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リヴァ・アルカ ―最強特殊部隊は、たった一人のアンカーを失えない―  作者: Ilir Noct
第六章「浮遊する標的 ― Drifting Target」

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揉み消し

 ベッドルームの引き戸は、開け放してあった。


 アルノはリビングから、リヴァが見える位置に座っていた。動かなかった。ベッドから目を離さなかった。


 カイはベッドの脇に椅子を寄せていた。突っ伏していた。


 リヴァが少し動くたびに、顔が上がった。


 ヴィクトルはリビングの壁に背を預けて立っていた。腕を組んでいた。


 カラムは一番遠い場所にいた。出口の見える位置だった。


 誰も話さなかった。


 妙な時間が流れていた。





 最初に動いたのは、指だった。


 シーツを、掴んだ。


 アルノが顔を上げた。


 次に、リヴァが起き上がろうとした。右腕をついた。肘が折れた。崩れた。


 カイが顔を上げた。


「リヴァ」


 リヴァが止まった。


 カイを見た。知っている顔だった。でも何かが、追いついていなかった。


 天井を見た。白くなかった。


 それだけで、何かが変わった。


「グレイ」リヴァは言った。「グレイ、いた。気がする。どこ」


「いない」カイは言った。「ここにはいない」


「……っ」


 リヴァはもう一度部屋を見た。アルノがいた。ヴィクトルがいた。知っている顔だった。でも、それ以上のことが、頭に入ってこなかった。


 呼吸が浅かった。


 自分の手を見た。右手首に痕があった。何の痕か、わからなかった。


「……っ、なんで」


 誰も答えなかった。


 左腕を触った。触れるだけで軋んだ。長い時間、変な姿勢でいたような痛みだった。そんな記憶が、なかった。


「何が…っ」


 バルコニーで撃たれた。手すりに当たった。カイと、倒れた。


 そこで、止まった。


 続きが、なかった。腕の痛みも、胃の気持ち悪さも、頭の鈍い痛みも、何かがあったと言っていた。


 でも、なかった。


 リヴァは震えている手を見た。震えている理由が、わからなかった。


 アルノが立ち上がった。ベッドルームに入ってきた。


「アルノ、…ない」迷わなかった。「何も、ない」


 アルノはカイと目が合った。言葉はなかった。


「今は安全です」アルノは言った。「私たちだけです」


 安全、という言葉が来た。


 わかっているのに、どこかが信じていなかった。


「わたし、何か、されたの」


 誰かに向けた言葉ではなかった。声が、震えた。


「体が、痛い」


 泣くより静かだった。


 部屋が、しばらく静かだった。



 ヴィクトルが部屋に入ってきた。


 カラムが動いた。リヴァの方に向かおうとした。


「待て」ヴィクトルはカラムの前に立った。「見てわからないのか」


 カラムが止まった。


 ヴィクトルがリヴァの方を向いた。声が変わった。


「もう終わった」ヴィクトルは言った。「お前が頑張ったから、終わった」


 リヴァは少しだけ息を吐いた。


 体の震えが、ほんの少し収まった。


 誰も急かさなかった。誰も何も求めなかった。ただ、部屋にいた。



 フィンが引き戸の端に寄りかかって見ていた。


「脈と呼吸は安定してる」フィンは言った。「体の痛みは、すぐよくなるよ」


 リヴァはフィンを見た。


 ユキナガが少し前に出た。何か言おうとして、止まった。また言おうとした。


「……お帰り」


 リヴァはユキナガを見た。ユキナガの顔が、少し歪んでいた。


 言葉が出なかった。でも、見ていた。


「一旦横になれ」


 カイがリヴァを寝かせた。リヴァの左手に、自分の右手をかぶせて握った。


 リヴァは目を閉じた。


 カラムが、煙草の煙を吐いた。




 船内放送が、廊下から薄く聞こえた。


 穏やかな女性の声だった。英語、日本語、フランス語が流れた。


『船内にて設備トラブルが発生しております。ご安全のため、しばらくの間お部屋でお過ごしくださいますようお願い申し上げます』


「デッキの血痕が発見された。船員が騒いでる。でも上に止められてる。通報はされてない」ユキナガが端末を見ていた。


「揉み消しにかかっていますね」アルノは言った。


「コストフ、この船の上客だったんじゃないかな」ユキナガは言った。「醜聞を、外に出したくない」


「好都合です」アルノは言った。「ならば今夜中に——」


「無理だ」ヴィクトルは言った。


 Sobranieを口の端に咥えたまま、壁際のソファに深く沈んでいた。


「廊下に出た瞬間に目立つ。揉み消したい船会社が、夜中に動く客を一番先に疑う」ヴィクトルは煙を吐いた。「グレイはもう動かない。今夜は終わった」


 アルノは少し間を置いた。




 フィンが立ち上がった。カーテンを全部閉めた。


 ソファを、窓から見えない位置まで押した。


 ヴィクトルが、足だけ動かしてそれを手伝った。


 アルノが、眠っているリヴァの方を一度見た。それからWalther PPKのホルスターを確かめた。両側のマガジンの位置を、考えずに確かめていた。


 ユキナガがカウンターの下のVP9に触れた。さっきは、抜けなかった。今は抜ける。それだけ確かめて、手を戻した。


「ねえカラム。そろそろ預けてくれない?」フィンは言った。


「嫌だ」


「そっか」フィンは言った。「じゃあ一つだけ。ここにいる間は、抜かない。それでいい」


 カラムは少し間を置いた。


「……ここにいる間は、抜かない」


「ありがとう」フィンは言った。


 アルノがフィンを見た。


 フィンは小さく肩をすくめた。



「航路の変更はありましたか」アルノは言った。


「明日午前中。石垣港に予定通り寄港するって運航ログに出てる」


「てか」ユキナガはカラムを見た。「一旦帰れば?自分の部屋に」


「ない」


「え?」


「乗船していない」カラムは言った。「船外から来た」


「……どこから乗り込んだの」


「貨物用のハッチ」


「じゃあボートで帰れよ」


「放棄した」カラムは言った。「明日まで、待つしかない」


 ユキナガはフィンを見た。フィンは少し笑っていた。


「最悪だね」フィンが言った。




 ヴィクトルが、ミニバーからスコッチを注いだ。一口飲んだ。


「ヴィクトル」アルノは言った。


「俺は軍人じゃない」ヴィクトルは言った。「今夜の仕事は、終わった」


 アルノが、眼鏡を押し上げた。


 ユキナガがケトルを火にかけた。カモミールを探した。リヴァが次に起きた時のためだった。


 それから、シェイカーを取り出した。自分用だった。


 まだ指の感覚が、戻っていなかった。


 冷静になりたかった。


 カラムが壁際から、声を出した。


「……それ、なに」


「カクテル」ユキナガは言った。「飲む?」


「……うん」


「え」


 手が、止まった。


 フィンがカラムを見た。アルノがカラムを見た。


 ヴィクトルが、グラスを持ったまま、カラムを見た。


「飲むの?今?」フィンは言った。


「……もう終わったから」カラムは言った。


 ユキナガがグラスに注いだ。カウンターに置いた。


 カラムが壁から離れた。グラスを取った。一口飲んだ。


「……つめたい」


 また一口飲んだ。それから、壁際に戻った。グラスは、持ったままだった。


「座れば?」フィンは言った。


「……見てる」カラムはリヴァの方を向いて言った。


 誰も、それ以上は言わなかった。



 

「次はどこ行くの」フィンが言った。


 カラムが止まった。


「……決まってない」


「そういうかんじ?」フィンは言った。


「……いつもは決まってる」カラムは言った。「グレイの仕事は、もう受けない」


「他のクライアントは」


「………考える」


 フィンは、それ以上聞かなかった。


 カラムが壁際で、グラスと煙草を、交互にやっていた。


 ユキナガが、それを横目で見た。さっきまで銃を突きつけていた男が、自分の作ったカクテルを飲んでいた。


 ユキナガはカウンターの端で、端末を開いた。


 画面に、ログが一つ開いていた。東京の、あの日の弾道記録だった。数字が並んでいた。


 ユキナガは、それを見ていた。


 五分前から、画面は変わっていなかった。






 深夜だった。


 ヴィクトルが、ソファで寝息を立てていた。規則的だった。


 フィンが、ブランケットを一枚、ヴィクトルの上にかけた。ヴィクトルは、起きなかった。


 しばらくして、ヴィクトルが動いた。寝返りを打った。口が、少し開いた。


「……Я никогда больше(ブカレストには) не вернусь(二度と行かない) в Бухарест」


 低い声だった。ロシア語だった。


 フィンが顔を上げた。ユキナガが端末から目を離した。


 ヴィクトルは眠ったままだった。


「何て言ったの」フィンは小声で言った。


「ブカレストには二度と行かないと」アルノは言った。「ロシア語で」


 全員が静かになった。


 ヴィクトルがまた動いた。


「……アルバンの野郎」


 今度は日本語だった。全員が止まった。


「アルバンって誰だ」フィンは言った。


「追々話します」アルノは言った。即答だった。「自然災害だと思っておいてください」




 六時が近づいた頃だった。


 引き戸の向こうで、気配が動いた。


 リヴァが起き上がっていた。


 リヴァの左手を、ずっとカイの右手が包んでいた。


 カイは、一度も寝ていなかった。


 バーガンディのベルベットのままだった。髪がほどけていた。ラベンダーグレーが、肩に落ちていた。


 目が、半分開いていた。でも、さっきとは違った。


 手を見た。部屋を見た。全員の顔を、順番に確認した。


「おはよ」ユキナガがケトルに手を伸ばした。「カモミール飲む?」


「……うん」リヴァは言った。


 ヴィクトルが、リヴァの声に目を開けた。


「おはよう、姫」


「……ん」


 リヴァがカップを受け取った。


 右腕に力が入らなくて、カップが揺れた。


 ユキナガが、湯の量を半分にして、もう一度手渡した。


「ありがと」


 カイが顔を上げていた。何も言わなかった。つないでいる左手を、見ていた。


 部屋が、静かだった。


 リヴァはアルノを見た。


「多分、記憶が…なくなってる」自分から言った。「変な匂いがして倒れた後、何をされたか、わからない」


 アルノは一拍置いた。


「わかりました」アルノは言った。「今はそれで充分です」



 リヴァがカモミールを一口飲んだ。


 部屋を見渡した。


 壁際に、知らない男がいた。大きかった。グラスを持って、煙草を吸っていた。アンバーの瞳が、こちらを見ていた。


「……ホールに、いた人」


「こっちの事情で引き留めてる」フィンは言った。「カラム」


 リヴァはもう一度、男を見た。


「……聞きたいことがある」カラムは言った。


 フィンがカラムに視線を向けた。カラムが視線を落とした。


 リヴァはカラムを見た。一秒あった。


「あとでね、カラム」フィンは言った。


 カモミールを、もう一口飲んだ。


 カラムはそれ以上、何も言わなかった。


 水平線が、白み始めていた。


 夜が、終わりかけていた。

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