Sobranie Black Russian
ヴィクトルが今回持ってきた案件は、二段構えだった。
表の内容は、東南アジア経由の情報ルートの再構築。アルカが使っていた中継点がひとつ潰れたため、代替ルートの設計が必要で、ヴィクトルの偽造ネットワークが新しい接続点を提供できる。
裏の内容は、彼女に関係していた。
「俺の情報網に、リヴァの記録を探している動きがある」
ヴィクトルは端的に言った。
アルノが眼鏡を押し上げる。
「いつ頃からですか」
「二週間くらい前から。小さい動きだ。直接的なアプローチじゃない。ただ、俺のネットワークを使って誰かが何かを確認しようとしている」
「誰が」
「特定できていない」ヴィクトルは彼女を見た。「何か心当たりはあるか」
「ない」と彼女は言った。
「まあ、そうだろうな」ヴィクトルは椅子の背に寄りかかった。「とりあえず俺の方でもう少し追う。引き続き情報が入ったら連絡する」
「お願いします」とアルノが言った。
ユキナガが端末を叩きながら「二週間前のなら、こっちでも今並行して調べてる」と言った。「でも動きが綺麗すぎて、プロだと思う」
「どこのプロだ」とヴィクトルが聞いた。
「それがわかれば苦労しないよ」
ブリーフィングの後、廊下でヴィクトルが彼女の横に並んだ。
自然な動作だった。意図しているのに、自然だ。
「コーヒーでも飲むか」
「飲む」と彼女は言った。
「ブラック」
沈黙。リヴァはいつもブラックで飲んでいた。
「どうしてそう思ったの」
「勘だ」
ヴィクトルはキッチンに先に入って、棚からカップを出した。電気ケトルのスイッチを入れて、コーヒーの缶を開ける。彼女が何も頼んでいないのに、全部自分でやっている。
彼女はカウンターに肘をついて、その動作を見ていた。さっきのブリーフィングの時にユキナガからもらった煙草に火をつける。それを一瞥するヴィクトル。
「ああよかった。最近の女はみんな禁煙しろとうるさい」
そう言って、自分の煙草に火をつける。Sobranie Black Russian。高級煙草だ。
「ねえ、ヴィクトルって何者」
「おしゃれでダンディなおじさまだよ」
「おじさんにしては若く見える」
「そこかよ」
「偽造師って聞いた」
「それだけじゃないけど、一言で言うとそうなるな」ヴィクトルは振り返らずに言った。「書類、身分、記録、歴史。全部作れる」
「消せる?」
「消せる」
「じゃあ私の記録も?」
ヴィクトルが止まった。
一拍おいて、振り返った。今度は笑っていなかった。
「……今のは冗談か」
「半分」と彼女は言った。「もともと記録がないから、消す必要もないけど。確認したかった」
「何をだ」
「あなたが本当に消せるかどうか」
ヴィクトルはしばらく彼女を見た。
それから、また笑った。今度の笑い方は最初と違って、少し奥の方に何かがあった。
「消せる」ケトルの湯気が上がり始めた。「ただ、お前の記録は俺が消したんじゃない」
「知ってる」
「誰が消したかも知らないのか」
「知らない」
「そうか」ヴィクトルはコーヒーを淹れた。カップを彼女の方に差し出す前に、カウンターの上に置いた。受け取るかどうか、彼女に決めさせる置き方だった。「俺もわからない。だから調べてる」
彼女はカップを取った。
一口飲んだ。
「美味しい」
「そりゃよかった」
「ヴィクトルって、料理とかももしかしてする?」
「まあな」
「意外」
「どこが意外なんだ」
「なんか、全部人にやってもらいそう」
ヴィクトルは笑った。
「逆だよ。俺がやる側だ、大体」
少し間があった。
ヴィクトルはカップをカウンターに置いたまま、窓の外を見た。横顔だった。
笑っていなかった。
一秒か二秒、それだけだった。すぐに振り返って、いつもの余裕のある顔に戻った。
「お前、記録がないって言ったな」と彼は言った。「本当に何もないのか」
「うん」
「そうか」
それだけ言って、コーヒーを飲んだ。
何かを知っていて、言わない顔だった。でも彼女にはそれが確認できなかった。
夕方、アルノとヴィクトルが執務室で話しているのを、彼女は通りがかりに見た。
ドアが半分開いていた。
アルノは机の前に立っていて、煙草に火をつけていた。銀のライターの炎が上がって——
彼女の足が、一瞬止まった。
ほんの一瞬だ。
自分でも気づかないくらい短い時間、視点が定まらなくなった。廊下の蛍光灯が少し遠くなって、足裏の感触が薄くなった。
それだけだ。
次の瞬間には、普通に歩いていた。
何かあったとも思わなかった。
ただ、キッチンの方向に向かいながら、なぜかコーヒーじゃなくて甘いものが欲しいと思った。
自室に戻りながら、少しだけ立ち止まった。
何かを忘れているような、でも最初から持っていなかったような感覚。廊下の蛍光灯が、白くて長かった。
白い部屋の夢に似ている、と思った。
思ってから、忘れた。
執務室の中でヴィクトルはそれを見ていた。
ドア越しに通り過ぎる彼女の横顔を。
一瞬だけ起きた、あの微細な停止を。
「……アルノ」と彼は言った。
「気づいていました」アルノは煙草を持ったまま、静かに言った。「これで三回目です。私が確認しているだけで」
「何だと思う」
「わかりません。ただ」アルノはライターをテーブルに置いた。今度は音を立てずに。「意図的に仕込まれたものだと考えています」
ヴィクトルは少しの間、ドアの方を見ていた。
廊下にはもう誰もいない。
「誰が」
「それを調べています」
「俺も調べる」ヴィクトルは立ち上がった。「お前だけに任せておく案件じゃない」
「……助かります」
「女がそういう目に遭ってるのは、気分が悪い」
アルノは煙草の煙を、ゆっくりと吐いた。
「ヴィクトル」
「ん」
「彼女の前でジッポライターは使わないでください」
「わかった。それがトリガーか」
「わかりませんが、おそらく」
「もう一個聞いていいか」
「何ですか」
「彼女の記録を探している動き、あれ」ヴィクトルは振り返った。「俺のネットワークを使えるレベルの人間で、彼女の存在を知っていて、動ける立場にいる人間、心当たりあるか」
アルノは答えなかった。
煙草の煙だけが、白く上がった。
「……一人だけ」アルノは静かに言った。「いますが、今は言えません」
「そうか」
「証拠がない。憶測で動くことは」
「合理的じゃない、だろ」ヴィクトルは小さく笑った。「わかった。急がない」
ドアが閉まった。
その夜、彼女は射撃場に行かなかった。
珍しいことだった。
キッチンのカウンターで、ユキナガが作ったカクテルを飲んでいた。ユキナガが「これ飲む?」と出してきたカクテルは甘くて、アルコールがほとんど入っていなかった。
「バーテンっぽい」と彼女は言った。
「元バーテンだから」とユキナガは言った。「本職だったし」
「ホストじゃないの」
「ホストは一年だけ。その後ずっとバーテン」
「今も好き?」
「まあね」ユキナガはカウンターの向こうでグラスを拭いた。「お前が飲むとは思ってなかったけど」
「甘いものが食べたかっただけ」
「それカクテルだから飲み物だけど」
「甘ければいいや」
ユキナガはグラスを棚に戻しながら、横目で彼女を見た。
「今日、なんかあった?」
「別に」
「ふーん」
疑っているわけではない声だった。ただ確認した、それだけの声。
彼女はグラスの中の液体を見た。
甘いものが食べたいと思った理由が、自分でもよくわからなかった。
ただ、それだけだ。
「ヴィクトルって、また来る?」と彼女は聞いた。
「案件があれば来るんじゃないかな」ユキナガはカウンターに肘をついた。「気に入っちゃった?」
「別に。ただ」
「ただ」
「コーヒーが美味しかった」
ユキナガは少し笑った。
「それ言ったら喜ぶだろうな、あの人」
「なんで」
「ああいう人って、そういうの好きじゃん。キザなかんじっていうか。」
「じゃあなんか言いたくないな」
グラスを空にした。
甘さが喉の奥に残った。
ユキナガが、煙草の箱から二本取り出して、彼女に差し出した。
夜遅く、執務室の前を通りかかった。
ドアが少し開いていた。ノックしようとして、止まった。
アルノがメガネを外していた。
右手で持ったまま、目頭を指で押さえていた。デスクライトだけがついていて、端末の画面が白く顔を照らしていた。いつもの姿勢のままだったが、メガネがない顔は少しだけ違う人間に見えた。
三秒くらい、見てしまった。
気配に気づいたのか、アルノが顔を上げた。
目が合った。
アルノは無言でメガネをかけ直した。素早かった。取り繕う速さだった。
「何ですか」といつもの声で言った。
「通りかかっただけ」
「そうですか」
「目、悪いの」
「乱視です」とアルノは即答した。「それだけです」
「痛い?」
「いえ」一拍。「疲れるだけです」
リヴァは少しだけドアを押した。
「休めば」
「あと少しで終わります」
「それ何時間前にも思ってたんじゃないの」
アルノは答えなかった。眼鏡のブリッジを押し上げた。メガネをかけ直したばかりなのに。
「……余計なお世話です」
「そうだけど」
「分かっているなら」
「見ちゃったから」とリヴァは言った。「メガネ外してるとこ」
アルノは少しだけ止まった。
「…………」
「なんか、ちがう人みたいだった」
「同じ人間です」とアルノは言った。声が少しだけ低かった。「見間違えないでください」
「見間違えてないよ」
アルノは端末に視線を戻した。
「おやすみなさい」と彼は言った。
「おやすみ、アルノ」
ドアを閉めた。
廊下に戻ると、さっきより少し静かだった。
“Noaptea Pe La 3” / Satoshi ft. Carla’s Dreams




