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『リヴァ・アルカ ―世界を確定させるアンカーと最強たちの執着譚―』  作者: Ilir Noct
第一章「観測地点の虚― The Empty Origin」

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マルメンとフレッシュハーブティー



 夜の拠点は静かだった。


 共用スペースに差し掛かったのは、偶然だった。ローワンに渡されたハーブティーのカップを両手で持って、自室に戻るつもりだった。


 廊下の突き当たりで足が止まる。


 共用スペースに明かりがついていた。


 カイだった。


 ソファに脚を伸ばして座っていた。Gauloisesを一本、指に挟んでいた。外で吸って戻ってきたところのようで、煙草の残り香がした。煙は出ていない。もう火はついていない。


 彼は私を見た。


「ハーブティーか」と彼は言った。


「ローワンに貰ったの」


「飲めるか」


「うん。美味しいよ」


 カイが立ち上がった。


 何か特別なことをしたわけではない。ただソファから立って、私のいる入り口まで来て、カップを片手で引き受けた。それから共用スペースのテーブルに置いた。椅子を引いた。私が座る方の椅子を。


 自然な動作だった。考えてやっている感じがしない。


 私はそこに座った。


 カイは自分のソファに戻った。一席分、空けた場所に。脚を伸ばした。天井を少し見た。


 しばらく何も言わなかった。


 それが彼の会話の仕方だ、と今まででなんとなくわかった。沈黙が苦にならない。埋める気もない。でも、いるのだ。


 ハーブティーを一口飲んだ。まだ温かい。


「眠れそうか」とカイが言った。


「たぶん」


「たぶん、は眠れないやつの答えだろう」


「最近会ったばかりで、よくそれがわかるね」


「そういう顔をしてる」


 私はカップを両手で包んだ。


「寝れてるよ。でも夢を見るの」


 言うつもりはなかった。ただ、出てきた。


「どんな」


「蛍光灯の部屋。白い机。誰かが話してる。声は聞こえてる。でも顔が見えない」


「昔の記憶か」


「わからない」


「以前の記録がないのは」


「知ってるの?」と私は聞いた。


「今日、ユキナガが調べた」


「勝手に」


「必要だと判断した」とカイは言った。謝らない。事実だけ言う。「どこを調べても記録がなかった。戸籍の類に近いものが一切ない」


「薄々、知ってた」と言った。「聞いたこともないし、思い出せる記憶がない。誕生日も知らない。家族がいたかどうかもわからない」


 カイは少し間を置いた。


「怖くないか」と彼は言った。


 珍しい問いだった。彼がそういうことを聞く人間だとは思っていなかった。会ったばかりで、一日中ほとんど命令と確認しかしていなかった人間が。


「怖いというより」と私は言った。「落ち着かない、かな。自分のことなのに、知らない。見えない場所が自分の中にある感じ」


「そうか」


「カイは自分の過去、全部覚えてる?」


「ある程度」


「…私もそうなりたい」


 カイはそれを聞いて、前を向いた。


 何も言わなかった。でも、少しだけ何かが変わった気がした。彼の肩の角度が、ほんのわずかだが、内側に向いた。


 Gauloisesの空箱を指で叩いた。習慣のような動作だった。


「作ればいい、これから」


 ほとんど独り言だった。カイの声が聞こえたような気がした。






「……そういえば」


 ポケットから箱を取り出す。角がわずかに潰れている。


「ユキナガにもらった」


「吸うのか」とカイ。


「たぶん」


 ユキナガからもらった、マルメンの箱。妙に懐かしい感じがした。一本を抜く。指の間に収まる位置も、唇へ運ぶ距離も、身体が覚えている。


 カイは小さなマッチ箱を出した。


 一本、擦る。


 乾いた音。橙の火。


 彼女は少しだけ身を寄せた。炎の中で、彼の目が近い。焦点は煙草の先端に正確に合っている。


 先が赤く灯る。


 一度、浅く吸う。


 煙が落ちる。吐く。細くほどける。


 ミントの冷たさが遅れて広がった。


「……吸えているな」


「みたい」


 カイはそのまま、自分のGauloisesを一本抜いた。指に挟む。


 さっきの火に手首を返して、自分の先端に火を移す。


 短く吸う。


 赤が灯る。


 マッチは燃え尽きる前に振って消した。黒くなった軸を折って、灰皿へ。


 カイは腰掛に体を戻した。煙を一度だけ深く含み、ゆっくり吐く。


 私の煙と、彼の煙が途中で混ざる。


 種類の違う匂いが、静かに重なった。


「お前が一人だけ、吸わない人間じゃなくてよかった」


「…でも部屋が煙たいのは嫌だよ」


「そうじゃない。」 視線を上げると、カイがこちらを見ている。「一緒に吸える」


 測る目ではない。もう少し近い距離。拠点に来て、初めてしっかりとカイの瞳を見た気がする。日本人にしては、薄い茶色。


 そういえば、彼は沖縄の母と米軍の父をもつハーフだったと、アルノから聞いた気がする。


 何も言わないまま、その視線だけが残る。


「……落ち着くか」


「うん」


「そういう顔だ」


 私はもう一度吸った。白い線を吐く。


 カイは避けない。自分の煙を重ねるように、同じ高さで吐いた。


 距離は変わらない。


 けれど、間にある空気だけが少し柔らかくなる。


 火の残り香と、ミントの冷たさと、もう一つの苦味。


 どれも消えないまま、静かにそこにあった。


「明日、アルノが話を聞きに来る」と彼は言った。


「聞いた」


「詳しく聞かれる」


「わかってる」


「嫌なら」


「嫌じゃない」と私は言った。「話せることは話す。わからないことは、ちゃんと言う」


 カイは少し私を見た。


「そうか」と彼は言った。


 ハーブティーが少しずつ冷め始めた。それでも飲み続けた。


 しばらくして、カイが口を開いた。


「任務の構成は悪くなかった」


「アルノに言いなよ」


「本人には言わない」


「なんで」


「あいつは言わなくてもわかってる」


 それはそうかもしれなかった。


 また沈黙。


「カイは、護衛の人でしょ」と私は言った。


「SP上がりだ」


「組織に入る前」


「うん」カイが答えた。


「それが仕事なの。今日みたいに、誰かについて」


「そうなるだろうな」と彼は言った。


 断言ではなかった。でも、否定でもなかった。


「私に?」


 彼は私を見た。一秒か、二秒か。


「嫌か」


「別に」と私は言った。


 カイは小さく、何かを確かめるように一度頷いた。


 それだけだった。


 蛍光灯の夢の話を、初めて誰かにした夜だった。自室に戻る頃には、ハーブティーは飲み切っていた。空のカップをテーブルに置いて立ち上がったとき、カイが先に立っていた。廊下の明かりのスイッチを入れて、私が通るのを待った。


「おやすみ」


「おやすみ、カイ」

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