表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『リヴァ・アルカ ―世界を確定させるアンカーと最強たちの執着譚―』  作者: Ilir Noct
第一章「観測地点の虚― The Empty Origin」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/43

2.「超法規的独立機関《アルカ》横浜拠点」

 


 朝の《アルカ》横浜拠点は、コーヒーの匂いがする。


 正確には、一人分のコーヒーの匂いだ。ブラック、砂糖なし、ミルクなし。机の上に置かれたまま半分以上残っている。湯気はもう出ていない。


 組織所属の医師、ローワンはそのカップを見て、持ち主の所在を把握した。


また射撃場にいる。ローワンは思った。


 柔らかい色のシャツに細身のスラックスという、どこにでもいる医者のような格好をしている。白衣は処置室に掛けたままだ。191センチの長身は廊下でも目立つが、動きが静かなせいで圧迫感がない。銀の髪は今は下ろしていて、肩よりも長い。うっすらうねりがある。手が大きく、指が長い。外科医の手だと思えば納得がいく。


 彼は、外科を中心に、応急処置から再建まで一通りをこなす。銃創、裂傷、骨折、薬物中毒。アルカに運ばれてくるものはだいたい彼の管轄だ。手は正確で、判断は早い。


 もっとも、現在この拠点をメインで使うメンバーは多くない。


「……あの怪我でよくやる」


 低く、落ち着いた声。小さく呟いて、踵を返す。


 足音は静かだった。191センチの大きな体格に似合わず、気配をほとんど残さない。歩きながら、銀色の髪を束ねた。


 射撃場へ向かう廊下は、少しだけ冷えている。


 あの白い影がいる場所は、だいたいいつも、温度が下がる。





 地下2階の射撃シミュレーションルームは、射撃場の隣にある。


 防音処理は施されているが、完全ではなかった。


 廊下に立てば、電子音と金属音が混じったような、低い断続的な音が床を通じて伝わってくる。ボルトを引く音、排莢の音。規則的なようで、どこか非機械的なリズムがある。


 ローワンはドアを開ける前に、隣に立つユキナガを見た。


「おや、ハッカーさん。珍しくお目覚めですね」


「うるさい」とユキナガは言った。目の下に薄く影がある。夜型の人間が朝の九時に立っている顔だ。「呼ばれたから来ただけ」


 ユキナガが言いながら取り出した煙草は、Marlboro Black Menthol Edge Capsule。黒を基調にネオンのような緑とピンクが走るパッケージ。角がわずかに潰れている。カプセル入りのメンソールだ。


 口の端に咥え、指先でフィルターを転がす。内部の小さなボールの位置を確かめる癖。右手にはコンビニで買った、安っぽい青色の使い捨てライター。


 流れるように火をつけた。


 髪はブルー。くすんだ色で、光によってはほぼ黒だった。サイドを刈り上げたツーブロックで、上は長めに残して無造作に流している。寝癖なのか意図的なのか判別しづらいが、どちらでも成立しているあたりが質が悪い。一般的なハッカーのイメージにしては、だいぶ小洒落ている。


 服装は黒のパーカーに細身のパンツ。足元は擦り減ったスニーカー。


 首にかけたヘッドホンは、Sony WH-1000XM5。黒。艶を抑えたマットな質感。折りたたみ機構を捨てた分、フレームが細くて無駄がない。


 軽い。見た目も、口調も。


 175センチの身長は、ローワンと並ぶとかなり小柄に見えた。


「誰に呼ばれたんですか」


「アルノ」


 ローワンは小さく笑った。


 そのタイミングで、ローワンがポケットから煙草を取り出す。細身のネイビーに金のライン。ダンヒル。一本を抜き、指に挟む。


 ユキナガが一歩、ローワンのもとに寄る。


 カチ、と火打ち石の乾いた音。


 炎が立つ。ローワンの煙草に火が付く。


「それは断れませんね」


 息を吐きながらローワンが言う。


「断ったら書類仕事回してくるから」ユキナガは煙草をくわえたままポケットに両手を突っ込んだ。「あの人、そういうとこだけ陰湿なんだよな」





 シミュレーションルームは、防音処理が施されていて、外に音は漏れない。空調が一定の温度を保っている。湿度も管理されている。


 正面の壁に大型のスクリーンが3面。壁際に並んだラックには演算装置と記録端末。床には振動吸収マット。天井には複数のセンサーユニット。カメラではなく、光学式の3次元トラッキングシステムだ。


 射撃訓練システムとしては、現在もっとも精度が高い部類に入る。実銃にセンサーモジュールを組み込み、引き金の操作、照準の微細な揺れ、発射タイミング、銃口の初速ベクトルをリアルタイムで取得する。弾丸は発射されない。


 代わりにコンピュータが弾道を再現する。距離による重力落下、空気抵抗、任意に設定した風速と風向、気温と気圧による弾道変化。屋外より条件を細かく制御できる。再現性がある。


 カイはシュミレーションルームを「匂いがない場所は落ち着かない」と言ったことがある。女は何も言わなかった。たぶん、好きでも嫌いでもないのだと思う。


 彼女は正面スクリーンの前にいた。


 伏射姿勢。腹這いに近いが、右肘の角度が教科書的な伏射とは微妙にずれている。独自に修正した構えだ。アルノが最初に見た時に、それを指摘しようとして、やめた理由は今でも正確に言語化できない。なんとなく、触れてはいけない気がしたからだ。


 銃は、Accuracy International AXMC。


 フォールディングストックのシャーシが彼女の肩に食い込んでいて、スコープのアイピースに右目が沿っている。銃身のレシーバー後部に細いセンサーハーネスが固定されていて、動作を全て拾っている。マルチキャリバーの機能を持つこの銃は、現在.308 Win仕様のバレルが装着されている。全長が彼女の体格に対して不釣り合いなほど長く、それでも構えが崩れない。


 息を吸った。


 半分吐いた。


 止めた。


 引き金を引いた。


 実際には弾丸は出ない。


 しかし正面スクリーンの弾道表示が更新され、3百メートル相当の距離に設定された標的に着弾点が示された。


 スコープを保ったまま、着弾点を見た。


 黒丸の中心から3ミリ以内。


 3発、撃った。3発とも同じ場所に入った。弾痕が一つに見えた。


 後ろに気配があった。


 振り返らなくても分かる。一週間で覚えた。カイの立ち方は188の筋肉質にしては音がほとんどしない。でも空気の動き方が変わる。


「見てたの」


「ああ」


「いつから」


「最初から」


 彼女はカイの方を向いた。


 彼は5メートル後ろに立っていた。腕を組んでいる。いつもと違う。何かを考えているときの姿勢だ。


「300メートルで3ミリ以内」と彼は言った。


「風がないみたいだったから」


「無風に設定してある」彼は壁際の端末を顎で示した。「それでも普通は出ない」


「そう?」


 彼はスクリーンの着弾表示を見た。それから私を見た。


「500メートルは」


「まだ」


「試してみろ」


 彼は後ろに下がらなかった。端末が距離設定を五百メートルに変えるのを待って、そこに立ち続けた。


 500メートルのターゲットを狙った。


 スコープの中で、ターゲットが小さく見えた。端末の設定値を思い出す。右から毎秒3メートルの横風。距離による弾の落下を計算に入れた。


 息を半分吐いた。


 止めた。


 引いた。


 スクリーンに着弾点が表示された。


 センター。


 カイが後ろで何も言わなかった。


 それが答えだった。


 




 彼女が銃を下ろしたのは、設定された射撃数を終えた時だった。


 ボルトを引いて、チャンバーを確認して、銃口を下に向ける。安全手順を淡々とこなす動作に、習慣の密度がある。たとえ実弾を使わない訓練でも、手順は変えない。


 彼女は、軽量のシューティングベストを着ていた。前面に薄くパッドが入っていて、反動を受ける位置だけがわずかに厚い。色は無彩色に近い淡い紫。下は細身のタクティカルパンツ。


 足元は黒のローカットブーツ。ソールが薄く、床の感触を拾いやすい。踏み込みのズレを嫌った選択だ。


 編み込まれたラベンダーグレーの髪は、背中の中央で一つにまとめられていた。ほどけないように、きつく。照準器に触れない長さで止めている。


 センサーハーネスを端末に返却して、銃を手に取った。


 クリーニングキットに手を伸ばす前に、カイがそれを持っていた。


「自分でできる」


「知ってる」


 やめなかった。銃をカウンターに置いて、ボルトを引いた。チャンバーを確認する。ブラシを金属の中に通す。乾いた摩擦音がした。動作に迷いがない。力の入れ方が正確だった。銃の構造を手が知っている人間の触り方だった。


 自分の銃の手入れをするのと、同じ速度で、同じ丁寧さでやっていた。


 黙って見ていた。手伝う隙がなかった。


「なんで」と聞いた。


「右肩」と彼は言った。視線は銃から外れなかった。


「動くよ」


「無理させるな」


 反論を考えているうちに、終わった。カイがオイルを薄く引いて、布で余分を拭った。かすかに金属とオイルの混じった匂いがした。銃をこちらに戻した。


 冷たくて、さっきより滑らかだった。


「ありがとう」


 一拍あった。短くも長くもない、カイの間だった。


「うん」


 それだけだった。カイは自分のHK416を手に取って、同じ動作を始めた。ブラシが金属を擦る音が、静かな射撃場に低く響いた。


 185センチの体躯。背中がでかい、と思った。


 カイを置いて、一人部屋を出る。


 3人が立っているのを見て、特に表情を変えなかった。いつのまにか、アルノもそこにいた。


 アルノ・ヴァルツ。常に姿勢がいい男。神経質で、几帳面っぽい。


 どうやらこの組織の指揮役であることは、彼女はなんとなく理解していた。


「おはよう」


「おはようございます」とアルノが言った。「よく眠れましたか」


「まあ」


「まあ、は答えになっていませんよ」


「五時間は」


「一応及第点ですね」横から医師のローワンが言う。カルテを持っていないが、持っているような動作で何かを確認する素振りをした。「右肩は」


「問題ない」


「問題がないかは、私が判断します」


「問題ない、と私が判断した」


 ローワンは3秒間、彼女を見た。


「……なかなか強情ですね」


「ありがとう」


「褒めていませんからね」


「ていうかさ」ユキナガが壁に背中をもたせかけて、腕を組んだ。


「最初に保護した時はどうなるかと思ったけど」とユキナガは言った。「翌朝、勝手に射撃場入ってたのには笑ったわ」


 煙草を指先で転がした。


「アルノに『動向を記録しろ』って言われてたから、端末越しに見てたんだけど」


「……知ってた」と彼女は言った。


「え、」


「カメラの位置、確認してたから」


 ユキナガが一瞬止まった。それから煙草を咥えたまま、小さく笑った。


「まじか。……で、普通じゃなかった。なんなの」


「なにが」


「スナイパーとして」


「そう?」


「出来てるなんてレベルじゃない」


 彼女は「そっか」と言った。それ以上でも以下でもなかった。


 アルノが全員の顔を確認し、一歩前に出た。


「…本題に入らせてください」


 メガネを押し上げた。

”Particles” / Ólafur Arnalds

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ