イングリッシュブレックファースト
次の朝、九時を少し過ぎていた。
リヴァが共用スペースに出てきた時、フィンはすでにキッチンにいた。
ケトルが沸いていた。
マグカップが、二つ、カウンターに並んでいた。
その隣に、見慣れない箱があった。Twiningsだった。緑のパッケージ。ブリティッシュブレックファースト。ティーバッグが二十袋入りのやつだった。
「あ、おはよう」フィンは言った。
「おはよう」
リヴァはワンピースを着ていた。ゆったりしたシルエットの、薄いグレージュ。ノースリーブだった。左肩に包帯が残っていた。袖がないと、包帯がそのまま見えた。
フィンが一度、肩を見た。
一拍、遅れた。
「これ」フィンはティーバッグの箱を持ち上げた。「ユキナガがイトーヨーカドーに連れて行ってくれた」
「成城石井じゃなかったんだ」
「ユキナガが、こっちの方がいいって」フィンは少し笑った。「お前にはまだ早いって言われた」
「そうなんだ」リヴァは笑った。
「でもTwiningsあったからいいや」
ティーバッグを一つ取って、マグカップに入れた。ケトルを傾けた。蒸気が上がった。
「ミルク、入れていい?」
「うん」
「お砂糖は」
「いらない」
フィンが、止まった。
止まってから、ミルクを注いだ。
「……俺と同じだ」
声のトーンが、少しだけ、普段と違った。
「コーヒーは?」
「ブラック」
「あ、そっちはブラックか」
「なんで」
「なんとなく」フィンはマグカップをリヴァの前に置いた。「アルノから聞いてた話と、少しイメージが違ったから」
「アルノが何か言ってた」
「……うーん」フィンは少し考えた。「君の話だけ、やけに多かったんだよな」
リヴァは一口飲んだ。
温かかった。ミルクの匂いがした。
「……おいしい」
「でしょ」
フィンの笑い方が、いつもより静かだった。
リヴァは少しの間、湯気を見ていた。
「カイは」
「地下」フィンはカウンターに肘をついた。「朝五時前から追い込んでた」
「……そっか」
「たぶん、しばらく止まんないと思う」
「あとで顔出す」
「そうしてあげて」フィンは言った。「俺が言うより、君が言った方がいい」
「リヴァ。昨夜のこと」
リヴァはマグカップを持ったまま、ティーバッグの紐を指で動かしていた。
「アルノ、最悪の場合、って言いかけてた」
「……」
「君が、その前に撃った」
「撃てたから」
「順番、飛ばしたよね」フィンは言った。「半分、命令無視でしょ」
「うん」
フィンがマグカップを置いた。
一拍。
「どうしてそんなことしたの」
「フィンがいたから」リヴァは言った。即答だった。「助けないと」
フィンが、マグカップを見た。
少しの間、何も言わなかった。
「あの三発は、どうやったの」
「……集中したから」フィンを見た。「…集中しすぎて、疲れ果てた」
「しすぎた、ね」
フィンは、それ以上聞かなかった。
「リヴァは」フィンは少し下を向いた。「撃つのは、平気なんだ」
リヴァは考えた。
ティーバッグを指先で弄んでいた。
間があった。
「……平気」
「昨日も」
「うん」
フィンが黙った。
「でも、撃たれた時は」
リヴァはマグカップの中を見た。
「怖かった」
「うん」
「すごく」
「変だな」フィンは言った。「普通は、逆なんだよ」
リヴァは何も言わなかった。言葉が出なかった。
「人を撃つ方が、怖いもん」
リヴァは少し首を傾げた。本当に、分からないようだった。
「…私は痛いのが、怖いだけだよ」リヴァは言った。
フィンが、止まった。
「死ぬのじゃなくて」
「そう、かも」
「だから昨日も」リヴァは言った。「最初の弾が外れた時は、平気だった」
「うん」
「でも、二発目が来るかもって思ったら」
少し、止まった。
「すごく、怖かった」
フィンは、何も言わなかった。
「正直に言うと」しばらくして、フィンは言った。「最初、君を任務に出すべきじゃないと思ってた」
「………」
「今は逆だ」
「逆」
「君は戦場にいなきゃ駄目だ」
リヴァが黙った。目線を外した。
「あれを見たあとじゃ、もう反対できない」フィンが言った。
リヴァは窓の外を見た。
リヴァは、マグカップを両手で持ち直した。
「でも」フィンは言った。「参ったのは、そこじゃないんだよな」
「?」
「アルノが切ろうとした時、君、考えもしなかっただろ」
「……」
「会ったばっかりの傭兵なんか」フィンはマグカップを置いた。「普通、見捨てるんだよ」
「怖いまま、撃ったんだよな。俺のために」
リヴァは、フィンを見た。
「参ったな」フィンは言った。
「何が」
「俺さ、こういうの弱いんだよ」
「こういうの」
「見捨てない、って」フィンは言った。「本気で言うやつ」
フィンが、窓の外を見た。
「君、いくつなの」
「……わかんない」
「わかんない?」
「記憶、ないから」リヴァは言った。「誕生日も」
フィンが、一拍、置いた。
「俺、二十七」
「うん」
「たぶん同い年だよ」
「そうかな」
「そうだといい」
「なんで」
「……知らない」
フィンが自分の左手を見た。指先の皮を触っていた。ギターの弦を押さえるために皮が厚くなっていた。
「昨日、君が撃たれた時さ」
「うん」
「正直、自分で驚いた」フィンが言った。「ああ、嫌だなって思ったんだよ」
「……」
「君が死ぬの」
リヴァは困ったように眉を上げた。
そして、笑った。
「ありがとう」フィンは言った。「昨日、助けてくれて」
「うん」
「あと、見損なってて、悪かった」
「……」
「君を、ただのトラウマ持ちだと思ってた」フィンは言った。「違った」
リヴァは何も言わなかった。
「君さ、自分の価値、わかってないだろ」フィンは窓の外に目を戻した。
窓の外で、蝉が鳴き始めていた。
リヴァはマグカップを両手で包んで、窓を見た。
「もう、六月も終わりだね」
「ほんとに」フィンは言った。「ねえ、日本の夏、暑すぎて嫌なんだけど」
「これからだよ」
「イギリス、雨は多いけど、こんなに湿ってない」フィンは襟元を引っ張った。「夏でも夜は涼しい。窓開けて寝られる」
「ここでそれやったら、死んじゃう」
「死ぬ気がする」フィンは言った。「クーラーないと無理だ」
リヴァは少し笑った。肩がわずかに動いて、包帯が引っ張られた。
フィンが気づいた。気づいたが、何も言わなかった。
代わりに、自分のマグカップを置いた。
廊下から足音がした。
アルノだった。
グレースーツのまま入ってきた。眼鏡を押し上げながら、リヴァとフィンを見た。
「おはようございます」
「おはよう」リヴァは言った。
「コーヒーでは無いんですね」
「Would you like a cup of tea?」フィンは箱を持ち上げた。イギリス人の定型文だった。
「……いただきます」
フィンがティーバッグを取った。ケトルを傾けた。アルノが自分でミルクを注いだ。砂糖は入れなかった。
マグカップをカウンターに置いて、端末を出した。
「リヴァ、体調は」
「……普通」
「普通、というのは」
「動ける」
「……」
アルノが少しの間、リヴァを見た。
肩の包帯を見た。袖がないことを見た。
眼鏡を押し上げた。
「ユキナガから報告が来ています」アルノは言った。
「うん」
「昨夜の発射点の解析が進みました」アルノは端末を開いた。「品川区、大井ふ頭の南東側。距離は1300~1600の地点。半径200メートル以内の、三つの建物に絞れています」
「そんなに遠くから」
「そのうちの一つの登記を掘ったところ、関連会社が出てきました」アルノは画面を示した。「クルーズ船の運営会社です。世界中を定期運航している」
フィンが姿勢を変えた。肘をついていたのを、やめた。
「その船、今どこに向かってるの」
「次の寄港地が、那覇です」アルノは言った。「十日後」
フィンがアルノを見た。
「昨夜回収した端末のデータと、この船の航路が、複数回重なっています」アルノは続けた。「株式会社SGと、この運営会社の繋がりも確認できました」
「行く?」リヴァは言った。
アルノが少し止まった。
「上に確認は取りますが、おそらく」
「沖縄に」
「那覇に。十日以内に出ます」
リヴァはマグカップを見た。
まだ、温かかった。
「準備します」アルノは言った。「今日中に詳細を共有します。フィン、引き続き協力をお願いします」
「もちろん」
「リヴァは、今日は休んでください」
「動けるよ」
「動けるかどうかではなく、休んでください」アルノは眼鏡を押し上げた。「合理的な判断です」
「合理的って言えば、なんでも通るんだね」
「事実です」
アルノが端末を閉じた。
マグカップを持ち上げて、一口飲んだ。
「……悪くないですね」
「イトーヨーカドーのおかげ」フィンは言った。
アルノは、それ以上何も言わなかった。
マグカップを持ったまま、もう一口飲んだ。
リヴァは窓の外を見た。
蝉の声が、まだ続いていた。
沖縄、と思った。
カイの故郷の方角だった。
六月の終わりの東京の朝が、キッチンの中に広がっていた。




