バーガンディのベルベットドレス
翌日の午後だった。
セレネ・ステラは那覇港を離れ、石垣に向かって航行していた。
東シナ海の上だった。
空が広かった。雲が少なかった。水平線が、どこまでも続いていた。
リヴァはスイートのバルコニーに立っていた。海風が来た。七月のはじまりの沖縄の風は、塩と湿気が混じっていた。
ユキナガが室内から声をかけた。
「アルノから連絡来た。今夜、動くってさ」
ブリーフィングは午後三時だった。
スイートのリビングに全員が集まった。
ヴィクトルは客を装ったまま入ってきた。ノックの仕方が違った。三回、一定のリズムで。暗号だった。
フィンは午前中の演奏を終えて、一旦楽屋に戻っていた。そこから来た。タキシードのジャケットを脱いでいた。シャツの袖をまくっていた。
「俺このまま就職しようかな」
「ふざけてないで座ってください」
アルノが端末を開いた。
「今夜の任務を説明します」
「ターゲットは二つです」アルノは続けた。「一つ目、ミラン・コストフ。六十二歳、ブルガリア国籍。表向きは投資家、実態は東南アジア全域の武器密輸ネットワークの中間管理者。七階のオーシャンビュースイートに滞在しています」
「データは」ユキナガは言った。
「コストフが持ち歩いている暗号化された端末に、アルカの旧案件の証拠データが入っています。コアの判断では、回収と、コストフの処理を同時に行うことが条件です」
「暗殺と回収を同時に」フィンは言った。
「そうです」アルノは言った。「コストフが端末を外部に送信する前に処理する必要があります。今夜、夕食後にコストフは必ずデッキに出ます。習慣です。七階デッキの船尾側、毎晩十時から十五分間、一人で煙草を吸う」
「一人で」カイは言った。
「護衛が二人、デッキの入口に立ちます。コストフ本人はデッキの手すりの前で煙草を吸う。入口からは見えない死角があります」
アルノが画面を切り替えた。
船内の図面が出た。
「狙撃ポジションはここ」アルノはデッキの図を指した。「十一階の後部デッキ、バルコニー。コストフの位置から斜め上、距離は約60メートル。船上なので揺れがあります。風は東から。今夜の予報では毎秒3から4」
「60メートルで揺れがある」カイは言った。「簡単じゃない」
リヴァは少し間を置いた。
「わかった」
「データ回収は私とヴィクトルで動きます」アルノは続けた。「コストフが狙撃された後、護衛が混乱します。その三十秒以内にコストフの部屋に入って端末を回収する。時間は厳密に守ってください」
「鍵は」ヴィクトルは言った。
「事前にクローニングしてある」ユキナガが端末を出した。「電子キーを複製した。部屋のロックは解除できる」
「恐ろしいな」ヴィクトルは言った。
「褒めてる、でいいんだよね?」
「護衛の処理はヴィクトルに」アルノは言った。
「VIPを働かせるな」ヴィクトルは言った。
「任せました」
「フィンには別の役割があります」アルノは言った。
「何」
「コストフの部屋の隣のスイートに、もう一人います」アルノは画面を切り替えた。「ダリオ・エスポジト。イタリア国籍、四十八歳。コストフのネットワークのIT担当。データの暗号化をした人間です」
「生かして捕まえる?」フィンは言った。
「はい。解読が必要です。フィンに確保を頼みます」
「了解」フィンは言った。迷わなかった。「部屋の番号と、構造を教えて」
「ユキナガが図面を送ります」
「わかった」フィンは少し考えた。「一人で入る。カイかヴィクトルが待機しててくれれば」
「カイはデッキにいます」アルノは言った。「ヴィクトルが護衛を処理した後、合流できます」
「十分だ」フィンは言った。笑っていた。
夜になった。
リヴァはドレスを着た。
バーガンディのベルベット。生地が光を吸った。深くスリットが入っていた。一日目のシャンパンゴールドとは違う重さがあった。肩から腰にかけてのラインが、昨夜より静かだった。
髪を上げた。首の後ろが出た。
耳に、ヴィクトルのメモにあったピアスをつけた。ブラックパールの一粒、シルバーの金具だった。
ネックレスはつけなかった。
足元はSo Kate。ブラックのパテント。赤いソールが、歩くたびに見えた。ヒールが細く、高かった。
鏡を見た。
一日目とは違う人間に見えた。
ドアを開けた。カイがいた。
一秒、止まった。
「……行くぞ」
耳のイヤピースにアルノの声が来た。
『接続確認します。Sniper』
「完了」リヴァは言った。
『Spotter』
「完了」カイの声。
『Control』
『完了』ユキナガの声。
『Entry』
『完了』フィンの声。
短い沈黙があった。
『…Entry2』アルノがもう一度言った。
『…俺か。OKだ』
『では』アルノが言った。『二十二時、各自定刻に動いてください』
十時前、リヴァとカイは十一階の後部デッキに向かった。
乗客用のデッキではなかった。船員の通路を抜けた先にある、未使用のバルコニーだった。ユキナガが事前に調べた、カメラの死角になっている場所だった。
外に出た。
東シナ海の夜だった。
星が多かった。
水平線が暗く、空と海の境界が曖昧だった。
風が東から来た。塩の匂いが強かった。髪が横に流れた。
AXMCを展開した。
「揺れの周期は」リヴァは言った。
「約八秒」カイは言った。スポッティングスコープを手に持っていた。三脚は使えなかった。手持ちだった。「波高が低い。今夜は揺れが少ない方だ」
「周期の半分で撃てる」
カイがリヴァの後ろに来た。
片膝をついた。
リヴァが腹這いになれない場所だった。バルコニーの手すりがあった。代わりにリヴァは膝をついた。AXMCをバルコニーの縁に置いた。
カイが後ろに片膝をついたまま、スポッティングスコープをリヴァの肩越しに構えた。
ベルベットの生地が、カイの腕に触れた。
カイの息がリヴァの首筋の近くにあった。
「七階デッキ、見えるか」カイは言った。
「見えてる」
「ターゲット、まだ出ていない」
「待つ」
風が来た。
リヴァの髪が流れた。カイが手を伸ばした。リヴァの首筋に当たりそうだった髪を、指先で耳の後ろにかけた。
リヴァは何も言わなかった。
無線にアルノの声が来た。
『位置についています。ヴィクトルも待機中』
「了解」カイは言った。
『フィン、準備できていますか』
『できてるよ』フィンの声が来た。『隣室の前にいる。合図を待ってる』
『ユキナガ』
『全カメラ抑えた。船のセキュリティシステム、鈍くした。エラーログが増えてるように見せてある』ユキナガの声がした。『リヴァ、カイ、頑張って』
十時一分だった。
七階デッキのドアが開いた。
男が出てきた。
六十二歳。中背。グレーのスラックスに白いシャツ。ジャケットは着ていなかった。煙草のケースを手に持っていた。
コストフだった。
「出た」カイは言った。
「見えてる」
コストフがデッキの手すりに近づいた。煙草を一本抜いた。火をつけた。
「距離61メートル」カイは言った。「風東から3.5、風は少し強め。揺れの周期、確認しろ」
リヴァは船の揺れを感じた。
呼吸を整えた。
揺れの上下を感じた。
頂点から戻ってくるタイミングがあった。
「わかった」
「揺れが戻るタイミングで入れ」カイは言った。「俺が言う」
「うん」
「呼吸を止めるな。揺れに合わせて体を動かせ」
「わかった」
コストフが煙草を吸っていた。
夜景を見ていた。
何も知らなかった。
リヴァはスコープの中でコストフを見た。
揺れが頂点から戻る。
呼吸が揃う。
「今」
引いた。
音がしなかった。
コストフがゆっくりと前に傾いた。
手すりに手をかけた。でも支えられなかった。
床に崩れた。
煙草が、甲板の上で小さく転がった。
『処理確認』とユキナガの声。
「了解」カイは言った。
『ヴィクトル、動いてください。私も行きます』アルノの声。『三十秒で入ります』
七階の廊下。
ヴィクトルが動いていた。
護衛の一人が廊下の端にいた。コストフの部屋のドアの前だった。
ヴィクトルは酔った客を演じていた。
フラフラしながら歩いた。
護衛が立ち上がった。
「お客様、こちらは——」
ヴィクトルの右手が動いた。
顎の下を押し上げた。
頸動脈を圧迫した。
首を固定した。
護衛の体が一瞬だけ耐える。立っているのに、重心だけが消える。
喉の奥で短い音が出て、それで終わった。
崩れる瞬間、ヴィクトルは片手で支えた。
音を立てないように、壁に沿わせる。
座らせるまでに、四秒。
ヴィクトルが立ち上がった。
酔った素振りが消えた。
もう一人の護衛がデッキ側にいた。コストフの異変に気づいて走っていた。背中を見せていた。
アルノが後ろから来た。
音がしなかった。
護衛の背後に入った。
WaltherPPKを抜かなかった。
左腕を護衛の首に回した。体重を後ろにかけた。
十秒。
崩れた。受け止めた。壁に座らせた。
「ヴィクトル」アルノは小声で言った。
「…懐かしいな」目を細めている。
「黙ってろ」
電子キーを出した。ドアに当てた。
カチッと音がした。
ドアが開いた。
部屋に入った。
暗かった。
ヴィクトルがライトを出した。
「端末はどこだ」ヴィクトルは言った。
「デスクか金庫」アルノは動いていた。デスクを確認した。「デスクにない」
金庫は壁にあった。
アルノがユキナガに無線を入れた。
「金庫、型番を送ります」
『来た。二十秒で開ける』ユキナガの声。
電子音がした。
金庫が開いた。
「とんでもねえな」ヴィクトルが言った。
端末があった。アルノが取った。ポケットに入れた。
「回収」
『確認』ユキナガの声。
「出ます」アルノは言った。
ヴィクトルが先に廊下に出た。左右を確認した。
「クリア」
アルノが続いた。ドアを閉めた。
「二十二秒」ヴィクトルは言った。
「問題ありません」
隣室では、フィンが動いていた。
エスポジトの部屋のドアの前に立っていた。
ノックした。三回。
「Room service.」英語だった。アクセントを変えていた。イタリア訛りに近い英語だった。
中から声がした。
「I didn't order anything.」
「Complimentary service, sir. From the captain.」
少し間があった。その間にフィンが耳からイヤーピースを外した。耳の中が静かになった。
ドアが開いた。
フィンが動いた。
ドアが開ききる前に、隙間に体を入れた。後ろ手でドアを閉めた。
動かなかった。
エスポジトを見た。
視線。呼吸。利き手は左。
エスポジトが動いた。
膝を上げた。フィンの脛を狙った。
フィンは止めなかった。
腰を引いた。膝の軌道から外した。同時にエスポジトの太ももの裏に手を入れた。上げた勢いをそのまま使った。エスポジトの体が、自分の力で前に流れた。
壁に肩から入った。
音が小さかった。
フィンが続けて肘を取った。背中に回した。床に座らせた。荷物を置くような手つきだった。
フィンも腰を落とした。目線を合わせた。
エスポジトの呼吸が浅くなった。
「協力すれば生きて出られる」
英語だった。発音がポッシュに戻っていた。
「しなければ、その左腕は今日使えなくなる」
声が変わらなかった。
「どっち?」
エスポジトが固まっている。
フィンは一度も視線を逸らさなかった。瞬きもなかった。
「And I will have to change how I do this.」
何度も頷いた。
「声」
「I’ll cooperate. 」
「You’re smart. That’s enough.」
フィンが立ち上がった。動きが、さっきより早かった。
無線を耳に戻した。
『——フィン、応答』ユキナガの声。
「確保」フィンは静かに言った。
フィンは相手の方をもう見なかった。
十一階のバルコニー。
リヴァがAXMCを下ろした。
ボルトを引いた。チャンバーを確認した。クリア。
薬莢が一つ、甲板に落ちた。
海風が来た。
『ターゲット処理確認』アルノの声。『端末回収完了。フィン、そちらは』
『確保した』フィンの声。『今、部屋で大人しくしてもらってるよ』
『ユキナガ、船のセキュリティの反応は』
『まだ気づいてない。あと十分は持つと思う』
『全員、客室に戻ってください。順番に』アルノの声。『リヴァ、カイ、状態は』
「問題ない」カイは言った。
「問題ない」リヴァも言った。
東シナ海が、暗く広がっていた。
"everything i wanted" / Billie Eilish




