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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第一章「観測地点の虚― The Empty Origin」

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ビルの屋上

「まだ寝ないでください」


 声がした。


 両手首は机の上に置かれ、拘束具で天板に固定されている。横には、空になったバケツが置いてある。


「もう、無理……」


 女は荒く息をしていた。濡れたラベンダーグレーの髪が白いシャツの背に貼りつき、前髪からは絶えず水滴が落ちている。


 着ているシャツには血が染み込んでいた。右肩には縫合したばかりの傷にガーゼが貼られていたが、水を吸って色が変わっている。


「……三回目です」


 眼鏡の男が言った。


「名前」


 女は話さなかった。


 眼鏡の男が立ち上がって机に身を乗り出し、正面から女の顎を取った。


「んっ……」


 顔を作業灯へ向けた。薄紫の瞳が光を受けて収縮した。


「……なぜ答えない?」


「……離して」


「拒絶は許可していません」


 壁際でもう一人の男が煙草の煙を吐いた。


「…俺が拾った」


 眼鏡の男の視線がもう一人の男に向いた。


「はい。それで?」


「俺が見る」

 

 


 三時間前。


 新宿の雑居ビルの、六階だった。


 処理対象は三人。任務は四分二十秒で終わっていた。


 コンバットナイフは拭いて鞘に戻してある。HK416を収めたバッグを肩に背負い直せば、あとは建物を出るだけだった。


 それでも足は屋上へ向かった。


 手順では無線を入れることになっていた。それをしないまま鉄製のドアノブに手をかけると、錆びたヒンジが湿気を含んで軋み、音が雨に混じった。


 頭を少しかがめ、肩が当たらないよう斜めからドアをくぐったところで、足が止まった。


 屋上には女がいた。


 雨避けもないパラペットに腰かけ、地上を見ている。足は縁の外へ垂れ、編み込まれた薄いラベンダー色の髪が雨を吸って背中に貼りついていた。


 体格は小柄で肩幅も狭い。濡れたシャツの下に長物を隠している膨らみはなく、少なくとも武器を構えてはいなかった。


 敵対行動はない。距離は8メートル。前方はパラペットの外で、右肩には損傷がある。


 白いシャツは右肩の部分だけ色が変わっていた。雨か血か、あるいはその両方か。切られたのか刺されたのかも、濡れた布越しでは判別できない。


 その状態で女は座ったまま、声を上げることもなく地上を見ていた。


 男は足音を抑えて三歩進み、距離を5メートルまで詰めた。


 女は振り返らなかったが、右肩が動いた。そのあと視線を地上へ戻した。


 男が息を吐いた。


「……お前」


 女が振り返った。


 睫毛に溜まった雨粒が落ちたが、拭わなかった。鼻をすする音がして、視線が黒い戦闘服の胸元から男の顔まで上がった。


 雨に濡れた短髪は深緑で、彫りの深い無骨な顔に茶色の目があった。その視線は女へ向けられている。


 女の瞳は髪と同じ色だった。薄紫にしては淡く、灰色にしては色が残っている。


「…ここ、どこ」


 その問いが雨音の中に落ちた。


 男は答えず、女の右肩へ視線を移した。


 女もそれを追って自分の右肩を見た。


「ああ」女は言った。「これ」


「誰にやられた」


「わかんない」


「刺されたのか」


「……わかんない」


 女が右手を持ち上げると、血がついていた。その手を下ろし、また地上へ視線を向けた。


 敵対組織の人間か、民間人か、それとも偶然ここにいるのか。現時点では判断できる材料が足りなかった。


 男はコートを脱ぎ、雨に濡れた黒い布を女の肩へかけた。煙草の匂いが残っていた。


 女が少し目を見開いた。


「……なに」


「寒いだろ」


「まあ」


 女はコートを少し引き寄せた。


 男はパラペットの縁から距離を取り、女の横に立った。


「下に降りろ」


 女の動きが止まった。


「帰る場所、知らない」


 新宿の光が濡れた地面に映り、街灯や看板の色が水面に伸びていた。


「……わかった」男は言った。


 女が立ち上がった。コートを左肩に引っ掛けたまま、男の方へ振り返る。


「名前は」男が聞いた。


 女は答えなかった。


「歩けるか」


「……たぶん」


 男が先に歩き出すと、女の足音が後ろから続いた。


 耳の無線機が音を発した。


『…聞こえますか。報告を』


「……拾った」


『何を』


「怪我をしている」


『だから何を』


 男は後ろを振り返った。


 女は雨の中に立ち、借りたコートを左肩に引っ掛けている。


「……わからない」

 

 


 三時間後。 


「……わからない」


 女の髪はまだ完全には乾いていなかった。


 机を隔てた正面に座っている眼鏡の男が目頭を抑えた。灰色の髪は七三に分けられ、乱れなく撫でつけられている。薄いフレームの奥に、淡い金色の目があった。


 細身の身体は椅子に座っていても背凭れに触れず、打ちっぱなしのコンクリートには作業灯が一つ吊られていた。時折、低い電気音が鳴っている。


 もう一人の男は壁際に立っていた。


 天井の低い部屋では屋上にいた時より大きく見えた。肩幅が広く、首が太い。戦闘服の上からでも、余分のない筋肉の輪郭が出ている。


 乾きかけた短髪の深緑も、屋上にいた時よりはっきり見えた。茶色の瞳は女へ向けられたままだった。


 男はGauloisesと書かれた水色の箱から煙草を一本取り出し、火をつけた。


 女はその動きを見ていた。


 眼鏡の男が端末を確認し、指で二回画面を叩いた。


「あなたの情報は現在、照合にかけています。先に自ら話した方が得策かと」


 女が顔を向けると、編み込みが肩の上で揺れた。


「…これ、取ってよ」


 女が言った。


 拘束具と手首の間には、指一本分の隙間がある。女は両手の拘束へ視線を落とした。


「どっちの趣味?」


 顔を上げ、二人を交互に見てから大柄な男へ視線をとめた。


「あなたはなんて名前なの」


「カイ」大柄な男が答えた。


 女はカイを見上げた。


「不要です」眼鏡の男が、カイを嗜めた。


「敵意はない」カイは言った。


 眼鏡の男が息を吐いた。


「…続けます。所属は」


 女は首を振った。


「では、あなたは誰ですか」


 長い沈黙があった。


「……知りたい」


 眼鏡の男は女を見たまま目を細め、椅子から立ち上がった。


 カイが煙草を灰皿に押しつけた。


「アルノ」


「では体に聞きます」


 アルノと呼ばれた眼鏡の男が机を回り込み、左手を上げた。


 女の目は掌ではなく肩へと動き、顎が反射的に引かれた。


 乾いた音がした。


 アルノの手が頬に当たり、女の顔が横を向いた。小さく息が漏れ、しばらくして顔が正面へ戻った。 


「名前は」


 女の背筋が伸びた。唇が開いたが、声は出なかった。


 三秒経った。


 アルノが端末に何かを記入する。


 女は息を吐き、視線をアルノの左手から右手へ移した。そのあと壁際のカイと扉を見る。


 アルノはその動きを見ながら何かを書き足し、端末を閉じた。部屋には作業灯の低い音が残った。


「カイ」アルノが言った。「手順通りの報告を怠りましたね」


「…ああ」


「あなたらしくない」


 カイは手のひらを壁につけた。コンクリートへ触れた指先が小さく動く。

 

 女はその手を見たあと、水を張ったバケツへ視線を移した。


 アルノもそちらを見た。


「ほんとに、わかんないの」


「何一つ?」


「……うん」


「名前も、所属も、出身地も、家族も年齢も不明。それにもかかわらず、日本語を話し、負傷した状態で新宿の屋上にいた」


 端末が机へ置かれた。


「その説明を、私に信じろと?」


「知らないもの、どうやって言えばいいの」


 アルノが立った。


 女の目がその足を追い、机の脇へ回る動きから水を張ったバケツへ移る。


 アルノがバケツを持ち上げると、女の背中が椅子へ押しつけられた。


 水が落ちた。


「っ――」


 女の身体が跳ねた。


 編み込まれた髪から水が流れ、白いシャツが肌へ貼りついた。息を吸った口へ水が入り、咳が続いた。


 固定された両腕が反射的に動き、拘束具が鳴った。


「っ、いた……」


 右肩を庇おうとした動きに引かれ、手首が天板へ戻された。濡れたガーゼの下から赤が滲んだ。


 カイが机へ近づいた。


「傷がある」


「あなたが連れてきた時点で」


 アルノはカイを見た。


「その傷はありました」


 カイが黙った。


 女は咳をしながら顔を伏せていた。顎から落ちた水が机の上へ広がっていく。


 アルノが椅子へ戻った。


「傷を負う前の記憶は」


「……わかん、ない」


「新宿へ来た目的は」


「知らない」


 アルノの指が止まった。


「『知らない』に変わりましたね」


 女が顔を上げた。


「……え」


 女の口が開いたが、言葉は続かなかった。


「もう一度聞きます」


 女は目を閉じた。


「目を開けてください」


「もう疲れた……」


 アルノが机を爪で叩くと、その音に女が目を開けた。


「最後に覚えている場所は」


「……ここ」


「ここへ来る前です」


「……雨」


「その雨の前は」


「……」


 女は額を濡れた腕へ近づけた。


「考えてください」


「ない」


「続けてください」


「……なんにも、ない」


 カイが女を見た。


 それまでアルノの手と扉を交互に追っていた目は、机の一点へ向けられていた。


 アルノが立ち上がると、女の肩が動いた。足音が近づいた時点で、身体が椅子の背へ押しつけられる。


「……やめ、」


 アルノが止まった。


「中止を求めましたね」


 女は答えなかった。


「あなたは先ほどまで、質問に対して『わからない』と回答していました。私は質問を続けている。それに対して、今は中止を求めた」


「……」


「質問そのものが嫌なのですか。それとも、答えたくない質問が含まれていましたか」


「ちがう……」


「説明してください」


「もう……疲れた」


「それは回答ではありません」


 アルノの手が女の顎へ伸び、顔を上げさせた。


 女は首を振った。


「離して……」


「あなたは誰ですか」


「わかんないっ……」


 声が大きくなった。


 アルノの手から離れようとして右肩が引かれた。


「っ、あ……!」


 身体が縮まり、額が机へ落ちかけたところで、拘束された腕に止められた。呼吸が途切れ、吸い直した息も浅い。


「アルノ」


 カイが動き、女とアルノの間へ腕を入れた。


 女は机へ顔を伏せたまま、短い呼吸を繰り返した。


 アルノが腕時計を見た。


「返答がありませんね。意識の混濁と判断してもいいですか」


 アルノがバケツへ手を伸ばすと、女の呼吸が変わった。


「待って」


「ここがどこかわかりますか」


「……わかーー」


 声が途切れた。


 水音がした。


 女の身体が大きく震えた。


「あ…っ、かはっ、」


 息を吸ったところで咳が続き、頭を上げられなくなった。髪から落ちる水が机を叩いた。


 唇が動いたが、震えるばかりで音にはならなかった。


 瞼が落ちた。


 カイが近づき、女の頬を叩いた。


「おい」


 しばらくして薄紫の目が開いた。視線はカイの顔を通り過ぎた。


「……ここ、どこ」


 カイがアルノを見た。


「終わりだ」


「まだです。彼女の動きは民間人ではありません。何かしらの訓練を受けている。敵が味方か判断する必要があります」


「もう質問を理解してない」


「なら、理解できる状態まで戻します」


 アルノが女の正面へ立った。


 女の視線がアルノの顔へ合った途端、拘束具が鳴った。


「や…だっ、」


 アルノが机へ落ちかけた顔を持ち上げた。


 しばらくして腕の動きは途中で止まり、焦点を失った。彼女の瞼が下がっていく。


「目を開けてください」


 女は眉間に皺を寄せた。


「まだ寝ないでください」


 声がした。


 両手首は机の上に置かれ、拘束具で天板に固定されている。横には、空になったバケツが置いてある。


「もう、無理……」

”My skin” / Natalie Merchant

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