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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第六章「浮遊する標的 ― Drifting Target」

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マジシャン




 セレネ・ステラ 十階アトリウム 午後一時過ぎ。


 船内は朝とは違う明るさになっていた。


 吹き抜けを囲むガラスから海面の光が入り、大理石の床へ揺れる反射を落としていた。中央階段の下では弦楽三重奏が演奏している。


 リヴァは深いネイビーのジャカードドレスを着ていた。


 歩くたびにジャカードの織り柄が光を拾った。


 カイは黒のスーツだった。


 昨日の夫役とは違った。


 白いシャツに黒いタイ。右耳にイヤーピース。ジャケットの内側にはP320があり、左手首にはいつものダイブコンピュータが戻っていた。


 リヴァが横を見た。


「旦那いなくなった」


「転職だ」


「離婚じゃん」


「……」


 カイは少し止まっていた。


「……SP姿に戻って嬉しそう」リヴァが言った。


「…落ち着く」


 リヴァは笑った。


「あ」リヴァが言った。「外すの忘れた。持ってて」


 リヴァは薬指からダイヤのついた婚約指輪と結婚指輪を外して、カイに渡した。


「……」


 カイは何も言わずポケットに入れた。



 カイはリヴァより半歩前を歩いていた。


 エレベーターが開くと、カイは先に中を見た。リヴァを奥へ入れ、自分は扉側に立った。


 途中階で三人乗ってきた。


 年配の夫婦と、紺のポロシャツを着た男だった。


 カイの視線は男の顔には長く止まらなかった。右手、袖口、パンツのポケット、腰、それからエレベーターの表示へ移った。


 男がリヴァの方へ少し身体を向けた時だけ、カイの位置が数センチ変わった。


 会話は起きなかった。


 九階で三人が降りると、リヴァが言った。


「昨日より遠いね、カイ」


「ああ」


「この距離、落ち着くね」


 カイが一拍、下を見た。


 扉が開いた。



 十階のVIPラウンジ周辺は、午後の客でほどよく埋まっていた。白い制服のスタッフがシャンパンとアイスティーを運び、窓際ではカードをしている客がいた。


 ユキナガの声が耳に入った。


『候補、今そっち。北側のラウンジ出た。白シャツ、ネイビーのジャケット』


 カイは歩調を変えなかった。


「見えた」


 前方から男が来た。


 朝の画面に出ていた顔だった。


 四十代半ば。髪を短く整え、濃紺のジャケットを着ている。船のスタッフではないが、乗客とも違う歩き方だった。


 リヴァが顔を上げようとした。


「見なくていい」


 男は二人の横を通り過ぎ、そのまま奥の通路へ曲がった。


 二人も同じ方向へ進んだ。距離を空けたまま、窓際の展示を眺める客の間を抜ける。


 男がスタッフ専用の扉で止まった。


 左手でジャケットを押さえた。


 右手が内側へ入る。


 一瞬、黒いカードキーが見えた。


 扉の読み取り部へ当てる。


 緑の灯りが点いた。男が中へ消えた。


「左内ポケット」カイが小さく言った。


『宝探し、あっけなかったね』ユキナガの声がした。


 電子錠の灯りが赤へ戻った。


 リヴァが扉を見た。


「終わり?」


「どこから戻るかも見る」


『お願いします』アルノの声がした。


「わかった」


 二人はそのまま歩いた。途中、海側のラウンジへ入った。


 ウェイターがトレーを差し出した。


 リヴァが細いグラスへ手を伸ばした瞬間、カイが隣の一本を取って渡した。


「こっち」


「何」


「そっちは、さっきから置かれてた。これは新しい」


「毒ってこと?」


「わからないから変える」


 リヴァは渡されたグラスを見た。


 一口飲んだ。


 冷えた白葡萄のジュースだった。酸味が強かった。


 その時、右耳の音が途切れた。


 短いノイズが入った。


「カイ」


「何だ」


「これ変かも」


 何か言っているユキナガの声がつぶれていた。


「音が切れる」


 カイが耳元を見た。


「接触か」


『俺予備あるよ』フィンの声がした。『ラウンジのホールにいる。カイ、リヴァ入れて』


 カイがラウンジの奥を見た。


「わかった」


 リヴァも視線を向けた。


「?」


 弦楽器の音が、吹き抜けの向こうから届いていた。





 セレネ・ステラ グランドラウンジ 午後一時二十分。


 午後のティータイムが終わりかけていた。


 窓際のテーブルには銀のティーポットと三段のスタンドが残り、焼いたスコーンと紅茶の甘い匂いが漂っていた。中央の小さなフロアでは、弦楽三重奏がワルツへ曲を変えている。


 カイは入口近くで止まった。


 リヴァだけが中へ入った。


 数歩進んだところで、男がこちらへ歩いてきた。


 フィンだった。


 乗船客の富裕層を装っていた。淡いグレーのジャケットに白いシャツ。タイはしていない。金髪は昨日より柔らかく流してあった。


 目が合った。


 フィンは初めて見る女性を見つけたように笑った。


「一曲、お願いしても?」


 声がいつもより低かった。


 リヴァは一拍遅れた。


「……え?私に言ってる?」


「……ほかの誰に声をかけたように見えましたか?」


 手が差し出された。


 リヴァはその手を見てから、フィンの顔を見た。


「……え、誰」


 フィンが指先を取った。


 軽く身を屈め、手の甲へ唇を触れさせる。


 リヴァは反射的にカイを見た。


 カイはフィンを見ていなかった。


 フィンの背後、ラウンジの入口、スタッフの手元、左右のテーブルへ視線が動いていた。


「行こうか」


 フィンがリヴァをフロアへ連れた。


 右手が腰へ添えられる。


 曲に合わせて動き出した。


 次の足を考える前に身体が運ばれる。フィンは人の間隔を見ながら自然に方向を変え、狭くなれば歩幅を詰め、空けば大きく回した。


「お名前は?」


「え、っと……アヤ、タカ……綾鷹…?」


 フィンは口元だけで小さく『タカクラ』と言った。


「タカクラ」リヴァが言った。


 フィンが笑顔になった。


「僕はオリヴァー」


 リヴァが顔を上げた。皺を寄せた。


「……オリヴァー」


「そう。よろしく、アヤ」


 声音まで違った。


 リヴァの口元が少し緩んだ。


「変なの」


「初対面でひどいな」


 フィンが笑ったまま、リヴァを半回転させた。


「面白い子だね」


 距離が近づく。


「右奥、二人。見ないで」


 そのまま離れる。


 もう一度、手を取る。


 リヴァが回った。


 フィンの肩越しに、ラウンジの奥が見えた。


 人の列の向こう。


 黒いジャケット、長い焦げ茶の髪、アンバーの瞳。


 昨夜の男だった。


 フィンがそちらを見た。


 目が細くなった。


「?」


 リヴァが見上げた。


 フィンはすぐに笑った。


 リヴァの耳元へ顔を寄せた。


「イヤリング、曲がってる」


「え」


「貸してごらん」


 髪を避けられた。


 指先が耳の後ろへ触れ、リヴァが首をすくめた。


「くすぐったい」


「動いては、駄目だよ」


 フィンは笑っていた。


 イヤーピースを抜き、掌へ隠す。そのまま袖口から小さな予備を取り出し、髪に隠れた耳へ入れた。


 動作は数秒だった。


 フィンが髪を戻した。


「これでいい」


「マジシャンみたい」


「演技レッスンではパントマイムはやるけどね」


 耳の中に、さっきまでよりはっきりした音が戻った。


『聞こえる?』


 ユキナガだった。


「うん」


 フィンが微笑んだ。


「よかった」


 そのままもう一度リヴァを回した。


 曲が終わった。


 フィンはすぐには手を離さなかった。


「今夜も会える?」


「わかんない」


「じゃあ、探そう」


 リヴァは少し笑った。


 フィンがリヴァの手を自分の頬に沿わせ、それから手のひらへ唇を触れさせた。


「またね、アヤ」


 リヴァがフロアを離れ、カイのところへ戻った。


 小走りでカイに近づいた。


「フィ……オリヴァーって人、変だった」


 カイが少し笑った。耳を指した。


「戻ったか」


「うん」


「よし」


 カイはそれだけ言って歩き出した。


「アヤ タカクラって、途中で切ったら綾鷹だね」


「何の話をしている」


 背後では次の曲が始まっていた。


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