ビルの屋上
「世界の外側から落ちてきた私を、見つけたのは緑の髪の男だった」
雨が、降っていた。
5月の雨が、乾ききらない湿気を連れてくる。皮膚の上に薄く膜を張るような水分で、呼吸がわずかに重くなる。東京の夜が水を含んで重くなり、新宿のネオンが滲んで、地上30メートルの空気は不思議と冷たいのに妙に密度があった。
カイ・レオンが雑居ビルの非常階段を上り始めたのは、午後11時を17分過ぎたころだった。
黒のスーツは濡れても形を崩さない素材だった。仕立ては既製ではない。肩幅に対してわずかに余裕を持たせ、可動域を確保している。ネクタイはしていない。白のシャツは第2ボタンまで開けていて、その隙間から鎖骨に沿うように走る古い傷が一瞬だけ覗く。
背が高い。無駄のない筋肉がそのまま戦闘用の機構になっている。濡れた深緑の髪は短く、額にかからない長さで整えられていた。
職業は、便宜上はSPと呼ばれる。要人警護。だがカイの仕事はそれだけでは収まらない。護る対象を「安全に保つ」ために必要であれば、排除も含まれる。接近、制圧、射撃、潜水、脱出。全てが一続きの動作として組み込まれている。
左手首のダイブコンピュータは、その名残だ。陸の任務が多くなった今も外していない。
今日の任務は、6階で終わっている。
処理対象は3人。時間は4分20秒。問題はない。使用したコンバットナイフは既に拭い、腿のホルスターに戻してある。HK416はケースに収め、非常口の脇に置いてある。あとは出るだけだ。
なのに、足が屋上へ向かっていた。
理由を言語化できなかった。強いて言えば、上から何かが来ていたのだと、後から思う。音ではない。重さ、とでも言うべきものが、ビルの最上部から降りてきていた。気圧の変化でも、雨の匂いでもない。もっと根本的な何かで、カイの本能は「登れ」と言っていた。
カイの本能は、これまで一度も間違えたことがない。
それが問題だった。
扉を蹴破るような真似はしなかった。
鉄製のドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。錆びたヒンジが湿気を含んで軋む。その音も、雨音に溶けてすぐに消えた。
屋上に出た瞬間、カイの足が止まった。
人がいた。女が1人。
ビルの縁、雨避けもない剥き出しのパラペットに、座っていた。正確には、腰を下ろして膝を抱えるでもなく、ただ縁石の上に腰かけて、地上を見ていた。足は宙に浮いている。背中は濡れていた。雨に打たれ続けている。
肩まで伸びた――いや、もっと長い。編み込まれた薄いラベンダー色の髪が雨を吸って、背中に貼りついていた。
色のない景色の中で、その髪の色だけが微かに色を持っていた。
カイは3秒間、動かなかった。
職業上の習慣として、まず脅威度を測る。武装しているか。敵対的か。距離は。逃走経路は。体格は。損傷は。
答えが、全部おかしかった。
武装:不明だが構えていない。敵対的:否。距離:8メートル。逃走経路:前方のみ、つまり30メートルの虚空。体格:女、細い、小さい。損傷――。
損傷、が問題だった。
白いシャツが雨と血を吸って、背中と脇腹で色を変えていた。右肩のあたりが特にひどい。縫合が必要な損傷だとわかる。にもかかわらず女は座っていて、落ちてもいないし、喚いてもいない。ただ、地上を見ている。
カイは静かに、もう3歩だけ前に出た。
砂利の上を歩くように音を殺した足運びで、距離を5メートルまで詰める。
女は気づいていた。
振り返りはしなかったが、右肩が1ミリだけ動いた。それだけだ。逃げようとも、構えようともしない。ただ、「知っている」という意思表示だけをして、また地上を見た。
カイはその時、初めて息を吐いた。
警戒を解いたわけではない。ただ、この女は飛び込もうとしているわけではないとわかったからだ。座って、雨に打たれて、血を流して、それでも落ちるつもりがない。
ならば何をしている。
「……お前」
声が出た。意図したものではなかった。
女が、ようやく振り返った。
カイは、自分が生きてきた29年の中で、それなりの数の顔を見てきたと思っていた。
恐怖の顔、痛みの顔、怒りの顔、憎しみ、懇願、諦め。死の寸前の顔も、死の直後の顔も。アメリカで産まれ、日本の南の島で育ち、米軍の空気を吸って、世界中の修羅場を踏んで、今はこういう組織にいる。見ていない顔の方が少ないはずだった。
だから、その顔が理解できなかった。
無表情ではない。無表情というのは感情を消した状態だが、その女の顔にはそもそも何かを消そうとした形跡がなかった。最初から、何もないのではなく、全部持った上で、全部を整えたような顔だった。
雨粒が睫毛に止まって、そのまま落ちた。彼女は拭わなかった。
彼女が静かに鼻をすすった音だけが聞こえた。
傷の痛みを感じていないわけではないだろう。体は傾いていて、右側に体重をかけないようにしている。だが表情はそれを語らない。
目だけが動いた。カイを見た。髪の色と同じ。
色は、何色と言えばいいのか、カイにはわからなかった。薄紫というには淡すぎて、灰というには色がある。無彩色に近いのに、完全に無彩色ではない。
光を持っていない目ではなかった。
ただ、その光が、どこか遠い場所を基点にしているように感じた。カイの方を向いているのに、見ているのはカイではない気がした。もっと遠くの、あるいはまったく別の座標を、この目は観測している。
女が口を開いた。
「なに」
声は静かだった。問い詰めているわけでも、驚いているわけでもない。ただ「なに」と言った。雨音の中で、その1語だけが妙にはっきりと聞こえた。
カイは答えなかった。
代わりに、視線を右肩の傷に落とした。女もそれに気づいて、自分の右肩を見た。確認するように。他人事みたいに。
「ああ」と彼女は言った。「これ」
「誰にやられた」
「わかんない」
「知らない人間に刺されたのか」
「…わかんない」
彼女は左手を持ち上げた。折りたたみ式のナイフを持っていた。血がついていた。人のものか、自分のものか。
それで終わりだとでも言うように、また地上に視線を戻した。
カイは、この女が何者で、何をしていて、なぜここにいるのかをまったく把握していなかった。組織の人間ではない、少なくともカイの知っている顔の中にはいない。敵対組織か、民間人か。任務が重なったのか、偶然か。
判断材料が少なすぎる。
通常であれば、報告して指示を仰ぐ。それが正しい手順だ。
なのにカイは、コートを脱いでいた。
自分でもなぜそうしたのかわからなかった。ただ、脱いでいた。雨に濡れた黒いコートを、そのまま女の肩にかけた。うっすらと、煙草の匂いがした。
女が初めて、わずかに目を丸くした。
「……なに」
「寒いだろ」
「まあ」
女は、ほんの少しだけコートを引き寄せた。人間的な反応だった。その動作がなぜか、カイの中の何かを落ち着かせた。
左手首のダイブコンピュータが雨粒を弾く。液晶に数字が滲んだ。水温ではなく気温を、こういう時にカイは確認する習慣がある。13度。
カイはパラペットの縁から距離を取りながら、女の横に立った。
「下に降りろ」
「?」
「連れていく」
「あなた、誰」
「カイ」
「カイ」と彼女は繰り返した。特に感慨もなく、情報として処理したように。「私、行くところない」
「わかった」
「ついていってもいい?」
「お前が決めろ」
女はしばらく、地上を見た。
雨は変わらず降り続けていた。新宿の光が水面に映って、どこまでが地上でどこまでが反射なのかわからない。ビルの間に狭い空があって、そこだけ雲が厚く光っていた。
女が立ち上がった。
ふらつくかと思ったが、しなかった。傷の深さと体力の失われ方からすれば、立ち上がれないはずだった。それでも立った。カイのコートを左肩に引っ掛けたまま。
振り返って、カイを見た。
「わかった」
それだけ言った。
カイはその瞬間、何かが確定したような感覚を覚えた。うまく言葉にできない。ただ、今まで曖昧だった何かが、ひとつに絞られた感じがした。
選択肢が潰れて、1本の線だけが残ったような。
後にカイは、これを「軌道に乗った」と表現するだろう。自分のではなく、もっと大きな何かの。
だがその夜は、そんなことを考える余裕もなかった。
ただ、この女を下に降ろして、傷を塞いで、温めなければならないと思っていた。
それだけだった。
「歩けるか」
「たぶん」
「たぶんじゃ話にならない」
「歩けるみたい」
「わかった」
カイが先に歩き出すと、女の足音が後ろについてきた。
カイは振り返らなかった。
振り返ったら、もう1度あの目を見てしまう気がして。
それがどういう理由で怖かったのか、カイにはまだわからなかった。
長らく沈黙していた耳の小型無線機が、音を発した。
『……カイ、聞こえますか。報告を。』
理知的で冷徹な、アルノの声だ。
カイは少しだけ勇気を出して、後ろを歩く女を盗み見た。
「……拾った」
『何を』
「怪我をしている」
『だから何を』
その後は、言葉が詰まった。
”Near Light” / Ólafur Arnalds




