ビルの屋上
両手首は、机の縁で拘束されていた。
「ここ、どこ」
女は言った。
濡れた薄いラベンダーグレーの編み込みが、白いシャツの背に貼りついていた。
シャツには血が染み込んでいた。
右肩には縫合したばかりのガーゼが貼られていた。
「……三回目です」
眼鏡の男が言った。
「名前」
三時間前。
新宿の雑居ビルの、六階だった。
処理対象は三人。
カイの任務は四分二十秒で終わっていた。
コンバットナイフは拭い、ホルスターに戻してある。HK416を収めたバッグを肩に背負い直して、あとは出るだけだった。
なのに足が屋上へ向かった。
無線を入れるべきだった。手順ではそうだ。
それをしないまま、鉄製のドアノブに手をかけた。錆びたヒンジが湿気を含んで軋み、雨音に溶けた。
頭を少しかがめて、肩が当たらないように斜めからドアをくぐる。
屋上に出た瞬間、足が止まった。
人がいた。
女だった。
雨避けもないパラペットに腰かけて、地上を見ている。足は宙に浮いていた。
編み込まれた薄いラベンダー色の髪が雨を吸って背中に貼りつき、色のない夜の中で、そこだけが微かに色を持っていた。
脅威度を測る。
体格、小柄。肩幅が狭い。濡れたシャツの下に、長物を隠している膨らみはない。
武装、不明。少なくとも構えてはいない。
敵対、なし。距離、8メートル。
逃走経路、前方の虚空のみ。
損傷、右肩。
損傷が、問題だった。
白いシャツは右肩だけ色を変えていた。
雨か、血か。
あるいは両方か。
切られたか刺されたか、雨で判別がつかない。
それだけの出血で座って、落ちも喚きもせず、地上を見ている。
音を殺して三歩出た。距離を5メートルまで詰める。
女は気づいていた。振り返らず、右肩が動いた。また地上へ視線を戻す。
息を吐いた。
「……お前」
声が出た。
女が振り返った。
睫毛に雨粒が止まって落ちた。拭わない。鼻をすった音だけがした。
視線が、黒い戦闘服の胸元からカイの顔まで上がった。
雨に濡れた深緑の短髪。彫りの深い、無骨な顔。茶色の瞳は、女ではなく右肩の傷を見ていた。
その目が、ようやくカイを捉えた。髪と同じ色。薄紫にしては淡く、灰にしては色がある。
光はあるのに、その基点がどこか遠かった。
「…ここ、どこ」
その一語だけが、妙にはっきり聞こえた。
答えず、女の右肩に視線を落とした。
女も気づいて、自分の右肩を見る。
「ああ」女は言った。「これ」
「誰にやられた」
「わかんない」
「刺されたのか」
「……わかんない」
女は右手を持ち上げた。血がついていた。また地上へ視線を戻す。
敵対組織か、民間人か、偶然か。判断材料が足りない。
コートを脱いだ。
雨に濡れた黒い布を、女の肩にかけた。煙草の匂いがした。
女がわずかに目を丸くした。
「……なに」
「寒いだろ」
「まあ」
女はコートを少しだけ引き寄せた。パラペットの縁から距離を取り、女の横に立った。
「下に降りろ」
女は止まった。
「帰る場所、知らない」
新宿の光が水面に映って、どこまでが地上でどこからが反射なのか、境が溶けていた。
「……わかった」男は言った。
女が立ち上がった。コートを左肩に引っ掛けたまま、振り返る。
「名前は」
女は答えなかった。
「歩けるか」
「……たぶん」
先に歩き出すと、足音が後ろについてきた。
振り返らなかった。振り返ったら、もう一度あの目を見る気がした。
耳の無線機が音を発した。
『…聞こえますか。報告を』
「……拾った」
『何を』
「怪我をしている」
『だから何を』
後ろの女を盗み見た。雨の中に立って、どこにも属していない顔をしていた。
「……わからない」
三時間後。
「……わからない」
髪はまだ完全には乾いていなかった。
机を隔てた正面に座っている眼鏡の男が、目頭を抑えた。
灰色の髪を七三に分け、乱れなく撫でつけていた。薄いフレームの奥に、淡い金色の目がある。
細身だった。椅子に座っていても、背筋が一度も背凭れに触れていない。
「……」
打ちっぱなしのコンクリートに、作業灯が一つ吊られていた。時折り、電気の音がする。
もう一人、壁際に立っている男がいた。
天井の低い部屋では、屋上にいた時より大きく見えた。肩幅が広く、首が太い。戦闘服の上からでも、余分のない筋肉のつき方が分かった。
濡れていた屋上より、短い髪の深緑がはっきり見えた。茶色い瞳は、女から外れていない。
男は壁際で、Gauloisesと書かれた水色の箱から、煙草を一本取り出した。火をつけた。
女はそちらを見ていた。
眼鏡の男が端末を確認した。
指で二回、画面を叩いた。
「あなたの情報は現在、照合にかけています。先に自ら話した方が得策かと」
女が顔を向けた。
編み込みが揺れた。
首元に張り付いている。
その顔には温度がなかった。
「…これ、取ってよ」
女が言った。
拘束具と手首の間には、指一本分の隙間があった。
視線を両手の拘束に移す。
「どっちの趣味?」
顔を上げ、男を交互に見た。
金属の音が鳴った。
眼鏡の男は端末に目を落としたままだった。
「上を向け」大柄な男が言った。
女は動かない。
大柄な男は机に寄って、顎に指をかけた。持ち上げた。女に抵抗はなかった。
光を当てた。瞳孔が作業灯に収縮した。左右差はない。
「薬物なし。瞳孔正常」
「痛覚を」
女の左手の人差し指を、机に押しつけた。
爪の付け根を、親指で押した。
白くなった。
五秒。
十秒。
「……離して」女が顔を顰めた。
男が指を離した。爪に、ゆっくり赤みが戻った。女はその手を眺めていた。
「あなたはなんて名前なの」
「カイ」大柄な男が答えた。
女はカイを見上げた。
「……不要です」眼鏡の男が、カイを嗜めた。
「敵意はない」カイは言った。
「……」
「照合結果を見てからでいい」カイは続けた。
一拍あった。
「…続けます。所属は」
「…わからない」
「出生は」
「知らない」
「職歴」
女は首を振った。
眼鏡の男が止まった。
「では、あなたは誰ですか」
長い沈黙があった。
「……知りたい」
沈黙があった。
眼鏡の男が、女を静かに見ていた。
目を細めた。
立ち上がった。
カイが煙草を灰皿に押しつけた。
「アルノ」
「では体に聞きます」
アルノと呼ばれた眼鏡の男が、机を回り込んだ。
左手を上げた。
女の目が、掌ではなく肩へ動いた。
顎がわずかに下がった。
乾いた音がした。
女の頬が横を向いた。小さく息が漏れた。
叩いたのはアルノだった。
女はゆっくり顔を戻した。
「名前は」
女の背筋が伸びた。
唇が開いた。
けれど、声は出なかった。
「所属は」
今度は、動かなかった。
三秒経った。
アルノが端末に何かを記入した。
女は静かに息を吐いた。
視線だけが、アルノの左手から右手へ移った。
それから、壁際のカイと扉を見た。
アルノがそれを見て何かを書き足して、端末を閉じた。
部屋が静かになった。作業灯が、低く鳴っていた。
「カイ」アルノが言った。「手順通りの報告を怠りましたね」
「…ああ」
「あなたらしくない」
カイは答えなかった。
手のひらを壁につけた。
コンクリートの冷たさを確かめるように、指先がわずかに動いた。
女はその手を見ていた。
”My skin” / Natalie Merchant




