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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第六章「浮遊する標的 ― Drifting Target」

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M29

※この話には心理的支配・精神的暴力の描写が含まれます。




 セレネ・ステラ 十二階後部プールデッキ 午後十時十六分。


 プールは船の揺れに合わせて静かに波打っていた。


『撤収します』


 アルノの声がイヤーピースへ入った。


『カイ。リヴァとAXMCを持って、十一階後部外周から戻ってください。客用廊下はまだ避けて』


「ああ」


 カイはデッキチェアの陰からAXMCのケースを拾い上げた。リヴァを見た。


「行くぞ」


「うん」


 二人は西側のスタッフ用扉へ向かった。


『フィンはエスポジトを九階へ。そのまま監視をお願いします』


「了解」


『東側のサービスリフト、空いてるよ』


 ユキナガの声に従って、フィンはエスポジトを連れて反対側の扉へ入った。


 残ったヴィクトルが、床に散った拳銃とイヤーピースを拾い始める。警護責任者を含む四人はすでに武器を失っており、一人はプールから這い上がったまま濡れた床へ座り込んでいた。


『ヴィクトル。四人の武装と通信機器を回収。奥のサービスルームへ入れて施錠してください』


「はいはい」


 言いながら、ヴィクトルは一番近くにいた男のジャケットから予備弾倉を抜いた。


 カイとリヴァが扉の向こうへ消えたあと、プールデッキにはヴィクトルと制圧された男たちだけが残った。青い水面の底では落ちた拳銃が揺れ、割れたボトルから流れた酒が、プールの水と混じって床を薄く濡らしていた。


 最上階スイートでは、ユキナガが十二階閉鎖後の通信を追っていた。


「外には出てない。プール閉鎖の話だけ。船員側で銃声について三件、全部内部」


 アルノはテーブルに置いた回収端末から顔を上げた。


「削除は」


「しない。消した方が変になる」


「では保安対応の記録へ寄せてください」


「うん」


 ユキナガは別の画面へ移った。


 アルノがヴィクトルへ回線を切り替えた。


『処理が終わったら、船側の動きを確認してください。余計な説明が広がっていないかだけ見てください』


『分かった』





 セレネ・ステラ 十一階後部外周 午後十時二十四分。


 防火扉を抜けると、海風が正面から来た。


 船尾に沿った外周通路は、客用ラウンジの外側を回るように続いていた。海側には磨かれた金属の手すりとガラスの風除けが並び、反対側の大きな窓からは、金色の照明がデッキ材へ細長く落ちている。


 ガラスの向こうでは夜が続いていた。数分前に上階で銃撃戦があったことを知らない客が、ソファでグラスを傾けていた。


 カイはAXMCのケースを右手に持ち、リヴァの半歩前を歩いた。


 バーガンディのベルベットが海風を受け、脚へ沿って戻る。プールで濡れた裾だけが重く、細いヒールがデッキ材の継ぎ目へ入るたびに歩幅が少しに縮んだ。


 カイはそれに合わせて速度を落としていた。


 イヤーピースは静かだった。


 窓の向こうでピアノの一曲が終わり、小さな拍手が起きた。


 その直後、海側の手すりで金属が弾けた。


 乾いた甲高い音が一度だけ響き、破片と一緒に微細な霧が散った。



「っ……何」


「伏せろ」


 カイはAXMCのケースを落とし、リヴァを壁際へ押し込んだ。自分の身体を海側へ入れ、着弾した方向へ視線を走らせる。


 上階にも船尾にも人影はなく、黒い海には発砲位置を示す光もなかった。


 リヴァが息を吸った。


 潮の匂いに、甘いものが混じっていた。


 香水とも酒とも違う。油のような重さがあり、吸い込んだあとも喉の奥へ残った。


 直後、リヴァの膝から力が抜けた。


 壁へ手をつこうとしたが、指先が触れただけで身体を支えられない。カイが腰を支えた。その腕からも力が抜けていったが、指だけはベルベットを掴んだまま残った。


「……っ」


 カイがイヤーピースへ手を伸ばした。


 指が耳へ届く前に腕が落ちた。


 カイの膝も崩れ、二人は壁際へ沈んだ。


 リヴァのベルベットのドレスが、床に広がった。


 船尾側の防火扉が開き、男が外周へ出てきた。長い焦げ茶の髪が海風に揺れ、黒いジャケットの肩が足元灯の下を通る。


 防火扉を抜ける時、頭が上枠のすぐ下を通った。


 アンバーの瞳がリヴァへ向いた。


 男はリヴァのイヤーピースを抜き、床へ置いた。靴底で踏むと、小さな破砕音がした。


 二人の前へしゃがみ、リヴァの首筋へ指を当てた。


「……あんたが」


 低く、小さい声だった。


 リヴァの呼吸も確認してから、小さな無線を取り出す。


「確保。持ってく」


 男がカイの手を、リヴァの腰から離した。


 ゆっくり、丁寧にリヴァを抱え上げた。


 立ち上がると、リヴァの身体が床から一気に高い位置まで上がった。


 男はリヴァを抱えたまま防火扉へ向かった。革靴がデッキ材を踏んでも、海風と機関の音の中では足音がほとんど聞こえない。


「神が、あんたを傷つけたのか」


 歩きながらリヴァを少し抱き直し、目は前へ向けたままだった。


「それとも――」


 ドレスの背中が、男の腕に押されてずれた。


 男は目をまっすぐ前に向けたまま、歩き続けた。







 次に目が開いた時、リヴァは立っていた。


 立たされていた。


 両手首が頭上で金属の枷に固定されていた。腕は伸びきり、つま先だけがかろうじて床に触れている。左肩を動かすたび、縫合した傷の奥が引かれた。ルブタンの細い踵は床から浮き、赤いソールが白い床へ向いていた。


 壁も天井も床も白かった。光源は見えず、足元にも影がない。壁と床の境目は細い直線だけで、室内には窓も時計も見当たらなかった。


 リヴァは下を見た。


 バーガンディのベルベットだけが、白い床の上に色を落としていた。


「起きましたね」


 顔を上げた。体が重かった。


 グレイがいた。


 黒いテーブルの向こうに立ち、Cohibaを指に挟んでいる。東京で会った時と同じ顔で、こちらを見ていた。


「お仕事、お疲れさまでした。よく頑張りましたね」


「……なんでいるの、ここに」


 リヴァは手首を引いた。金属が鳴り、肩に痛みが走った。


 グレイは答えなかった。


「やめて。帰して」


 グレイの足が止まった。


 そのまま、ゆっくり近づいてきた。白い床に黒い革靴が交互に入る。


 リヴァが顔を上げた瞬間、乾いた音がした。


「……っ」


 左頬が熱を持った。横を向いた。頬へ落ちていた髪が一束、口元にかかった。


「その言葉は」


 グレイは穏やかな声のまま言った。


「好みません」


 それだけ告げて離れた。


 リヴァは唇を閉じた。口の端に触れていた髪が、呼吸に合わせて小さく動いた。


 グレイの視線が左肩へ落ちた。ベルベットの肩口から、傷のある位置が少しに覗いていた。


「肩の傷は、すみませんでした」


「……どういう、こと」


「当てないようにと言っておいたのですが」


 リヴァが顔を上げた。鎖がもう一度、短く鳴った。


「……やめ、て」


 グレイが、止まった。


 リヴァを見た。


「……」


 リヴァは目を閉じた。鎖が一度鳴った。


 自分の呼吸が早くなっている音が聞こえた。


 少しして薄く目を開けると、グレイは動いていなかった。




 黒いテーブルの上には、カードが置かれていた。艶のある天板に、白いカードの縁が映り込んでいる。


 グレイが椅子を引き、カードを切り始めた。白い部屋の中で、カードの角が重なる乾いた音が続く。一定の速さで束が割れ、また一つに戻る。


「ハイアット、いいホテルですよね」


 リヴァは眉間に皺を寄せた。


「賭け事が得意なんですね」


 カードを切る手が止まった。


 グレイがリヴァを見た。


「今日は少し、ルールを足しましょう」


 グレイは二枚ずつ配った。カードが黒い天板を滑り、二組に分かれて止まった。


「この船には、多くの乗客がいます」


 リヴァの指が枷の中で動いた。金属の縁に爪が触れた。


「あなたが外したら、その中から一人、撃ちます」


「……」


「うちの狙撃手は、あなたと違って下手なので」


 間があった。


「間違って殺してしまうかもしれませんね」


 グレイはカードへ視線を落とした。


「だから、本気で当ててください」


 リヴァの呼吸が浅くなった。胸元のベルベットが細かく上下した。


「今日はあなたとゲームがしたかっただけです」


「……」


「お返事は?」


 声が出なかった。


 グレイが顔を上げた。


「Mæl」


 喉が勝手に開いた。


「……はい」


 一拍あった。グレイが目を細めた。


「……少し、便利すぎますね」


「……なんで、それを知って――」


「では、一回目」


 カードが置かれた。


「どちらに賭けますか」


 リヴァはカードを見た。枷の内側で指を握る。


「ゆっくりで構いません」


 リヴァの視線がテーブルの上を動いた。二組のカードと、グレイの指先の間を往復する。


「……無理」


「ああ」


「……やりたく、ない」


 グレイが小さく息を吐いた。


「泣かないでください。可哀想に」


 涙が顎まで伝い、ベルベットの胸元へ一滴落ちた。


「手伝ってほしいですか」


「……」


「Mæl」


「……プレイヤー」


 声だけが先に出た。


「そうです」


 グレイがカードを引いた。指で角を揃え、数字を開く。


 プレイヤー、9。


 バンカー、6。


「当たりです」


 視界が白く揺れた。


 リヴァが瞬きをした。


 テーブルがぼやけ、グレイの輪郭が二重になった。黒い天板の縁だけが左右にずれて見えた。


「……何」


 息を吸う。


 上を見た。腕が頭上にある。


 目の前にカードがある。


「何、してたの」


 グレイが立ち上がった。


 黒いジャケットの前身頃が、視界の大半を占めていた。


「私とバカラをしていました」


「……」


「あなたが勝った。今、一回目ですよ」


 グレイはリヴァの瞳を覗き込んだ。顔の向きを変えると、室内の白い光が瞳の表面に小さく映った。


「誰も、死んでいません」


 リヴァの呼吸が止まり、すぐに戻った。


 グレイは一歩離れた。


 カードをまとめる。散っていた四枚を重ね、山の横へ戻した。


「本気で使うと、記憶が抜けてしまう」


 リヴァは何も言わなかった。


「思い出しましたか?」


「やめ、」


 リヴァが言いかけた。グレイが一歩リヴァに近づいた。


「あ……」


 グレイが頷いた。


「記憶、戻りましたね」


 また二枚ずつ配られた。


「では、二回目です」


 さっきと同じ位置に、同じ間隔でカードが置かれる。


「どちらにしますか」


 リヴァはカードを見た。鼻を啜った。息を吸って、吐いた。


 しばらくして、唇が動いた。


「……バンカー」


 カードが引かれた。


 バンカー、8。


 プレイヤー、3。


 リヴァの身体が前へ折れた。


 枷が鳴った。伸びきった腕に体重がかかり、左肩が一段高く引かれた。


「……っ」


 吐いた液がバーガンディの胸元へ落ち、ベルベットの表面を滑って白い床へ滴った。


 何度か咳き込んだ。


 呼吸が戻らない。


 両手が震えていた。震えが鎖へ伝わり、細かな金属音が続いた。


 グレイが近づいた。


 ポケットから白いハンカチを出し、ドレスについたものを拭った。白い布がバーガンディの上を何度か往復する。


「可哀想に」


 リヴァは顔を背けた。


 グレイは構わず、ベルベットの表面を丁寧に拭いている。


 リヴァの指が震え、枷が小さく鳴った。


「視界は?」


「……」


「記憶はどうですか?」


 リヴァがグレイを見た。


 数秒、答えなかった。


「……ある」


「そうですか」


 グレイはハンカチを畳んだ。汚れた面を内側へ折り込み、ポケットには戻さず手に持った。


「あなたが本気を出すたびに、あなたは死に近づいている」


 リヴァの肩が上下していた。


 グレイがリヴァの髪へ手を伸ばした。


 汗で頬に張りついた一束を指ですくい、耳の後ろへ流す。指先が耳の縁を通り、髪だけを背中側へ送った。


 リヴァは動かなかった。


「綺麗ですね」


 指の背が頬を通った。


 涙を親指で拭う。


「こうなると」


 リヴァの口が少し動いた。


 声にはならなかった。


「腕、痛いでしょう」


 グレイが上を見た。枷と鎖の接続部まで視線を上げる。


「外しますか?」


 リヴァが目を伏せた。


 三回、小さく頷いた。


 金属音がした。


 枷が外れた。


 腕が一気に落ちる。


「……っ」


 左肩が引かれ、リヴァは膝を折った。そのまま白い床へ座り込み、バーガンディの裾が周囲へ広がった。高いヒールが横へ倒れ、片方の赤いソールが白い床に映えた。


 黒いテーブルの隣に、小さな箱が置かれていた。角の立った黒い箱で、留め具だけが銀色だった。


 中にはリボルバーが収まっていた。


 Smith & Wesson Model 29。長い銃身に、黒いブルーイング。木製のグリップ。


 グレイが取り出した。


 シリンダーを開く。金属同士が触れる小さな音がした。


 ポケットから二発の弾を出した。


 .44マグナム。二発を、離れた薬室へ入れた。真鍮の薬莢が黒いシリンダーの中へ沈む。


 残り四つは空のままだった。


 グレイが開いたままのシリンダーを指で弾いた。


 乾いた空転音が白い部屋へ響く。


 回転が止まると、シリンダーを静かにフレームへ戻した。


「最後です」


 リヴァは床に座ったまま、銃を見ていた。M29はグレイの手の中でも大きく見えた。


 グレイが壁を指した。


 白い壁に、小さな標的があった。


 リヴァが二重の円が書かれた壁を見た。


「真ん中に当てたら、誰も傷つけません」


 リヴァの目が揺れた。


「外側の円の内側なら、命までは取りません」


 グレイがM29をテーブルへ置いた。


「どうしますか」


 リヴァは動かなかった。


 呼吸だけが浅く続いている。


 グレイは待った。


「やめておきますか」


 リヴァの目が銃へ落ちた。


「もう、……」鼻を啜った。


「辛いでしょう。やめてもいいですよ。それもあなたの選択です」


 グレイは一歩下がった。


 白い壁に映像が出た。標的から離れた場所に、長方形の光が現れる。


 女性が笑っていた。


 二十代半ばほど。フォーマルな服を着て、隣の男へ身体を寄せている。男も笑っていた。


 船内で撮られた写真だった。背景にはラウンジの照明と、グラスを持つ客の肩が写っている。


 横には名前、年齢、職業、出身地が並んでいる。白い文字が数行、写真の横に固定されていた。


「新婚旅行のお客様だそうです」


 リヴァの目が画面へ上がった。


「今はホールで旦那様とワインを飲んでいますね」


 女性は写真の中で笑っていた。


「……なに、するの」


 グレイは目を細めて、笑った。


「どうしますか」


 リヴァの右手が床を這った。指先が白い床を擦り、数センチずつ前へ出る。


 M29へ届く。


 指がグリップに触れた。


 何度か滑ったあと、掴んだ。木製グリップの下端が一度床へ当たった。


 重い銃を両手で持ち上げた。


 リヴァは床に座ったまま、両腕を伸ばした。


 涙で黒い円が滲んでいる。


 リヴァの人差し指がトリガーへ入った。


 ダブルアクションの引き金は重かった。


 途中で指が止まる。ハンマーが途中まで起きた位置で止まった。


 息を吸った。


 もう一度力を入れた。


 M29が跳ね上がった。


 爆音が白い部屋の壁と天井へ一度に当たり、短く残響した。


「……っ」


 反動でリヴァの上体が後ろへ押され、背中が壁へぶつかった。


 高い耳鳴りが残り、部屋からほかの音が消えた。


 グレイの革靴が近づいても、足音は聞こえなかった。


 銃口が天井を向いた。


 白い壁の中央、黒い円の中心に穴が開いていた。


 リヴァの手から銃が落ちた。ドレスの裾の上で、黒い銃身が止まった。


 シリンダーには、まだ一発残っている。


 グレイはリヴァの前へしゃがんだ。片膝を白い床へ近づけ、顔の高さを合わせる。


 M29は手を伸ばせば届く位置にあった。


 リヴァは両手を膝の上へ落としたまま、焦点が合わない目でM29を見ていた。手の甲には枷の縁が残した赤い跡が一周していた。


 グレイが顔を覗き込む。


 指の背で涙の跡を拭った。


「大丈夫ですよ」


 リヴァの焦点が動いた。


「……ここ、どこ」


 グレイの顔を見た。


 数秒、そのまま固まった。


「グレイ……?」


 声が小さかった。


 リヴァは後ろへ下がろうとした。


 床についた腕から力が抜け、身体が傾いた。そのまま倒れこんだ。


 M29が、すぐそばに転がっていた。

”Runaway” / AURORA

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