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神の領域


 ユキナガが気づいたのは、リヴァとカイが客室に戻る予定時刻を十分過ぎた頃だった。


『カイ、応答して』


 返事がなかった。


『リヴァ』


 返事がなかった。額に汗が伝った。


「……っ」


 ユキナガはモニターを切り替えた。いつもよりキーを押す手が強かった。


 十一階、後部デッキ方向のカメラを抑えていた。抑えていたはずだった。


 映像が、暗かった。


「アルノ」


『何ですか』ちょうど戻ってきたアルノの声。


「カイとリヴァが返事しない」


 一秒あった。


『何分連絡が取れていませんか』


「十分」


『フィン』


『聞こえてる』フィンの声が来た。『行く』




 フィンが十一階のバルコニーに着いた時、カイが床に倒れていた。


 うつ伏せだった。


 プレートキャリアもコンバットナイフも、そのままだった。


 リヴァがいなかった。


「カイ」


 反応がなかった。


 フィンが片膝をついた。首筋に触れた。脈があった。呼吸があった。


「アルノ、カイが倒れてる。リヴァがいない」


『……』


「脈はある。外傷もない」フィンは鼻を近づけた。「…甘い匂いがする。麻痺系だと思う」


『ユキナガ、周辺カメラ全部見てください』


『見てる。見てるけど』ユキナガの声が低かった。『リヴァが映ってない。どこにも』




 カイの目が、開いた。


 半分だった。


「……フィン」


「カイ、動くな」


「リヴァは」


「今探してる」


「……俺が」カイは起き上がろうとした。「行く」


「動くな」フィンはカイの肩を押さえた。「毒が抜けてない。動いたら心臓に負荷がかかる」


「離せ」


「カイ」


「離せ」


 フィンが手を離した。


 カイが起き上がった。すぐに膝をついた。立てなかった。


「……っ」


「見ろ、立てないだろ」


「リヴァは」カイは床に手をついた。「どこだ」


「今は無理だ。カイ、聞け」フィンはカイの正面に座った。「お前が今動いても、リヴァを助けられない。毒が抜けるまで待て。その間に俺たちが動く」


 カイは何も言わなかった。


 床に手をついたまま、下を向いていた。


 拳が、白くなるほど握られていた。




『ユキナガ、何か見えましたか』アルノの声。


『……一か所だけ』ユキナガは言った。『五階の非公開エリア。カメラが一台、内部からハックされてる。俺が抑えようとしても跳ね返される』


『その先に部屋があるか』


『ある。船会社のオーナー用のプライベートルーム。通常航行中は使用しないって船のデータには書いてある』


『使っている人間がいる』


『うん』


 ユキナガは画面を見ていた。


 カメラが跳ね返されていた。


 ユキナガが十分かけてやっと開けるようなセキュリティが、すでに構築されていた。


「……誰だよ」ユキナガは独り言を言った。「こんなの用意してたのは」





 カイとフィンが廊下に出た。カイの足取りは重かった。


 フィンがカイの半歩前を歩く。


 乗客が数人、すれ違った。


 フィンは普通に歩いた。表情が変わった。タキシードの胸を張って、上品に歩いた。


 カイを見えにくい位置に隠しながら歩いた。


 誰も、二人を怪しまなかった。


 廊下が乗客のいないエリアに変わった瞬間、フィンの歩き方が変わった。


「五階はどっちだ」


「エレベーターより非常階段が速い」カイは言った。「西側」


「行こう」




 五階の非公開エリアに向かった。


 厚い鉄扉があった。


 ユキナガが無線で言った。


『電子ロック、今解除する。三十秒待って』


 待った。


 カチッと音がした。


「開いた」


 フィンが先に入った。


 カイが続いた。


 廊下が白かった。


 照明が、天井のどこにあるのか見えなかった。


 影がなかった。


「……」カイが止まった。


「どうした」


「この部屋だ」


「なんで」


「匂いがする」カイは言った。「リヴァの、香水の」


「鼻よすぎない?」


 フィンがドアに近づいた。耳を当てた。


 中が静かだった。


 しかし人の気配がした。


『ユキナガ、中の人数は』


『わからない。カメラが届かない』


 フィンはカイを見た。


 カイが頷いた。額に汗をかいていた。尋常じゃない量だった。


 フィンが蹴った。


 ドアが内側に吹き飛んだ。


 二人が同時に入った。


 カイがP320を構えた。右。フィンがHK45を構えた。左。入口から死角になる壁際まで、一秒で制圧した。


 誰もいなかった。


 白い天井。白い床。影がなかった。


 二人の呼吸だけが、部屋にあった。


「気味悪い」フィンが言った。ただ、今度はフィンも香水を感じていた。


 白い部屋にテーブルだけが残っていた。


 黒い、艶のあるテーブル。バカラ用のカードが、散らばっていた。


 床に、染みがあった。


 カイが染みを見た。


 染みから視線を上げた。


「出ていった」フィンは言った。


「……ああ」


「リヴァも。グレイも、消えた」


 カイは部屋を見た。


 白い壁。白い天井。影のない床、不自然に壁に空いた穴。


 銃はなかった。


 カードが散らばっていた。


 ベルベットの繊維が一本、深い赤が床に落ちていた。


 カイが拾った。


 ドレスのものだった。


 手の中で、小さかった。持ってないほうの手で、床に掌をついた。


 力が入らない体を支えながら、痕跡を探しているようだった。


「……見つけにいく」カイは言った。


 声が、静かだった。


 静かすぎた。


 フィンがカイを見た。


 震えていた。


 手が、震えていた。





 ユキナガは客室でモニターに向かっていた。


 カメラの映像を切り替え続けていた。


 リヴァが映らなかった。


 どのカメラにも映らなかった。キーを押す指が痛い。


 Marlboroを口に咥えた。火をつけなかった。


 また切り替えた。


 また映らなかった。


「……どこだよ」


 その時、ドアが開いた。


 ユキナガはモニターから目を離さなかった。


「フィン、まだ——」


 冷たいものが、こめかみに当たった。


 金属だった。


 銃口だった。


 ユキナガは止まった。




 振り返れなかった。


 でも、横目で確認した。


 大きな男だった。


 193センチ。茶色のウェービーロング。アンバーの瞳。



Quiet(黙って).」男は言った。


 低い声だった。


 英語だった。日本語に切り替えた。


「端末を閉じろ」


「……」


「閉じろ」


 ユキナガは端末を閉じた。両手を上げた。ため息をついた。


 汗が伝った。


 煙草が口から落ちた。




「…名前は」ユキナガは言った。


 声が、思ったより普通に出た。


 震えていなかった。


 でも、内側が震えていた。


 こめかみに銃口がある。


 こいつは撃てる人間だ。


 撃ってくる。


 それだけが確かだった。


「聞く必要ない」男は言った。声が小さかった。


「まあ、そうだけど」ユキナガは言った。「名前も知らない人に殺されたくないし」


 男は少し間を置いた。


「カラム」言った。


「カラム」ユキナガは繰り返した。「苗字は」


 答えなかった。




「一つ聞く」カラムは言った。


「どうぞ」


「東京の任務」


 ユキナガが息をのんだ。


「リヴァを狙撃した」カラムは続けた。「二発目、屋上で当てた記録になってる」


「……うん」


「俺は当ててない」


「……」


「あの条件で狙いは外れない」カラムは言った。声に感情がなかった。「でも、データには、当てた記録が残っている。どういうことだ」


 ユキナガは少し間を置いた。


 狙撃手。どう考えてもこのまま撃たれそうだ、と思った。


 小さく呼吸をした。息が深く吸えなかった。


「……難しい話だね」


「答えろ」


「どう答えたら銃口が外れるのさ」


「答えによる」


「正直に言えばいい?」


「それも…答えによる」


 ユキナガはため息をついた。


 間があった。


 気を抜くと、あげている手が震えているのが自分で見えた。


「わからない、が正直なとこ」ユキナガは言った。「俺もログ見て首かしげてた」


「嘘?」


「嘘ついてどうすんだよ。銃口向けられてるのに」




 カラムは少し黙った。


 銃口の圧が、わずかに変わった。


 弱くなった。


 少しだけ。

 

 ユキナガの喉が動いた。


「……リヴァは何者だ」カラムは言った。


「それ、俺に聞く?」


「お前が一番データを持ってる」


「まあ、そうかも」ユキナガは言った。「…なんで知りたいの」


「俺の弾道を変えた人間がいる」カラムは言った。「それがどういう意味か、知りたい」


 ユキナガが笑った。乾いた笑いだった。声がほとんど出ていなかった。


「……神様とか信じる人?」


 カラムが少し止まった。





 ドアが開いた瞬間、フィンは状況を読んだ。


 一秒もかからなかった。


 大きな男。193センチはある。ユキナガのこめかみに銃口。利き手は右。左手はフリー。腰に別の武器があるかもしれない。足の向きから、逃げ道は廊下側に設定している。


 カイは途中で歩けなくなって、ヴィクトルに預けてきた。


 アルノが横に来た。


 フィンは目線だけでアルノに伝えた。動くな。


 アルノが止まった。


 ユキナガが前を向いたままだった。目だけが横に動いた。フィンを見た。




「…部屋、間違えちゃった?」フィンは言った。


 軽かった。


 廊下で知り合いに会ったくらいの声だった。


 カラムは何も言わなかった。


 銃口が動かなかった。


「そっか、違うか」フィンは言った。「じゃあ、誰?」


 返事がなかった。


「名前くらい教えてよ」フィンは言った。「こっちは丸腰で来てるし」


 嘘だった。


 フィンのアンクルホルスターにHK45が入っていた。ただ、今抜けるタイミングがなかった。カラムにスキがなかった。引き抜く前に、ユキナガが死ぬ。


「カラム」男は言った。


「カラム」フィンは繰り返した。「どこの人?」


 カラムがフィンを見た。答えなかった。


 アルノが口を開いた。


「何をしに来ましたか」アルノは言った。声が変わっていた。情報を集める声だった。「我々を殺しに来たなら、手順が悪い。情報が欲しいなら、ほかに方法がある」


 カラムはアルノを見た。


「依頼はない」カラムは言った。


「どういうことですか」


「もう終わった」


「では」アルノは言った。「なぜここにいるんですか」


 カラムは少し間を置いた。


「聞きに来た」


「何を」


「弾が当たった理由を」カラムは言った。「東京で。外したはずだった。20センチ」


 部屋が静かになった。


 フィンがアルノを見た。


 アルノの目が、少し変わっていた。





「東京の狙撃」アルノは言った。「あなたが」


「そう」


「距離は」


「1500」


 フィンが少し動いた。


「1500で20センチずれたって言ってる?」フィンは言った。「そんな距離、誤差じゃない?」


「1500は、外れない」カラムは言った。感情がなかった。事実を言っていた。「2000になるとたまに。1500はあんまり外さない」


「……」


 フィンは少し考えた。


「依頼主は教えてくれないの?」フィンは言った。「そういうこと」


「教えてもらえなかった」


「それは」フィンは言った。「…気になるよね」


 カラムは何も言わなかった。





 アルノが一歩前に出た。


 カラムの銃口がわずかに動いた。ユキナガから、アルノの方に向きかけた。


 アルノは止まらなかった。


「カラム」


 名前を呼んだ。それだけだった。


 カラムが止まった。


 アルノは何も言わなかった。ただ、カラムを見ていた。眼鏡の奥の目が、動かなかった。何かを知っている人間の立ち方だった。


 沈黙が続いた。


 先に口を開いたのはカラムだった。


「……何か知ってるの」


 アルノは答えなかった。


 カラムはそれに気づいた。気づいて、自分が先に聞いてしまったことにも気づいた。


「リヴァのことです」アルノは言った。短く。「本人がいないと話せません」


「……」


「銃を下ろすかどうかは、あなたが決めることです」


 カラムはアルノを見た。


 アルノは動かなかった。




 銃口が、下がった。


 ユキナガが息を吐いた。声に出なかった。でも腕が落ちた。


 フィンは内心でカラムの武装を確認した。拘束できるか。


 腰に一丁。アンクルに何かある可能性。


 できない。


 この男には、隙がなかった。


 フィンは笑顔のまま、それを諦めた。


「ありがとう」フィンは言った。「で、リヴァなんだけど」


「俺は、白い部屋まで運んだだけ」カラムは言った。「依頼は、そこまで」


 少し間があった。


「……聞きたいことが、先にあった」


「その部屋にはいなかった」フィンは言った。「移動させられてる。どこかわからない」


 カラムが少し止まった。


「……心当たりは、ある」


「案内してくれる?」フィンは言った。「一緒に探そう」



"Writing's On The Wall" / Sam Smith

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