「anchor_trajectory_001.log」
共用スペースに戻って、アルノが端末に向かいながら言った。
「……成果は合格点です」
眼鏡を押し上げた。
また一拍置いて、少し低い声で言った。
「ただ、あなたの狙撃手としての適性については、もう少し詳しく把握する必要があります。報告書に書けない数値が、いくつかあります」
「なにそれ」と彼女が言った。
「追々」
「今教えて」
「追々と言いました」
彼女は少しの間、アルノを見た。
「……アルノって、頭いいの」
アルノは手を止めた。静かに立ち上がって、179センチが見下ろす形になる。
「……当然です」
「ふぅん」
「……何ですか、その間は」
「別に」
ユキナガがモニターの前で声を殺して笑っていた。
「いやだってさ」小さく肩を揺らしながら言う。「そいつ、元ガチのやつだから」
アルノの視線が向く。
ユキナガは一瞬だけ口を閉じたが、やめなかった。
「ドイツの外務省。キャリア組の超エリート。大学もあれでしょ、えっと――」
「言わなくて結構です」
「ハイデルベルク」
間が落ちた。
「しらない」
ユキナガは肩をすくめた。
「国際関係とか戦略とか、そういうやつ。国同士の駆け引きしてた人がさ、今ここで“追々”とか言って詰め寄られてんの、ちょっと面白いなって」
アルノは何も言わなかった。
ただ、眼鏡の位置をわずかに直した。
処置室で、ローワンが右肩の包帯を交換した。
「動かせば痛いということは自明です」ローワンは可動域を確認しながら言った。「もう少し上げてください」
「これ以上は」
「上げられますよ。さっき給水塔の梯子を両腕で上りましたね」
「……」
「上げてください」
彼女は歯を食いしばった。もう少し上げた。
「いてて」
「よくできました」ローワンは手を離した。「今日はここまでにします」
「終わり?」
「あまり痛くすると、後がよくないので。よく頑張りましたね」
「え?」
彼女は処置台の上で、少しだけ脱力した。
いつも悪化させてる…?とは声に出せなかった。
ローワンは新しい包帯を手に取って、巻き始めた。
その作業の中で、ローワンはずっと彼女の顔を見ていた。痛みへの反応を確認するためだが、それだけではない。
ローワンは流しの脇で、小さな束になった生の葉を水で洗った。指先で茎をしごき、余分な水気を軽く落とす。まだ柔らかい葉が、指の動きに沿ってしなる。
ミントとカモミール。そこにラベンダーを少量だけ。乾燥とは違う、青い甘さが立ち上がる。
ポットにそのまま入れ、湯を注ぐ。熱に触れた瞬間、葉がゆっくりと開いて、香りが一段濃くなる。
差し出されたそれを受け取り、彼女は一口だけ飲んだ。甘さの奥に、かすかな青さと苦味が残る。
「おいしい」
「拠点の中庭で栽培しています。とれたてです」
「ローワンが?」
「ええ。部屋でゆっくり飲みなさい」
カップを抱えて、部屋を出る。自室で飲みたい、どこか優しい味だ。
「おやすみ」と彼女が言った。
「おやすみなさい」とローワンは言った。
ドアが閉まった。
その夜遅く、ユキナガはモニタールームで一人、プログラムのログを見ていた。
マルボロメンソールが大量に灰皿に溜まっていた。火を消すのが煩わしくて、わざと薄く水を張っていた。
確率収束のログを、何度も再生した。
見るたびに同じことが起きる。広い分布が、一瞬で一点に落ちる。
ユキナガはプログラムのコードを開いた。エラーを探した。
ない。
演算ミスを探した。
ない。
しばらくして、ユキナガは画面から目を離して、天井を見た。
また、煙草に火をつけた。
煙を吐きながら、独り言を言った。
「……怖っ」
一拍置いた。
「……ホラーかよ」
誰もいない部屋で、ユキナガは少しだけ笑った。
自分で言って、自分で少し引いた。非論理的だ。
端末に向かい直して、ログのファイル名を変えた。
『anchor_trajectory_001.log』
保存した。
”LIMBO” / keshi




