カイの朝
横浜拠点、地下二階 午前五時二分
地下二階のドアを開けた。
スイッチを入れた。
蛍光灯が左から順番に点いた。
四本。
最後の一本が点くまで、二秒かかった。
今日、アルノに言う。
床はゴムマットだった。濃いグレー、厚さ二センチ。
鉄とゴムの匂いがした。誰もいない時間の匂いだった。
空調が一定の音を立てていた。
壁際のロッカーを開けた。
HK416を取り出した。
チャンバーを確認した。クリアだった。
ボルトを引いた。
戻した。
動作に引っかかりがなかった。
レシーバーを拭いた。
黒いクロスで、同じ方向に。往復させない。
汚れを広げないためだった。
バレルの内側をチェックした。
問題なかった。ケースに戻した。
次にコンバットナイフだった。
鞘から抜いて、刃を光に当てた。
欠けがないか確認した。なかった。
刃を親指の腹に当てた。滑らなかった。
砥石を出した。
角度を一定に保ちながら、六回研いだ。
左右三回ずつ。
弾薬を確認した。
マガジンを三本、手に取った。
重さを確認した。全部、フルだった。問題なかった。
ロッカーを閉めた。
端末を開いて、ユキナガが夜間に上げたログを確認した。
拠点周辺の異常なし。
通信の異常なし。
任務の更新なし。
閉じた。問題なかった。
黒のタンクトップに、黒のトレーニングパンツ。
テーピングを巻いた。
白いテープ。幅三センチ。
右手首から始めた。
親指の付け根から、手首の関節を固定するように巻く。
一周、二周、三周。
左手首も同じように巻いた。左右を見比べた。
揃っていた。
ランニングマシンに乗った。
時速十二キロ。六キロ走る。
スタートボタンを押した。ベルトが動いた。
走り始めた。最初の一キロは体を温めた。
二キロ目から速度を上げた。時速十四キロ。
リズムが一定になった。足音だけがした。規則的な音だった。
考えなかった。体だけ動かした。
五キロを過ぎた頃、左肩が少し固くなってきた。
先週の任務の名残だった。速度を落とさなかった。
六キロで止まった。ベルトが止まった。静かになった。
呼吸を整えた。
ストレッチを終えるとベンチプレスだった。
百キロから始めた。バーを握った。
肩幅より少し広い位置に手がくるよう、指で確認した。
バーをラックから外した。息を吸った。
下げた。
胸に触れるか触れないかの位置まで。
息を吐きながら上げた。十回。三セット。
重量を百二十キロに変えた。八回。三セット。
次は懸垂バーだった。ジャンプして掴んだ。
バーが冷たかった。金属の硬い冷たさだった。
引き上げた。
顎がバーの上に来た。
下げた。肘が伸びきらない位置まで。
数を数えなかった。
背中の筋肉が収縮する感覚だけを確認した。
肩甲骨が寄る感覚。それだけを追った。
限界が来た。
もう一回だけやった。床に着いた。
天井を見た。
蛍光灯が四本、点いていた。
最後の一本が、ちらついた。
あとで、アルノに言う。
サンドバッグに移動した。
グローブはつけず、テーピングだけで打った。
最初はゆっくりだった。
ジャブ、ジャブ、ストレート。
バッグが揺れた。音が続いた。
マットに仰向けになった。
天井を見た。
呼吸が落ち着くのを待った。
シャワーを浴びた。五分で終わった。
頭から順番に拭いた。
着替えた。白いシャツ。
ボタンを上から順番に留めた。第二ボタンから開けた。
黒のパンツ。ベルトを締めた。バックルの位置を確認した。中央にあった。
ジャケットはまだ着なかった。
ダイブコンピュータを左手首にした。
液晶を確認した。
六時二十二分だった。
ロッカーの下段を開け、スポッター用の機材を確認した。
レーザー距離計を取り出した。電池残量を確認した。83パーセントだった。問題なかった。
レンズを拭いた。クロスで、一方向に。ケースに戻した。
弾道計算用の端末を開いた。今日の横浜の気象データを確認した。
気温17度。
湿度62パーセント。
風向き南南西。
風速毎秒2.3メートル。数字を頭に入れた。
紙には書かなかった。端末を閉じた。ロッカーを閉めた。
一階のキッチンに上がった。
窓から外を見た。横浜の空が白くなり始めていた。
港の方角から光が来ていた。
海の匂いが窓の隙間から入ってきた。
コーヒーメーカーに向かった。豆を出した。
エチオピアのナチュラルだった。
先週から変えた。きっかけは些細なことだった。
リヴァがコーヒーを一口飲んで、言った。
「これおいしい」
それだけだった。他に何も言わなかった。
またカップを持って、窓の外を見た。
翌日、豆を変えた。
自分でも気づかないうちに、そうしていた。
気づいたのは、グラインダーに豆を入れた時だった。
気づいて、そのままにした。
理由を言語化しなかった。する必要がなかった。
グラインダーに入れた。挽き目を中細に設定した。
スイッチを押した。モーターが唸った。香りが広がった。
フィルターをセットした。
豆を計量した。二人分。二十グラム。
水を入れた。
スイッチを押した。
Gauloisesを取り出した。
一本抜いた。
マッチを箱の側面で擦った。シュッと音がした。
炎が立った。
火をつけた。
マッチを振った。
炎が消えた。燃えかけのマッチを灰皿に置いた。
一口吸った。
煙を吐いた。換気扇が煙を引いた。
新聞を広げた。
国際面から読んだ。
コーヒーが落ちきった。マグカップを二つ出した。一つは自分のだった。
黒の無地の、分厚いやつだった。
もう一つはリヴァが使うやつだった。
棚の同じ位置にある。自分のを飲んだ。
熱かった。新聞を読みながら飲んだ。
Gauloisesの煙とコーヒーの湯気が、カウンターの上で混ざった。
新聞を畳んだ。元通りに折った。
カウンターの端ぴったりに置いた。煙草の残りを灰皿に押した。
コーヒーの残りを飲んだ。
マグカップを洗った。自分のだけ。
リヴァのコーヒーを注いで、温かいままにしておいた。
時刻を確認した。
六時五十九分だった。
カウンターに肘をついた。
窓の外を見た。横浜の空が青くなっていた。
港の光が朝日に溶け始めていた。
海の匂いがした。
与那国の海とは違う匂いだった。
横浜の海の匂いだった。
悪くなかった。
階段から音がした。
軽かった。
小さかった。
七時になった。
リヴァが入ってきた。
寝起きの顔だった。
髪が少し乱れていた。
「おはよう」とリヴァは言った。
カイは窓の外から視線を戻した。
「おはよう」と言った。
カウンターを顎で示した。
「コーヒーがある」
それだけだった。
"I Love You" / Woodkid




