旧友
午前零時十二分。
十一階前方のVIPラウンジは、ディナーのホールより照明が低かった。
窓際に革張りのソファが並び、中央のバーでは十人ほどの客がまだ飲んでいた。会話の音量は低く、グラスの触れる音の方がよく聞こえた。
ヴィクトルはカウンターに肘をつき、隣の男と話していた。
アルノは二歩ほど離れた場所に立っていた。
男が笑い、ヴィクトルの肩へ一度手を置いた。
ヴィクトルも笑った。
会話が終わると、男はカウンターの反対側へ戻っていった。
ヴィクトルはグラスを持ったままアルノの隣へ来た。
「右奥。紺のタイ」
アルノはそちらを見なかった。
「コストフの通信を触ってる」
「話しましたか?」
「まだ」
アルノが眼鏡を押し上げた。
「何を見ました」
「ここに入ってから、三人があいつに挨拶した。全員、コストフの卓にいた人間だ」
ヴィクトルは酒を飲んだ。
「でもコストフ本人は挨拶しなかった」
紺のタイの男が別の客と話していた。
途中でウェイターが近づき、何か耳元で告げる。男は腕時計を見てから席を立った。
ヴィクトルがグラスを置いた。
「ほらな」
「まだ何もしていません」
「いいや。する」
ヴィクトルが歩き出した。
アルノもついていった。
ラウンジを出る直前、入口のスタッフがアルノへ目を向けた。
ヴィクトルが足を止めた。
「秘書にしか見えない」
「秘書ですが」
「今は俺の連れだ」
ヴィクトルがアルノのタイを指で引き、結び目を少しだけ緩めた。
アルノの手が一度上がったが、そのまま下りた。
二人は廊下へ出た。
絨毯の上をしばらく歩き、エレベーターホールへ向かう。
アルノが角を曲がる前に足を緩めた。
「ヴィクトル」
「なんだ」
「後ろ。同じ男です」
ヴィクトルはそのまま歩いた。
壁際に飾られたガラスケースを通り過ぎる時、反射へ一度だけ視線を向けた。
十メートルほど後ろに男がいた。
先ほどラウンジの入口近くに座っていた男だった。
ヴィクトルはため息をついた。
「いつから」
「出てからずっとです」
「俺か?」
「さあ。エレベーターが来ます」
扉が開いた。
二人が乗る。
アルノが操作盤へ手を伸ばしたところで、ヴィクトルが腰へ腕を回した。
アルノの手が止まった。
男もエレベーターへ入ってきた。
ヴィクトルはアルノを自分の側へ寄せたまま、十二階のボタンを押した。
アルノは何も言わなかった。
扉が閉じる。
鏡張りの壁に三人が映った。
男は後方に立ち、スマホを見ていた。
ヴィクトルの親指がアルノの腰を一度なぞった。
アルノが横目で見て、ため息をついた。
「……」
ヴィクトルは一瞬笑った。
十二階で扉が開いた。
二人が先に降りる。
男も降りた。
ヴィクトルが小さく息を吐いた。
「しつこいな。処理するか」
「いいえ。何とか巻いてください」
廊下の先に、営業を終えたサブバーがあった。
照明は落ちていたが、酒棚の下だけが薄く光っている。真鍮の縁取りと、バックバーの大きな鏡が暗がりに残っていた。
ヴィクトルが扉を押した。
鍵はかかっていなかった。
二人で中へ入る。
「まだいます」
ヴィクトルが近づいた。
アルノが振り返る前に、腰を押された。
背中がカウンターの縁へ当たった。
「正気ですか…っ」
そのまま上体を倒され、ヴィクトルが覆いかぶさった。
ヴィクトルは首元へ顔を埋めた。
「カイの真似だ。ムード出せ」
「無茶言うな…クソ」
鏡の向こうで、入口に男の影が止まった。
数秒。
影が動いた。
廊下の奥へ消えた。
アルノはヴィクトルの肩越しに鏡を見ていた。
「行きました……っ」
ヴィクトルの唇が、アルノの首筋に触れた。
「死ね」
アルノがヴィクトルを突き放し、頬を平手打ちした。
ヴィクトルは乱れたアルノのタイを見た。
「悪かったな」
「ふざけるな」
アルノはタイへ手を伸ばした。
結び目を戻し、ジャケットの前を整える。息はまだ乱れていた。
「八つ当たりしないでください」
ヴィクトルは何も言わず、先にバーを出ていった。
しばらくして、アルノも廊下へ出た。




