マルメンとフレッシュハーブティー
夜の拠点は静かだった。
共用スペースに差し掛かったのは、偶然だった。ローワンに渡されたハーブティーのカップを両手で持って、自室に戻るつもりだった。
廊下の突き当たりで足が止まる。
共用スペースに明かりがついていた。
カイだった。
ソファに脚を伸ばして座っていた。Gauloisesを一本、指に挟んでいた。外で吸って戻ってきたところのようで、煙草の残り香がした。煙は出ていない。もう火はついていない。
彼は私を見た。
「ハーブティーか」と彼は言った。
「ローワンに貰ったの」
「飲めるか」
「うん。美味しいよ」
カイが立ち上がった。
何か特別なことをしたわけではない。ただソファから立って、私のいる入り口まで来て、カップを片手で引き受けた。それから共用スペースのテーブルに置いた。椅子を引いた。私が座る方の椅子を。
自然な動作だった。考えてやっている感じがしない。
私はそこに座った。
カイは自分のソファに戻った。一席分、空けた場所に。脚を伸ばした。天井を少し見た。
しばらく何も言わなかった。
それが彼の会話の仕方だ、と今まででなんとなくわかった。沈黙が苦にならない。埋める気もない。でも、いるのだ。
ハーブティーを一口飲んだ。まだ温かい。
「眠れそうか」とカイが言った。
「たぶん」
「たぶん、は眠れないやつの答えだろう」
「最近会ったばかりで、よくそれがわかるね」
「そういう顔をしてる」
私はカップを両手で包んだ。
「寝れてるよ。でも夢を見るの」
言うつもりはなかった。ただ、出てきた。
「どんな」
「蛍光灯の部屋。白い机。誰かが話してる。声は聞こえてる。でも顔が見えない」
「昔の記憶か」
「わからない」
「以前の記録がないのは」
「知ってるの?」と私は聞いた。
「今日、ユキナガが調べた」
「勝手に」
「必要だと判断した」とカイは言った。謝らない。事実だけ言う。「どこを調べても記録がなかった。戸籍の類に近いものが一切ない」
「薄々、知ってた」と言った。「聞いたこともないし、思い出せる記憶がない。誕生日も知らない。家族がいたかどうかもわからない」
カイは少し間を置いた。
「怖くないか」と彼は言った。
珍しい問いだった。彼がそういうことを聞く人間だとは思っていなかった。会ったばかりで、一日中ほとんど命令と確認しかしていなかった人間が。
「怖いというより」と私は言った。「落ち着かない、かな。自分のことなのに、知らない。見えない場所が自分の中にある感じ」
「そうか」
「カイは自分の過去、全部覚えてる?」
「ある程度」
「…私もそうなりたい」
カイはそれを聞いて、前を向いた。
何も言わなかった。でも、少しだけ何かが変わった気がした。彼の肩の角度が、ほんのわずかだが、内側に向いた。
Gauloisesの空箱を指で叩いた。習慣のような動作だった。
「作ればいい、これから」
ほとんど独り言だった。カイの声が聞こえたような気がした。
「……そういえば」
ポケットから箱を取り出す。角がわずかに潰れている。
「ユキナガにもらった」
「吸うのか」とカイ。
「たぶん」
ユキナガからもらった、マルメンの箱。妙に懐かしい感じがした。一本を抜く。指の間に収まる位置も、唇へ運ぶ距離も、身体が覚えている。
カイは小さなマッチ箱を出した。
一本、擦る。
乾いた音。橙の火。
彼女は少しだけ身を寄せた。炎の中で、彼の目が近い。焦点は煙草の先端に正確に合っている。
先が赤く灯る。
一度、浅く吸う。
煙が落ちる。吐く。細くほどける。
ミントの冷たさが遅れて広がった。
「……吸えているな」
「みたい」
カイはそのまま、自分のGauloisesを一本抜いた。指に挟む。
さっきの火に手首を返して、自分の先端に火を移す。
短く吸う。
赤が灯る。
マッチは燃え尽きる前に振って消した。黒くなった軸を折って、灰皿へ。
カイは腰掛に体を戻した。煙を一度だけ深く含み、ゆっくり吐く。
私の煙と、彼の煙が途中で混ざる。
種類の違う匂いが、静かに重なった。
「お前が一人だけ、吸わない人間じゃなくてよかった」
「…でも部屋が煙たいのは嫌だよ」
「そうじゃない。」 視線を上げると、カイがこちらを見ている。「一緒に吸える」
測る目ではない。もう少し近い距離。拠点に来て、初めてしっかりとカイの瞳を見た気がする。日本人にしては、薄い茶色。
そういえば、彼は沖縄の母と米軍の父をもつハーフだったと、アルノから聞いた気がする。
何も言わないまま、その視線だけが残る。
「……落ち着くか」
「うん」
「そういう顔だ」
私はもう一度吸った。白い線を吐く。
カイは避けない。自分の煙を重ねるように、同じ高さで吐いた。
距離は変わらない。
けれど、間にある空気だけが少し柔らかくなる。
火の残り香と、ミントの冷たさと、もう一つの苦味。
どれも消えないまま、静かにそこにあった。
「明日、アルノが話を聞きに来る」と彼は言った。
「聞いた」
「詳しく聞かれる」
「わかってる」
「嫌なら」
「嫌じゃない」と私は言った。「話せることは話す。わからないことは、ちゃんと言う」
カイは少し私を見た。
「そうか」と彼は言った。
ハーブティーが少しずつ冷め始めた。それでも飲み続けた。
しばらくして、カイが口を開いた。
「任務の構成は悪くなかった」
「アルノに言いなよ」
「本人には言わない」
「なんで」
「あいつは言わなくてもわかってる」
それはそうかもしれなかった。
また沈黙。
「カイは、護衛の人でしょ」と私は言った。
「SP上がりだ」
「組織に入る前」
「うん」カイが答えた。
「それが仕事なの。今日みたいに、誰かについて」
「そうなるだろうな」と彼は言った。
断言ではなかった。でも、否定でもなかった。
「私に?」
彼は私を見た。一秒か、二秒か。
「嫌か」
「別に」と私は言った。
カイは小さく、何かを確かめるように一度頷いた。
それだけだった。
蛍光灯の夢の話を、初めて誰かにした夜だった。自室に戻る頃には、ハーブティーは飲み切っていた。空のカップをテーブルに置いて立ち上がったとき、カイが先に立っていた。廊下の明かりのスイッチを入れて、私が通るのを待った。
「おやすみ」
「おやすみ、カイ」




