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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第六章「浮遊する標的 ― Drifting Target」

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暗殺開始



 セレネ・ステラ 十一階後部バルコニー 午後九時五十八分。


 乗客用デッキの華やかさは、防火扉を一枚抜けただけでほとんど消えていた。


 船尾から巻き上がる風には塩と機関の熱が混じり、遠く上階のラウンジから流れてくるピアノが、ときどき風向きに負けて途切れた。


 リヴァはドレスの裾を膝の横へ寄せ、サプレッサーを装着したAXMCを手すりへ据えていた。


 カイはリヴァの右後方で片膝をつき、スポッティングスコープを構えている。


「東から3.3。さっきより落ちた。周期は七・八秒」


「うん」


「船首が右へ振ってる。戻りで合わせる」


 船体の下から、低い振動が伝わっていた。


 イヤーピースにユキナガの声が入った。


『コストフ、部屋出た。七階後部へ移動中。入口の護衛二人はそのまま』


『確認しました』アルノが応じた。『各班、待機を維持してください』


 リヴァはスコープへ目を戻した。




 七階のVIP区画は、十一階とは別の夜だった。


 廊下の突き当たりでは、夜食を運ぶ白いジャケットのスタッフが銀のクロッシュを載せたワゴンを押していった。


 アルノはコストフのスイートから離れた壁際にいた。黒いキーはジャケットの内側に収めている。少し先ではヴィクトルがシャンパンのグラスを片手に窓辺へ立ち、夜の海を眺める客の顔をしていた。


 コストフの部屋前には警護が一人残っている。


 男は立っているだけだったが、通り過ぎるスタッフより廊下を見ていた。ジャケットの前は開けず、右腰にもたつきがない。ヴィクトルが一度目をやり、すぐ窓へ戻した。


『あと一分』ユキナガが言った。『コストフがデッキに出たら、部屋前の一人も一回そっち気にするはず。そこ使って』


「了解」


 ヴィクトルはグラスを口へ運んだ。


 同じ七階の反対側では、フィンがエスポジトの部屋から二つ離れた角にいた。


 黒いベストに白いシャツ。さっきまで着ていた乗客用のジャケットはなく、ルームサービスを装っていた。


 銀のワゴンには氷を詰めたワインクーラーと二脚のグラス、クロッシュが一つ載り、船の揺れに合わせて氷同士が細く擦れていた。


 ワゴンからは、コンソメと焼いたパンの匂いがしていた。


「準備できたよ」


『成り代わったスタッフは』


「ちょっとリネン室に居てもらってる。柔軟剤のいい香りに包まれて」


『了解、待機』


 フィンはワゴンの取っ手に両手を置いたまま、閉じた扉を見た。





 午後十時。


 七階後部デッキのガラス扉が開いた。


 コストフが一人で出てきた。白いシャツに濃いスラックス。海に背を向けた護衛二人を入口へ残し、銀色の煙草ケースを手に手すりまで歩いていく。


「見えた」


 リヴァの声が風に紛れた。


「距離61。風3.1」


 カイがスコープを動かした。


 コストフが一本抜いた。小さな炎が一度だけ顔を照らし、煙がすぐ横へ流された。


「船、下がる」


 リヴァは身体の方を船に預けたまま、戻ってくる周期を待った。


 カイが一度息を吐いた。


「次で入る」


 船尾が持ち上がった。


 コストフは海を見たまま煙草を吸っている。


 船体が頂点を越え、ゆっくり戻り始めた。


「今」


 リヴァが引いた。


 発砲音は海風と機関の低音の中で重く潰れた。


 スコープの中でコストフの身体が一度傾き、手すりへ触れた。その手が滑り、膝から甲板へ落ちる。指を離れた煙草だけが床を転がり、赤い火を残して止まった。


「ヒット」カイがイヤーピースに触れ、言った。「甲板に落ちた」


『確認。動いてください』




 アルノの声と同時に、七階が動いた。


 部屋前の警護が後部デッキ側へ顔を向けた。


 ヴィクトルはそこへ歩いた。


「Excuse me.」


 男が振り返る。


 ヴィクトルは空になりかけたシャンパングラスを持ち上げた。


「I seem to have misplaced my room.(部屋を見失ったらしい)」


「Your room number, sir?(お部屋番号は)」


 声は丁寧だったが、男はヴィクトルへ近づかなかった。


 ヴィクトルはジャケットの内側を探るように片手を入れた。


「番号まで忘れた」


 男の視線が、その手へ落ちた。


 アルノが背後へ入った。


 男が気づいて顔を向けるより早く、アルノの手が口を塞いだ。


 ヴィクトルがグラスを落とした。


 割れる音と同時に、男の右手首を取る。


 腰へ落ちかけた手を上へ返した。


 アルノは男の口へテープを貼った。


「悪いな。殺す気はない」


 男が身体を捻った。


 ヴィクトルが肩を入れ、右腰ごと壁へ押しつける。


 アルノが左腕を背中へ回し、PPKを背へ当てた。


「……今のところは」


 ヴィクトルが右手首を離さないまま身体を寄せる。肩を胸へ当て、腰の拳銃ごと壁へ封じた。


「懐かしいな」


「黙ってやれ」


 アルノが男の左腕をさらに背中へ回した。


 男が振りほどこうと身体を捻る。


 ヴィクトルも同じ方向へ回った。


 二人分の力が噛み合い、男の重心が壁際へ崩れた。


 膝が床につく。


 アルノはそのまま腕を固定した。


 ヴィクトルが男の腰から拳銃を抜いた。


「はい。終了」


 ヴィクトルは拳銃を床の奥へ滑らせた。


 アルノが片膝で男の肩を押さえたまま、黒いカードキーを取り出した。


 読み取り部へかざす。


『こっちの認証も開けたよ。どうぞー』


 ユキナガの声と同時に、表示が一度赤く点滅した。


 短い電子音がした。


『開いた』


 二人で身体を壁際へ寄せ、完全に動きを封じる。


 アルノが簡易拘束具で両手を後ろに留めた。


 ヴィクトルが立ち上がった。


 ジャケットの前を整え、床に残ったグラスの破片を見た。


「酒がもったいねえな」


「行きますよ」


 アルノは開いた扉へ入った。


 ヴィクトルもその後に続いた。


 扉が閉まった。






 フィンは三回ノックをした。


「Room service.」イタリア訛りに近い英語だった。


 中から声がした。


「I didn't order a(頼んでない)nything.」


「Complimentary service(船長からの), sir. From(ご厚意でございます) the captain.」


 少し間があった。その間にフィンが耳からイヤーピースを外してポケットに入れた。


 数秒後、ロックが動いた。


 扉が細く開く。


 フィンは笑った。


「Good evening, sir.」


 エスポジトが顔を出した。黒髪に眼鏡。シャツの袖は肘まで上がり、背後のデスクには端末がまだ開いている。室内からはコーヒーと煙草の匂いが流れてきた。


 フィンはワゴンで扉をもう少し開かせた。


 身体が入るだけの幅ができた瞬間、ワゴンを押し込んだ。


 エスポジトが動いた。


 膝を上げた。フィンの脛を狙った。


 フィンは腰を引いた。同時にエスポジトの太ももの裏に手を入れた。上げた勢いをそのまま使って、エスポジトの体が自分の力で前に流れた。


 壁に肩から入った。


 フィンが続けて肘を取った。背中に回した。床に座らせた。荷物を置くような手つきだった。


 フィンもしゃがんで、目線を合わせた。


 エスポジトの呼吸が浅くなった。


「協力すれば生きて出られる」発音がポッシュ(英国紳士)に戻っていた。


「しなければ、その左腕は今日使えなくなる」


 声が変わらなかった。


「どっちにする?」


 エスポジトが固まっている。


 フィンは一度も視線を逸らさなかった。瞬きもなかった。


「And I will have t(やり方を)o change (変えようか?)how I do this.」


 フィンが視線をエスポジトの腕に向けた。


「……っ」


 エスポジトが何度も頷いた。


「声」フィンが言った。


「I’ll cooperat(協力する)e. 」


「You’re smart(賢い選択だ). That’s enough.」


 フィンが笑顔で立ち上がった。


 無線を耳に戻した。


『——フィン、応答』ユキナガの声。


「確保」フィンは静かに言った。「いい子だった」


 フィンはエスポジトを見た。ポケットから拘束用のバンドを出した。


「じゃ、脱いで。お風呂いこっか」


 拘束したまま、フィンはエスポジトの腰とポケットを確認した。




 アルノとヴィクトルが部屋に入った。


「端末はどこだ」ヴィクトルは言った。


「デスクか金庫」アルノは動いていた。デスクを確認した。「デスクにない」


 金庫は壁にあった。


 アルノがユキナガに無線を入れた。


「金庫、型番を送ります」


『来た。二十秒で開ける』ユキナガの声。


 電子音がした。


 金庫が開いた。


「とんでもねえな」ヴィクトルが言った。


 端末があった。アルノがポケットに入れた。


「回収。出ます」アルノは言った。


『了解』


 ヴィクトルが先に廊下に出た。左右を確認した。


「クリア」


 アルノが続いた。ドアを閉めた。


「二十二秒」ヴィクトルは言った。


「問題ありません」


 さっきの男はまだ壁際にいた。


 ヴィクトルは一度見た。


 何も言わず、アルノを先へ通した。




 十一階では、リヴァがAXMCのボルトを引いた。


 薬莢が足元へ落ち、船体の振動に合わせて数センチ転がった。海風がベルベットの裾を持ち上げ、火薬の匂いをすぐに攫っていく。


 カイは七階を最後に確認してからスコープを下ろした。


「終わりだ。片づける」


 リヴァが立ち上がった。


 カイが内ポケットへ手を入れる。


「左手」


 リヴァが出した。


 カイは預かっていた細いプラチナの指輪を薬指へ通し、根元まで押し込んだ。


「これだけ」


 リヴァはカイを見た。


「……離婚したじゃん」


 カイは一度海を見て、リヴァに視線を戻した。


「せっかくだ」


 カイはその手を離し、すぐAXMCのケースへ視線を戻した。



『ターゲット処理確認できました』アルノの声。『こちらも端末回収完了。フィン、そちらは』


『生存確保』フィンの声。『拘束して、一旦バスルーム入れてる』


『ユキナガ、船のセキュリティの反応は』


『まだ気づいてない。あと十分は持つと思う』


『全員、客室に戻ってください』


「了解」リヴァが言った。


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