JPS
小会議室はテーブルが一つ、椅子が四脚。
窓がない部屋だった。空調の音だけがしている。テーブルの上にボイスレコーダーと、アルノのノートが置いてあった。万年筆が一本、ノートの端に置いてある。
アルノが向かいに座った。
座るとき、JPSの箱と、銀色のジッポライターをテーブルに置いた。
彼女の視線がジッポライターを見た。
「時間をいただいてありがとうございます」アルノは言った。
「うん」
「できるだけ詳しく聞きたいですが、答えられない範囲は無理に答えなくて構いません」
「ビンタする?」
アルノは一度だけ瞬きをした。
「…必要なら」
「怖」
「では」彼はノートを開いた。「最初に覚えている記憶から教えてください」
少し考えた。
「屋上。カイが来たところから」
「それ以前は」
「ない」
アルノは何かを書き留めた。
「言語は」
「日本語と、英語はわかる」
アルノのペン先が一度だけ止まった。
顔を上げた。
「Verstehen Sie das?(理解できますか)」
さっきのアルノより、声が低かった。
リヴァは眉間に皺を寄せて、首を傾げた。
「……アルノの言葉?」
アルノは数秒彼女を見ていたが、すぐに視線を落としメモを書いた。
「听得懂吗?(わかりますか)」アルノが小さく呟いた。
彼女が瞬きした。
アルノは何かを書き留めた。
「身体的な傷や、特徴的な痕は」
「ところどころ。でもいつついたか分からないし、肩の怪我のことも覚えてない。多分ナイフで切られてるってオラヴルが」
アルノは書いた。
「夢は」
「…今日のは覚えてた。なんか豪華な部屋。それだけ」
「感情は夢の中でどんな状態ですか」
「何も感じない。赤いカーペットをずっと見てた」
アルノが少し止まった。書く手が一瞬だけ遅くなった。
「他に繰り返す感覚や、感触はありますか。夢でなくても」
彼女は少し考えた。
「…拠点のコーヒーがおいしい」
「……それから」
「おなかすいた」アルノのポケットを指した。
「…真面目に答えてください」ポケットから、小さなチョコを取り出して差し出した。「見抜いてましたね」
「そんなことない」包みをはがし、口に入れる。シュシャール。ヨーロッパのチョコだった。
「昨日のと違うんだ」
アルノは黙って、彼女の開かれた包み紙をポケットに回収した。
「前くれたの、カイとはんぶんこして食べたよ」
アルノの手が止まった。
「……カイは甘いものが苦手だったはずですが」
「え」
アルノは一度だけ彼女を見た。
「続けてください。他に気になる感覚があれば」
「銃は、最初から持てた」口の中でチョコを転がしていた。「触った瞬間、どう構えればいいかわかった。理由は覚えてないのに」
アルノは書き続けた。
それから溜息を吐き、煙草を一本出してライターを手に取った。
銀色のジッポだった。
開けた。
金属と金属がぶつかる、小さな音が鳴った。
反射で少しだけ、彼女の身体が動いた。
「……っ」
小さな動作だった。肩が一センチ上がって、戻った。脱力したようだった。
息を吸った。喉が少し震えていた。ほんの数秒間、目が揺れた。
アルノがライターを閉じた。
火はついていなかった。ただ開けただけだった。
部屋が静かになった。
「……」アルノがじっと見ていた。
「大丈夫」彼女が言った。「なんか、びっくりした。なんでか分からないけど」
「ジッポの音で」
「そう。……なんで?」
自分で、自分に向けて聞いた。
「ただの音なのに」
アルノはライターを手の中に持ったまま、見た。
咥えた煙草を外して、テーブルに置いた。
「こういうことは、他にもありますか。音や、動作に対して、理由の分からない反応をすることが」
「……意識してなかった」
「今後、気になったら教えてください」
「うん」
彼はライターをスーツのポケットに入れた。テーブルから消えた。
「ヒアリングは以上です」アルノが言った。
「もっと聞かなくていいの」
「聞かれたいんですか?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ話したいことは?」
「チョコおいしかった」
「…はい」
ノートを閉じた。ボイスレコーダーを止めた。
彼女はテーブルの上に視線を落とした。
ジッポの音が、まだ耳の奥に残っていた。
口の中に残るチョコの甘みが安心する。
「アルノ」
「はい」
「私は、記憶を取り戻せると思う?」
アルノは少し間を置いた。
「可能性の話をするなら、はい」アルノは言った。
「そうじゃなくて」彼女は言った。「アルノの感覚として」
彼は眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……根拠のある答えは出せません」彼は言った。「ただ」
一拍あった。
「あなたが望んでいるなら、調べる価値はあります。私はそう思っています」
彼女はアルノを見た。
白いシャツ、整った姿勢、静かな金色の目だった。
「……カイって昔からあんなに面倒見がいいの」彼女が切り出した。
アルノが黙った。
一拍あった。
「…その評価は、初めて聞きました」
「そうなの」
「ええ」
アルノがノートをかばんに入れていた。
「私、ここに残りたい」
彼は手を止めた。かばんを持ったまま、彼女を見た。
「任務を続けるということですか」
「それもあるけど」彼女は言った。「そっちじゃなくて」
「聞かせてもらえますか」
彼女はテーブルの上を見た。
何もないテーブルだった。でも少し前まで、ジッポがそこにあった。
「ここなら、調べられるから」
「あなた自身について?」
「うん。さっきのあれも、何なのか知りたい。それを知らないままは嫌」
アルノは彼女を見ていた。
「残るということは、あなたの処遇をこちらに委ねるということです」
「うん」
「……意味を理解していますか」
「たぶん」
「たぶん、では困ります」
「でも残りたい」
アルノはしばらく彼女を見た。
「では、明朝正式に話します」
会議室の空調の音が続いていた。
外では拠点の誰かが廊下を歩いていく音がした。遠くでユキナガが何か言っている声がした。内容は聞こえない。
「次は記憶の断片をもう少し整理しましょう。夢の内容や、身体的な反応のパターンのメモを忘れずに」
「ん」
彼は立ち上がった。かばんを持った。
廊下の光が会議室に差し込んで、消えた。
ドアが閉まった。
少しの間、会議室に一人でいた。
窓のない部屋に、空調の音だけが続いていた。
”Für immer Frühling” / SOFFIE




