使い捨てドレス
ノックが四回した。
午前十時だった。
リヴァがドアを開けると、ヴィクトルがいた。ネイビーのシャツ、黒のスラックス。Sobranie Black Russianを指に挟んでいた。火はついていない。
ヴィクトルがリヴァを見た。
頭から足元まで。
左肩のあたりで、視線が止まった。
「服、決めたか」
「おはようもないの」
「おはよう。ステラの服は」
「ステラ?」
「豪華客船の名前だ」
「クローゼットにあるやつ。クリーニング出せばいいかなって」
ヴィクトルが少し動いた。何かが変わった。表情ではなかった。
「クリーニング」
「うん」
「前に俺が渡したやつのことだよな」
「何が悪いの」
「クリーニングに出せる値段じゃない」
「え」
「ああいうのは使い捨てだ」
ヴィクトルが煙草をしまった。
「行くぞ」
「どこに」
「買いに行く。一週間分」
「そんないらない」
「毎晩同じ服を着ていくつもりか」
リヴァが少し間を置いた。
「……まじか」
ユキナガみたいな反応が出てしまった。
「行くぞ」
駐車場に降りた。
マセラティのグラントゥーリズモが停まっていた。ダークグレー。光の角度で青みが出る色だった。
「ヴィクトル」
「ん?」
「いつもと違う」
「銀座に合う方で来た」
ヴィクトルが助手席のドアを開けた。リヴァが乗り込もうとした時、ヴィクトルの手が肘の下に添えられた。傷のない側だった。
座席が深かった。腰の位置が低かった。
「自分でできるよ」
「知ってる」
ドアを閉めた。
ヴィクトルが運転席に回った。エンジンをかけた。音が低く、腹に来た。
車が地上に出た。
「カイと潜入するんだったな」
「うん。新婚夫婦の設定だって」
少し間があった。
「俺が相手役をやるとアルノに言った」
リヴァがヴィクトルを見た。
「……なんで」
「お前が一人で入るより、俺がいた方が動きやすいだろ。上流階級の立ち回りは慣れてる」
「それは……まあ」
「却下された」
「なんで」
「カイの方がカバーの実績がある、と」
「うん」
「気にしてるわけじゃない」
リヴァが少し笑った。
「ヴィクトル、気にしてる」
「気にしてない」
ヴィクトルが前を向いたままだった。リヴァは続けなかった。
「だが俺も乗る」
「乗るの?」
「船に。別の乗客として」
「そんなの自由に決めていいの」
「全員分の手配を俺がやった。チケットも、船室も、書類も。ついでに自分の分も入れた」
「職権乱用…」
「ついでだ」
「カバーに入った人間は視野が狭くなる。外から見る人間がいた方がいい。それだけだ」
リヴァは助手席の窓を見た。首都高に入っていた。
左肩を動かした拍子に、縫合のあたりが引いた。痛みというより、引きつるような感覚だった。
「肩は」
「大丈夫」
「縫合してどれくらい経つ」
「四日」
ヴィクトルはそれ以上言わなかった。
銀座の駐車場でヴィクトルが先に降りた。
助手席側に回ってきた。ドアを開けた。手を差し出した。
「自分で降りられるよ」
「知ってる」
手が引かない。リヴァは小さく息を吐いて、ヴィクトルの手を取った。降りた。
通りの端で、人が数人スマートフォンを向けていた。マセラティに向けていた。リヴァが少しだけ気にした。ヴィクトルは振り返らなかった。
「ヴィクトル」
「ん?」気づいて笑った。「よくある」
「撮られちゃっていいの」
「目立つ車に乗ってると、本当に隠したいものから目が逸れるだろ」
「……偽造師らしいね」
「だろ」
最初に連れて行かれた店は、看板が小さかった。ウィンドウに何も飾っていない。知らなければ通り過ぎる扉だった。
「ここ、何てとこ」
「チェルッティ、知らなくていい」
中に入った。照明が暖かかった。生地のサンプルが壁面に並んでいた。テーラーの男性が近づいてきた。ヴィクトルと短く言葉を交わした。イタリア語だった。男性がリヴァを見た。頷いた。
「採寸する」とヴィクトルは言った。
「ここで服作るの」
「五着仕立てる」
「五着も」
「多めにな」
採寸が始まった。テーラーの手が迷わなかった。速かった。
左腕を水平に上げる動作になった時、リヴァが少し止まった。
痛みというより、ひきつる感じだった。
テーラーが気づいた。何か言った。
「無理に上げなくていい」ヴィクトルが訳した。「心配されてる」
テーラーが角度を変えた。傷に触れないように、別のやり方で採寸した。
ヴィクトルは離れた場所に立って、生地のサンプルを手に取っていた。指で質感を確かめる動作だった。一枚ずつ、丁寧に触れていた。
「好みは」
「...布みたってわかんないよ」
「わかった。全部選ぶ」
最終的に五種類の生地を並べた。
アイボリーのシルクオーガンジー。深いネイビーのジャカード。オフホワイトのクレープ。バーガンディのベルベット。ミッドナイトブルーのシフォン。
「これで五着作る。三日で仕上がる」
「三日でいけるの」
「急がせる」
店を出る時、ヴィクトルが先に扉を押さえた。
次にフェラガモに移動した。リヴァは自分でドアを開けようとしたが、ヴィクトルの方が早かった。
リヴァは無意識に、壁側に寄る位置を選んでいた。
靴の棚が並んでいた。
「好みは」
「…ヒール細い方が好き」
ヴィクトルが棚の間を歩いた。一足を持ってきた。フェラガモのプリマ。ブラック、カーフスキン。スティレットヒール九センチ。
「試せ」
履いた。ヴィクトルがしゃがんだ。つま先を押した。踵の収まりを確認した。
「歩いてみろ」
歩いた。歩きやすかった。ヒールが細いのに、足が安定していた。
足元だけは、自分で選べる気がした。
「どうだ」
「好き」
「ならこれをベースに、色違いでもう一足」
サンドベージュが追加された。
その後、ルブタンに移った。
赤いソールが見えた瞬間、リヴァが少し止まった。ヴィクトルが気づいた。
「気になるか」
「ううん」
「なってる」
「……かわいいなって」
ヴィクトルが少し笑った。ルブタンのSo Kateを一足追加した。
マノロでアイボリーのカーフスキンを一足追加した。長時間用、と言った。
「四足」
「ドレスが五着ある」
「もう一足は」
「お前のサイズで作らせた。前に」
「え」
リヴァはそれ以上聞かなかった。
店を出て、地下通路を歩いていた。
次のビルに移動する短い距離だった。
後ろで、鉄のドアが閉まった。
金属が当たる音だった。
小さかった。普通の音だった。
あのときも、最後に聞いたのは金属音だった。
でも、リヴァの体が動く前に足が止まっていた。
息が詰まった。
視界の端が一瞬だけ白くなった。屋上の錆びた床が来た。遠くから届いた低い破裂音が来た。頭の中で鳴った。鳴って、消えなかった。
半歩前を歩いていたヴィクトルの腕を、リヴァが思わず掴んだ。
強く掴んでいた。気づいていなかった。
「...」
ヴィクトルが止まった。振り返らなかった。
リヴァの指が、シャツの生地越しに腕に食い込んでいた。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
「大丈夫」
「知ってる」
リヴァは無意識に、開けた側ではなく壁際を選んで歩いた。
ヴィクトルが少し体の向きを変えた。リヴァの手が腕から離れないようにしながら、自分の側に引き寄せる動きだった。通路の壁側に立たせた。
通路の人が通り過ぎた。誰も見ていなかった。
リヴァが呼吸を一回した。もう一回した。
指の力が、少しずつ抜けた。
「行ける」
「平気だ」優しい声だった。
歩き出した。
ヴィクトルが今度はリヴァの斜め後ろを歩いた。半歩、距離を詰めたまま歩いた。手は離れていた。でも、すぐに届く距離だった。
それ以上は、何も言わなかった。
シャンパンゴールドのドレスは最後だった。別の店で受け取った。テーラー クロトだった。
「もうできてるの」
「頼んであった」
「先に?」
「お前が行くと決まった時から動いてた」
試着室に入った。
ドレスを着た。
生地が重かった。シルクサテンの滑らかな冷たさが、肌に当たった。
出た。
リヴァが出てきた瞬間、座っていたヴィクトルが腰を半分上げた。
そのまま、何も言わない。
三秒、何も言わなかった。
三秒後、やっと立ち上がった。
「…回れ」
回った。
「……なに」
「いい」
「それだけ?」
「もうちょっとなにかないの」
ヴィクトルが少し笑った。
「俺が選んだ中で一番いい。俺は今自分の才能を自覚した。これで足りるか」
「……大げさ」
「なら決定だ」
「…」
「迷う必要がなかった」
リヴァはもう一度鏡を見た。
肩の包帯が、シャンパンゴールドの生地の下に隠れていた。何もなかったように見えた。
「ヴィクトル」
「ああ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
帰りの車の中だった。
日が傾いていた。マセラティのダッシュボードに、夕方の光が落ちていた。
ヴィクトルが赤信号で止まった。
後部座席に手を伸ばした。小さな箱を取った。深い緑のベルベット。リボンはついていなかった。
リヴァの膝の上に置いた。
「これ」
「何」
「開けろ」
開けた。
中に、パールのピアスとネックレスがあった。シンプルだった。金具が細かった。それぞれ一粒だけついていた。
奥に、小さなケースが二つ並んでいた。
リヴァが、その二つを見た。
開けた。
結婚指輪と、婚約指輪だった。結婚指輪はもう一つ入っていた。
プラチナだった。婚約指輪の中央に、一粒ダイヤが入っていた。リヴァが見たことのないサイズだった。
「……」
「カイと夫婦設定だ。要る」
「うん」
「サイズは合わせてある」
「いつ測ったの」
「指輪のサイズくらい、見ればわかる」
「…」
「だいたいでいい。形だけ整えば、見てくれは成立する」
リヴァは指輪を見ていた。すると、ヴィクトルがもう一つ箱を渡した。
「ほかにもいくつか渡しておく。好きに使え」
「全部?」
「衣装に合わせて適当に。組み合わせは俺が後でメモを渡す」
信号が青になった。マセラティが動き出した。
リヴァは箱を膝に乗せたまま、シンプルなパールのネックレスを指で軽く触った。
「これかわいい」
「だと思った」
「なんで」
「見てればわかる」
ヴィクトルが前を向いたままだった。
車が走っていた。レストランを通り過ぎたとき、ヴィクトルの目が一瞬そちらに向いた。
ヴィクトルは何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。
車が次の信号で止まった。
「……ヴィクトル」
「ああ」
「今日、本当にありがとう」
「...どういたしまして」
煙草を取り出した。火はつけなかった。指に挟んだだけだった。
窓の外で、銀座の夕方が流れていた。
"Burning Desire" / Lana Del Rey




