火を分ける
夜の拠点は静かだった。
共用スペースの前を通りかかった時だった。
明かりがついていた。
カイだった。
ソファに脚を伸ばして座っていた。煙草の箱を指先で弄んでいた。
カイが彼女を見た。
「ハーブティーか」カイは言った。
「オラヴルに貰ったの」
「飲めるか」
「うん」
カイが立ち上がった。
彼女のいる入り口まで来て、カップを片手で引き受けた。それから共用スペースのテーブルに置いた。彼女の椅子を引いた。
彼女はされるがままにそこに座った。
しばらく何も言わなかった。
沈黙を、どちらも埋める気はなかった。
ハーブティーを一口飲んだ。まだ温かい。
「眠れそうか」カイが言った。
「たぶん」
「たぶん、は眠れないやつの答えだろう」
「ばれた」
「そういう顔だ」
彼女はカップを両手で包んだ。
カップから湯気が上がっていた。
しばらく二人で黙っていた。
「…夢を見るの」彼女が言った。
「どんな」
「うっすら声が聞こえる。でも顔が見えない」
「昔の記憶か」
「…わかんない」
カイは何も言わなかった。
煙草を一本取り出そうとして、やめた。
「カイは自分の過去、全部覚えてる?」
「覚えている」
「…私もそうなりたい」
カイはそれを聞いて、前を向いた。
彼の肩の角度が、ほんのわずか彼女に向いた。
カイはテーブルの上を指で叩いていた。
「あ」
彼女はポケットから小さな包みを出した。
さっきアルノから投げ渡された、リンドールのミルクチョコレートだった。
半分かじって、口に含んだ。ハーブの青い苦味の奥で、濃厚な甘みが溶けた。
「美味しい」包みに入った半分をカイに向けた。「いる?」
「うん」カイが動いた。
「え」
カイが彼女の指先に口を寄せて、そのままチョコを咥えた。
「食われた……」彼女は空になった包みを見た。
しばらく、口の中で甘みを転がしていた。
チョコが口の中で溶けた後、ハーブティーを一口飲んだ。
「……そういえば」
ポケットから箱を取り出す。角がわずかに潰れている。
Marlboro Double Burst、ピンクと緑のメンソールの煙草だった。
「これ昨日ユキナガにもらった」
「吸うのか」カイが言った。
「やってみる」
一本を抜く。
カイはマッチ箱を出した。
彼の大きな手の中で、マッチ箱が異様に小さく見えた。
擦る乾いた音。橙の火。
彼女は少しだけ身を寄せた。炎の中で、彼の目が近い。焦点は煙草の先端に合っている。
先が赤く灯る。
一度、浅く吸う。
煙が落ちた。
ミントの冷たさが遅れて広がった。
「……吸えているな」
「みたい」
カイはそのまま、片手で自分の煙草を一本抜いて、唇に挟んだ。
身を乗り出し、さっきの火に手首を返して、自分の先端に火を移す。
強く、短く吸う。
マッチは燃え尽きる直前に振って消した。黒くなった軸を折って、灰皿へ入れた。
カイは腰掛に体を戻した。煙を一度だけ深く吸い、ゆっくり吐く。
彼女の煙と、彼の煙が途中で混ざる。
種類の違う匂いが、静かに重なった。
「……ん」
少しだけ彼女の視界が揺れた。
カイの指が彼女の口に横から近づいてきた。
彼女の咥えている煙草を一度取り上げた。
自分の煙草を咥えて、左手で彼女の腰を支えた。
「…」
「…かえして」
「………」
カイはしばらく彼女の瞳の焦点を見ていた。
そして、彼女の口にくわえなおさせた。
腰に回した腕を外した。
「久々だと来るだろう」
「なおった」
灰皿を彼女に寄せた。
「お前が一人だけ、吸わない人間じゃなくてよかった」
視線を上げると、カイがこちらを見ていた。
「一緒に吸える」
こんなに近くでカイの瞳を見たのは、初めてだった。日本人にしては、薄い茶色だった。
何も言わないまま、その視線だけが残った。
「……落ち着いたか」
「どうだろ」
彼女はもう一度吸った。白い線を吐く。
カイは避けなかった。自分の煙を重ねるように、同じ高さで吐いた。
「明日、アルノに詳しく聞かれる」カイは言った。
「わかってる」
「嫌なら」
「話せることは話す。わかんないことは、ちゃんと言う」彼女は笑った。「また叩かれるかな」
カイは少し彼女を見た。
それから視線を下げて、煙草の灰を落とした。
「初日は、手荒な扱いをした」
「………私こそ、警戒させた」
ハーブティーが少しずつ冷め始めた。それでも飲み続けた。
しばらくして、カイが口を開いた。
「頬は痛くないか」
「あれ、記憶戻そうとしてたんでしょ?アルノ」
「…おそらく」
「あれで戻ったらよかったのに」
また沈黙があった。
「カイは、護衛の人なんでしょ」彼女は言った。
「軍を出てからは、日本でSPをしていた」
「今もそれが仕事なの?」
「そうなるだろうな」彼は言った。
「私に?」
カイは彼女を見た。
「嫌か」
「別に」
「上からのお達しだ」
「…変なの」
空のカップをテーブルに置いて立ち上がったとき、カイが先に立っていた。廊下の明かりのスイッチを入れて、彼女が通るのを待った。
「おやすみ、カイ」
「おやすみ」
"Should've Known Better" / Sufjan Stevens




