高円寺のシーシャバー&猫爆走
閑話
ユキナガが昼過ぎに共用スペースに来た。
「高円寺行かない。シーシャバーがあるんだよ。いい店」
「シーシャって何」
「水タバコ。煙を水に通して吸う。フルーツの匂いがする」
「吸ったことない」
「じゃあ行こう。七時に出よう」
たまたまアルノが来た。
「どこに行くんですか」
「高円寺。シーシャ」
「……私も行きます」
「え、アルノが?」
「情報収集です」
カイも来た。リヴァを見た。
「行く」
「シーシャだよ」
「吸わない」カイは言った。「お前が行くから行く」
ユキナガが小声でリヴァに言った。
「顔が護衛じゃない顔だよ」
「聞こえてる」カイは言った。
七時に出た。武蔵境から中央線で三駅。高円寺の夜の商店街は人が多かった。
歩き始めて三十秒で、すれ違った女性グループが振り返った。リヴァは気づかなかった。次のすれ違いで、また振り返られた。
「なんか見られてる」リヴァは言った。
「そりゃそうだろ」ユキナガは言った。
カイが前を歩いていた。188センチの深緑の髪が、雑多な看板の中で浮いていた。人混みの中でも空間ができていた。アルノがその隣にいた。高円寺でスーツだった。明らかに顔立ちが周りと違う。
「カイとアルノが並んで歩いてたら道空くから」ユキナガは言った。「慣れた」
飲み屋の客引きが声をかけようとした。カイが通り過ぎた。声が出なかった。アルノが通り過ぎた。声が出なかった。
「……いい夜を」客引きが言った。
シーシャバーは路地の奥にあった。薄暗く、低いソファが並んでいた。甘い匂いが空気に溶けていた。
ユキナガがメニューを開いた。
「フレーバー何がいい。ミント、ダブルアップル、ローズ…」
「ミント」リヴァは言った。
「だと思った。俺はダブルアップル。アルノは」
「ローズにします」
「渋い。カイは吸わないから酒な」
シーシャが運ばれてきた。リヴァが吸った。甘かった。煙が口の中に広がった。軽かった。吐いた。
「……なにこれ」
「いいでしょ」
アルノがローズのホースを受け取った。持ち方が妙に慣れていた。
炭の位置を少しだけ直した。煙の量が安定した。
「……悪くありません」
「やっぱシーシャ行くんじゃん、その感じ」
「日本では初めてです」
一時間ほど経った頃、女性二人が来た。一人がカイの隣に、もう一人がアルノの隣に座った。
「お二人で来てるんですか」一人がカイに言った。酔っていそうだった。
「いや」
「筋肉すごい。触ってもいい?」
「駄目だ」
「なんでダメなの?」
「……いや」
もう一人がアルノに向いた。
「外国の方ですか」
「はい」アルノは端末を見たまま言った。
「お仕事は」
「コンサルタントです」アルノは端末を閉じた。女性を見た。「あなたは」
「え、私ですか。……普通にOLです」
「高円寺はよく来るんですか」
「月に二、三回くらいです」
「誰と来ることが多いんですか」
「えと…友達とか…?」
「固定ですか」
リヴァがユキナガに小声で言った。
「なんか尋問してない?」
「そう見える」ユキナガは言った。「でも端末見てる」
「ながらで仕事してる」
「やばすぎ」
カイの隣の女性がまだ話しかけていた。
「休みの日は何してるのー?」
「仕事だ」
「え、休みの日だよ?」
「そうだ」
アルノが端末を見ながら小声でカイに言った。
「もう少し愛想よくしたらどうですか」
「無理だ」
「”仕事”ならできるのに」
「必要だっただけだ」
リヴァがカイを見た。カイがリヴァを見た。目が合った。カイが少し、眉を動かした。困っていた。リヴァは笑いをこらえた。
二人がやがて戻っていった。
しばらくして、今度はユキナガに女性二人が近づいてきた。
「ねえ、隣いいですか」
「どうぞ」ユキナガは言った。
声が変わっていた。バーテンの声だった。
「シーシャ、詳しいんですか」
「まあ。甘い系が好きなら、ストロベリーミントがいいですよ。さっぱりしてるけど甘みがある」
相手が笑う半拍前に、ユキナガが先に笑っていた。
リヴァがカイに小声で言った。
「ユキナガ、敬語使えたんだ」
「元ホストだろ」カイは言った。
女性二人が席に戻った後、ユキナガがこちらに向き直った。
「待たせたー」
「ホストの話が出なかった」カイが言う。
「関係ない話をする必要がないから」
「プロだ」リヴァが言った。
「元だよ」ユキナガは煙を吐いた。「今はハッ……メカニック」
「なんで言い直した」
「外でハッカーとか言ってんの恥ずいじゃん」
「メカニックの、バーテンですよ」
アルノがかぶせてきた。ちょっと機嫌がよさそうだった。
中央線に乗った。夜の車内は空いていた。四人で並んで座った。リヴァはシーシャの煙の匂いを、まだ少し感じていた。
「また来たい」リヴァは言った。
「いつでも」ユキナガは言った。
「アルノは」
「……来てもいいです」アルノは窓の外を見ながら言った。
「ナンパされに来るんだ」
「違います」
ユキナガが笑った。カイが小さく息を吐いた。
夜の中央線が、静かに続いていた。
朝だった。
アルノが執務室で書類を広げていた。重要書類だった。三時間かけて整理したものだった。
ミントが入ってきた。デスクを見た。飛び乗った。書類の上を歩いた。
「……ミント」
歩いた。
「止まってください」
止まった。書類の上に座った。
アルノがミントを見た。ミントがアルノを見た。
「退いてください」
のどを鳴らした。
アルノはミントを持ち上げて、床に下ろした。ミントがまたデスクに飛び乗った。また書類の上に座った。
アルノは眼鏡を押し上げた。端末を取った。ユキナガにメッセージを送った。
「ミントが書類の上から動きません」
三秒で返信が来た。
「”かわいい”」
「対処法を教えてください」
「”諦めろ!(^^)”」
「諦められません」
「”じゃあ一緒に座れば?”」
アルノは端末を置いた。書類をミントの横にずらした。ミントが横にずれた。また書類の上に座った。
もう一度ずらした。またずれた。また書類の上に座った。五回繰り返した。全部同じ結果だった。
アルノは椅子の背に体を預けた。眼鏡を押し上げた。
ミントがのどを鳴らした。
深夜だった。
ユキナガがモニタールームで作業していた。Marlboroが灰皿に三本溜まっていた。集中していた。
ミントが入ってきた。端末を見た。キーボードの上に乗った。
「ちょっ」
急いで、煙が出ている煙草を消した。その間に画面に文字が出た。
「hjkl;’」
「待って待って」ユキナガがミントを端末から引き剥がした。「それは困る。本当に困る」
床に下ろした。削除した。作業を再開した。ミントがまたキーボードに乗った。
「だから」
「vbnm,./」
「お前、同じとこ歩くな」ユキナガはミントをまた下ろした。「何が楽しいんだよ」
のどを鳴らした。
「……わかったから」ユキナガはミントを膝に乗せた。「ここにいろ。キーボードには乗るな」
のどを鳴らした。
ユキナガは片手でミントを撫でながら、片手で端末を打ち続けた。速度が半分になった。
「……効率悪い」
のどを鳴らした。
昼だった。
カイが共用スペースのテーブルにGauloisesの箱を置いて、少し席を外した。戻ってきた。箱がなかった。
部屋を見た。ミントがいた。Gauloisesの箱を咥えていた。カイを見た。
「……それを返せ」
のどを鳴らした。箱を咥えたまま。
カイが近づいた。ミントが走った。
「……っ」
ミントが廊下に出た。階段を上がった。リヴァの部屋のドアの前で止まった。カイが追いついた。手を伸ばした。ミントがドアの隙間に箱を押し込んだ。リヴァの部屋の中に消えた。
カイはドアの前に立った。ノックした。
「何」リヴァの声がした。
「ミントがGauloisesを持って入った」
少し間があった。
「……本当だ」リヴァは言った。「箱が落ちてる」
ドアが開いた。リヴァがGauloisesの箱を持っていた。箱に歯型がついていた。
「これ、ミントが咥えてたの」
「そうだ」
「なんで」
「わからない」
リヴァが箱をカイに渡した。カイが確認した。歯型が三箇所ついていた。
「……ミント」カイは言った。
ミントがリヴァの後ろからカイを見た。のどを鳴らした。
「次やったら」
のどを鳴らした。
カイは箱をポケットに入れた。何も言わなかった。
ミントがカイの足元に来た。頭をすりつけた。カイは少しの間、ミントを見た。撫でた。
「……一回だけだ」
のどを鳴らした。
夜だった。
共用スペースに全員が集まった。ミントはいなかった。
アルノが口を開いた。
「ミントについて、いくつか共有事項があります」
「今日、書類の上に四十分座っていました」
「俺の端末にも乗った。打った文字列がこれ」
ユキナガが端末を見せた。
「hjkl;’vbnm,./」
リヴァが笑った。
「カイは」リヴァが言った。
「Gauloisesを持って逃げられた」カイは言った。「歯型がついた」
「それは知らなかった」アルノが言った。「当人は何処ですか」
「オラヴルの部屋で寝てるよ。最近あそこばっかり」
「反省していませんね」アルノは言った。
「してないね」リヴァは言った。
「煙草は危ないよ」ユキナガは言った。「誤飲でもしたら」
「……まあ」カイは言った。
「うん」リヴァは言った。
「気を付けましょう」アルノは眼鏡を押し上げた。「私たちが」
カイが煙草の箱をポケットにしまった。
新拠点の夜が、静かに続いていた。




