リレー
セレネ・ステラ 十二階後部区画 午後九時二十八分。
十二階の後部ラウンジでは、最後の客がグラスを持ったままエレベーターへ向かっていた。
海側の窓は床から天井まであり、夜の東シナ海が黒いガラスの向こうへ続いている。
昼間は白く光っていたプールも、この時間には底の照明だけが青く残っていた。
「I’m afraid this area is closing for the evening, sir.(恐れ入りますが、こちらの区画は本日の営業を終了いたします)」
白いジャケットのスタッフが穏やかに客を送り出していく。
九時三十分になると、西側のサービスエレベーターを残して、十二階後部へ続く乗客用の扉が順番に閉じた。真鍮の支柱に濃紺のロープが掛けられ、最後のスタッフも前方区画へ消えた。
『じゃ、受け渡しよろしく。一人でキーを下まで運ばないで、予定位置を崩さず順番に下ろして。カメラはこっちで処理するから』
リヴァは少し離れた廊下にいた。
バーガンディのベルベットドレスは、夜の船内ではほとんど黒に見えた。壁の照明を通るたびに深い赤が浮いた。
カイはその半歩前にいる。
『閉じた。予定通り』
ユキナガの声が入った。
『十二階後部、一般客ゼロ。西のサービスエレベーターだけ生かしてる。七階の警護責任者は、動きなし』
『確認しました』アルノの声が続いた。『接続確認します。Sniper』
「うん」
『Spotter』
「ああ」カイが言った。
『Entry One』
『聞こえてるよ』フィンの声。
『Entry Two』
しばらくの無音。
『……Entry Two』アルノがもう一度言った。
『……俺か。okだ』ヴィクトルが言った。
『Comms』
『良好』ユキナガの声。
『予定通り開始します』
声とともにリヴァの前方を、フィンが横切った。
「じゃあ、行ってくるね」
フィンはそのまま角を曲がった。
カイは腕時計を見た。
遠くでピアノの音がしていた。
前方のメインラウンジではまだ夜の演奏が続いている。十二階の後部だけが静かだった。
セレネ・ステラ 十二階、シガーラウンジ前 午後九時三十四分。
閉店後のシガーラウンジには照明だけが残り、ガラス越しに革張りの椅子と磨かれた木のテーブルが見えた。
『来るよ。よーいはい』ユキナガの声が入った。
フィンは口元だけで笑った。
一拍して、前方のスタッフ用扉が開いた。
四十代。白いシャツにダークグレーのジャケット。昼間、黒いカードキーを使った男。
男はフィンを見た。
「Sir, this area is closed.(こちらの区画は閉鎖されています)」
「Wrong way.(道間違えちゃった)」
フィンは笑って、そのまま横を通った。少しふらついた。頬から耳まで酒が回ったように赤く、目もわずかに潤んでいた。
「Sorry, I've had a few.(ごめん、酔ってて)」
男がポケットを探った。
一拍あった。
「Fuck」
フィンが振り返った。その手には黒いカードキーが挟まっていた。
男が踏み込んだ。
フィンも一歩入った。
呼吸が一度変わった。ふらつきが消え、重たげだった瞼が上がる。耳に残っていた赤みも、見る間に引いていった。
短い音がした。
男の身体から力が抜けた。
「バレた。俺、スリの才能無いなー…」フィンが言った。
『あってたまるか』無線からユキナガの声がした。
フィンは倒れる身体を受け止め、そのまま壁際へ座らせた。
「ちょっと、ここで寝ててもらおうね」
黒いキーをジャケットへ入れた。
『取れた?』
「うん」
フィンは襟を直した。
『お疲れー、次リヴァに渡してね』
フィンは照明を消し、そのまま廊下を歩いていった。
セレネ・ステラ 十一階西側プロムナード 午後九時四十分。
リヴァは窓際を歩いていた。
室内の照明がガラスに反射し、バーガンディのドレスが黒い海の上を歩いている。
向こうからフィンが来た。
リヴァを見て、表情が緩んだ。
「見つけた」
『十秒後、照明と西側カメラ一台落とすよ』
ユキナガの声が耳元に入った。
フィンがリヴァの横を通った。
『三、二——』
照明が消えた。
フィンの右手が一瞬だけリヴァの手へ重なり、離れた。
リヴァはもう角を曲がっていた。
『はい、おしまい』フィンが言った。
キーを右手の中に隠したまま、西側のサービス通路へ入った。
厚い絨毯が途切れ、床材が変わった。
客用区画にあった金色の照明もなくなり、白い実用灯が壁を照らしている。
『あ、リヴァ。人来るかも。コストフ側の警備』
リヴァは廊下の先を一度見た。イヤーピースに耳を当てた。
「いい?」
『許可します』アルノの声がした。
十メートルほど進んだところで、正面の扉が開いた。
黒いスーツの男が出てきた。
男はリヴァを見て足を止めた。
「Ma’am, this area is restricted.(お客様、こちらは立入禁止です)」
リヴァも止まった。
「May I see your room card?(ルームキーを確認してもよろしいですか)」
「部屋置いてきた」
男が止まって、少し首を傾げた。
距離を詰め、リヴァの腕へ手を伸ばした。
触れるより先に、リヴァの右手がドレスの脇へ滑った。バーガンディのベルベットがたくし上げられ、次にはサプレッサーを付けたGlock 19が手の中にあった。
男が視線を向ける前に、鈍い発射音がした。
「……っ」
男の身体が壁へぶつかり、そのまま力を失った。
リヴァは倒れてくる身体をジャケットごと掴んだ。
『リヴァ、人歩いてくる』
「…やばい」
『あれやりなよ』
「あれって何」
『カイとやったやつ』ユキナガの声がした。『急いで』
角の向こうから男女の声がした。
近づいてくる。
「ええ……」
リヴァは男を壁際へ引き起こし、ジャケットを開いた。Glockを持った右手をそのまま腰へ差し込み、銃をベルトと身体の間へ押し込む。銃を脇腹へ沿わせ、ジャケットの内側へ隠した。
男を壁にもたれさせ、その正面へ身体を寄せる。片腕を腰へ回したまま、頭を自分の肩へ預け、顔を首元へ寄せた。
「……重い」
若い男女が角を曲がってきた。
女性の視線が一瞬、二人へ向いた。
リヴァの右手はまだ男の腰にあった。
女性はすぐに目を逸らし、隣の男と少し笑いながら通り過ぎていった。
足音が遠ざかる。
リヴァは顔を上げた。男のジャケットを開き、ベルトの内側からGlockを引き抜く。
支えを失った身体が壁を滑って床へ落ちた。
「やばかった……」リヴァは呟きながら薬莢を拾った。
『よかったよ、大根役者』ユキナガが言った。
「うるさい」
リヴァはさっき男が出てきた扉を開け、中へ押し込んだ。
バーガンディのベルベットに、目立つ汚れはつかなかった。
サービス階段の踊り場で、カイが待っていた。
『急いで』ユキナガの声が入った。『ヴィクトル、予定位置入った。アルノもあと二分』
リヴァが階段を見た。
ヒールで下りた。
二段目で速度が落ちた。
カイが見ていた。
「急ぐぞ」
「ヒール高いの、ヴィクトルのせいで」
もう一段下りた。
カイが戻ってきた。
片腕が背中へ入り、もう片方が膝の裏へ入った。
身体が浮いた。そのままカイは階段を下り始めた。
リヴァは右手をカイの胸元へ持っていった。
スーツの胸ポケットへ、黒いキーを滑り込ませた。
カイは足を止めなかった。
九階のギャラリーへ出ると、ヴィクトルがいた。
海側の窓を背に、シャンパンを飲んでいた。壁には海図を抽象化したような大きな絵が掛かり、細いステムのグラスに船内灯が透けていた。
ギャラリーに入る直前、カイがリヴァを下ろした。
ヴィクトルが二人を見て、グラスを少し上げた。
「やあ、Signora」
「……こんばんは」
ヴィクトルがリヴァへ近づいた。
腰へ手を伸ばした。
カイが間へ入った。
右手で手首を止めた。
「Sir. お控え願います」
ヴィクトルが笑って、眉を上げた。
「随分厳しいな」
数秒だけ、二人の手が重なっていた。
カイが手首を離した。
ヴィクトルの掌に、黒いキーが残った。
ヴィクトルは何も見ず、そのままジャケットの袖を直した。
「では失礼」カイが言った。
カイはリヴァを連れて歩き出した。
ヴィクトルが背中へ言った。
「また今度、ゆっくり口説かせてもらおう。Signora」
カイは振り返らなかった。
「今度は無い」
ヴィクトルは残ったシャンパンを一口飲み、グラスを窓際の小卓へ置いた。
そのまま七階へ向かった。
七階エレベーターホール。
アルノは一人だった。
壁際に立ち、手元の端末を見ていた。画面には七階周辺の簡略図と、各員の現在位置が表示されている。
上階より照明は落ち着いていた。磨かれた木の壁に真鍮の階数表示が埋め込まれ、エレベーターの両脇には白い百合が背の高い花器に生けられている。
ヴィクトルが近づいた。
「お待たせ」
アルノが端末から目を上げた。
「遅いです」
ヴィクトルが笑った。
アルノの前まで来た。
手を腰へ伸ばした。
「触るな」
「渡せないだろ」
「なぜ全員、普通に渡せないんですか」
「つまらないだろ」
ヴィクトルの手がアルノのジャケットの内側へ入った。
アルノが手首を掴んだ。
「触るなと言いました」
「……」
アルノが手を離した。
ヴィクトルも離れた。
エレベーターの到着音が鳴った。
真鍮の扉に、二人の姿が一瞬だけ映った。
「じゃあ、後でな」
ヴィクトルが歩いていった。
アルノは左の内ポケットへ手を入れた。
黒いキーが入っていた。
エレベーターの扉が開いた。




