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リヴァ・アルカ ―最強特殊部隊は、たった一人のアンカーを失えない―  作者: Ilir Noct
第六章「浮遊する標的 ― Drifting Target」

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三拍子の距離

 

 那覇港、若狭ふ頭の旅客ターミナル。


 七月の沖縄は、日が傾いても気温が下がらなかった。


 海風が吹いていたが、潮の匂いと一緒に重い熱気を運んできた。


 ターミナルの先に、船が停泊していた。


 全長290メートル、総トン数95000トンクラス。客室数850室。世界の海を巡るプレミアム・クルーズ船「セレネ・ステラ」。


 那覇から石垣を経由してマニラへ向かう便だった。


 白い船体に、夕陽が当たっていた。


 船首から船尾まで、14階建てのビルがそのまま海に浮いているような大きさだった。




 タラップの前に、二人が立っていた。


 ヴィクトル・ミハイ。


 深いネイビーのスリーピース。ラペルが細く、ベストの裾が腰骨で正確に止まっていた。シャツはオフホワイト、タイは深いボルドー。ポケットチーフが白で、たたみ方が崩れていなかった。


 その隣にフィン・マクレガー。


 チャコールグレーのスーツ。シングルのピークドラペル。シャツは白、タイは銀のシルバーグレー。生地に光沢がなく、品があった。ボタンを一つだけ留めていた。


 二人ともサングラスをかけていた。


「英国紳士のお出ましだな」ヴィクトルは言った。


「冗談じゃないよ」フィンは笑った。「ロンドンの着こなしは、こんな単純じゃない」


「でも紳士らしくなってるよ十分」


「紳士ねえ」


「ちなみに君、モルドバの人だっけ。なんで英国仕立てを着てるの」


「文化は混ざるものだ」ヴィクトルは言った。「お前ら、紳士の概念を独占しすぎだ」


 フィンが声を出して笑った。




 タラップの後ろに、もう一台の車が来た。


 黒のマセラティ・ギブリ。ヴィクトルの車だった。ディープボルドーのボディが、夕陽を鈍く反射していた。


 運転席からカイが降りた。


 黒のスーツだった。


 ナポリ仕立ての三つボタン。シングル。生地はミッドナイトに近い黒。シャツは白。タイは黒のソリッド。


 188センチが、いつもより数センチ大きく見えた。


 フィンが少し止まった。


「カイ、似合ってるよ。ヴィクトルの車も」


「……エンジンが煩い」


 助手席のドアを開けに回った。


 助手席から、リヴァが出てきた。




 ヴィクトルが選んだドレスだった。


 昨日、銀座のテーラーで仕立てたものだった。


 濃いシャンパンゴールドのシルクサテン。シルエットがマーメイドラインで、膝下から裾が広がっていた。袖は肘下まで。ネックラインは控えめだったが、背中が大きく開いていた。生地に厚みがあって、光が当たると鈍く反射した。


 髪は編み込みを解いて、ハーフアップに結っていた。耳の横に、ヴィクトルがプレゼントしたピアスがあった。シンプルなパールだった。


 ヒールは細い。十センチ近くある。Manolo Blahnikのアイボリー。


 リヴァが車を降りた瞬間、ヴィクトルが少し動いた。


「綺麗じゃないか」とヴィクトルは言った。


「ありがとう」


「俺が選んだ甲斐があった」


「全部ヴィクトルが決めたよね」


「そう」ヴィクトルは満足げだった。「全部俺が選んだ」


 フィンがリヴァを見ていた。


 一秒だった。


 二秒だった。


 言葉が、出なかった。


「フィン」とヴィクトルは言った。「言葉、出ないか」


「……綺麗だ」フィンは言った。声が普段より低かった。「本当に」


「だろ」


 リヴァが少し笑った。


「何かありがとう」




 カイがリヴァの後ろに来た。


 左手をリヴァの腰の少し上、背中の開いた部分に添えた。触れるか触れないかの位置だった。


「歩きにくいか」とカイは言った。


「いつもよりヒール高いけど平気」


「ゆっくりでいい」


 その手が、リヴァの腰にずっと添えられていた。


 離さなかった。


 ヴィクトルが横目で見ていた。


「カイ」とヴィクトルは言った。


「何だ」


「手」


「何だ」


「ずっと」


「夫婦の設定だ」


「みえるみえる」フィンが言った。


 カイは答えなかった。




 タラップを上った。


 乗船口で、白い制服のクルーが頭を下げた。


「ようこそ、セレネ・ステラへ」


 カイが先にパスポートを出した。


 偽造だった。ヴィクトルが用意したものだった。


 名義は「シン・タカクラ」と「アヤ・タカクラ」。新婚旅行で乗船した日本人富裕層の夫婦という設定だった。職業欄は不動産投資。


 クルーが二人分のパスポートを確認した。スキャンした。問題なく通った。


「お部屋までご案内します」


「ありがとう」とカイは言った。


 声がいつもと違った。


 少し低かった。柔らかかった。リヴァが横目で見た。


 カイは前を向いていた。


「タカクラさま、奥様は階段の手すりを」クルーが言った。「お足元、お気を付けください」


「ええ。お気遣いありがとうございます」カイは言った。


「ええ、お気遣いありがとうございます?」リヴァが小声で言った。


「黙ってろ」


「カイ」


「シンと呼べ」


「……シン」


「奥様」とカイは言った。


 リヴァが少し止まった。


「……うん」




 船内に入った。


 ロビーが広かった。三層吹き抜け。中央にシャンデリアが下がっていた。クリスタルが何百個もあった。光を反射していた。


 大理石の床。金の手すり。ピアノが奥にあった。生演奏が流れていた。ショパンのノクターンの第二番。穏やかな音が、ロビーに広がっていた。


 乗客が集まっていた。タキシードとイブニングドレスの人間が多かった。年齢層が高めだった。世界中から集まった富裕層の顔ぶれだった。


 ユキナガはすでに先に入っていた。客室で機材のセットアップをしているはずだった。


 アルノがロビーで合流した。


 黒のスーツ。リヴァたちと違うグレード。少し控えめな仕立て。秘書として乗船する設定だった。タカクラ夫妻の私設秘書。それがアルノの設定だった。


「ようこそ」とアルノは言った。「お部屋の準備が整っております」


 声に温度がなかった。完全に秘書の声だった。


「ありがとう、アルノ」とリヴァは言った。


「こら」咳払いした。アルノは小声で言った。「ハインツです」


「……ハインツ」リヴァは繰り返した。「変なの」


「ドイツでは普通の名前です」アルノは眼鏡を押し上げた。「あなたのお父様の代から仕えております。奥様」




 ヴィクトルとフィンは、別ルートで入ることになっていた。


 ヴィクトルは別の富裕層客として、単独で。VIP客として登録されていた。


 フィンはバーラウンジのピアニストとして潜入していた。乗船前に着替えてあった。タキシードに、ボウタイ。ピアノの腕がそこそこあるという設定だった。実際、ここ数日結構練習していた。


「じゃあ、後で」とヴィクトルは言った。リヴァに向かって。「楽しんでこい」


「楽しむっていうか任務だよ」


「楽しめ」ヴィクトルは言った。「俺が選んだ服だ」


 フィンが口の端を上げた。


「ヴィクトルって、本当独占欲強いね」


「お前に言われたくない」


「俺は出してないから」


 二人が少し笑い合った。


 アルノが眼鏡を押し上げた。何も言わなかった。




 部屋に向かった。


 客室は最上階のスイートだった。


 廊下に絨毯が厚く敷かれていた。壁にアートが飾られていた。アール・デコ調の照明が等間隔に並んでいた。


 カイがリヴァの腰に手を添えたまま歩いていた。


 リヴァが小声で言った。


「カイ、もういいよ」


「夫婦だ」


「だからって、ずっと」


「これくらいが普通だ」


 カイが少し前を向いたまま、答えなかった。


 でも、手は離れなかった。




 部屋に入った。


 スイートだった。リビング、ベッドルーム、バルコニー。海が見えた。カーテンは半分閉まっていた。


 ユキナガが奥の部屋にいた。三つのモニターが設置されていた。サーバーラックも持ち込んでいた。


「おつかれ、奥様」とユキナガは言った。


「…ただいま」


「ドレス、すごいね」


「ヴィクトルが選んだ」


「だろうね」


 アルノがドアを閉めた。


「最終確認をします」と言った。声が任務の声に戻っていた。「今夜のディナーで、ターゲットの動向を観察。明日の夜にデータ回収と、暗殺対象への接触」


「了解」とリヴァは言った。


「カイ」


「ああ」


「夫婦の設定、徹底してください」


「わかってる」


 リヴァが少しだけ止まった。


「ちょっと」


「設定上、必要な動揺です」アルノは眼鏡を押し上げた。「演技として」


「演技じゃない感じが」


「演技です」アルノは言った。「カイ、演技ですよね」


「……ああ」


「即答じゃないけど」とユキナガが小声で言った。




 夜になった。


 ディナーは八階のメインダイニングだった。


 リヴァはそのドレスのまま、カイの腕を取って入った。アルノが斜め後ろについた。秘書として徹底していた。


 ダイニングは天井が高かった。シャンデリアが二つ。テーブルが二十卓。乗客が八十人ほど。クルーが静かに動いていた。


 奥のステージで、生演奏が流れていた。


 弦楽四重奏とピアノ。


 ピアノにフィンがいた。


 タキシードに、ボウタイ。サングラスは外していた。金髪が照明の下で光っていた。指が鍵盤の上を流れていた。


 ガーシュウィンの「Someone to Watch Over Me」だった。


 ジャズのスタンダード。ゆったりした、優しい曲。


 フィンの指が迷わなかった。


 演奏しながら、客席を見ていた。視線が動いた。リヴァを見つけた。一瞬だけ目が合った。フィンが少しだけ口の端を上げた。それから、また鍵盤に視線を戻した。


「フィン、本当に弾いてる」とリヴァは小声で言った。


「大学でDrama(演劇)を専攻していたそうです」アルノは小声で言った。「ピアノは副専攻」


「副専攻…」




 ヴィクトルがダイニングに入ってきた。


 別のテーブルに座った。一人だった。隣のテーブルに知り合いの富裕層客がいるらしく、軽く挨拶していた。流暢な英語だった。動きが慣れていた。


 リヴァたちのテーブルからは、視線が時々合った。ヴィクトルが小さく頷いた。それだけだった。



 席に着いた。


 カイがメニューを開いた。


 迷わなかった。


 フランス語で注文した。


「Un Pommard 2018, s'il vous plaît.(ポマール2018を)」


 ウェイターが自然に頷いた。


 二言三言やり取りしてから去っていった。


 リヴァが止まった。


「フランス語、できるの」


「少し」


「知らなかった」


「言わなかっただけだ」


 ナプキンをリヴァの膝にかけた。


 自然な動作だった。


 リヴァが少し止まった。





 料理が来た。


 フォアグラのポワレ。リヴァの皿の前に置かれた。


 カイがフォークとナイフを取った。一切れ切り分けた。


「フォアグラ、あんまり好きくない…」


「食べろ。奥様だろ」


「…カイ、楽しんでない?」


「……していない」


「絶対してる」




 ヴィクトルが遠くから見ていた。


 ウェイターを呼んだ。


「Excusez-(すみません)moi」とヴィクトルは言った。




 しばらくして、リヴァ達のテーブルにシャンパンが届いた。


 フランス語で何か書いてあった。


 カイが読んだ。


「Pour la plus belle femme du bateau」カイは小声で言った。


「どういう意味」


「船で一番美しい女性へ」


「……」


 カイがカードを置いた。


「ヴィクトル」と小声で言った。


 リヴァが少し笑った。






 ディナーの後、ホールでダンスが始まった。


 カイがリヴァの手を取った。


「踊るぞ」


「え、踊れるの」


「ある程度は」


「ある程度って」


「米軍の社交場で覚えた」


 リヴァが少し止まった。


 カイがリヴァをホールに連れ出した。


 弦楽四重奏が、ワルツを弾いていた。


 カイがリヴァの腰を引き寄せた。


 近かった。


 左手でリヴァの右手を取って、右手を腰に添えた。基本の構えだった。でも構え方が正確だった。背筋が伸びていた。重心が安定していた。


「カイ、本当に踊れるんだ」


「言っただろう」


 動き出した。


「腕は」


「大丈夫」


「痛んだらすぐ言え」


 ベーシックなワルツのステップ。動きは完璧だった。ただ、一歩ごとの角度が揃いすぎていて、踊りというよりも手順に近かった。


 リヴァが少しふらついた時、カイが腰を支えた。リヴァの足が次のステップに入る前に、カイが先に動いていた。


 リヴァは少しずつ、合わせられるようになった。


 カイが少し笑った。


 珍しかった。


「楽しんでる?」


「……まあ」


 カイが少しだけ強く腰を引き寄せた。


 リヴァが息を吐いた。




 遠くのテーブルから、ヴィクトルが見ていた。


 眉間にしわが寄っていた。


 ウェイターを呼んだ。


「シャンパンをもう一杯」


「かしこまりました」


 ウェイターが下がった。


 ヴィクトルがピアノの方を見た。


 フィンが演奏を続けていた。曲が変わっていた。ガーシュウィンから、ショパンの前奏曲へ移っていった。


 でもフィンの視線が、カイとリヴァを追っていた。


 ヴィクトルが小さく息を吐いた。


「みんな、リヴァ(あいつ)ばかり見てるな」と独り言を言った。


 誰も聞いていなかった。




 その時だった。


 リヴァが何気なく、ホールの端を見た。


 一人の男が立っていた。


 長身。190を少し超えるくらい。広い肩。黒のタキシード。地味だった。地味すぎて、逆に目立った。


 アンバーの瞳だった。


 じっとリヴァを見ていた。


 違和感があった。


 視線を外せなかった。


 理由は分からなかった。


 カイがリヴァの手を握る力を変えた。


「どうした」


「あの人」


 カイがリヴァが見ている方向を見た。


 男はもう、視線を外していた。


 壁から離れて、ゆっくりとホールの出口に向かっていた。


 タキシードの背中が、人混みに消えた。


 でも、足音がしなかった。


 あれだけの大きな体が、絨毯の上で、足音を立てていなかった。


 カイが一秒、その背中を見た。


「……同業者だ」


 カイがリヴァの手を握り直した。


「俺がいる」


 ワルツが続いていた。


 カイがリヴァを引き寄せた。


 さっきより、近かった。


 ホールの照明の下で、二人だけが踊っていた。


 遠くで、フィンのピアノが響いていた。


 その音の中に、男の足音は、もう紛れていなかった。



”Cry Me A River” / Michael Bublé

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