Ninja
新拠点、午後二十一時三十六分。
その日は、夕方まで眠っていた。寝ていたというより、目を閉じていただけだった。
廊下でカズマに会った。
壁に背を預けて、Lucky Strikeを吸っていた。こちらを見た。
「あ、帰ってきた」
「帰ってきたよ」
「お疲れ」
「うん」
カズマが煙を吐いた。
「昨日ユキナガとオラヴルと何してたの」
「…組手付き合ってもらってた」
不機嫌そうに首をかしげるカズマ。目線はリヴァの右手の甲にあった。
以前カズマがつけた傷は、ほとんど見えなくなっていた。
「まず俺に声かけてよ。つれないな」
「…」
「おいでよ」
有無を言わさなかった。
裏の駐車場だった。社用車のアウディが止まっていた。街灯が一本だけついていた。
カズマがコートを脱いだ。Lucky Strikeを地面で踏み消した。腰からナイフを出した。模擬戦闘用の小型のものだった。
「ナイフじゃないとダメ?」
「ナイフじゃないと意味ない」
「怪我したらまた怒られるよ」
「大丈夫。訓練用」
「でも」
「お前が避ければいいだけ」
構えた。
リヴァも腰からナイフを出した。構えた。
カズマが動いた。
速かった。
軌道が見えた。避けた。
「お、」カズマが止まった。「前よりちゃんと見えてる」
「訓練してきたから」
また来た。二連続だった。
一発目を避けた。けれど、踏ん張った膝に力が入らない。
テキサスの戦闘と、立て続けの組手の疲れが、遅れて体に回っていた。
視界がわずかに、嫌な揺れ方をする。
二発目が頬をかすった。バランスを崩して足元が泳ぐ。
「……っ」
「あ」
カズマが止まった。一秒だけ。
よろけたリヴァの肩を、カズマの手が反射的に掴んでいた。助けようとしたのか、逃がさないようにしたのかは分からない。
ただ、頬から一筋の血が垂れるのを、彼は吸い込まれるような瞳で見つめていた。
「訓練用にしたのに」
「大丈夫」
「……いいね」低く言った。
「カズマ」
「うん」
「今の怖い」
「そう?」カズマは笑った。「でも止まれないんだよな、こういう時」
「こういう時?」
「久しぶりに会った時。テキサスでお前が大変だって聞いてたから」
「……そんなに心配してたの」
「してたよ」カズマはナイフを構え直した。「電話で声聞いても心配だった」
また来た。
腕を取られた。引かれた。ひねった。逃げた。
「アルバンのこと聞いた。攫われたんだろ」
「…」
「怪我は」
「なかった」
「ならよかった」カズマの目が少し暗くなった。「でもむかつく」
「カズマには関係ないよ」
「関係ある」
また来た。速かった。
壁際まで追い詰められた。
「っ」
「逃げ場ないね」
「……作るよ」
力を入れた。横に逃げた。ぎりぎり抜けた。
「お、」
「追ってこないでよ」
「追う」
「なんで」
「見ていたいから。お前が必死になってるとこ」
距離が縮まっていた。
「……カズマ、怖いって」
また来た。
腕を取られた。今度は逃げられなかった。
壁に背中がついた。
カズマが目の前にいた。ナイフを持ったまま。距離が近かった。
「カズマ」
「なに」
「離して」
カズマが少し間を置いた。
離れた。
ナイフをしまった。
「強くやりすぎた」
カズマは新しいLucky Strikeを取り出した。
「久しぶりに会えて嬉しかったから」
マッチで火をつけた。炎が夜に揺れた。
カズマがリヴァを見た。
「なあ」
「なに」
「バイクのらない?」
「どこいくの」
「どこでもいい」
間があった。
「謹慎中でしょ」
「任務が凍結されてるだけ。外出は」カズマは少し間を置いた。「まあ、グレーゾーン」
「夜だよ」
「夜の方がいい」
駐車場の端に、バイクがあった。黒のカワサキのNinja。古かった。傷が入っていたが、磨かれていた。大事にしている人間の傷の入り方だった。
カズマがシートの下からヘルメットを出した。フルフェイス。黒だった。
「これ被れ」
受け取った。重かった。
顎のバックルに手をかけた。うまくいかなかった。
カズマが来た。
手が伸びた。迷いのない、けれどひどく丁寧な動きで。
顎の下で、バックルが重なる。硬い金具が噛み合う、小さな音だった。
世界の音が、一段遠くなった。
首の周りが、冷たいナイロンの帯に固定される。
リヴァの自由を奪う、逃げられないほど確かな重み。
カズマはそのまま、バックルを留めた指先を喉元に置いた。
「……よし」
カズマの瞳が、満足げに細められた。
ヘルメットの縁が、頬の傷に当たった。
「……っ」
カズマが止まった。
「傷んとこ、触る?」
「血がつく」
「気にすんな」
カズマが手を伸ばす。ヘルメットの位置を、指先で少しだけ動かした。
傷から離れた。痛みが引いた。
「……ありがとう」
カズマは答えなかった。
自分のヘルメットを被った。シールドを下ろした。
表情が消えた。
「どこ行くの」リヴァは言った。
カズマは答えなかった。
バイクに跨った。エンジンをかけた。低い音が、夜に広がった。
顎で後ろを示した。乗れ、ということだった。
乗った。
タンデムシートは高かった。
カズマが、リヴァの手を取った。手首をつかみ、引き寄せるように自分の腰へ回させた。
リヴァの腕がカズマを抱きしめる形に収まると、カズマは満足したように前を見た。
「バイク、好きなんだよな」
「……え」
「乗ってる間、お前、絶対どっか行けないじゃん」
エンジンの重い振動が響いた。
走り出した。
加速した。街灯が通り過ぎた。
一気に加速した。体が後ろに持っていかれた。
反射的に、カズマの腰を強く掴んだ。カズマの指先はいつも冷たかったので、初めて体温を感じたように思えた。
風が来た。頬の傷が、少しだけ熱を持った。
ヘルメットの中で、一人だった。音が遠かった。エンジンの振動だけが、体から直接入ってきた。
どこに向かっているか、わからなかった。シールドの下りた黒い背中が、目の前にあるだけだった。
先にアルノに報告すればよかった、と思ったが、今は振り落とされないことだけを考えた。
夜の東京が、両側を流れる。光が線になった。
どこにも、行けなかった。
どこにでも、行けた気がした。
しばらく走って、バイクが速度を落とした。
止まった。川沿いだった。街灯が水面に映っていた。
カズマがエンジンを切った。静かになった。
降りた。
ヘルメットを外した。バックルを外す音がした。首の固定が、解けた。
カズマもヘルメットを外した。髪が少し乱れていた。直さなかった。
「怖かった?」
「少し」
カズマはリヴァの喉に残った薄い跡を、ただ見つめていた。
「バイク、初めて?」
「うん」
「そう」カズマは川を見たまま言った。「怖かったなら、悪かった」
「謝れるんだ」
「たまには」
風が来た。川の匂いがした。
頬の傷が、夜風に触れた。少し沁みた。
カズマがこちらを見た。
「頬」
「なに」
「滲んでる」間があった。「……悪かった」
「今度は本当に謝ってる?」
「本当に」
カズマが、リヴァの左手を取った。消えかけた傷跡が、白く残っていた。
ふいに、その傷跡に顔を寄せた。
「……っ」
鋭い痛みはない。確かめられるような圧だけがあった。
リヴァが反射的に手を引いた。
もう一度、カズマが手首を取る。今度は力なく、ただ持ち直しただけだった。
手の甲に、短く息を落とすように触れた。
額を寄せたまま、彼のまつ毛が微かに震える。
カズマはそのまま、額をリヴァの手に預けて、深く、重い吐息を漏らした。
「……お前、すぐいなくなるから」
言ったあと、カズマが少し笑った。
「むかつくんだよな」
下を向いたまま発されたその声は、掠れていて、ひどく脆かった。
川が流れていた。
「帰ろう」リヴァは言った。
「うん」カズマはヘルメットを持った。「帰る」
「あんまりスピード出さないで」
「善処する」カズマが笑った。「行こうぜ」
バイクのエンジンがかかった。
リヴァは後ろに乗った。カズマの腰に手を回した。
カズマが少し動いた。動いて、止まった。
拠点の前で止まった。
降りた。ヘルメットを返した。
「ありがとう」
「また乗せてやる」
「謹慎明けたらね」
「明ける前でも」
「グレーゾーン」
「そういうこと」カズマはヘルメットをシートの下にしまった。「おやすみ」
「…おやすみ」
カズマがバイクを駐車場の奥に止めた。エンジンを切った。静かになった。
リヴァは拠点のドアを開けた。廊下が暗かった。
カズマのバイクのエンジンが、もう一回かかった。
"Retrograde" / James Blake




