午前2時14分
ブリーフィング終了後の夜
アルノ・ヴァルツが眠れない夜は、珍しくない。
珍しくないが、今夜の種類は少し違った。
いつもは処理しきれなかった情報が頭の中で循環するせいで眠れない。それは不快ではあるが、制御可能だ。情報は分類できる。優先度をつけて、保留にして、明朝に回す。そういう手順がある。
だが今夜は、分類できないものがある。
アルノは拠点の廊下を歩きながら、銀のライターを指先で回した。
火はつけない。煙草は吸わない。ただ、金属の重さを確かめる。
午前2時14分。
保護から、今日で10日が経つ。
カイが連れてきた時、アルノは最初の3秒で7つの問題を認識した。
身元不明。負傷。武装。組織との接点なし。精神状態の判定不能。カイの判断根拠の不透明さ。そして——何より——情報の空白。
ユキナガに調査を依頼したのは保護した翌朝だった。
「どこまで掘る」とユキナガは言った。朝の8時に起きていたのは珍しい。おそらく徹夜明けだ。
「全記録」
「戸籍から」
「戸籍から、学籍、医療記録、金融、SNSの痕跡、全て」
ユキナガは端末に向かって、それから3時間後に報告してきた。
「ない」
アルノは聞き返した。
「ない、とは」
「ない。記録が存在しない。戸籍もない。生年月日も、名前も。痕跡がどこにもない。学校に行った記録がない。病院にかかった記録がない。写真が一枚もない。SNSは存在しない。ゼロ」
「偽造された戸籍という可能性は」
「当然確認した。精度が高すぎる。偽造師の仕事でもここまで綺麗にはできない。ていうか」ユキナガは一拍置いた。「偽造じゃないと思う。なんか、もっと変な感じがする」
「変な感じ、というのは」
「言語化できない」
アルノは3秒間、沈黙した。
「……続けてください」
「続けるって言っても、掘るものがないんだよ。空白に穴を開けようとしてる感じ。存在しているのに、存在していなかった人間の記録って、こういう感じなのかもしれない」
存在していなかった。
「どっかから落ちてきたみたいな」
その言葉が、10日経った今でもアルノの中に残っている。
処置室の前を通りかかった時、ドアが少し開いていた。
明かりがついている。
アルノは足を止めた。
中を見るつもりはなかったが、音が聞こえた。
規則的な音ではない。不規則な、短い音。
息、だと気づくのに2秒かかった。
ドアを押した。
処置室は白い部屋だ。医療設備以外の装飾が一切ない。照明が白く、匂いが消毒液と金属だ。
彼女が処置台の端に腰かけていた。
座っているというより、折りたたまれているような姿勢だった。両膝を抱えて、顔を膝の上に乗せている。目は開いていた。
アルノが入ってきたことに気づいて、顔を上げた。
表情がなかった。いつもの均衡した無表情ではなく、もう少し違う種類の。何かが通り過ぎた後の顔だ。
「……アルノ」
「起きていたのですか」
「うん」
「変な夢でも見ましたか」
一瞬の間。
「わかんない」と彼女は言った。「夢を見たのかどうか、わかんない。気づいたら起きてた」
「内容は」
「覚えてない」
アルノは部屋に入って、壁際の椅子を引いた。処置台から二メートルの距離に座った。何かが通り過ぎた後の顔。アルノにはそれが、ドイツで何度か見た顔に似ている気がした。理由もわからず傷ついた人間の顔に。
「……ローワンを呼びましょうか」
「いらない」
「彼は医療担当です。精神状態の管理も」
「いらない」
アルノは一拍置いた。
「わかりました」
銀のライターを取り出して、手の中で転がした。火はつけない。
彼女がそれを見ていた。
「眠れないの、アルノも」
「……今夜は」
「なにか考え事?」
「あなたのことです」
彼女は少しだけ目を細めた。警戒ではなく、確認するような動作だ。
「私の何」
「情報の空白について」アルノは端的に言った。感情を乗せない声で。「あなたのここに来る以前の記録が、一切存在しません。ユキナガが調べても、出てこない。それについて、あなた自身は何か知っていますか」
彼女はしばらく、アルノを見た。
「……知らない」
「知らない、というのは、記憶がないということですか」
「記憶はほとんどない、これが自分の記憶なのかわからないものがたまに、頭に流れる」
「でも」
彼女の目が、少しだけ遠くなった。
「なんか、ちぐはぐな感じがする。記憶と、この世界が」
アルノは手の中のライターを止めた。
「ちぐはぐ、とは」
「うまく言えない」彼女は膝の上で指を組んだ。「頭の中の景色が、ここじゃない感じがする。たまに。道路の形とか、建物の感じとか。知ってるのに、合わない」
この世界の外側から、落ちてきた存在。
ユキナガの言葉が、また浮かんだ。
アルノはそれを分類保留にした。今夜判断できることではない。
「……そうですか」
「気持ち悪い?」と彼女は言った。
「何が」
「記録がないこと」
「気持ち悪いとは思いません」アルノは正確に言った。「不完全な情報で判断することを、私は嫌います。ただ、それはあなた個人に対する感情とは別の話です」
彼女は少しの間、その言葉を処理するような顔をした。
「……そっか」
「あなたが今夜、処置室にいる理由を聞いてもいいですか」
「部屋だと、なんか落ち着かない感じがした」
「この部屋の方が広いですか」
「匂いが」
アルノは処置室を見回した。装飾がない。余計なものがない。普通の処置室だ。
「……消毒液の匂いが、落ち着くんですか」
「わかんない。でもここにいたかった」
アルノはそれ以上聞かなかった。
銀のライターを、また手の中で転がした。
彼女はゆっくりと、膝を伸ばした。処置台の上で、横になった。目は開いたままだ。
「アルノ」
「何ですか」
「もう少しいて」
アルノは答えなかった。
椅子から立ち上がりもしなかった。
それが返答だった。
なぜそうしたのか、アルノ自身にも説明できなかった。合理的な理由はない。ただ、この人間をここに一人にしてはいけない、という感覚だけがあった。論拠のない確信だった。アルカに入ってから、そういう判断をしたのは初めてだった。
30分後、彼女の呼吸が深くなった。
眠っている。
アルノは立ち上がって、処置台の端に畳んであったブランケットを見つけた。ローワンが置いておいたものだ。あの男は、こういう準備を必ずしている。
ブランケットをかけた。
触れないように、注意しながら。
彼女の寝顔は、起きている時とあまり変わらなかった。均衡した静けさが、眠っていても崩れない。
アルノは一歩引いて、その顔を見た。
記憶と、この世界がちぐはぐな感じがする。
その言葉が何を意味するのかを今夜考えるつもりはない。ただ。
今夜のことを、一つだけ記録として残しておく必要があると思った。
それと同時に、もう一つ思ったことがあった。記録には残さない種類のことだった。
この人間が、ここにいる理由を、自分は守る必要がある。
根拠はまだない。それでも、確定していた。
アルノはドアを静かに開けた。




