初任務
夜、20時3分前。
横浜港の廃倉庫群は、水と錆と塩の匂いがした。
海からの風が断続的に来る。今日の卓越風は南南西、毎秒四メートル強。カイはそれを皮膚で感じながら、彼女の後ろについていた。
指定の狙撃ポイントは、倉庫群の端にある給水塔の上だった。梯子で上がって、平坦な屋上に出る。手すりはない。端まで行けば何もない。
彼女はAXMCをケースから出して、展開し始めた。
フォールディングストックを開く金属音。バイポッドを展開する乾いた音。スコープのキャップを外す動作が、暗がりの中でも迷わない。
カイはその間、周囲を確認していた。有効射程内の遮蔽物、逃走経路、風向きの変化。HK416のセーフティを解除する。指は引き金の外に置く。
「できた」と彼女が言った。
イヤピースからアルノの声が来た。
「確認します。対象の第一グループが倉庫A棟に入ります。3名。端末を持っている可能性が最も高い人物は中央です」
「見えてる」と彼女が言った。
「距離は」
「419。思ったより近くていい感じ」
「……風は」
「南南西。4。問題ない」
アルノが一瞬、黙った。
「対象が止まります。……今です」
彼女の右手の人差し指が、引き金に触れた。
カイは彼女の横に立って、スコープではなく肉眼で対象を捉えていた。距離があって、暗くて、ほとんど見えない。
だから最初、着弾の瞬間が信じられなかった。
音が来る前に、対象が倒れた。
距離419メートル。横風4メートル。夜間。動いていた目標。
ボルトが引かれる。薬莢が落ちる。
次の対象が動き始めた。パニックで走り出した人間の、予測のつかない動きだ。
2発目が出た。
また、倒れた。
カイは呼吸を止めていた。
技術として理解しようとした。風の計算、距離の補正、動体の先読み。全部、あの一瞬に収めている。それは確かに技術の話だ。
だが。
カイは長く生きてきた中で、いい狙撃手を何人か見たことがある。本物の、戦場で生き残ってきた種類の。彼らの射撃には共通点があった。「外れる可能性との戦い」がある。どれだけ精度が高くても、引き金を引く瞬間に何かを賭けている。その緊張が、射撃の前後に必ずある。
彼女には、それがなかった。
賭けていない。
外れる未来を考慮していない、のではない。最初から、その未来が存在していないかのように引き金を引く。
それは技術の話ではない、とカイは思った。
何か別の話だ。
言葉が出てこなかった。
「……」
「カイ」とイヤピースからユキナガの声がした。「着弾確認、できてる?」
「……できてる」
「そっちから見てどう」
カイは答えるのに、一拍かかった。
「全部、当たってる」
「だよね」とユキナガは言った。声に微妙な緊張があった。「こっちからもドローンで確認してるけど、なんか変な感じがする」
「変な感じ」
「着弾の瞬間にさ、なんか……データがブレるんだよ。一瞬だけ。弾が飛んでる間、軌道の確率分布が——」
3発目が出た。
ユキナガが言葉を切った。
また、倒れた。
カイが動いたのは、3発目の着弾の後だった。
給水塔の下、倉庫A棟の東側から三人が走り出してきた。彼女の位置を特定しようとしている。
カイはHK416を上げなかった。
急行した彼は敵との距離が詰まりすぎていた。銃を使う間合いではない。
最初の一人の首元に右腕を回して、体重ごと倒した。地面に叩きつける瞬間、膝で脊椎の下部を押さえた。音がした。動かなくなった。
2人目が銃を向けた。
カイはその銃口の内側に入った。外側に回避するより速い。右手で銃ごと腕を掴んで、ねじった。骨が折れる前に手放した。コンバットナイフを抜いて、脇腹に入れた。深くしなかった。戦闘不能になれば十分だ。
3人目が後退した。
カイはそれを追わなかった。
「残り1名、北西に逃走」とユキナガの声がイヤピースから来た。
「見えてる」
カイは走った。6秒で追いついた。
男は振り返りながら銃を抜いた。
カイはその動作が完了する前に、右手で銃を持つ手首を掴んでいた。銃口が空を向く。男の肘を左手で押さえて、逆方向に折った。乾いた音がして、銃が地面に落ちた。
男が叫ぼうとした。
カイの左手が喉元に当たった。壁に押しつけた。錆びた鉄の壁が、男の背中で凹んだ。
沈黙。
カイは男の目を見た。
恐怖がある。当然だ。だがカイの目には何もなかった。感情の波形が出ない目だ。これが戦場で生き残ってきた人間の目だと、見た者は全員が思う。
男の上着の内ポケットを、空いている右手で探った。
端末があった。先に彼女が打ち抜いた仲間から端末を回収していたようだった。
引き抜いた。
『取れた?』ユキナガからの無線。
「ああ」
それだけ言った。
男を壁から離した。崩れ落ちるのを確認してから、端末をジャケットに入れた。
振り返った。
給水塔の上に、スコープの光が見えた。
彼女がまだこちらを見ていた。
カイは何も言わなかった。
ただ、一度だけ顎を引いた。
踵を返した。
419メートルを、来た時と同じ速度で戻った。息が上がらない。ペースを落とす理由がなかった。
リヴァはスコープから目を離した。
ボルトを引いた。薬莢が3つ、足元に落ちていた。拾った。ポケットに入れた。バイポッドを折った。スコープのキャップを戻した。銃身を確認した。ポジションの痕跡を足で均した。砂埃が乗っていた場所を、靴底で崩す。30秒かからなかった。
それからケースを開けた。
AXMCをケースに収めて、背負った。右肩に重心がかかった。
給水塔の梯子に手をかけた時、上から彼女が降りてきていた。
カイは梯子を上がった。
途中で鉢合わせた。
「...なんで登ってきてるの」と彼女が言った。
カイは彼女の横に並べる幅がない梯子の上で、片手を伸ばした。ケースの肩紐を掴んだ。
「渡せ」
「平気」
「肩に乗せてる」
「……」
彼女は一拍、黙った。
肩紐を外して、カイに渡した。
カイはケースを左肩に担いだ。自分のHK416と合わせて、両肩に一丁ずつ。それでも梯子を降りる動作が変わらなかった。
カイが地面に着いた。
彼女の着地前に腰をささえて、彼女を下す。
コートを差し出した。先週と同じ動作で。
彼女はそれを受け取って、左肩にかけた。先週と同じ動作で。
「ありがとう」
カイは答えなかった。
しばらく歩いてから、少しだけ小さい声で言った。
「……全弾命中だ」
「うん」と彼女は言った。「当たるから、撃った」
当たるから、撃った。
外れる可能性を排除した上で撃ったということではない。その言い方はもっと根本的で、まるで弾が当たることが先に決まっていて、撃つ行為が後からついてきたような言い方だった。
カイにはそれが何を意味するのか、わからなかった。
ただ。
今夜確かに起きたことは、カイの中に静かに残った。
419メートル先の、動く、夜の、的に。
外れることを考えていない人間が、確かにそこにいた。
カイは正面を向いたまま、少しだけ歩調を緩めた。彼女が隣に並ぶように。
意識してそうしたわけではなかった。
ユキナガは、拠点のモニタールームで3つの画面を同時に見ていた。
左がドローンの映像。中央が対象エリアの衛星データ。右が自分で組んだ軌道解析のプログラムだ。
このプログラムは、飛翔体の軌道を確率分布で予測するものだ。発射角、初速、風、重力、空気抵抗を入力すれば、着弾点の確率分布をリアルタイムで出力する。精度は高い。自分で言うのも何だが、市販のどのソフトよりいいと思っている。
だから、今画面に起きていることが、理解できなかった。
発射の瞬間、確率分布が出る。当然だ。風がある、距離がある、夜間の視界制限がある。分布は広め、中心点に収束確率は63パーセント。十分高いが、外れる可能性も三割強ある。
弾が飛び始めた瞬間。
分布が、消えた。
消えた、というのが正確かどうかわからない。広がっていた分布が、一点に収束した。確率が消えて、事実だけが残った。弾がどこに当たるか、ではなく、弾はここに当たる、という状態になった。
それが、着弾の直前だった。
ユキナガは3回、目を瞬かせた。
キャリブレーションのエラーか、と思った。プログラムを確認した。エラーはない。
2発目を待った。
同じことが起きた。
ユキナガは椅子の背に体を預けて、天井を見た。
「……確率が、収束する」と小声で言った。「撃った瞬間に。当たるかどうかじゃなくて、当たるって決まる感じか」
それをカイに伝えながら、ユキナガは自分の中で何かが確定していくのを感じた。
嫌な確定の仕方だ、と思った。
面白い、と思うのと同時に。
怖い、と思った。
自分の組んだプログラムが、あの女の射撃に対して無力化されている。データが正直に言っている。「私には予測できません」と。
ユキナガは端末を叩き続けながら、3発目の発射を待った。
また、収束した。
また、倒れた。
「……」
ユキナガはマルボロメンソールを取り出して、火をつけた。ボールをつぶすのも忘れていた。
煙を吐きながら、画面を見た。
まじでなに。なにもの。
怖い、の成分の中に、もう少し別の何かが混じってきていた。
"Cellophane" / FKA twigs




