2.「超法規的独立機関《アルカ》横浜拠点」
朝の《アルカ》横浜拠点は、コーヒーの匂いがする。
正確には、一人分のコーヒーの匂いだ。ブラック、砂糖なし、ミルクなし。机の上に置かれたまま半分以上残っている。湯気はもう出ていない。
組織所属の医師、ローワンはそのカップを見て、持ち主の所在を把握した。
また射撃場にいる。ローワンは思った。
柔らかい色のシャツに細身のスラックスという、どこにでもいる医者のような格好をしている。白衣は処置室に掛けたままだ。191センチの長身は廊下でも目立つが、動きが静かなせいで圧迫感がない。銀の髪は今は下ろしていて、肩よりも長い。うっすらうねりがある。手が大きく、指が長い。外科医の手だと思えば納得がいく。
彼は、外科を中心に、応急処置から再建まで一通りをこなす。銃創、裂傷、骨折、薬物中毒。アルカに運ばれてくるものはだいたい彼の管轄だ。手は正確で、判断は早い。
もっとも、現在この拠点をメインで使うメンバーは多くない。
「……あの怪我でよくやる」
低く、落ち着いた声。小さく呟いて、踵を返す。
足音は静かだった。191センチの大きな体格に似合わず、気配をほとんど残さない。歩きながら、銀色の髪を束ねた。
射撃場へ向かう廊下は、少しだけ冷えている。
あの白い影がいる場所は、だいたいいつも、温度が下がる。
地下2階の射撃シミュレーションルームは、射撃場の隣にある。
防音処理は施されているが、完全ではなかった。
廊下に立てば、電子音と金属音が混じったような、低い断続的な音が床を通じて伝わってくる。ボルトを引く音、排莢の音。規則的なようで、どこか非機械的なリズムがある。
ローワンはドアを開ける前に、隣に立つユキナガを見た。
「おや、ハッカーさん。珍しくお目覚めですね」
「うるさい」とユキナガは言った。目の下に薄く影がある。夜型の人間が朝の九時に立っている顔だ。「呼ばれたから来ただけ」
ユキナガが言いながら取り出した煙草は、Marlboro Black Menthol Edge Capsule。黒を基調にネオンのような緑とピンクが走るパッケージ。角がわずかに潰れている。カプセル入りのメンソールだ。
口の端に咥え、指先でフィルターを転がす。内部の小さなボールの位置を確かめる癖。右手にはコンビニで買った、安っぽい青色の使い捨てライター。
流れるように火をつけた。
髪はブルー。くすんだ色で、光によってはほぼ黒だった。サイドを刈り上げたツーブロックで、上は長めに残して無造作に流している。寝癖なのか意図的なのか判別しづらいが、どちらでも成立しているあたりが質が悪い。一般的なハッカーのイメージにしては、だいぶ小洒落ている。
服装は黒のパーカーに細身のパンツ。足元は擦り減ったスニーカー。
首にかけたヘッドホンは、Sony WH-1000XM5。黒。艶を抑えたマットな質感。折りたたみ機構を捨てた分、フレームが細くて無駄がない。
軽い。見た目も、口調も。
175センチの身長は、ローワンと並ぶとかなり小柄に見えた。
「誰に呼ばれたんですか」
「アルノ」
ローワンは小さく笑った。
そのタイミングで、ローワンがポケットから煙草を取り出す。細身のネイビーに金のライン。ダンヒル。一本を抜き、指に挟む。
ユキナガが一歩、ローワンのもとに寄る。
カチ、と火打ち石の乾いた音。
炎が立つ。ローワンの煙草に火が付く。
「それは断れませんね」
息を吐きながらローワンが言う。
「断ったら書類仕事回してくるから」ユキナガは煙草をくわえたままポケットに両手を突っ込んだ。「あの人、そういうとこだけ陰湿なんだよな」
シミュレーションルームは、防音処理が施されていて、外に音は漏れない。空調が一定の温度を保っている。湿度も管理されている。
正面の壁に大型のスクリーンが3面。壁際に並んだラックには演算装置と記録端末。床には振動吸収マット。天井には複数のセンサーユニット。カメラではなく、光学式の3次元トラッキングシステムだ。
射撃訓練システムとしては、現在もっとも精度が高い部類に入る。実銃にセンサーモジュールを組み込み、引き金の操作、照準の微細な揺れ、発射タイミング、銃口の初速ベクトルをリアルタイムで取得する。弾丸は発射されない。
代わりにコンピュータが弾道を再現する。距離による重力落下、空気抵抗、任意に設定した風速と風向、気温と気圧による弾道変化。屋外より条件を細かく制御できる。再現性がある。
カイはシュミレーションルームを「匂いがない場所は落ち着かない」と言ったことがある。女は何も言わなかった。たぶん、好きでも嫌いでもないのだと思う。
彼女は正面スクリーンの前にいた。
伏射姿勢。腹這いに近いが、右肘の角度が教科書的な伏射とは微妙にずれている。独自に修正した構えだ。アルノが最初に見た時に、それを指摘しようとして、やめた理由は今でも正確に言語化できない。なんとなく、触れてはいけない気がしたからだ。
銃は、Accuracy International AXMC。
フォールディングストックのシャーシが彼女の肩に食い込んでいて、スコープのアイピースに右目が沿っている。銃身のレシーバー後部に細いセンサーハーネスが固定されていて、動作を全て拾っている。マルチキャリバーの機能を持つこの銃は、現在.308 Win仕様のバレルが装着されている。全長が彼女の体格に対して不釣り合いなほど長く、それでも構えが崩れない。
息を吸った。
半分吐いた。
止めた。
引き金を引いた。
実際には弾丸は出ない。
しかし正面スクリーンの弾道表示が更新され、3百メートル相当の距離に設定された標的に着弾点が示された。
スコープを保ったまま、着弾点を見た。
黒丸の中心から3ミリ以内。
3発、撃った。3発とも同じ場所に入った。弾痕が一つに見えた。
後ろに気配があった。
振り返らなくても分かる。一週間で覚えた。カイの立ち方は188の筋肉質にしては音がほとんどしない。でも空気の動き方が変わる。
「見てたの」
「ああ」
「いつから」
「最初から」
彼女はカイの方を向いた。
彼は5メートル後ろに立っていた。腕を組んでいる。いつもと違う。何かを考えているときの姿勢だ。
「300メートルで3ミリ以内」と彼は言った。
「風がないみたいだったから」
「無風に設定してある」彼は壁際の端末を顎で示した。「それでも普通は出ない」
「そう?」
彼はスクリーンの着弾表示を見た。それから私を見た。
「500メートルは」
「まだ」
「試してみろ」
彼は後ろに下がらなかった。端末が距離設定を五百メートルに変えるのを待って、そこに立ち続けた。
500メートルのターゲットを狙った。
スコープの中で、ターゲットが小さく見えた。端末の設定値を思い出す。右から毎秒3メートルの横風。距離による弾の落下を計算に入れた。
息を半分吐いた。
止めた。
引いた。
スクリーンに着弾点が表示された。
センター。
カイが後ろで何も言わなかった。
それが答えだった。
彼女が銃を下ろしたのは、設定された射撃数を終えた時だった。
ボルトを引いて、チャンバーを確認して、銃口を下に向ける。安全手順を淡々とこなす動作に、習慣の密度がある。たとえ実弾を使わない訓練でも、手順は変えない。
彼女は、軽量のシューティングベストを着ていた。前面に薄くパッドが入っていて、反動を受ける位置だけがわずかに厚い。色は無彩色に近い淡い紫。下は細身のタクティカルパンツ。
足元は黒のローカットブーツ。ソールが薄く、床の感触を拾いやすい。踏み込みのズレを嫌った選択だ。
編み込まれたラベンダーグレーの髪は、背中の中央で一つにまとめられていた。ほどけないように、きつく。照準器に触れない長さで止めている。
センサーハーネスを端末に返却して、銃を手に取った。
クリーニングキットに手を伸ばす前に、カイがそれを持っていた。
「自分でできる」
「知ってる」
やめなかった。銃をカウンターに置いて、ボルトを引いた。チャンバーを確認する。ブラシを金属の中に通す。乾いた摩擦音がした。動作に迷いがない。力の入れ方が正確だった。銃の構造を手が知っている人間の触り方だった。
自分の銃の手入れをするのと、同じ速度で、同じ丁寧さでやっていた。
黙って見ていた。手伝う隙がなかった。
「なんで」と聞いた。
「右肩」と彼は言った。視線は銃から外れなかった。
「動くよ」
「無理させるな」
反論を考えているうちに、終わった。カイがオイルを薄く引いて、布で余分を拭った。かすかに金属とオイルの混じった匂いがした。銃をこちらに戻した。
冷たくて、さっきより滑らかだった。
「ありがとう」
一拍あった。短くも長くもない、カイの間だった。
「うん」
それだけだった。カイは自分のHK416を手に取って、同じ動作を始めた。ブラシが金属を擦る音が、静かな射撃場に低く響いた。
185センチの体躯。背中がでかい、と思った。
カイを置いて、一人部屋を出る。
3人が立っているのを見て、特に表情を変えなかった。いつのまにか、アルノもそこにいた。
アルノ・ヴァルツ。常に姿勢がいい男。神経質で、几帳面っぽい。
どうやらこの組織の指揮役であることは、彼女はなんとなく理解していた。
「おはよう」
「おはようございます」とアルノが言った。「よく眠れましたか」
「まあ」
「まあ、は答えになっていませんよ」
「五時間は」
「一応及第点ですね」横から医師のローワンが言う。カルテを持っていないが、持っているような動作で何かを確認する素振りをした。「右肩は」
「問題ない」
「問題がないかは、私が判断します」
「問題ない、と私が判断した」
ローワンは3秒間、彼女を見た。
「……なかなか強情ですね」
「ありがとう」
「褒めていませんからね」
「ていうかさ」ユキナガが壁に背中をもたせかけて、腕を組んだ。
「最初に保護した時はどうなるかと思ったけど」とユキナガは言った。「翌朝、勝手に射撃場入ってたのには笑ったわ」
煙草を指先で転がした。
「アルノに『動向を記録しろ』って言われてたから、端末越しに見てたんだけど」
「……知ってた」と彼女は言った。
「え、」
「カメラの位置、確認してたから」
ユキナガが一瞬止まった。それから煙草を咥えたまま、小さく笑った。
「まじか。……で、普通じゃなかった。なんなの」
「なにが」
「スナイパーとして」
「そう?」
「出来てるなんてレベルじゃない」
彼女は「そっか」と言った。それ以上でも以下でもなかった。
アルノが全員の顔を確認し、一歩前に出た。
「…本題に入らせてください」
メガネを押し上げた。
”Particles” / Ólafur Arnalds




