モルドバから来た偽造師
偽造師、ヴィクトル・ミハイが拠点に現れたのは、昼過ぎのタイミングだった。
アポイントはあった。アルノが3日前に「外部協力者が来る」とリヴァ以外には一言だけ伝えていた。詳細はない。アルノが詳細を省く時は、省く理由がある。
カイはその一行を読んで、特に何も言わなかった。
ただ、朝から機嫌が悪かった。
彼女は組織について聞くことにしていた。
正確には、聞くと決めたわけではない。気になったことを気になった時に聞く、それだけだ。アルノが答えたくない時は答えないし、ユキナガは大抵喋りすぎる。カイは3語以内で切り上げる。ローワンは答えながら別のことを観察している。
午前中に、アルノの執務室に行った。
アルノの部屋。カイの機嫌をよそに、リヴァには聞きたいことがあった。
ドアをノックすると、一拍おいて「どうぞ」と返ってきた。
アルノは端末に向かっていた。眼鏡のフレームが朝の光を弾いて、白く光った。
「何ですか」
アルノが左のポケットに触れる。以前チョコをとられた場所だ。
「聞いていい」
「内容によります」
アルノはポケットの辺りから手を戻した。彼女は椅子を引いて、勝手に座った。
「アルカって、お金持ち?」
「…急にどうしたんですか」
「備品が高級そうで、使うの申し訳ない気がしてきたから」
「庶民的ですね」
ベッドやパジャマ、生活用品。ちょっとしたハンドソープに至るまで。すべてがホテルライク。
暮らしやすいに決まっているが、無駄に高そうな消耗品の数々に、少しもったいなくも感じていた。
「だってなんでイソップのハンドソープが各部屋の水道に置いてあるの。シャワーヘッドはリファである必要がない」
「シャワーヘッドは部屋によりますよ」
朝からリヴァが飛び込んできた質問が深刻なものでなく、軽く胸をなでおろすアルノ。
「アスプレイの食器は、個人的に気に入っています。備品にしてはいい」
「………気づかなかった」
アルノのコーヒーカップは確かに繊細な形をしていた。
「…複数の資金経路があります。表向きはコンサルタント法人として登記されています。実態は各国の政府系機関、民間軍事会社、および資源関連の企業群から非公式な拠出を受けています」
「税金から来てるってこと?」
リヴァがアルノの左ポケットを指差した。
アルノはため息をついて、その中に入っていたチョコを出す。リンツのキャラメルだった。
「間接的には、そうなります」
キャラメル味の包装を見た瞬間、リヴァは首を振った。
「ふーん…」彼女は少し考えた。「じゃあ誰かに管理されてる?」
どうやら、キャラメル味はいらないらしい。アルノは眉間に皺をよせてポケットに戻した。無言のやり取りだった。
「管理、という概念が成立しない構造になっています。出資者が意思決定に介入できない仕組みがあります」
「なにその仕組み」
アルノは引き出しからリンツのミルク味を一粒とりだし、彼女に差し出した。
「今日来る人間が、その一部を担っています」
ヴィクトル・ミハイが玄関に入ってきた時、拠点の空気が少しだけ変わった。
変わった、という表現が正確かはわからない。ただ、廊下の端で気配を感じた彼女は顔を上げた。
背が高かった。184センチというのは後から聞いたことで、その時感じたのは高さより、その余裕だ。場所を取っているのに、圧迫感がない。
白寄りのグレーの短髪が、自然光の中で金属的な光を持っていた。コートはなかった。シャツの上にジャケット、それだけ。でも派手に見えた。モルドバ出身というのも後から知ったことだが、確かにどこの国でもある種の「場所」から来た人間の顔をしていた。もちろんモルドバがどこかまず調べたけど。
彼女と目が合った。
ヴィクトルは一秒間、止まった。
それから笑った。作った笑顔ではない。何かを面白いと思った時の表情で、「面白いもの」が彼女だということは、その視線の方向でわかった。
「悪いな、待たせた」
「待ってない」と彼女は言った。
「そうか」ヴィクトルは歩いてきた。「じゃあ初めましてだ」
「うん」
「名前は」
「コードネームはリヴァ」
「本名は」
「ない」
ヴィクトルは少しだけ眉を上げた。
「ない、ってどういうことだ」
「彼女には記憶がないので」とアルノが後ろから言った。いつの間にか廊下に出ていた。「不都合がありますか」
「ないな」ヴィクトルはアルノを見た。「久しぶり」
「3ヶ月ぶりですね」
「元気そうで何よりだ」
「あなたがそう感じるなら、そうなのでしょう」
ヴィクトルは小さく笑った。彼女はその笑い方を観察した。この男は笑うのが自然だ、と思った。意図的に笑っているのに、自然に見える。それは技術ではなく、体に染み込んだものだ。
「ヴィクトル」と彼女は言った。
「ん?」
「だよね」
「ああ、そうだ。ヴィクトル・ミハイ」彼は手を差し出した。「よろしく、お嬢さん」
「お嬢さんじゃない」
「じゃあ何だ」
「…わかんない」
ヴィクトルはその答えを聞いて、また笑った。今度は少し違う種類の笑いで、「気に入った」という感情が混じっていた。
握手した彼女の手を、ヴィクトルは一瞬だけ見た。
何も言わなかった。放した。
会議室でブリーフィングが始まった。
出席者はアルノ、ヴィクトル、カイ、ユキナガ、リヴァの五人。ローワンは処置室にいる。
カイは会議室の隅に立っていた。座らない。壁に背を預けて、腕を組んで、部屋全体を視野に入れる位置にいる。
ヴィクトルが入ってきた時、カイの視線が一瞬だけ鋭くなった。それだけだ。言葉はない。
ヴィクトルはカイを見て、小さく顎を上げた。挨拶の代わりだろう。カイは何もしなかった。
彼女はその交換を見ていた。
「仲悪いの」と小声でユキナガに聞いた。
「良くはないと思う」とユキナガは同じ音量で返した。「カイは基本誰とも仲良くないけど、ヴィクトルには特に警戒してる感じがある」
「なんで」
「あの人、どこでも懐に入ってくるから。カイはそういうの嫌い」
「ふーん」
「あと女癖わるそうじゃん?警戒してる」
「そうなのかな」
思ったより普通に話す人だな、と思った。
”El Tango De Roxanne” / Moulin Rouge




