マセラティ
新拠点 午前十時三十九分。
ノックが四回した。
リヴァがドアを開けると、ヴィクトルがいた。ボルドーのシャツに、黒のスラックス。
「おはよ」
ヴィクトルがリヴァを見た。
頭から足元まで見た。左肩のあたりで、視線が止まった。
「服、決めたか」
「おはようもないの」
「おはよう。ステラの服は」
「ステラ?」
「豪華客船。乗るんだろ」
「クローゼットにあるやつ。クリーニング出せばいいかなって」
「クリーニング」
「うん」
「前に俺が渡したやつのことだよな」
「だめ?」
「クリーニングに出すものじゃない」
「え」
「ああいうのは使い捨てだ」
リヴァの顔から血の気が引いた。
「行くぞ」
「どこに」
「買いに行く。一週間分」
「そんないらない」
「毎晩同じ服を着ていくつもりか」
リヴァが少し間を置いた。
「……まじか」
駐車場に降りた。
マセラティのグラントゥーリズモが停まっていた。ダークグレー。光の角度で青みが出る色だった。
「いつもと色違う」
「銀座に合う方で来た」
「うわあ…」
ヴィクトルが助手席のドアを開けた。リヴァが乗り込もうとした時、ヴィクトルの手が肘の下に添えられた。傷のない側だった。
座席が深かった。腰の位置が低かった。
「自分でできるよ」
ヴィクトルは無言でドアを閉めた。
ヴィクトルが運転席に回った。エンジンをかけた。音が低く響いた。
「なにこれ、うるさい…」
車が地上に出た。
「カイと潜入するんだったな」
「うん。新婚夫婦の設定だって」
少し間があった。
「俺が相手役をやるとアルノに言った」
リヴァがヴィクトルを見た。
「……なんで」
「お前が一人で入るより、俺がいた方が動きやすいだろ。上流階級の立ち回りは慣れてる」
「それは……まあ」
「だが却下された。カイの方がカバーの実績がある、と」
「そうなんだ」
「気にしてるわけじゃない」
リヴァが少し笑った。
ヴィクトルが前を向いたままだった。
「……だから、俺も乗ることにした」
「え。そんなの自由に決めていいの」
「全員分の手配を俺がやった。チケットも、船室も、書類も。ついでに自分の分も入れた」
「職権乱用…」
「ついでだ」
ヴィクトルは笑った。
車がカーブを曲がった。
「カバーに入った人間は視野が狭くなる。外から見る人間がいた方がいいだろ」
リヴァは助手席の窓を見た。首都高に入っていた。
左肩を動かした拍子に、縫合のあたりが引いた。痛みというより、引きつるような感覚だった。
「肩は」
「大丈夫。思ったより浅かった」リヴァは笑った。「撃たれた時は、死んだって思ったけど」
ヴィクトルは言い淀んだ。
「……縫合して、どれくらい経つ」
「四日」
ヴィクトルはそれ以上言わなかった。
銀座の駐車場でヴィクトルが先に降りた。
助手席側に回ってきた。ドアを開けた。手を差し出した。
「いいよ」
手が引かない。
ヴィクトルが小さく首を傾げた。
リヴァは小さく息を吐いて、ヴィクトルの手を取って降りた。
通りの端で、人が数人スマートフォンを向けていた。マセラティに向けていた。
「ヴィクトル」
「ん?」気づいて、笑った。「よくある」
「撮られちゃっていいの」
「目立つ車に乗ってると、本当に隠したいものから目が逸れるだろ」
「……偽造師らしいね」
「だろ」
最初に連れて行かれた店は、看板が小さかった。ウィンドウに何も飾っていない。知らなければ通り過ぎる扉だった。
「ここ、何」
「チェルッティ、知らなくていい」
中に入った。照明が暖かかった。生地のサンプルが壁面に並んでいた。テーラーの男性が近づいてきた。ヴィクトルと短く言葉を交わした。知らない言語だった。
男性がリヴァを見た。頷いた。
「ここで服作るの」リヴァが聞いた。
「五着仕立てる」
「そんなに?」
「足りない」
ヴィクトルはテーラーに短く指示した。
リヴァにはわからない言語だった。けれど、途中で数字だけ聞こえた。
肩幅。ウエスト。腕の長さ。歩幅。
知っている数字が混じっていた。
「……なんで知ってるの」
「見ていればわかる」
「…怖」
「光栄だな」
ヴィクトルは生地のサンプルを手に取った。
指で質感を確かめる動作だった。一枚ずつ、丁寧に触れていた。
「好みは」
「...布みたってわかんないよ」
「わかった。全部選ぶ」
最終的に五種類の生地を並べた。
アイボリーのシルクオーガンジー。深いネイビーのジャカード。オフホワイトのクレープ。バーガンディのベルベット。ミッドナイトブルーのシフォン。
「これで五着作る。三日で仕上がる」
「そんなに早いの」
「急がせる」
店を出る時、ヴィクトルが先に扉を押さえた。
次にフェラガモに移動した。リヴァは自分でドアを開けようとしたが、ヴィクトルの方が早かった。
リヴァは無意識に、壁側に寄る位置を選んでいた。
靴の棚が並んでいた。
「好みは」
「…ヒール細い方が好き」
ヴィクトルが棚の間を歩いた。一足を持ってきた。フェラガモのプリマ。ブラック、カーフスキン。スティレットヒール九センチ。
「試せ」
履いた。ヴィクトルがしゃがんだ。つま先を押した。踵の収まりを確認した。
「歩いてみろ」
歩いた。歩きやすかった。ヒールが細いのに、足が安定していた。
足元だけは、自分で選べる気がした。
「どうだ」
「好き」
「ならこれをベースに、色違いでもう一足」
サンドベージュが追加された。
その後、ルブタンに移った。
赤いソールが見えた瞬間、リヴァが少し止まった。ヴィクトルが気づいた。
「気になるか」
「ううん」
「なってる」
「……かわいいなって」
ヴィクトルが少し笑った。ルブタンのSo Kateを一足追加した。
「俺と趣味が合うな」
「合いたくなかった…」
「あとはこれ。長距離用だ」
マノロでアイボリーのカーフスキンが追加された。
店を出て、地下通路を歩いていた。
次のビルに移動する短い距離だった。
後ろで、鉄のドアが閉まった。
金属が当たる音だった。
リヴァの体が動く前に足が止まった。
「……っ」
息が詰まった。
半歩前を歩いていたヴィクトルの腕を、リヴァが思わず掴んだ。
「...」
ヴィクトルが止まった。
リヴァの指が、シャツの生地越しに腕に食い込んでいた。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
「大丈夫」
「ああ」
リヴァは開けた側ではなく壁際を選んで歩いた。
ヴィクトルが少し体の向きを変えた。リヴァの手が腕から離れないようにしながら、自分の側に引き寄せた。通路の壁側に立たせた。
リヴァが呼吸を一回した。
指の力が、少しずつ抜けた。
歩き出した。
ヴィクトルが今度はリヴァの斜め後ろを歩いた。半歩、距離を詰めたまま歩いた。手は離れていた。
すぐに届く距離だった。
シャンパンゴールドのドレスは最後だった。
別の店で受け取った。テーラー クロトと書かれた看板があった。
「もうできてるの」
「頼んであった」
「先に?」
「お前が行くと決まった時から動いてた」
試着室に入った。
ドレスを着た。
生地が重かった。シルクサテンの滑らかな冷たさが、肌に当たった。
リヴァが出てきた瞬間、座っていたヴィクトルが腰を半分上げた。
そのまま、何も言わない。
数秒そのままだった。
やっと立ち上がった。
「…回れ」
回った。
「……なに」
「いい」
「それだけ?」リヴァは言った。「もうちょっとなにかないの」
ヴィクトルが少し笑った。
「俺が選んだ中で一番いい。俺は今自分の才能を自覚した」
「それ自分を褒めてる」
ヴィクトルは顎を触った。
腕を組んだ。
「…この世界で、今一番綺麗だ」
リヴァが固まった。
「……大げさ」
リヴァはもう一度鏡を見た。
肩の包帯が、シャンパンゴールドの生地の下に隠れていた。何もなかったように見えた。
「ヴィクトル」
「ああ」
「……ありがとう」
「詫びだ」
「なんの?」
「……」
帰りの車の中だった。
日が傾いていた。マセラティのダッシュボードに、夕方の光が落ちていた。
ヴィクトルが赤信号で止まった。
後部座席に手を伸ばした。小さな箱を取った。深い緑のベルベット。リボンはついていなかった。
リヴァの膝の上に置いた。
「何」
「開けろ」
中には、パールのピアスとネックレスがあった。シンプルだった。金具が細かった。それぞれ一粒だけついていた。
奥に、小さなケースが二つ並んでいた。
リヴァが、その二つを見た。
結婚指輪と、婚約指輪だった。
プラチナの婚約指輪の中央に、一粒ダイヤが入っていた。リヴァが見たことのないサイズだった。
「……」
「カイと夫婦設定だ。要る。サイズは合わせてある」
「…いつ測ったの」
「指輪のサイズくらい、見ればわかる」
ヴィクトルはそう言って、ケースを閉じなかった。リヴァの方に向いた。
車はまだ信号で止まっていた。
リヴァの左手を取った。
薬指の付け根を、親指で軽くなぞった。
「……つけてみないの」
ヴィクトルは笑った。一度信号がまだ赤なのを確認した。
「そこまで惨めじゃない」
手はなかなか離れなかった。
リヴァの薬指をまだ確かめていた。
リヴァは指輪を見ていた。
ヴィクトルが指を離した。
すると、ヴィクトルがもう一つ箱を渡した。
「ほかにもいくつか渡しておく。好きに使え」
「え」
「衣装に合わせて適当に。組み合わせは俺が後でメモを渡す」
信号が青になった。マセラティが動き出した。
リヴァは箱を膝に乗せたまま、シンプルなパールのネックレスを指で軽く触った。
「これかわいい」
「だと思った。俺と趣味が合う」
リヴァは車内を見回した。それから、ヴィクトルのボルドーのシャツを見た。
「……そうは思いたく無いかも」
「え?」
間があった。
ヴィクトルが前を向いたままだった。
「……任務が終わっても持ってていい」
車が走っていた。
レストランを通り過ぎたとき、ヴィクトルの目が一瞬そちらに向いた。
ヴィクトルは何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。
車が次の信号で止まった。
「……ヴィクトル」
「ああ」
「今日、本当にありがとう」
窓の外で、銀座の夕方が流れていた。
拠点に戻ると、カイが共用スペースにいた。
リヴァは自室に帰っていた。
ヴィクトルは小さなケースを一つ、カイに投げた。
カイが受け取る。
「何だ」
「お前のだ」
開けると、結婚指輪が入っていた。
「サイズは」
「合ってる」
「いつ測った」
「見ればわかる」
カイがケースを閉じた。
「…気色が悪いな」
ヴィクトルは笑った。
「でも、お前がはめるんだ。俺じゃない」
ヴィクトルは踵を返して、部屋を出た。
"Burning Desire" / Lana Del Rey




