420メートル射撃
アルノ・ヴァルツが「本題」と言う時、その二文字には重力がある。
薄いフレームの眼鏡の奥で、黒い目が整理された情報を処理している。視線は揺れない。対象ではなく、配置を見る目だ。
白いシャツは無地で、織りの細かいコットン。襟はスプレッドカラーで、ネクタイを締めた状態で完成する設計だ。実際、今日もきっちり締めている。ノットは小さく、緩みがない。
ジャケットはグレー。肩の構築が直線的で、ドイツ仕立て特有の硬質さ。無駄な装飾は一切ない。袖口は正確に手首で止まり、カフの幅も左右で完全に一致している。靴は黒のプレーントゥ。磨き上げられているが、光らせすぎない。実用と規律の中間にある仕上げだった。
立ち姿に隙がない。重心がぶれず、無意識に踵が揃う。軍人ではないが、規律の中で身体を使ってきた人間の癖が残っている。ポケットにチョコレートが入っているとは、この姿からは想像できない。
声は低く、温度がないわけではないが、感情の波形が表に出ない。敬語は柔らかさのためではなく、距離を正確に保つためのものだ。
「まず、ここがどういう場所か。アルカといいます。特定の国家に属さない独立機関です。表に出せない案件を処理します。詳細は追って説明します」
「……それだけ?」
「今は、それだけです」
アルノがメガネを押し上げた。
「今日、任務があります」
「うん」
アルノがため息とも言えない息を吐いて、続けた。
「任務については、3日前に打診があったものです。例外承認が降りたので、あなたにも参加してもらいます。特例中の特例です。」
「回復次第と条件をつけていましたが、ローワンが今朝、最低限の実働可能状態と判断しました」
「ほんとに最低限、ですよ」とローワンがアルノの肩を後ろからたたきながら出てきて言った。
179センチのアルノは、ローワンと並ぶと小さく見えた。もっとも、普段のアルノはその背筋と態度でもっと大きく見えているが。
「概要を説明します。ロケーションは横浜港区、廃倉庫群。対象は密輸経路の中継地点として使用されている施設です。今回の目的は破壊ではなく、情報端末の回収。ただし、武装した人員が6名確認されています」
「狙撃ポイントは」と彼女が言った。
「3箇所。ただし」
「一番遠いのはどこ」
アルノが一瞬、止まった。
「……420メートルです」
「そこにする」
「風向きの計算が複雑になります。今日の横浜港は海風が」
「わかった」
「わかった、では——」
「そこにする」
アルノは眼鏡を押し上げた。今度は苛立ちの動作だ。ローワンはそれを横から見て、微かに口元を動かした。
「……合理的ではありません」とアルノは言った。「もう少し条件のいいポイントを」
「アルノが狙撃するの?」
一瞬の沈黙。
「……いいえ」
「じゃあ私が決める。420メートル」
アルノは3秒間、彼女を見た。眼鏡の奥で何かを計算している。却下する口実を探しているのか、あるいは本当に試算しているのか。
結論を出した。
「……わかりました。420メートルのポイントを使用します。ただし、カイが側に」
「いる」
声は背後からだった。
シュミレーション室からいつ出てきたのか、カイ・レオンが入口のドアに背を預けていた。
深緑の髪が蛍光灯の光を吸って、影が濃い。左手首のダイブコンピュータのベルトが黒くて、それだけが光を反射していた。Gauloisesの煙草の箱を指先で弄んでいたが、まだ火をつけていない。
彼女を見ていた。
視線が、標的を捉えているのと同じ角度だった。
「いつから聞いてたの」とユキナガが言った。
「最初から」
「声かけてよ」
「必要ない」
「あるでしょ普通に」ため息交じりに言う。
カイはユキナガを見ていなかった。彼女を見たまま、一歩入ってきた。
「右肩」
「平気だって」
「知ってる」カイは彼女の前に立った。肩に手を伸ばしたが、触れる直前で止めた。「それでも確認する」
彼女は少しの間、カイを見上げた。
それから、右腕をゆっくり持ち上げて、水平まで上げた。
わずかに眉が動いた。痛みだとわかる。
「……」
「平気」と彼女はまた言った。
「嘘をつくな」
「動く」
「それは問題ないとは言わない」
「射撃に支障はない」
カイはしばらく、その腕を見ていた。
下ろしていいと言う代わりに、自分の手でゆっくり下げた。
ユキナガが視線を天井に向けた。ローワンはカルテのない手をポケットに入れた。アルノは銀のライターをテーブルの上に置いた。静かな音がした。
「今夜20時、現地集合。ユキナガはバックアップ」
「了解」とユキナガが言った。
「あなたは端末から離れないでください。何かあった時に、情報が途切れると困ります」
アルノは眼鏡を押し上げた。3度目だった。そして彼女の方に向き直る。
「あなたが実践においてこの組織に有用であるか。確認させていただきます。ここにいていいかどうか決めるのは、私たちです。」
彼女は無言でうなずいたが、どこかどうでもいいような顔をしていた。
出発までは時間があった。
ローワンが処置室に「右肩の最終確認をしましょう」と彼女を呼んだのは、昼を過ぎた頃だ。
彼女は素直に来た。素直に、というのは正確ではない。ローワンが「来てください」と言った時の声の温度を彼女は知っていて、その温度の時は逆らうと面倒なことになると学習しているからだ。
処置台に座らせて、ローワンはまず右肩の包帯を外した。
縫合の跡が、思ったより綺麗だった。自分の仕事だから当然ではある。ただ、回復の速度が縫合の質より明らかに速い。
「動かしてみてください。ゆっくり」
彼女が右腕を前方に伸ばした。肘から先だけ。
「肩から」
「……」
少しの間があった。それから、肩を前に出した。
「痛みますか」
「ちょっと」
「ちょっと、の程度を教えてください。一から十で」
「三」
「嘘をつかないでください」
「……五」
「正直ですね」ローワンは肩の可動域を確認しながら言った。「今から少し強めに動かします。我慢しないでいいですよ」
「わかった」
ローワンの指が、縫合の端を押した。
「っ」
「痛いですね」
「言ってから押して」
「言いました。少し強めに、と」
「それは言ってない」
「言いましたよ」ローワンは穏やかに言った。穏やかさが揺れない。「もう一度押します」
「え、ちょ」
押した。
「いたた」
押したまま、ローワンは彼女に話しかけた。
「あなたは、この組織にいるんですか」見ると、まっすぐな目をしていたので、彼女は返答に困った。
「…わからない」
「危険なことも多いですが、それでも、一人よりはいいはずです」
ローワンは手元に視線を落として、言った。
「今回の任務に特例で入れたのは、アルノが条件をつけたからです」
「条件?」
「あなたの実力を確認する機会を作れ、と。コアへの報告に必要なので」
彼女は少しの間、黙った。
「コア?」
「この組織の上層部です」ローワンは淡々と続けた。「顔も名前も、私は知りません。知る必要がないので」
「……アルノは?」
「さあ」
嘘ではなかった。本当にさあ、という顔をしていた。
「あなたが今日うまくやれば、ここにいる理由ができます。それだけです」
「私は…」
ローワンが手を放す。下を向きながら、彼女がそのあとの言葉を紡いだ。「ここにいれば、自分が何者なのか、何をしていたのか、わかる気がしてる」
「……過去なんて、消せるなら消した方がいいです」
ローワンのつぶやきはほとんど聞こえなかった。
「それでも。思い出さないといけないことがある気がする」
「そうですか」いうのと同時に、肩を再度押さえる。
「待っ、いたいいたい」
「正直な反応が出ましたね」ローワンは手を離した。「我慢は禁物です」
彼女はローワンを見た。
「……わかった上でやったでしょ」
「当然です」穏やかに、完全に穏やかに、ローワンは言った。「我慢すると正確な診断ができません。困りますね」
「こっちが困ってるんだけど」
「どちらの”困った”が優先されるべきか、わかっていますね?どちらでしょうか。答えなさい」
彼女は一拍置いて、目線をそらした。
「……ローワン」
一瞬、ローワンの目が細められたが、すぐに普段の張り付いたような笑顔に戻った。
「ええ。よくできました。えらいえらい」
「それ腹立つ」
ローワンは新しい包帯を手に取った。「痛いですよ、巻きます」
「せめて巻いてからって言って」
処置室の外で、廊下を通りかかったユキナガが足を止めた。
ドア越しに声が聞こえる。
「いて」「痛いですね」「だから先に言って」「言いましたよ」というやり取りが、規則的に続いている。
ユキナガはイヤホンを外して、ドアに少しだけ近づいた。
「……いたたた、ちょっと」
「動かないでくださいね」
「動いてない、痛いんだけど」
「動かなければ痛くありません」
「絶対嘘」
「医療的事実です」
ユキナガは廊下で、声を殺して笑った。
肩を震わせて、壁に手をついた。
笑いが収まってから、イヤホンを戻して歩き出した。
"Youth" / Daughter




