マジシャン
セレネ・ステラ 十階アトリウム 午後一時過ぎ。
船内は朝とは違う明るさになっていた。
吹き抜けを囲むガラスから海面の光が入り、大理石の床へ揺れる反射を落としていた。中央階段の下では弦楽三重奏が演奏している。
リヴァは深いネイビーのジャカードドレスを着ていた。
歩くたびにジャカードの織り柄が光を拾った。
カイは黒のスーツだった。
昨日の夫役とは違った。
白いシャツに黒いタイ。右耳にイヤーピース。ジャケットの内側にはP320があり、左手首にはいつものダイブコンピュータが戻っていた。
リヴァが横を見た。
「旦那いなくなった」
「転職だ」
「離婚じゃん」
「……」
カイは少し止まっていた。
「……SP姿に戻って嬉しそう」リヴァが言った。
「…落ち着く」
リヴァは笑った。
「あ」リヴァが言った。「外すの忘れた。持ってて」
リヴァは薬指からダイヤのついた婚約指輪と結婚指輪を外して、カイに渡した。
「……」
カイは何も言わずポケットに入れた。
カイはリヴァより半歩前を歩いていた。
エレベーターが開くと、カイは先に中を見た。リヴァを奥へ入れ、自分は扉側に立った。
途中階で三人乗ってきた。
年配の夫婦と、紺のポロシャツを着た男だった。
カイの視線は男の顔には長く止まらなかった。右手、袖口、パンツのポケット、腰、それからエレベーターの表示へ移った。
男がリヴァの方へ少し身体を向けた時だけ、カイの位置が数センチ変わった。
会話は起きなかった。
九階で三人が降りると、リヴァが言った。
「昨日より遠いね、カイ」
「ああ」
「この距離、落ち着くね」
カイが一拍、下を見た。
扉が開いた。
十階のVIPラウンジ周辺は、午後の客でほどよく埋まっていた。白い制服のスタッフがシャンパンとアイスティーを運び、窓際ではカードをしている客がいた。
ユキナガの声が耳に入った。
『候補、今そっち。北側のラウンジ出た。白シャツ、ネイビーのジャケット』
カイは歩調を変えなかった。
「見えた」
前方から男が来た。
朝の画面に出ていた顔だった。
四十代半ば。髪を短く整え、濃紺のジャケットを着ている。船のスタッフではないが、乗客とも違う歩き方だった。
リヴァが顔を上げようとした。
「見なくていい」
男は二人の横を通り過ぎ、そのまま奥の通路へ曲がった。
二人も同じ方向へ進んだ。距離を空けたまま、窓際の展示を眺める客の間を抜ける。
男がスタッフ専用の扉で止まった。
左手でジャケットを押さえた。
右手が内側へ入る。
一瞬、黒いカードキーが見えた。
扉の読み取り部へ当てる。
緑の灯りが点いた。男が中へ消えた。
「左内ポケット」カイが小さく言った。
『宝探し、あっけなかったね』ユキナガの声がした。
電子錠の灯りが赤へ戻った。
リヴァが扉を見た。
「終わり?」
「どこから戻るかも見る」
『お願いします』アルノの声がした。
「わかった」
二人はそのまま歩いた。途中、海側のラウンジへ入った。
ウェイターがトレーを差し出した。
リヴァが細いグラスへ手を伸ばした瞬間、カイが隣の一本を取って渡した。
「こっち」
「何」
「そっちは、さっきから置かれてた。これは新しい」
「毒ってこと?」
「わからないから変える」
リヴァは渡されたグラスを見た。
一口飲んだ。
冷えた白葡萄のジュースだった。酸味が強かった。
その時、右耳の音が途切れた。
短いノイズが入った。
「カイ」
「何だ」
「これ変かも」
何か言っているユキナガの声がつぶれていた。
「音が切れる」
カイが耳元を見た。
「接触か」
『俺予備あるよ』フィンの声がした。『ラウンジのホールにいる。カイ、リヴァ入れて』
カイがラウンジの奥を見た。
「わかった」
リヴァも視線を向けた。
「?」
弦楽器の音が、吹き抜けの向こうから届いていた。
セレネ・ステラ グランドラウンジ 午後一時二十分。
午後のティータイムが終わりかけていた。
窓際のテーブルには銀のティーポットと三段のスタンドが残り、焼いたスコーンと紅茶の甘い匂いが漂っていた。中央の小さなフロアでは、弦楽三重奏がワルツへ曲を変えている。
カイは入口近くで止まった。
リヴァだけが中へ入った。
数歩進んだところで、男がこちらへ歩いてきた。
フィンだった。
乗船客の富裕層を装っていた。淡いグレーのジャケットに白いシャツ。タイはしていない。金髪は昨日より柔らかく流してあった。
目が合った。
フィンは初めて見る女性を見つけたように笑った。
「一曲、お願いしても?」
声がいつもより低かった。
リヴァは一拍遅れた。
「……え?私に言ってる?」
「……ほかの誰に声をかけたように見えましたか?」
手が差し出された。
リヴァはその手を見てから、フィンの顔を見た。
「……え、誰」
フィンが指先を取った。
軽く身を屈め、手の甲へ唇を触れさせる。
リヴァは反射的にカイを見た。
カイはフィンを見ていなかった。
フィンの背後、ラウンジの入口、スタッフの手元、左右のテーブルへ視線が動いていた。
「行こうか」
フィンがリヴァをフロアへ連れた。
右手が腰へ添えられる。
曲に合わせて動き出した。
次の足を考える前に身体が運ばれる。フィンは人の間隔を見ながら自然に方向を変え、狭くなれば歩幅を詰め、空けば大きく回した。
「お名前は?」
「え、っと……アヤ、タカ……綾鷹…?」
フィンは口元だけで小さく『タカクラ』と言った。
「タカクラ」リヴァが言った。
フィンが笑顔になった。
「僕はオリヴァー」
リヴァが顔を上げた。皺を寄せた。
「……オリヴァー」
「そう。よろしく、アヤ」
声音まで違った。
リヴァの口元が少し緩んだ。
「変なの」
「初対面でひどいな」
フィンが笑ったまま、リヴァを半回転させた。
「面白い子だね」
距離が近づく。
「右奥、二人。見ないで」
そのまま離れる。
もう一度、手を取る。
リヴァが回った。
フィンの肩越しに、ラウンジの奥が見えた。
人の列の向こう。
黒いジャケット、長い焦げ茶の髪、アンバーの瞳。
昨夜の男だった。
フィンがそちらを見た。
目が細くなった。
「?」
リヴァが見上げた。
フィンはすぐに笑った。
リヴァの耳元へ顔を寄せた。
「イヤリング、曲がってる」
「え」
「貸してごらん」
髪を避けられた。
指先が耳の後ろへ触れ、リヴァが首をすくめた。
「くすぐったい」
「動いては、駄目だよ」
フィンは笑っていた。
イヤーピースを抜き、掌へ隠す。そのまま袖口から小さな予備を取り出し、髪に隠れた耳へ入れた。
動作は数秒だった。
フィンが髪を戻した。
「これでいい」
「マジシャンみたい」
「演技レッスンではパントマイムはやるけどね」
耳の中に、さっきまでよりはっきりした音が戻った。
『聞こえる?』
ユキナガだった。
「うん」
フィンが微笑んだ。
「よかった」
そのままもう一度リヴァを回した。
曲が終わった。
フィンはすぐには手を離さなかった。
「今夜も会える?」
「わかんない」
「じゃあ、探そう」
リヴァは少し笑った。
フィンがリヴァの手を自分の頬に沿わせ、それから手のひらへ唇を触れさせた。
「またね、アヤ」
リヴァがフロアを離れ、カイのところへ戻った。
小走りでカイに近づいた。
「フィ……オリヴァーって人、変だった」
カイが少し笑った。耳を指した。
「戻ったか」
「うん」
「よし」
カイはそれだけ言って歩き出した。
「アヤ タカクラって、途中で切ったら綾鷹だね」
「何の話をしている」
背後では次の曲が始まっていた。




