表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
87/117

レバノン


 カラムが止まった。


 船尾側の廊下だった。


 非公開エリアの突き当たり。乗客が来ない場所だった。壁に金の装飾が施されていた。シャンデリアが一つ、低く灯っていた。夜間の最低照明だった。


 床に、人が倒れていた。


 バーガンディのベルベットが、大理石の床に広がっていた。光が当たるたびに、鈍く反射した。


 リヴァだった。


 横向きに倒れていた。編み込みがほどけかかっていた。ラベンダーグレーの髪が、床に扇状に広がっていた。


 ドレスの胸元に、染みがあった。


 白かった。吐いた跡だった。


 左肩の縫合した傷口から、薄く血が滲んでいた。


 頬に、乾いた涙の跡があった。


 睫毛が、濡れていた。


 でも、呼吸があった。


 胸が、静かに動いていた。




 カラムが片膝をついた。


 大きな手が、リヴァの肩に伸びた。



「触るな」



 アルノの声だった。


 低かった。


 静かだった。


 でも、温度がなかった。


 カラムが止まった。


 アルノが来ていた。眼鏡のフレームが、シャンデリアの光を反射していた。


 目が、いつもと違った。


 感情を消していた。消しきれていなかった。


「……」


 カラムは立ち上がった。


 一歩、引いた。


 アルノが片膝をついた。リヴァの背中に手を回した。膝の裏に手を入れた。ゆっくりと抱き上げた。


 リヴァの頭が、アルノの肩に落ちた。


 アルノは少し止まった。


 止まって、また歩き出した。


 ドレスの裾が、床を引いた。


 裾が、大理石の上を滑った。




 客室に戻った。


 カラムも一緒に入ってきた。


 ユキナガがそれを見て「うわ」小さく言った。


 言ってから、リヴァを見て息を吐いた。



 部屋への引き戸を二枚開き、ベッドルームにリヴァを寝かせた。


 アルノはリヴァをドレスのまま寝かせた。上から薄いブランケットをかけた。


 左肩を確認した。血の滲みを見た。縫合は保っていた。


 アルノがリヴァの額に手を当てた。


 一秒だけ。


 それから手を引いた。立ち上がった。




 リビングに全員が集まった。


 フィンがソファに座った。アルノが窓際に立った。


 カラムが壁際に立った。


 コートのポケットから煙草を取り出した。Rothmansに火をつけた。


 誰も何も言わなかった。


 カラムが煙を吐いた。


 白い煙が、天井に向かって広がった。


 リヴァが寝ているのが、全員の視点から見えた。


 ユキナガがカラムを見ていた。


 大きな体だった。煙草を吸いながら、壁に背をもたせていた。動きが少なかった。


 どこかに意識が向いているようだった。壁際を選んだ。出口が見える位置に立っていた。


 さっきからユキナガ、フィン、アルノの位置を把握していた。


 ユキナガはそれを見た。


 アルバンに、少し似ていると思った。


 思って、その考えを頭の隅に押しやった。


「依頼主誰なの。グレイ?」ユキナガは言った。


 フィンがユキナガを見ようとして、カラムを視界から外さないようにとどまった。


「お前の心臓どうなってんの」フィンは言った。


「聞かないと進まないじゃん」


「まあ」フィンは言った。「それはそう」




 カラムが煙草を指に挟んだまま、少し間を置いた。


 長く息を吐いた。長かった。


「……もういいや」


 低く言った。


 ゆっくりだった。


「グレイだよ」


 煙を吐いた。




「何を頼まれた」アルノが言った。


「スナイパーとして使い物にならなくしろって」

「東京のもですか」アルノが言った。


部屋が静かになった。


「……ああ」


カラムがリヴァの方を見た。


「あれで失敗扱いになった」言いながら、煙草に火をつけた。「当てたから」


「………どういうこと?」フィンが言った。


「当てるなって言われてた」


 カラムは煙草の火を見た。


「…精神的に壊すだけ」


 少し間があった。


「俺も、そのつもりだった」


 カラムが目を伏せた。


「なのに当たった」カラムが言った。「今日、白い部屋から出た時には、グレイからの通信全部切られてた」





 ドアが開いた。


 ヴィクトルがカイを支えながら入ってきた。


 カイは顔色が悪かった。汗が残っていた。シャツが湿っていた。


「誰だ」ヴィクトルは言った。


「リヴァが戻ってきた」フィンは言った。「そこで寝てる」


「それは聞いた」ヴィクトルは言った。「こいつは誰だ」


「東京でリヴァを狙撃した別部隊の狙撃手」フィンは言った。「カラム」


 カイが動いた。


 カラムに向かった。いつもよりも動きは鈍かった。


 フィンが立ち上がった。


 カイの前に出た。


 足払いだった。


 カイの足が流れた。崩れた。フィンがカイの腕を取って、床への衝撃を殺した。でも膝をついた。


「カイ」フィンは言った。低かった。「落ち着いて」


「離せ」


「今動いたら全員死ぬかも」フィンは言った。「リヴァも」


 カイがフィンを見た。


 フィンはカイの目を見た。


「今は無理」フィンは小声で言った。


 カイは少し間を置いた。


 カラムを見た。


 カラムは壁際で、煙草を吸っていた。


 こちらを見ていた。


 表情がなかった。


「……」


 カイはリヴァのもとに向かった。


 フィンが座り直した。


 カラムが煙を吐いた。


 ヴィクトルがSobranieを取り出した。火をつけた。


「で」フィンはカラムに言った。「リヴァが寝てるから話せないんだけど」


「待つ」


 そこでアルノが口を開いた。


「هل أنت من الشرق الأوسط؟ من لبنان مثلاً؟(中東ですか?レバノンとか)」


 カラムが静かになった。


 一秒あった。


 ヴィクトルが眉を寄せてアルノの方を見た。


 ゆっくり、カラムが話し出した。


「……......ليش عبالك هيك؟(何故そう思った)」


「مو مخبيه زين.(隠せてないですよ)」


「……」カラムは一度黙った。そして続けた。


「ما عشت بلبنان غير سنتين بس.(レバノンには二年しか住んでない)」


「なにが起きてんの?」ユキナガが言った。


「レバノンに2年いたそうです」


「へー、じゃあイギリスの方が長いんだ。どこ?」フィンが言った。迷いがなかった。


 カラムが止まった。


 フィンはカラムの発音で気づいていた。


「スラウ」カラムは言った。「ウィンザーの近く」


「ああ」フィンは言った。「西側か。俺はロンドンだった」


「…あんたの話し方、嫌い」


「ちょっと上品(ポッシュ)すぎたか、ごめんね」フィンは笑った。「そんなに話して大丈夫?」


 カラムは少し間を置いた。


「……弾道の説明が欲しい」カラムは言った。「それがないと落ち着かない」


「そうなんだ」


「どうしても」


 フィンはカラムを見た。


 壁際に立っていた。煙草を吸っていた。顔に感情がなかった。


 でも、声が少し違った。


 どうしても、という言葉の温度だけが、少し他と違った。


 しばらく、静かだった。





 カイはベッドの脇に椅子を引き寄せて、そこに突っ伏していた。


 顔を上げた。顔色がまだ悪かった。


 カイは、まだ自分の思い通りに動かない腕を睨みつけた。


「…1500メートル以上は」全員に聞こえるように、カイは言った。「神の領域だと、イーサンが」


 カラムは何も言わなかった。


「地球の自転、地熱、風の層。人間が計算できる限界を超えている」


 カイは続けた。


「だから、そこまで執着してる。制御できない何かが起きた」


 ヴィクトルが煙を吐いた。


「神でも見つけたみたいだな」


 カラムは答えなかった。


 煙草の灰が、伸びていた。


 誰も何も言わなかった。


 カラムの煙草が、短くなっていた。




「もう、彼女のことは、撃てない」


 静かにそう言った。


 声が小さかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ