした。内容は聞こえない。
アルノが手を引いた。
姿勢を戻した。
眼鏡のブリッジを押し上げた。
「では、続きはまた明日以降に」と彼は言った。声が戻っていた。ポケットからもう一つ小さなチョコを出して、渡した。
「わかった」
「次は記憶の断片をもう少し整理しましょう。夢の内容や、身体的な反応のパターンをメモしておいてください」
「する」
「よろしく」
彼は立ち上がった。かばんを持った。
ドアの前で、少しだけ止まった。
振り返らなかった。
「記憶を取り戻すまで」と彼は言った。背中のままで。「私はここにいます」
それだけ言って、ドアを開けた。
廊下の光が会議室に差し込んで、消えた。
ドアが閉まった。
私は少しの間、会議室に一人でいた。
頭のてっぺんが、まだ少し温かかった。
窓のない部屋に、空調の音だけが続いていた。
”Für immer Frühling” / SOFFIE




