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品川任務:発射点不明



『応答して』ユキナガの声がした。早口だった。


 心臓が跳ねた。スコープを保ったまま、視界の隅に、錆びた床の小さな穴があった。


 リヴァの視線が、そこと標的の間で迷った。


「……っ」


 返答ができなかった。


 リヴァはAXMCを担いだ。低く構えたまま、東側の塔屋の陰へ向かおうとした。


 スナイパーは突然死ぬ。痛みすら感じないまま死ぬ。三日前、シミュレーター室でカイが言った。


 手が震えていた。声が出ない。


『リヴァ』カイの声。


 三秒あった。


 リヴァの声が来た。小さかった。


「……いる」


『何があった』


「……撃たれた、近く」


 カイの足が止まった。


 廊下の中だった。フィンが横にいた。建物の外には出ていなかった。


『着弾は』カイの声。


「右手の横、金属の床、三十センチくらい」


『方向は』


「西の方……か、わからない」


『音は』


「遅れて来た。すごく、遅れて」


 カイが一秒、黙った。


 音の遅れが大きすぎた。相当、遠い。


「……カイ」リヴァの声。「カイ、どこから撃たれてるかわからない。カイ」


 声が震えていた。


『アルノ』カイの声。


『聞こえています』


『リヴァが狙撃を受けた。発射点不明。音の遅延から、かなり遠い。1000近いか、それ以上』


『把握しました』アルノの声は変わらなかった。『リヴァ、遮蔽を取ってください。一番近い遮蔽は』


「塔屋の、東側」


『行けますか』


「……これ以上動いたら、撃たれる」


『止まっていても撃たれます。匍匐で。今』アルノの声。


 リヴァはAXMCを抱えたまま床に伏せた。匍匐で動いた。


 肘が滑った。指が、うまく床を掴めなかった。


 塔屋の陰に入った。


『入った』ユキナガがアルノに報告した。


『よくできました』アルノの声。温度はなかった。


『カイ、建物から出られますか』


『出ようとしてる』カイは走っていた。靴底がコンクリートを蹴る音がした。『北側の搬入口、まだ人がいるかもしれない』


『ユキナガ、北側は』


『一人残ってる。搬入口のドアの内側』ユキナガの声がした。


『カイ、東に回れますか』


『二分かかる』





 リヴァは塔屋の陰にいた。


 AXMCがすぐ横にあった。スコープが、意味もなく上を向いていた。


 構えられなかった。


 呼吸が速かった。浅かった。吸っているのに、肺に入らなかった。


『リヴァ』ユキナガが言った。


「……」


『リヴァ、聞こえる?』


「……う、ん」


 ユキナガは、言葉が出る前に一拍止まった。


 ユキナガは新拠点の、防音の部屋にいた。


 モニターの中に、全部があった。バイタルも、リヴァの呼吸も、無線越しに知っていた。浅くて、速かった。


 でも、何もできなかった。


 マイクのボタンに指をかけたまま、止まった。椅子が軋んだ。気づかなかった。


 言葉を、探した。見つからなかった。


 ユキナガはマイクから指を離した。Marlboroを一本抜いて、火はつけず、指に挟んだ。


『フィン、状況を』アルノが言った。


『東側通用路のドア前。カメラはユキナガが抑えてる。ドアの向こうは確認中』フィンが言った。


『出られますか』


『まだ。カイと合流してから動く』


『カイ、残り何秒』


『四十秒』カイは走りながら言った。



 リヴァは塔屋の陰にいた。


 目は開いていた。屋上が見えていた。品川の、倉庫の屋上。それはわかっていた。


 わかっているのに、遠かった。


 涙が出た。泣くつもりはなかった。ただ出て、頬を伝った。拭わなかった。両手がAXMCのケースを掴んだまま、離れなかった。


『リヴァ』息は上がっていた。でも、声だけは上がっていなかった。


『呼吸を止めろ。今の呼吸は使えない。全部吐け』


「……っ」


『吐け。リヴァ。全部』


 吐いた。喉が鳴った。肺の中身を、全部押し出した。


『吸え。ゆっくり。腹で吸え』


 吸った。入った。空気が、肺の底まで入った。


 涙はまだ出ていた。でも肺が動き始めた。


『足の裏の下に、何がある』


「……金属」


『冷たいか』


「……冷たい」


『お前はそこにいる。屋上だ。俺の声が聞こえてる。そうだな』


「……聞こえてる」



 カイは走りながら、話し続けていた。


 戦闘の最中だった。東側通路の角に、まだ一人残っていた。カイはその角を確認しながら、声を出していた。


 声しか、渡せなかった。


 角から人影が出た。カイは右手だけでHK416を上げた。一発。倒れた。片手だった。精度は落ちた。それでも当たった。


 走った。東側通用路のドアが見えた。


『カイ、フィンと合流してください』アルノが言った。


「フィンの位置は」カイは止まらなかった。


『東側通用路のドア前』


「合流する」


 走りながら、カイの声がもう一度リヴァに向いた。


『リヴァ、銃は持ってるか』


「……持ってる」


『構えられるか』


 間があった。


『構えなくていい。今はいい。ただ持ってろ。手を離すな』


「……わかった」


『俺はフィンのところへ行く。お前はそこにいろ。動くな。遮蔽から出るな』


「……うん」



 カイがフィンと合流した。東側通用路のドア前だった。


「リヴァは」フィンが小声で言った。


「屋上で一人だ」


「狙撃?」


「発射点不明。遠い」


 フィンが一瞬、黙った。


「……本件の人間じゃない気がする」フィンは言った。低かった。


「何?」


「この案件は民間警備の延長だ。これだけ遠くから撃てる人間が、噛んでるとは聞いてない」


 カイがフィンを見た。


「別口が来てる」フィンは言った。




『アルノ、聞こえてるか』カイが言った。


『聞こえています』


『本件とは別の狙撃手が来ている』


 アルノが少し止まった。


『……把握しました』


『フィンを出す。俺がリヴァのところへ戻る』


『待ってください』アルノの声だった。『通用路の外、まだ確認中です。今出ると二方向から挟まれます』


『構わない』


『構います』アルノの声は変わらなかった。『カイ、あなたが倒れると、リヴァを回収する人間がいなくなる。三十秒。ユキナガが外を確認しています』


 三十秒。


 カイが壁に手をついた。指に、力が入りすぎていた。


 三十秒が、長かった。


『ユキナガ、通用路の外は』アルノが言った。


『クリア。今出ていい』ユキナガの声がした。


『フィン、出てください。脱出ポイントは東に百メートル。車を回します』


『了解』フィンが動いた。ドアを開けた。


 外は、蒸した夜だった。


 フィンが走り出した。


 十五秒後だった。


 フィンの無線が来た。


『北から来た。三人』


『フィン』アルノが言った。


『大丈夫、走……っ』


 銃声は、フィンの方からだった。



『フィン、状況』


『ビルの角で足止めされてる』フィンの声。息が上がっていた。『三人。装備あり。正面から抜けられない』


『迂回路は』


『ない。一本道』



 アルノは車内で端末を見ていた。


 フィンの位置。カイの位置。リヴァの位置。三つが、全部離れていた。


 三人は、建物のカメラの外に出ていた。ユキナガの目が、届かない場所だった。


 アルノは眼鏡を押し上げた。指先に汗があった。端末の角を、指で二回叩いた。気づいていなかった。


『全員、聞いてください』アルノの声がした。


 少し間があった。


『カイをフィンに向かわせれば、リヴァの回収ができなくなる。リヴァを動かせば、狙撃手に晒される』


 誰も、何も言わなかった。


『最悪の場合』アルノが続けた。声を、変えなかった。


 次の言葉を、出そうとした。


「……しない」


 リヴァの声だった。小さかった。


「大丈夫」


 涙はまだ出ていた。それでも、AXMCを展開していた。バイポッドが、床を噛んだ。


『リヴァ』カイが言った。


「撃てる」


『……』


「カイ」


『……ああ』


「数字」


 リヴァはスコープに目を沿わせた。


 涙で視界が滲んでいた。袖で拭った。


 スコープの中に、フィンがいた。ビルの角に張り付いていた。三人が正面にいた。フィンの位置からは、斜めに抜く角度だった。


『380、風北東から1.2、上から0.3落ちる』カイが言った。息が混じっていた。でも、数字は正確だった。『一人目、左。フィンの射線の外に立ってる。そいつから取れ』


「……うん」


 スコープの中で、人間が動いていた。


 距離380。暗い。風がある。


 リヴァの指が、トリガーにかかった。


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