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リヴァ・アルカ ―最強特殊部隊は、たった一人のアンカーを失えない―  作者: Ilir Noct
第五章「隠れた変数 ― Hidden Variables」

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Dunhill




 処置室のドアをノックした。


「どうぞ」


 扉を開けた。


 オラヴルが椅子に座っていた。本を読んでいた。リヴァの知らない言語が書かれていた。


 Dunhillが灰皿に一本、燃え尽きかけていた。こちらを見た。


「おかえり。汗だくだね」


「ただいま」


「座って」


 診察椅子に座った。オラヴルが本を閉じた。


「見せて」


「何を」


「肩。無理していたんだろう」


 逆らえなかった。肩を出した。


「治療じゃなくて、オラヴルに挑みにきたの」


「医者を倒そうとするなんて酷いな」オラヴルは煙草を吸った。


 リヴァがそれを見た。


「処置室で煙草吸う、不真面目な医者なのに?」


 オラヴルは何も言わなかった。


「何があったんだい」


「色々」


「色々、じゃ困る」


「訓練、すごい厳しかった。寝れないしお尻痛かった」


「それはまた今度聞く」オラヴルが思わず少し笑った。「他は」


 少し間があった。


「アルバンと組み手した」


 オラヴルが少し止まった。


「……そう」また煙草を手に取って、吸った。「体の調子はどうだった」


「……普通」


「嘘だね」


 穏やかだった。でも、逃げ場がなかった。


「なんで」


「顔。帰ってきた時から、おかしかった。目の焦点が時々ずれる。今もそうだ」オラヴルが煙草を消した。


 リヴァは少し間を置いた。


「……任務の後、手が震えて、拠点に戻ったら気持ち悪くなった」


 オラヴルが椅子を引いて、正面に座った。


「目を見せて」


 指が顎に触れた。顔を上げさせた。光を当てた。左右を確認した。


「……交感神経が暴れた反動だ」


「これいつ治るの」


「すぐ治る。ただ」光を消した。「さっきまで動いていたね」


「…」


「冷えた後に無理に関節を使ってる。あと、一回転んだだろう」


「……」


「久々に会って、ユキナガと(じゃ)れてた?」


 リヴァは何も言えなかった。見られていたのか、と思った。


 でもオラヴルは、たぶん処置室から出てない。


「思ったより強かった」


 オラヴルが小さく息を吐いた。


「リヴァ。しばらく激しいことはしないで」


「でも」


「体が追いついてない。今日動くほど、明日使える体が減るんだ」


「みんなは平気そうだったのに」


「平気に見せるのが上手いだけだろう」


 処置室の外は静かだった。もう夜だった。


 湿った空気が、ドアの隙間から少し入ってくる。


「あと」オラヴルが言った。


「何」


「ヴィクトルには、気をつけなさい」


 空気が止まった。リヴァがオラヴルを見た。


 オラヴルはいつもの顔のままだった。


「……なんで」


「勘」


「それは勘なんだ」


「よく当たる」


 オラヴルはDunhillを一本出して、リヴァに渡した。


 リヴァは何も言わず受け取った。


 テーブルに置いてあったライターで、リヴァは自分で火をつけた。


 ユキナガ以外からもらった煙草を吸うのは、記憶のある限り初めてだった。


「……重い」


「メンソール入ってないからね」オラヴルは笑った。


 肺の奥に、いつもよりずっしりとした匂いが残る。


 なんだか、頭が重くなった気がした。


 何度か瞬きをする。


「ヴィクトルと、何かあったんだろう?」オラヴルが言った。


 リヴァは目を逸らした。


 オラヴルは待った。急かさなかった。


 一口吸った。また頭が重くなった。


「……なんか、モルドバで暮らそうって言われた」リヴァは言った。


 オラヴルが、一瞬止まった。


「冗談で?」


「本気っぽかった。…コパチェニってとこだって」


 オラヴルはリヴァから目線を外した。


 怒りも、驚きもなかった。


「あと、変に優しかった。……壊れそうな感じ」


「なるほど」オラヴルはリヴァの持つ煙草を見た。


 一拍。


 オラヴルは煙草ごと、リヴァの手を上から持った。


 大きな、外科医の手だった。


 少しだけ冷たかった。


 静かに、灰皿の方に誘導して、リヴァの人差し指の第二関節を二回叩いた。


 落とすのを忘れていた灰が、灰皿に落ちた。


「ヴィクトルは」


 オラヴルはそこまで言って、一瞬言い淀んだ。


「誰かを連れて逃げるのも、現実にできてしまう人間だ」


「……うん」


「普通は衝動で終わる。けどあれは手順を知ってる。だから危ない」


 声は静かだった。


「君は今、不安定だ。そこに、全部終わりにしていいと言われたら、傾いてしまうだろうね」


 オラヴルは下を向いた。耳から外れた黒髪が、落ちた。


「その場所は…幸せそうだったかい」下を向いたまま言った。


「…わかんない」


「もしかしたら、君は」


 そこまで声に出して、オラヴルは止まった。


 その先に何を言おうとしたか、リヴァはわかった。


 だから、何も言えなかった。


 オラヴルが一度瞬きをして、真っ直ぐリヴァを向いた。


「それでも…君は、戻ってきたんだね」


「……うん」


「えらいな」


 頭を撫でた。少し間が空いた。


「オラヴル」


「ん」


 リヴァは少し俯いた。まだ火がついているDunhillを、灰皿に置いた。


「……ヴィクトル、かわいそうだった。苦しそうだった」


「……うん」オラヴルは目を細めた。穏やかだった。「でもね、リヴァ」


 青色の目が、静かにリヴァを見た。



「可哀想な人間に、人生を預けてはいけない」



 オラヴルの瞳がかすかに揺れた。


 リヴァは言葉が出ずに、じっとその目を見た。


 間があった。


 遠くで電車の通る音がした。



「……じゃあ、オラヴルは?」


 止まった。


「え?」


 オラヴルの目が、揺らいだ。


 揺らいでいるのに気づいて、視線が灰皿の方を向いた。


 聞こえないように、息を吸って、吐いたようだった。




 動いた。


 言わなかった。構えも、合図も、何もなかった。


 オラヴルが油断していた。


 リヴァには、今しかなかった。


 立ち上がって、座ったままのオラヴルの腕を取りにいった。距離はなかった。


「え、リヴァ、ちょっと」


 オラヴルの声が、初めて崩れた。


「リヴァ、」


 体に体重を乗せた。引き倒すつもりだった。


 倒れなかった。


「わ、」


 びくともしなかった。うろたえているのは声だけで、体は、動いていなかった。


 リヴァの全体重が、何にも届いていなかった。


 一拍。そのままだった。


「…困ったな」


 穏やかに戻った声がした。


 次の瞬間、手首を取られていた。回された。


 そのまま、数歩後ろに下がらされた。


 背中を処置台に預けさせられて、片手で両手首をまとめられていた。


 オラヴルの顔が近づいた。


 蛍光灯がオラヴルに塞がれて、視界が暗かった。


 青い目が澄んでいた。暗闇の中でそれだけがはっきりと見えた。


 一瞬だけ、人を診る時の優しさが消えた。ただ静かに、こちらの呼吸の数を数えているような、冷たい目だった。


「素直に押し倒されればよかったのかい、僕は」力は入っていなかった。それなのに、動けなかった。「ん?」


「……だって、全員に組手、挑んでた、から…」


「…だからって、こんなことしないでくれるかな」


 オラヴルはただ、逃がさなかった。


「まだ何か、あるかい」


「……」


「ん?」


「…ない」


 手首から、指が離れた。


 リヴァは処置台を背に、床にずり落ちた。


 どこを取れば人が崩れるか、最初から知っている動き方だった。一瞬だけ、それが見えた。


「…不意打ちなら倒せる気がしたのに」


 一拍あった。


「……君がそんなに自由奔放とは、知らなかった」


 それ以上、言わなかった。すぐに医者の顔に戻っていた。


 さっきの動きが、見間違いだったように。


「もう一回」リヴァが言った。


「だめ」


 オラヴルがしゃがんだ。目線を合わせた。


「おしまい」


 リヴァは処置台から床にへたり込んだまま、オラヴルを見ていた。


 テキサスでも、ユキナガにも。受けて、倒して、勝ち負けがあった。


 オラヴルだけが、勝ち負けにしなかった。


 してくれなかった。


 

 しばらくしてオラヴルは「座りなさい」と言って、リヴァをさっきの椅子に座らせた。


 オラヴルは新しいDunhillを一本取って、火をつけた。


 煙を長く吐いていた。


 また、遠くで電車が通った音がした。



「……最近、僕まで任務に出されてる」オラヴルがこぼした。


「オラヴルが?」


 拠点から出ない人だった。


 むしろ拠点でも、あまり見ない人だった。


「カズマ謹慎中で」オラヴルが言った。「その間の細かいのが、こっちにまで回ってくる」


「アルノが、『お前もたまには働け』って」


 細かいの、が何を指すのか、オラヴルは言わなかった。


 リヴァも、聞かなかった。医者の手が、人の崩し方を知っている理由と、たぶん地続きだった。


「だからね」


「うん」


「ユキナガに言っておいて。早く任務に出なさいって」オラヴルが小さく息を吐いた。「僕は、できれば出たくない」


「自分で言えばいいのに」


「言ってもダメだった」


 リヴァは思わず笑った。


 冷却材を取り替えた。新しい冷たさが、肩に乗った。


 オラヴルは、もう任務の話をしなかった。


 出たくない、と言った人がなぜ出ているのか。そこにも、たぶん何かがあった。リヴァは、それも聞かなかった。

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