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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第六章「浮遊する標的 ― Drifting Target」

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三拍子の距離



 二人が部屋へ戻って間もなく、セレネ・ステラは那覇港を離れた。窓の外を若狭ふ頭の照明がゆっくり横へ流れ、船体の下から伝わる振動が、停泊中とは違う低さに変わった。



 夜になった。


 ディナーは八階のメインダイニングだった。


 数百人の乗客で賑わう広いホールの中央に、吹き抜けの天井から、枝を広げるようなシャンデリアが二基下がっていた。


 窓の外はもう暗かった。ダイニングの照明がガラスへ映り込み、その向こうに黒い海があった。


 リヴァはカイの腕を取ってVIPエリアに入った。マーメイドラインの裾が歩くたびに床を滑った。背中の開いたところへ空調の冷気が触れた。


 アルノが斜め後ろについた。手には薄い革のケースを持っていた。


「右奥、柱の手前です」アルノは小声で言った。


 カイがそちらへ視線を流した。


 奥のテーブルにコストフがいた。近くに男が二人いた。二人とも料理にはほとんど手をつけず、周囲を見ていた。


「本人?」リヴァは小声で言った。


「ああ」カイが言った。「護衛は見える範囲で二人」


 奥のステージで、生演奏が流れていた。


 弦楽四重奏とピアノ。


 ピアノにフィンがいた。金髪が照明の下で光っていた。指が鍵盤の上を流れていた。


 ガーシュウィンの「Someone to Watch Over Me」だった。


 ジャズのスタンダード。ゆったりした、優しい曲だった。


 演奏しながら、客席を見ていた。


 コストフの席へ近づいた人間だけは、一度ずつ目で追っていた。


 視線が自然に流れ、その途中でリヴァを見つけた。


 一瞬だけ目が合った。


 フィンが少しだけ口の端を上げた。それから、また鍵盤に視線を戻した。


「フィン、本当に弾いてる」リヴァは小声で言った。


「大学でDrama(演劇)を専攻していたそうです」アルノは小声で言った。「ピアノは副専攻」


「副専攻…」


 曲が終わると、近くのテーブルから控えめな拍手が起きた。フィンは椅子に座ったまま軽く頭を下げ、譜面を一枚めくった。


 その頃、ヴィクトルがダイニングに入ってきた。


 入口のクルーがヴィクトルを見て、一度姿勢を正した。


 ヴィクトルは足を止めなかった。


 リヴァ達とは別のテーブルに座った。一人だった。隣のテーブルに知り合いの富裕層客がいるらしく、軽く挨拶していた。ロシア語だった。


 話しながら、コストフのテーブルへ挨拶に向かう客を見ていた。


 席に着いた。


 カイがメニューを開いた。


 革張りの表紙の内側に、その夜のコースがフランス語と英語で印刷されていた。銀のカトラリーは左右に四本ずつ並び、水のグラスと三種類のワイングラスが上側に置かれている。


 カイがフランス語で注文した。


「Un Pommard 2018, s'il vous plaît.(ポマール2018を)」


 ウェイターが自然に頷いた。


 二言三言やり取りしてから去っていった。


 リヴァが眉間に皺を寄せて見ていた。


「フランス語、できるの」


「少し」


「知らなかった」


「なかなか使う機会がない」


 カイは立ち上がった。


 ナプキンを開いた。リヴァの膝にかけた。


 カイは戻って自分のナプキンを広げて、メニューへ視線を戻した。


 最初の皿が届いた。白い磁器の小皿に、帆立と柑橘を合わせた一口分が置かれていた。その次に冷たいスープが来て、皿が下がる頃にはワインがグラスへ注がれていた。


 続いて、フォアグラのポワレ。リヴァの皿の前に置かれた。表面に焼き色がつき、無花果のソースが細く引かれていた。


 カイがフォークとナイフを取った。一切れ切り分けた。


「フォアグラ、あんま好きくない…」


「食べろ。奥様だろ」


 カイが半分だけリヴァの皿から自分の皿にフォアグラを置いた。


 リヴァがカイを見た。


「…なんか今日、楽しんでない?」


「していない」


「……たべてよ」


「……」


 残りのフォアグラも自分の皿に乗せた。



 ヴィクトルが遠くから見ていた。


 ウェイターを呼んだ。


「Excusez-(すみません)moi」ヴィクトルは言った。


 ウェイターが腰を屈めた。


 ヴィクトルが何か告げた。


 しばらくして、リヴァたちのテーブルにシャンパンが届いた。


 細長いボトルから、淡い金色がフルートグラスへ注がれた。細かな泡が底から絶えず上がっていた。


 小さなカードが添えられていた。


 フランス語で何か書いてあった。


 カイが読んだ。


「Pour la plus belle femme du bateau」


「どういう意味」


「船で一番美しい女性へ」


「……」


 カイがカードを置いた。


「ヴィクトル」小声で言った。


 遠くのヴィクトルがこちらを見ていた。リヴァがグラスを少し持ち上げると、ヴィクトルも自分のグラスを上げた。


 ディナーの後、ホールでダンスが始まった。


 カイがリヴァの手を取った。


「踊るぞ」


「え、踊れるの」


「米軍の社交場で覚えた」


 リヴァが少し止まった。


 カイがリヴァをホールに連れ出した。


 弦楽四重奏が、ワルツを弾いていた。


 カイがリヴァの腰を引き寄せた。


 左手でリヴァの右手を取って、右手を腰に添えた。基本の構えだった。でも構え方が正確だった。背筋が伸び、肩の位置が一定で、重心がほとんど揺れなかった。


「カイ、本当に踊れるんだ」


 二人が動き出した。


「腕は」


「大丈夫」


「痛んだらすぐ言え」


 ベーシックなワルツのステップ。動きは完璧だった。ただ、一歩ごとの角度が揃いすぎていて、踊りというよりも手順に近かった。


 ドレスの裾が一拍遅れて円を描いた。ターンするたび、シャンパンゴールドの生地にシャンデリアの光が移った。


「ねえ、やっぱ楽しんでる?」


「……まあ」


 カイが少しだけ強く腰を引き寄せた。


 リヴァが息を吐いた。


 遠くのテーブルから、ヴィクトルが見ていた。


 眉間にしわが寄っていた。


 ウェイターを呼んだ。


「シャンパンをもう一杯」


「かしこまりました」


 ウェイターが下がった。


 フィンが演奏を続けていた。曲が変わっていた。ガーシュウィンから、ショパンの前奏曲へ移っていった。

 


 リヴァがターンをした際に、視界に黒い影が映った。


 遠くから、男がこちらを見ていた。


 アンバーの瞳。周りの人間より頭一つ高い。


 カイが腰を支えた。


「どうした」


「あの人」


 カイがリヴァの見ている方向を見た。


 男はもう、視線を外していた。


 ステージの方へ一度目を戻したあと、壁から離れ、ゆっくりとホールの出口へ向かった。


 黒いタキシードの背中が、人混みの間を抜けた。足音がしなかった。


 カイが一秒、その背中を見た。


「……同業者かもしれない」


 カイがリヴァの手を握り直した。


 ワルツが続いていた。


 カイがリヴァを引き寄せた。


 さっきより近かった。




 リヴァは一人でデッキへ出た。


 カイはさっきの男について、アルノに報告している。


 手すり沿いの照明は低く抑えられていた。足元を照らす金色の光が一定の間隔で続き、その外側には海しかなかった。


 陸の灯りは見えなかった。


 水平線も夜空との境目がほとんど消えていた。


 ホールを出る前、バーで頼んだロブ・ロイのグラスを片手に持っていた。


 ステムのある小さなカクテルグラスで、赤みがかった琥珀色の液体にレモンピールが細く浮いていた。


 Marlboroを一本出した。


 一口吸って、煙を横へ吐いた。煙はすぐに崩れ、船尾側へ流れていった。


 グラスを持ち上げた。


 最初にウイスキーが来て、そのあとに甘さとハーブの匂いが残った。


 船の明かりが海面へ長く落ちていた。白い航跡が暗い海の中でほどけ、その先は何も見えなかった。


 リヴァはグラスをテーブルに置いた。手すりに肘を置いて、頬をのせた。


「もう疲れた…」


 煙草の先が赤くなった。


 香水の匂いがした。


「ヴィクトル?」


 リヴァは手すりに頬を乗せたまま、横を見た。


「当たった」


 ヴィクトルが来た。ジャケットの前を開け、片手にグラスを持っていた。


 笑っていた。


「匂いまで覚えてもらえるなんて光栄だな」


「アル…ハインツが、ヴィクトル船見てたって言ってた」


「離岸は見た方がいい」


「そうなんだ」


 ヴィクトルは手すりの向こうを見た。白い航跡が黒い海へ長く伸びていた。


「この大きさで、ほとんど揺れない。いい船だ」


「ふうん」


「興味ないな?」


 ヴィクトルが笑った。


「海はいい。視界が広い」


 リヴァの隣に立ち、腰へ手を回そうとした。


「やめて」


 ヴィクトルの手が止まった。


「…今日はいつにも増して厳しいな」


「カイにいっぱい触られたから、もういい」


「……それを俺に言うのか」


「何が」


 ヴィクトルは答えず煙草を吸った。


 リヴァが手すりに頬をつけたまま、左手を持ち上げた。照明の下で薬指の婚約指輪が光った。中心に大きなダイヤがついていた。根元側には結婚指輪もついていた。


「これ、重い」


「それだけデカいの付いてたらな」


「いくらするの」


 ヴィクトルが少し笑った。


「女は一生知らなくていい質問だな」


「車買える?」


「家一軒は買えるな」


「外していい?」


「もっと高いのが良かったか?」


「……」


 リヴァが指輪を一度触ってから、念のため右手で煙草を吸った。


「お前とカイは今夜もう終わりだ。俺たちはもう少し情報を取ってくる。アルノも連れていく」


「頑張って」


「軽いな」


「撃ってるより疲れるとは思わなかったんだもん」


 ヴィクトルはグラスを飲み、もう一度船尾の方を見た。


 煙を吐いた。タイミングが重なった。


「部屋、ダブルベッドだろ」


「……そうだっけ」


「二人で仲良く寝るのか」


「……なにそれ」


 ヴィクトルがリヴァを向いた。リヴァも顔を上げて、ヴィクトルを見た。


「俺の部屋はツインだ」


 リヴァが笑った。


「カイとダブルか、ヴィクトルとツインならカイとの方が安全そう」


「そうか?」


 リヴァは一瞬右上を向いた。


「……やっぱカイは床に寝てもらう」


 航跡は暗い海の上をまっすぐ伸びていた。


"everything i wanted" / Billie Eilish

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