お仕置き
新拠点、十四時三十五分。
正直、最近ぐだっていた。基礎錬だけやっていた。
テキサスから帰ってきて、自由のすばらしさを感じる。
自由の国から帰ってきて、自由を感じるなんて皮肉だ。
猫ばっかり撫でていた。
四日後に任務だとアルノから聞いていたが、詳細はまだ何も出ていなかった。
廊下に出た。
紅茶でも飲もうか、と共用スペースに向かっていた。
後ろから声がした。
「リヴァ」
カイだった。
「何」
「シミュレーター室に来い」
「今?」
「今だ」
リヴァは少し間を置いた。
「わかった」
朝練習して、片づけたばかりだった。
地下シミュレーター室。
電気がついた。
カイが先に入った。棚を開けた。コインを一枚、薬莢を三つ取り出した。
カチャ、と硬い音がした。
カイがゆっくりと振り返った。
「何するの」
「待て、を教える」
一歩、踏み込んできた。
188センチの影が、リヴァの視界を覆った。
「え……」
「テキサスで待てなかった」
「……あれは」
「待てなかった」
短く断ち切った。
カイの指が動いた。首筋から、リヴァの頬の傷へ。ゆっくりと滑った。
リヴァは黙った。
カズマからの傷を見られて、カイとアルノに怒られたばかりだった。
誰にされたかは言わなかったが、おそらくバレていた。
カズマの謹慎は伸びなかった。
「前線なら、恐怖を怒りに変えて死線を越えられる」カイは続けた。「だがスナイパーは違う」
指が止まった。傷の位置を一度だけ確かめるように。
それから離れた。
一拍あった。
「自分が死ぬ理由も、弾がどこから飛んできたのかも、痛みすら感じないまま。冷静なまま死ぬ」
リヴァは何も言えなかった。
「任務が四日後だ」カイは言った。「今日から始める」
指が離れた。
「お仕置きだ」
銃床の上に薬莢が三つ並んでいた。
バレルの先端にコインが一枚、立てかけてあった。
リヴァはうつ伏せに構えていた。
AXMCが肩に食い込んでいた。
スコープのアイピースに目が沿っていた。
カイが後方に立っていた。スポッティングスコープを覗いていた。
「距離、300」カイは言った。「風なし」
「わかった」
「撃つな」
「……わかってる」
テキサスでの空砲訓練に似ていた。でもシミュレーションで撃てる。うれしかった。
「呼吸を保て」
吸った。
半分吐いた。
止めた。
スコープの中に標的があった。
引き金に指をかけた。
「待て」
待った。
肺が、少し重くなった。
「風が入る」カイは言った。「右から毎秒1.8。補正を入れろ」
調整した。
スコープの中で標的が揺れた気がした。揺れていなかった。自分の体が揺れていた。
「待て」
また待った。
薬莢が、銃床の上でわずかに動いた気がした。動いていなかった。
「薬莢が動いた」カイは言った。
「動いてない」言葉を放った衝撃で、一つ落ちた。
「動いたな」
「……」
「もう一度」
最初からやり直した。
薬莢を並べ直した。コインを立て直した。
構えた。
「距離、300。右から毎秒1.8。補正0.4」カイは言った。「呼吸を整えろ」
吸った。
吐いた。
もう一回吸った。
「そこだ」カイは言った。「保て」
保った。
「待て」
待った。
まだ待った。
肺が押し返してきた。
体が引き金を引きたがっていた。
「まだ」カイは言った。低かった。「風が安定していない」
「…してる」
「してない。端末を見ろ」
見た。
風速が0.2上がっていた。
「……」
そこから、五分は待った。
撃ったら、楽になれるのに。今回は撃てるからこそ、そう思った。
まつげがスコープにあたってくすぐったいことが、妙に気になっていた。
かゆい。
そう思って目を強く閉じたら、コインが揺れた。
「…最初から」
三回目だった。
薬莢はまだ銃床の上にあった。コインはまだバレルの先端にあった。
カイがスポッティングスコープから目を離した。
リヴァの後方に来た。
しゃがんだ。
リヴァの肩の高さで、スコープとは別の目線で標的を見た。
「右肩が上がっている」
「上がってない」
「二ミリ上がっている」カイは言った。「肩甲骨を落とせ」
落とした。
「そこだ」
「もう撃てる?」
「待て」
「……」
「1000から7ずつ引け」
「...993、986」
そのままどのくらい経ったか分からないほど長い間、ただ待っていた。
「続けろ」
「...797、790、783」
さらに待った。
スコープをのぞいている右目のまつ毛が当たって、またくすぐったかった。
「風が変わる。照準を合わせろ」
「...524、517」
言いながら、思考がクリアになっていた。
自分の声がなっているのに、カイの声が、よく聞こえるような。
「肩を落とせ。続けろ」
「...510、503、…495」
「違う」
「......…496」
「遅い」
カイがこちらを見ていた。特別なことをしてないのに、リヴァは息が上がっていた。
「距離を500に変える」カイは立ち上がった。端末を操作した。「最初からだ」
リヴァはため息をついた。
「聞こえた」とカイは言った。「次ため息をついたら600にする」
リヴァは黙った。普通に泣きそうだった。
四回目。
距離500だった。
カイがスポッティングスコープを覗いた。
「呼吸」
吸った。
「もう一回」
もう一回吸った。
「そこで止めろ」
止めた。
「風、右から毎秒2.1。補正0.9。弾道降下3.8」カイは低く言った。「そのまま」
保った。
薬莢が銃床の上にあった。コインがバレルの先端にあった。
どちらも動いていなかった。
「この状態で待て」
「ん」
「待て」
カイは何も言わなかった。
スポッティングスコープを覗いたまま、何も言わなかった。
リヴァはスコープの中の標的を見続けた。
肺が重かった。
肩が、少しずつ重くなっていた。
薬莢が、銃床の上でわずかに揺れた。
「動いた」カイは言った。
「……」
「最初から」
「…ぅぅ」
「なんだ」
「…………」
リヴァは何も言えなかった。
七回目だった。
距離はまだ500。
カイがリヴァの隣に来る。
高い体温が近づく。
カイはそのまま、リヴァの隣に滑り込むようにして、並んでうつ伏せになった。
「何してるの」
「見る」カイは言った。
「何を」
「お前を」
耳元で囁かれた低音に、リヴァの肩が跳ねた。
その瞬間、カイの大きな手が、リヴァの背中に置かれた。
肩甲骨から腰にかけて、アイロンをかけるような重みで、ゆっくりとなぞる。
「……っ」
「動くな」
カイの指先が、リヴァのシャツ越しに肋骨の動きを探る。
逃げ場のない床の上で、リヴァは自分の心臓の音が、筒抜けになっているのを感じて息が詰まった。
「呼吸」
カイがさらに体を寄せる。
厚い胸板がリヴァの脇に触れ、彼の匂いと、微かな煙草の香りが視界を占めた。
「合わせろ」
吸った。
カイの大きい胸板に、無理やりリズムを合わされる。
吐いた。
「……っ、苦しい」
「力を抜け」
カイの手が、リヴァの肩甲骨を押し上げた。
動いてはいけない。
呼吸にだけ集中する。
そう自覚した瞬間、全身の強張りが消た。
リヴァの意識はスコープの先に集まった。
不思議な感覚だった。
「止めろ」
止めた。
カイの心音と、リヴァの鼓動が重なり、一つのリズムになる。
静寂が、張り付くような密度で二人を包む。
「風、右から毎秒1.9。補正0.85。弾道降下3.8」
カイの声が、脳内に直接響く。
リヴァの指先が、引き金の上で自分のものではないような滑らかさで動いた。
「今」
――引いた。
訓練は終わらなかった。
次はランニングマシンだった。
「走れ」カイは言った。
「撃つ前に?」
「走れ」
「どのくらい」
「止めるまで」
走った。
最初はゆっくりだった。
カイがスピードを上げた。
上げた。
また上げた。
「……っ、ねえ速すぎ」
「走れ」
走った。
二キロを過ぎた頃、息が乱れてきた。
四キロを過ぎた頃、足が重くなってきた。
「止まれ」カイは言った。
止まった。
息が上がっていた。
「構えろ」
「え」
「すぐ」
AXMCを展開した。
手が、わずかに動いていた。
息が乱れていた。
スコープのアイピースに目を沿わせた。
標的が揺れていた。
自分の息で揺れていた。
「距離300。風なし」カイは言った。スポッティングスコープを覗いていた。「呼吸」
「待って」
「吸え」
「整えないと」
カイは言った。
「吐け」
吸った。吐いた。
止めた。
体が動いていた。微妙に。息が足りていなかった。
集中した。悔しい。
当てる。絶対に。
カイが横から覗き込んできた。
「能力を使うな」
リヴァのスコープを覗く目に、汗が入った。
「……」
「待て」
「………っ」
「今」
引いた。
センターから二十三センチずれていた。
「二十三センチだ」
「わかってる」
「もう一度」カイは言った。「三キロ」
「……おに」
「走れ。五キロ」
三回繰り返した。
走って、構えて、撃つ。
三回目、センターから十五センチだった。
「……十五センチ」とリヴァは言った。息が上がっていた。
「改善した」カイは言った。
「息が乱れてても撃てるようになってるってこと?」
「なってない」カイは答えた。「ただ、乱れた中でも待てるようになっている」
少し間があった。
「これがお仕置き?」
「ただの基礎訓練だ」
「ひどい」
カイがスポッティングスコープをケースに戻した。
「今日はここまでだ」
「…今日?」
「明日もある」
「…毎日?」
「そうだ。明日からは朝六時開始」
リヴァは床に座った。
汗が首筋を伝った。
カイがタオルを投げてきた。
タオルを顔にかぶせた。
「ぅ…」
そのうめき声に、カイは答えてくれなかった。
AXMCの確認を始めていた。
リヴァのものを、自分のものと同じ丁寧さで確認していた。
シミュレーター室に、空調の音だけが続いていた。




