オリヴァー・グラント
午後十時四十五分。
エリの名前を告げただけで、一般客用のラウンジとは別の扉が開いた。
ユキナガはイヤーピースへ触れた。
「アルノ。これ、当たりだわ」
イヤーピースを外した。襟裏に仕込んだマイクはそのままにした。
中には二十人ほどいた。窓際に小さなバーがあり、中央には低いテーブルがいくつか置かれている。船の制服を着ていないスタッフが、客の間をグラスを持って歩いていた。
エリは入口でシャンパンを受け取ると、そのまま腕を絡めた。さっきまでより近かった。
「友達、紹介するわ」
窓際にいた女がエリに気づき、グラスを持ったまま近づいてきた。
女の視線が、ユキナガの顔から開いた襟元へ落ちた。
「へえ」
「何その反応」
「あなたが連れてくるなら、もっと酷いの想像してた」
ユキナガは苦笑いした。
しばらく三人で話した。
「この船、彼女のお父様の会社なのよ」
「ほんとにいたんだ」
エリがユキナガを見た。
「疑ってたの?」
「ちょっとだけね」
女が笑ったところで、黒いスーツのスタッフが横から声をかけた。
「明日の十二階後部ですが、二十一時半以降は予定通りクローズで?」
「ええ。父のゲストだけにして」
「西側のサービスエレベーターは」
「スタッフが使うから、そのままで」
スタッフが離れた。
ユキナガはテーブルからシャンパンを一杯取った。一歩エリから距離を取った。
イヤーピースを耳に入れた。
「取れた?」
『はい』
「じゃ、楽しんできまーす」
ユキナガは返事を聞く前にイヤーピースをポケットに入れてシャンパンを飲んだ。
後ろから足音がして、エリがユキナガの腕を引いた。
エリがユキナガのシャンパンを取って、一口飲んだ。
自分のシャンパンをユキナガに渡した。
ユキナガが彼女のシャンパンを飲んだ。
「何?かわいいことしちゃって」
エリがユキナガの手を取った。指先を一度なぞってから、そのまま引いた。
「まだ見せたいものがあるの」
グラスの中で、細かな泡が上がり続けていた。
エリに手を引かれ、ラウンジの奥にある別の扉へ入った。
冷えた空気と、甘い香水の匂いがした。
壁際のソファに、若い男女が六人並んでいた。
誰も酒を持っていなかった。荷物もない。女が一人、俯いたまま泣いていた。隣の男も目元を腫らしている。
テーブルにはパスポートが束になっていた。
開いた端末に、六人の顔写真が並んでいる。
写真の横には、ドル記号のついた数字が並んでいた。
ユキナガの足が一瞬止まった。
「……なに、これ」
エリが振り返った。
「商品の人たちだよ」
ユキナガの喉が一度動いた。目を瞬いて、エリを見た。
エリはさっきと同じ笑顔で、泣いている人たちを見ていた。
「……なんで、商品になっちゃったの」ユキナガが言った。
「借金あるとか色々みたい。親が悪いんじゃない?」
エリはそう言って笑った。
「泣いても変わんないのにね」
ユキナガはエリを見た。
数秒、何も言わなかった。
「……へえ」
笑った。
襟の裏には、まだマイクがあった。
奥から男たちの声がした。
「三人はマニラ。残りはセブ」
「今回は一人も船内で死なせずに」
「わかってるよ」
エリがユキナガの腕へ絡んだ。ユキナガを見た。
「ねえ。あんまり面白くなかった?」
ユキナガはエリを見た。
「こういうの、いつもあるの?」
「毎回じゃないよ。今回は少ないかも」
「どこから来るの?」
「知らない。七階の人たちがやってるんじゃない?」
「七階?」
「そこに行って話したら、買って帰れるって」
ユキナガが止まった。
エリがユキナガの顔を見てから、言った。
「人が商品なのって、なんか面白くない?」
「…俺、エリの笑顔見てる方が楽しいかも」
エリは少し考えた表情をした。
「欲しかったら買ってあげるのに」
「エリと二人きりがいい」
エリが笑った。
「部屋行こ」
ユキナガはもう一度、ソファを見た。
泣いていた女が、両手で口を押さえていた。
「……行こっか」
エリに手を引かれ、扉を出た。
背後で電子錠が閉まった。
演奏を終えたフィンは、最後の和音が消えるまで鍵盤から手を離さなかった。
客席から拍手が上がった。
フィンは椅子に座ったまま軽く頭を下げ、ピアノの蓋を閉じた。
コストフの席は、もう空いていた。
その斜め後ろにいた若い男もいなかった。
ディナーの間、何度かコストフのテーブルへ顔を出していた。二十代前半。白いディナージャケットに黒のパンツ。時計だけが妙に高そうだった。隣に座っていた年配の男と顔が似ていた。
フィンは譜面をまとめ、スタッフへ渡した。
「Thank you. Good night.(ありがとう。おやすみ)」
そのまま裏手の通路へ入った。
部屋へ戻ると、ボウタイを外した。
クローゼットから、くすんだハニーゴールドのジャケットを出して椅子に掛けた。照明の下では黄味が立ち、廊下へ出ると淡い金茶に沈む色だった。
シャツの襟を二つ開けた。
髪を一度濡らして前髪を上げ、時計も替えた。ジャケットを着た。袖口を確認し、ポケットへ薄いカードケースだけを入れた。
部屋を出た。
夕食時より歩幅が狭くなり、肩から力が抜けている。廊下ですれ違った女が一度振り返ったが、フィンは見なかった。
十一階のラウンジへ入った。
窓際にはまだいくつか客が残っていた。照明は落とされ、テーブルの上だけが琥珀色に照らされている。窓の外には黒い海が続いていた。
フィンはカウンターでスコッチを頼んだ。
真ん中のカウンター席へ座った。
「着替えてラウンジで待機中。来るはずだよ」
『了解』アルノから返答があった。
グラスを傾けながら、窓の外を見ていた。
スコッチを一口飲んだ。
カウンターの上を鍵盤に見立てて、左手を動かした。
「やっぱり」
声がした。
フィンが振り向いた。
ディナーで見た若い男だった。
白いジャケットは脱いでいた。薄いブルーのシャツの袖を肘まで捲り、首元のボタンも開いている。
「下でピアノ弾いてた人」
フィンは一度、男を見た。フィンに笑顔は無かった。伏し目がちに視線をグラスに移した。
「人違いじゃないですか」
男がその視線を見て、一拍止まった。それから、笑った。
「僕、顔覚えるの得意なんだ」
「……」
「名前はなんていうの?」
フィンは右手でグラスを持ち、一口飲んだ。
「演目表に書いてあったと思うけど」
男は少し嬉しそうに笑った。
「オリヴァー・グラント」男は言った。
フィンははじめて男に笑った。
「やっぱり見てた」
「僕はテオ。その話し方、懐かしいな」
「そっちも随分だね」
「学校どこ?」
「真面目に通ってなかったから秘密」フィンは言った。
テオは空いている椅子へ手をかけた。
「座っていい?」
「一人で飲みたい気分だったんだけど」
フィンはそう言いながら、隣の椅子に置いていた端末をポケットにしまった。
「僕は君と飲みたい気分」
「……勝手にすれば」
男が隣に座った。
バーテンダーへフィンのグラスを指差した。
「同じので」
「真似するんだ」
テオが笑った。
グラスが届いた。
ひと口飲んで、眉を寄せた。
「んー、強い」
フィンが少し笑った。
「そんなに俺のこと気に入ったの?」
「うん。今、話し方でもっと好きになった」
「直球だね」
テオは肘をカウンターへ置いた。
「ピアノ、よかった」
「……ありがとう」
「ずっと見てた」
「あんな風にみられてたら気づくよ」
テオが笑った。
「いつから気づいてた?」
「三曲目くらいから」
「そうなの?」
「俺、顔覚えるの得意なの」フィンが言った。
テオが声を出して笑った。
しばらく、船の話をしていた。フィンはただ聞いていた。
「マニラまで乗るんだ。僕はほんと興味ないんだけど」
「そっか」
「父はずっと仕事」
「船の上でも?」
「ずっと。今日もコストフとかいう爺さんと喋ってた」
フィンはグラスの氷を一度転がした。
「ディナーの奥にいた人?」
「そう。感じ悪いだろ」
「話したことないから分からないよ」
「話さない方がいいよ、あんなのと」
テオはスコッチをもう一口飲んだ。
「明日もお父さんの仕事?」
「うん。でも夕方にはやっと終わるって」
「じゃあ、テオは日中は暇なんだ」
「僕はね」
テオがフィンを見た。
「オリヴァーは?」
「たぶん」
「明日も会える?」
「急ぐね」
「船、すぐ着いちゃうし」
フィンは笑った。
「そうだね」
テオは少し身体を寄せた。
「コストフのせいで昨日、部屋戻れたの夜中だよ。僕まで」
「そうなんだ」
「二十二時くらいになると、コストフだけ煙草吸いに後ろへ出るけど」
フィンの表情は変わらなかった。
「煙草?」
「葉巻か何か。臭いやつ。毎日そんならしいよ、昨日もそうだったし」
「へえ。臭いのは嫌だなあ。体にも悪いし」
「間違いないよ。僕も煙草嫌いなんだ」
「吸う人の気がしれないよね」
「うんうん」
フィンは、少ししてから聞いた。
「ディナーで、もう一人よく出入りしてたよね。黒髪の、眼鏡の人」
「ああ。エスポジト?あいつ嫌われてるよ」
「なんで?」
「細かいからじゃない?ずっと端末持ってるし。七階から全然出てこないって言ってた」
「仕事熱心な人か。やだねー」
「ね。気持ち悪いよ。船まで来て部屋に籠ってるんだぜ」
フィンは笑った。
テオの靴先が、フィンの脚に触れた。
フィンは脚を引かなかった。テオを見た。
テオの視線が、フィンの開いた襟元へ落ちた。
それから顔へ戻った。
「恋人いる?」
「どうして?」
「どこまでやったら怒られるかなって」
「怒られることしてないよ」
テオは少し迷ってから、フィンの袖口へ指を触れた。
白いシャツのカフを撫でた。
「……かわいい」テオが言った。
フィンが目を上げた。
「俺が?」
「うん」
フィンは一拍、テオを見た。
「そっか」
フィンはその手を見た。
「かわいいって言われるの、嫌?」テオが言った。
フィンはグラスへ視線を落とした。
「別に」
テオの喉が動いた。
何か言いかけて、やめた。
フィンが視界の端でそれを見ていた。
しばらく二人でそうしていた。
フィンが一度テオの顔を見て、テオがそれに気づいて笑った。
テオが下を向いた。指が一瞬動いた。
フィンが何も言わずテオを見た。足を揺らした。
「ねえ」
「……何?」テオが少し顔を上げた。
フィンは待った。
テオから言葉が出てこなかった。
フィンはカウンターを指先で三回叩いた。視線は一度、エレベーターの扉上部の階数表示へ流れた。
テオへ顔が戻った時には、また同じ笑顔をしていた。
「ここじゃ、ゆっくり話せないね」
テオがフィンを見て、それからフィンの唇を見た。すぐに視線を上げた。
「行こ?」テオが言った。
フィンは一拍待った。
「お父さん帰ってこない?」
「僕と兄は一人一部屋だよ」
「お兄ちゃんいるんだ」
「次男だから、僕が何しててもあんまり気にされない」
フィンは笑った。
「便利だよね、下って」
少しして、その笑顔が引いた。
「君も?」
「俺は三番目。末っ子」フィンが言った。
テオが少し驚いた顔をして、フィンを見ていた。
フィンは残っていたスコッチを飲み干した。
グラスをカウンターへ置いて、立ち上がった。
「案内して」
テオもすぐ立った。テオのスコッチは残っていた。
二人で並ぶと、少しだけテオの方が身長が高かった。
「……嬉しい」
「早く」フィンはテオの手を引いた。二人の金髪が揺れた。




