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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第六章「浮遊する標的 ― Drifting Target」

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オリヴァー・グラント




 午後十時四十五分。


 エリの名前を告げただけで、一般客用のラウンジとは別の扉が開いた。


 ユキナガはイヤーピースへ触れた。


「アルノ。これ、当たりだわ」


 イヤーピースを外した。襟裏に仕込んだマイクはそのままにした。


 中には二十人ほどいた。窓際に小さなバーがあり、中央には低いテーブルがいくつか置かれている。船の制服を着ていないスタッフが、客の間をグラスを持って歩いていた。


 エリは入口でシャンパンを受け取ると、そのまま腕を絡めた。さっきまでより近かった。


「友達、紹介するわ」


 窓際にいた女がエリに気づき、グラスを持ったまま近づいてきた。


 女の視線が、ユキナガの顔から開いた襟元へ落ちた。


「へえ」


「何その反応」


「あなたが連れてくるなら、もっと酷いの想像してた」


 ユキナガは苦笑いした。


 しばらく三人で話した。


「この船、彼女のお父様の会社なのよ」


「ほんとにいたんだ」


 エリがユキナガを見た。


「疑ってたの?」


「ちょっとだけね」


 女が笑ったところで、黒いスーツのスタッフが横から声をかけた。


「明日の十二階後部ですが、二十一時半以降は予定通りクローズで?」


「ええ。父のゲストだけにして」


「西側のサービスエレベーターは」


「スタッフが使うから、そのままで」


 スタッフが離れた。


 ユキナガはテーブルからシャンパンを一杯取った。一歩エリから距離を取った。


 イヤーピースを耳に入れた。


「取れた?」


『はい』


「じゃ、楽しんできまーす」


 ユキナガは返事を聞く前にイヤーピースをポケットに入れてシャンパンを飲んだ。


 後ろから足音がして、エリがユキナガの腕を引いた。


 エリがユキナガのシャンパンを取って、一口飲んだ。


 自分のシャンパンをユキナガに渡した。


 ユキナガが彼女のシャンパンを飲んだ。


「何?かわいいことしちゃって」


 エリがユキナガの手を取った。指先を一度なぞってから、そのまま引いた。



「まだ見せたいものがあるの」


 グラスの中で、細かな泡が上がり続けていた。


 エリに手を引かれ、ラウンジの奥にある別の扉へ入った。


 冷えた空気と、甘い香水の匂いがした。


 壁際のソファに、若い男女が六人並んでいた。


 誰も酒を持っていなかった。荷物もない。女が一人、俯いたまま泣いていた。隣の男も目元を腫らしている。


 テーブルにはパスポートが束になっていた。


 開いた端末に、六人の顔写真が並んでいる。


 写真の横には、ドル記号のついた数字が並んでいた。


 ユキナガの足が一瞬止まった。


「……なに、これ」


 エリが振り返った。


「商品の人たちだよ」


 ユキナガの喉が一度動いた。目を瞬いて、エリを見た。


 エリはさっきと同じ笑顔で、泣いている人たちを見ていた。


「……なんで、商品になっちゃったの」ユキナガが言った。


「借金あるとか色々みたい。親が悪いんじゃない?」


 エリはそう言って笑った。


「泣いても変わんないのにね」


 ユキナガはエリを見た。


 数秒、何も言わなかった。


「……へえ」


 笑った。


 襟の裏には、まだマイクがあった。


 奥から男たちの声がした。


「三人はマニラ。残りはセブ」


「今回は一人も船内で死なせずに」


「わかってるよ」


 エリがユキナガの腕へ絡んだ。ユキナガを見た。


「ねえ。あんまり面白くなかった?」


 ユキナガはエリを見た。


「こういうの、いつもあるの?」


「毎回じゃないよ。今回は少ないかも」


「どこから来るの?」


「知らない。七階の人たちがやってるんじゃない?」


「七階?」


「そこに行って話したら、買って帰れるって」


 ユキナガが止まった。


 エリがユキナガの顔を見てから、言った。


「人が商品なのって、なんか面白くない?」


「…俺、エリの笑顔見てる方が楽しいかも」


 エリは少し考えた表情をした。


「欲しかったら買ってあげるのに」


「エリと二人きりがいい」


 エリが笑った。


「部屋行こ」


 ユキナガはもう一度、ソファを見た。


 泣いていた女が、両手で口を押さえていた。


「……行こっか」


 エリに手を引かれ、扉を出た。


 背後で電子錠が閉まった。








 演奏を終えたフィンは、最後の和音が消えるまで鍵盤から手を離さなかった。


 客席から拍手が上がった。


 フィンは椅子に座ったまま軽く頭を下げ、ピアノの蓋を閉じた。


 コストフの席は、もう空いていた。


 その斜め後ろにいた若い男もいなかった。


 ディナーの間、何度かコストフのテーブルへ顔を出していた。二十代前半。白いディナージャケットに黒のパンツ。時計だけが妙に高そうだった。隣に座っていた年配の男と顔が似ていた。


 フィンは譜面をまとめ、スタッフへ渡した。


「Thank you. Good night.(ありがとう。おやすみ)」


 そのまま裏手の通路へ入った。


 部屋へ戻ると、ボウタイを外した。


 クローゼットから、くすんだハニーゴールドのジャケットを出して椅子に掛けた。照明の下では黄味が立ち、廊下へ出ると淡い金茶に沈む色だった。


 シャツの襟を二つ開けた。


 髪を一度濡らして前髪を上げ、時計も替えた。ジャケットを着た。袖口を確認し、ポケットへ薄いカードケースだけを入れた。


 部屋を出た。


 夕食時より歩幅が狭くなり、肩から力が抜けている。廊下ですれ違った女が一度振り返ったが、フィンは見なかった。


 十一階のラウンジへ入った。


 窓際にはまだいくつか客が残っていた。照明は落とされ、テーブルの上だけが琥珀色に照らされている。窓の外には黒い海が続いていた。


 フィンはカウンターでスコッチを頼んだ。


 真ん中のカウンター席へ座った。


「着替えてラウンジで待機中。来るはずだよ」


『了解』アルノから返答があった。


 グラスを傾けながら、窓の外を見ていた。


 スコッチを一口飲んだ。


 カウンターの上を鍵盤に見立てて、左手を動かした。


「やっぱり」


 声がした。


 フィンが振り向いた。


 ディナーで見た若い男だった。


 白いジャケットは脱いでいた。薄いブルーのシャツの袖を肘まで捲り、首元のボタンも開いている。


「下でピアノ弾いてた人」


 フィンは一度、男を見た。フィンに笑顔は無かった。伏し目がちに視線をグラスに移した。


「人違いじゃないですか」


 男がその視線を見て、一拍止まった。それから、笑った。


「僕、顔覚えるの得意なんだ」


「……」


「名前はなんていうの?」


 フィンは右手でグラスを持ち、一口飲んだ。


「演目表に書いてあったと思うけど」


 男は少し嬉しそうに笑った。


「オリヴァー・グラント」男は言った。


 フィンははじめて男に笑った。


「やっぱり見てた」


「僕はテオ。その話し方、懐かしいな」


「そっちも随分だね」


「学校どこ?」


「真面目に通ってなかったから秘密」フィンは言った。


 テオは空いている椅子へ手をかけた。


「座っていい?」


「一人で飲みたい気分だったんだけど」


 フィンはそう言いながら、隣の椅子に置いていた端末をポケットにしまった。


「僕は君と飲みたい気分」


「……勝手にすれば」


 男が隣に座った。


 バーテンダーへフィンのグラスを指差した。


「同じので」


「真似するんだ」


 テオが笑った。


 グラスが届いた。


 ひと口飲んで、眉を寄せた。


「んー、強い」


 フィンが少し笑った。


「そんなに俺のこと気に入ったの?」


「うん。今、話し方でもっと好きになった」


「直球だね」


 テオは肘をカウンターへ置いた。


「ピアノ、よかった」


「……ありがとう」


「ずっと見てた」


「あんな風にみられてたら気づくよ」


 テオが笑った。


「いつから気づいてた?」


「三曲目くらいから」


「そうなの?」


「俺、顔覚えるの得意なの」フィンが言った。


 テオが声を出して笑った。


 しばらく、船の話をしていた。フィンはただ聞いていた。


「マニラまで乗るんだ。僕はほんと興味ないんだけど」


「そっか」


「父はずっと仕事」


「船の上でも?」


「ずっと。今日もコストフとかいう爺さんと喋ってた」


 フィンはグラスの氷を一度転がした。


「ディナーの奥にいた人?」


「そう。感じ悪いだろ」


「話したことないから分からないよ」


「話さない方がいいよ、あんなのと」


 テオはスコッチをもう一口飲んだ。


「明日もお父さんの仕事?」


「うん。でも夕方にはやっと終わるって」


「じゃあ、テオは日中は暇なんだ」


「僕はね」


 テオがフィンを見た。


「オリヴァーは?」


「たぶん」


「明日も会える?」


「急ぐね」


「船、すぐ着いちゃうし」


 フィンは笑った。


「そうだね」


 テオは少し身体を寄せた。


「コストフのせいで昨日、部屋戻れたの夜中だよ。僕まで」


「そうなんだ」


「二十二時くらいになると、コストフだけ煙草吸いに後ろへ出るけど」


 フィンの表情は変わらなかった。


「煙草?」


「葉巻か何か。臭いやつ。毎日そんならしいよ、昨日もそうだったし」


「へえ。臭いのは嫌だなあ。体にも悪いし」


「間違いないよ。僕も煙草嫌いなんだ」


「吸う人の気がしれないよね」


「うんうん」


 フィンは、少ししてから聞いた。


「ディナーで、もう一人よく出入りしてたよね。黒髪の、眼鏡の人」


「ああ。エスポジト?あいつ嫌われてるよ」


「なんで?」


「細かいからじゃない?ずっと端末持ってるし。七階から全然出てこないって言ってた」


「仕事熱心な人か。やだねー」


「ね。気持ち悪いよ。船まで来て部屋に籠ってるんだぜ」


 フィンは笑った。


 テオの靴先が、フィンの脚に触れた。


 フィンは脚を引かなかった。テオを見た。


 テオの視線が、フィンの開いた襟元へ落ちた。


 それから顔へ戻った。


「恋人いる?」


「どうして?」


「どこまでやったら怒られるかなって」


「怒られることしてないよ」


 テオは少し迷ってから、フィンの袖口へ指を触れた。


 白いシャツのカフを撫でた。


「……かわいい」テオが言った。


 フィンが目を上げた。


「俺が?」


「うん」


 フィンは一拍、テオを見た。


「そっか」


 フィンはその手を見た。


「かわいいって言われるの、嫌?」テオが言った。


 フィンはグラスへ視線を落とした。


「別に」


 テオの喉が動いた。


 何か言いかけて、やめた。


 フィンが視界の端でそれを見ていた。


 しばらく二人でそうしていた。


 フィンが一度テオの顔を見て、テオがそれに気づいて笑った。


 テオが下を向いた。指が一瞬動いた。


 フィンが何も言わずテオを見た。足を揺らした。


「ねえ」


「……何?」テオが少し顔を上げた。


 フィンは待った。


 テオから言葉が出てこなかった。


 フィンはカウンターを指先で三回叩いた。視線は一度、エレベーターの扉上部の階数表示へ流れた。


 テオへ顔が戻った時には、また同じ笑顔をしていた。


「ここじゃ、ゆっくり話せないね」


 テオがフィンを見て、それからフィンの唇を見た。すぐに視線を上げた。


「行こ?」テオが言った。


 フィンは一拍待った。


「お父さん帰ってこない?」


「僕と兄は一人一部屋だよ」


「お兄ちゃんいるんだ」


「次男だから、僕が何しててもあんまり気にされない」


 フィンは笑った。


「便利だよね、下って」


 少しして、その笑顔が引いた。


「君も?」


「俺は三番目。末っ子」フィンが言った。


 テオが少し驚いた顔をして、フィンを見ていた。


 フィンは残っていたスコッチを飲み干した。


 グラスをカウンターへ置いて、立ち上がった。


「案内して」


 テオもすぐ立った。テオのスコッチは残っていた。


 二人で並ぶと、少しだけテオの方が身長が高かった。


「……嬉しい」


「早く」フィンはテオの手を引いた。二人の金髪が揺れた。

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