三拍子の距離
二人が部屋へ戻って間もなく、セレネ・ステラは那覇港を離れた。窓の外を若狭ふ頭の照明がゆっくり横へ流れ、船体の下から伝わる振動が、停泊中とは違う低さに変わった。
夜になった。
ディナーは八階のメインダイニングだった。
数百人の乗客で賑わう広いホールの中央に、吹き抜けの天井から、枝を広げるようなシャンデリアが二基下がっていた。
窓の外はもう暗かった。ダイニングの照明がガラスへ映り込み、その向こうに黒い海があった。
リヴァはカイの腕を取ってVIPエリアに入った。マーメイドラインの裾が歩くたびに床を滑った。背中の開いたところへ空調の冷気が触れた。
アルノが斜め後ろについた。手には薄い革のケースを持っていた。
「右奥、柱の手前です」アルノは小声で言った。
カイがそちらへ視線を流した。
奥のテーブルにコストフがいた。近くに男が二人いた。二人とも料理にはほとんど手をつけず、周囲を見ていた。
「本人?」リヴァは小声で言った。
「ああ」カイが言った。「護衛は見える範囲で二人」
奥のステージで、生演奏が流れていた。
弦楽四重奏とピアノ。
ピアノにフィンがいた。金髪が照明の下で光っていた。指が鍵盤の上を流れていた。
ガーシュウィンの「Someone to Watch Over Me」だった。
ジャズのスタンダード。ゆったりした、優しい曲だった。
演奏しながら、客席を見ていた。
コストフの席へ近づいた人間だけは、一度ずつ目で追っていた。
視線が自然に流れ、その途中でリヴァを見つけた。
一瞬だけ目が合った。
フィンが少しだけ口の端を上げた。それから、また鍵盤に視線を戻した。
「フィン、本当に弾いてる」リヴァは小声で言った。
「大学でDramaを専攻していたそうです」アルノは小声で言った。「ピアノは副専攻」
「副専攻…」
曲が終わると、近くのテーブルから控えめな拍手が起きた。フィンは椅子に座ったまま軽く頭を下げ、譜面を一枚めくった。
その頃、ヴィクトルがダイニングに入ってきた。
入口のクルーがヴィクトルを見て、一度姿勢を正した。
ヴィクトルは足を止めなかった。
リヴァ達とは別のテーブルに座った。一人だった。隣のテーブルに知り合いの富裕層客がいるらしく、軽く挨拶していた。ロシア語だった。
話しながら、コストフのテーブルへ挨拶に向かう客を見ていた。
席に着いた。
カイがメニューを開いた。
革張りの表紙の内側に、その夜のコースがフランス語と英語で印刷されていた。銀のカトラリーは左右に四本ずつ並び、水のグラスと三種類のワイングラスが上側に置かれている。
カイがフランス語で注文した。
「Un Pommard 2018, s'il vous plaît.(ポマール2018を)」
ウェイターが自然に頷いた。
二言三言やり取りしてから去っていった。
リヴァが眉間に皺を寄せて見ていた。
「フランス語、できるの」
「少し」
「知らなかった」
「なかなか使う機会がない」
カイは立ち上がった。
ナプキンを開いた。リヴァの膝にかけた。
カイは戻って自分のナプキンを広げて、メニューへ視線を戻した。
最初の皿が届いた。白い磁器の小皿に、帆立と柑橘を合わせた一口分が置かれていた。その次に冷たいスープが来て、皿が下がる頃にはワインがグラスへ注がれていた。
続いて、フォアグラのポワレ。リヴァの皿の前に置かれた。表面に焼き色がつき、無花果のソースが細く引かれていた。
カイがフォークとナイフを取った。一切れ切り分けた。
「フォアグラ、あんま好きくない…」
「食べろ。奥様だろ」
カイが半分だけリヴァの皿から自分の皿にフォアグラを置いた。
リヴァがカイを見た。
「…なんか今日、楽しんでない?」
「していない」
「……たべてよ」
「……」
残りのフォアグラも自分の皿に乗せた。
ヴィクトルが遠くから見ていた。
ウェイターを呼んだ。
「Excusez-moi」ヴィクトルは言った。
ウェイターが腰を屈めた。
ヴィクトルが何か告げた。
しばらくして、リヴァたちのテーブルにシャンパンが届いた。
細長いボトルから、淡い金色がフルートグラスへ注がれた。細かな泡が底から絶えず上がっていた。
小さなカードが添えられていた。
フランス語で何か書いてあった。
カイが読んだ。
「Pour la plus belle femme du bateau」
「どういう意味」
「船で一番美しい女性へ」
「……」
カイがカードを置いた。
「ヴィクトル」小声で言った。
遠くのヴィクトルがこちらを見ていた。リヴァがグラスを少し持ち上げると、ヴィクトルも自分のグラスを上げた。
ディナーの後、ホールでダンスが始まった。
カイがリヴァの手を取った。
「踊るぞ」
「え、踊れるの」
「米軍の社交場で覚えた」
リヴァが少し止まった。
カイがリヴァをホールに連れ出した。
弦楽四重奏が、ワルツを弾いていた。
カイがリヴァの腰を引き寄せた。
左手でリヴァの右手を取って、右手を腰に添えた。基本の構えだった。でも構え方が正確だった。背筋が伸び、肩の位置が一定で、重心がほとんど揺れなかった。
「カイ、本当に踊れるんだ」
二人が動き出した。
「腕は」
「大丈夫」
「痛んだらすぐ言え」
ベーシックなワルツのステップ。動きは完璧だった。ただ、一歩ごとの角度が揃いすぎていて、踊りというよりも手順に近かった。
ドレスの裾が一拍遅れて円を描いた。ターンするたび、シャンパンゴールドの生地にシャンデリアの光が移った。
「ねえ、やっぱ楽しんでる?」
「……まあ」
カイが少しだけ強く腰を引き寄せた。
リヴァが息を吐いた。
遠くのテーブルから、ヴィクトルが見ていた。
眉間にしわが寄っていた。
ウェイターを呼んだ。
「シャンパンをもう一杯」
「かしこまりました」
ウェイターが下がった。
フィンが演奏を続けていた。曲が変わっていた。ガーシュウィンから、ショパンの前奏曲へ移っていった。
リヴァがターンをした際に、視界に黒い影が映った。
遠くから、男がこちらを見ていた。
アンバーの瞳。周りの人間より頭一つ高い。
カイが腰を支えた。
「どうした」
「あの人」
カイがリヴァの見ている方向を見た。
男はもう、視線を外していた。
ステージの方へ一度目を戻したあと、壁から離れ、ゆっくりとホールの出口へ向かった。
黒いタキシードの背中が、人混みの間を抜けた。足音がしなかった。
カイが一秒、その背中を見た。
「……同業者かもしれない」
カイがリヴァの手を握り直した。
ワルツが続いていた。
カイがリヴァを引き寄せた。
さっきより近かった。
リヴァは一人でデッキへ出た。
カイはさっきの男について、アルノに報告している。
手すり沿いの照明は低く抑えられていた。足元を照らす金色の光が一定の間隔で続き、その外側には海しかなかった。
陸の灯りは見えなかった。
水平線も夜空との境目がほとんど消えていた。
ホールを出る前、バーで頼んだロブ・ロイのグラスを片手に持っていた。
ステムのある小さなカクテルグラスで、赤みがかった琥珀色の液体にレモンピールが細く浮いていた。
Marlboroを一本出した。
一口吸って、煙を横へ吐いた。煙はすぐに崩れ、船尾側へ流れていった。
グラスを持ち上げた。
最初にウイスキーが来て、そのあとに甘さとハーブの匂いが残った。
船の明かりが海面へ長く落ちていた。白い航跡が暗い海の中でほどけ、その先は何も見えなかった。
リヴァはグラスをテーブルに置いた。手すりに肘を置いて、頬をのせた。
「もう疲れた…」
煙草の先が赤くなった。
香水の匂いがした。
「ヴィクトル?」
リヴァは手すりに頬を乗せたまま、横を見た。
「当たった」
ヴィクトルが来た。ジャケットの前を開け、片手にグラスを持っていた。
笑っていた。
「匂いまで覚えてもらえるなんて光栄だな」
「アル…ハインツが、ヴィクトル船見てたって言ってた」
「離岸は見た方がいい」
「そうなんだ」
ヴィクトルは手すりの向こうを見た。白い航跡が黒い海へ長く伸びていた。
「この大きさで、ほとんど揺れない。いい船だ」
「ふうん」
「興味ないな?」
ヴィクトルが笑った。
「海はいい。視界が広い」
リヴァの隣に立ち、腰へ手を回そうとした。
「やめて」
ヴィクトルの手が止まった。
「…今日はいつにも増して厳しいな」
「カイにいっぱい触られたから、もういい」
「……それを俺に言うのか」
「何が」
ヴィクトルは答えず煙草を吸った。
リヴァが手すりに頬をつけたまま、左手を持ち上げた。照明の下で薬指の婚約指輪が光った。中心に大きなダイヤがついていた。根元側には結婚指輪もついていた。
「これ、重い」
「それだけデカいの付いてたらな」
「いくらするの」
ヴィクトルが少し笑った。
「女は一生知らなくていい質問だな」
「車買える?」
「家一軒は買えるな」
「外していい?」
「もっと高いのが良かったか?」
「……」
リヴァが指輪を一度触ってから、念のため右手で煙草を吸った。
「お前とカイは今夜もう終わりだ。俺たちはもう少し情報を取ってくる。アルノも連れていく」
「頑張って」
「軽いな」
「撃ってるより疲れるとは思わなかったんだもん」
ヴィクトルはグラスを飲み、もう一度船尾の方を見た。
煙を吐いた。タイミングが重なった。
「部屋、ダブルベッドだろ」
「……そうだっけ」
「二人で仲良く寝るのか」
「……なにそれ」
ヴィクトルがリヴァを向いた。リヴァも顔を上げて、ヴィクトルを見た。
「俺の部屋はツインだ」
リヴァが笑った。
「カイとダブルか、ヴィクトルとツインならカイとの方が安全そう」
「そうか?」
リヴァは一瞬右上を向いた。
「……やっぱカイは床に寝てもらう」
航跡は暗い海の上をまっすぐ伸びていた。
"everything i wanted" / Billie Eilish




