お仕置き
新拠点、十四時三十五分。
リヴァは共用スペースで、紅茶を飲んでいた。
ダージリンの最後の一パックを淹れて、香りが上がっていた。
オラヴルがキッチンでじょうろに水を汲んでいた。
テレビの画面には、Iron & Wineのライブ映像が映っていた。
リヴァの膝にミントが居た。
リヴァが欠伸をした。
「暇そうだね」オラヴルが言った。
「なんか、最近自由って感じ。基礎練しかしてない」
ミントを撫でた。ミントの耳が一度動いた。
オラヴルがじょうろを持って、リヴァの座るソファの横まで来た。
「自由の国から帰ってきて、自由を感じてるのかい?」
「確かに」
リヴァが少し笑った。
ミントをゆっくり、今度はしっぽまで撫でた。手を離した。
「なでなで気持ちいい?ミント」
横からオラヴルが屈んで、指先でミントを三回撫でた。
手を離して、そのままリヴァの頭をさっきと全く同じリズムで三回撫でた。
「ねえ」リヴァがオラヴルを見上げた。「同じ感じで撫でた」
「間違えた」
「間違えたって何」
「猫と」
オラヴルが水差しを持って中庭に出ていった。
共用スペースの入り口から声がした。
「リヴァ」
カイだった。
「何」
「シミュレーター室に来い」
「今?」
「今だ」
リヴァは少し間を置いた。
「わかった」
朝練習して、片づけたばかりだった。
地下シミュレーター室。
電気がついた。
カイが先に入った。棚を開けた。コインを一枚、薬莢を三つ取り出した。
「何するの」
「待て、を教える」
一歩踏み込んできた。
188センチの影が、リヴァの視界を覆った。
「え……」
「テキサスで待てなかった」
「……あれは」
「待てなかった」
カイの視線が動いた。首筋から、リヴァの頬に薄く残った傷へ。
「前線なら、恐怖を怒りに変えて死線を越えられる」カイは続けた。「だがスナイパーは違う」
リヴァは小さく頷いた。
「自分が死ぬ理由も、弾がどこから飛んできたのかも、痛みすら感じないまま。冷静なまま死ぬ」
「……」
「任務が四日後だ」カイは言った。「今日から始める」
「…だから”待て”の特訓するの?」
カイは少し口角を上げた。
「お仕置きだ」
「へ……?」
銃床の上に薬莢が三つ並んでいた。
バレルの先端にコインが一枚、立てかけてあった。
リヴァはうつ伏せに構えて、AXMCが肩に食い込んでいた。
カイが後方に立っていた。
「距離、300」カイは言った。「風なし」
「ん」
「撃つな。呼吸を保て」
息を吸った。
半分吐いた。
止めた。
スコープの中に標的があった。
引き金に指をかけた。
「待て」
肺が、少し重くなった。
「風が入る」カイは言った。「右から毎秒1.8。補正を入れろ」
スコープの中で標的が揺れた気がした。
待った。
人差し指が少し震えた。
「薬莢が動いた」カイは言った。
「動いてない」言葉を放った衝撃で、一つ落ちた。
「動いたな」
「……今のはカイが」
「もう一度」
間髪入れないカイの声に、リヴァはうつむいた。
最初からやり直した。
薬莢を並べ直した。コインを立て直した。
構えた。
「距離、300。右から毎秒1.8。補正0.4」カイは言った。「呼吸を整えろ」
吸った。
吐いた。
もう一回吸った。
「そこだ」カイは言った。「保て」
リヴァはスコープから目を動かさなかった。
「待て」
肺が押し返してきた。
体が引き金を引きたがっていた。
「まだ」カイは言った。低かった。「風が安定していない」
「……」
まつげがスコープにあたってくすぐったいことが、妙に気になっていた。
目を強く閉じた。
コインが揺れた。
「最初から」カイが言った。
「……目、かゆかった」
「……構えろ」
薬莢はまだ銃床の上にあった。コインはまだバレルの先端にあった。
カイがスポッティングスコープから目を離した。
リヴァの後方に来た。
しゃがんだ。
リヴァの肩の高さで、スコープとは別の目線で標的を見た。
「右肩が上がっている」
「上がってない」
「肩甲骨を落とせ」
落とした。
「そこだ」
「もう撃てる?」
「待て」
「……」
「1000から7ずつ引け」
「...993、986」
そのままどのくらい経ったか分からないほど長い間、ただ待っていた。
「続けろ」
「...797、790、783」
さらに待った。
スコープをのぞいている右目のまつ毛が当たって、くすぐったかった。
「風が変わる。照準を合わせろ」
「...524、517」
「肩を落とせ。続けろ」
「...510、503、…495」
「違う」
リヴァが固まった。
「ぁ………496」
「遅い」
カイがこちらを見ていた。リヴァは息が上がっていた。
「距離を500に変える」カイは立ち上がった。端末を操作した。「最初からだ」
リヴァはため息をついた。
「聞こえた」カイは言った。「次ため息をついたら600にする」
「……」
リヴァは黙った。普通に泣きそうだった。
何回目かわからなくなっていた。
距離は500だった。
カイがリヴァの隣に来る。
高い体温が近づいた。
カイはそのまま、リヴァの隣に滑り込むようにして、並んでうつ伏せになった。
「何してるの」
「見る」カイは言った。
「何を」
「お前を」
耳元で囁かれた低音に、リヴァの肩が跳ねた。
その瞬間、カイの大きな手が、リヴァの背中に置かれた。
肩甲骨から腰にかけて、アイロンをかけるような重みで、ゆっくりとなぞる。
「……っ」
「動くな」
カイの指先が、リヴァのシャツ越しに肋骨の動きを探る。
逃げ場のない床の上で、リヴァは自分の心臓の音が、筒抜けになっているのを感じて息が詰まった。
「呼吸」
カイがさらに体を寄せる。
厚い胸板がリヴァの脇に触れ、彼の匂いと、微かな煙草の香りが視界を占めた。
「合わせろ」
吸った。
カイの大きい胸板に、無理やりリズムを合わされる。
「……っ、苦しい」
「力を抜け」
カイの手が、リヴァの肩甲骨を押し上げた。
「止めろ」
カイの心音と、リヴァの鼓動が重なり、一つのリズムになる。
静寂が、二人を包んだ。
「風、右から毎秒1.9。補正0.85。弾道降下3.8」
カイの声が、頭に響いた。
「今」
引いた。
訓練は終わらなかった。
「走れ」カイは言った。
「撃つ前に?」
「走れ」
「どのくらい」
「止めるまで」
走った。
最初はゆっくりだった。
カイがスピードを上げた。
上げた。
また上げた。
「……っ、ねえ速すぎ」
「走れ」
一キロを過ぎた頃、息が乱れてきた。
三キロを過ぎた頃、足が重くなってきた。
「止まれ」カイは言った。
ランニングマシンを止めた。
息が上がっていた。
「構えろ」
「え」
「すぐ」
AXMCを展開した。
息が乱れていた。
スコープのアイピースに目を沿わせた。
標的が自分の息で揺れていた。
「距離300。風なし」カイは言った。スポッティングスコープを覗いていた。「呼吸」
「待って」
「吸え」
「整えないと」
カイは言った。
「吐け」
吸った。吐いた。
止めた。
体が動いていた。微妙に息が足りていなかった。
リヴァの右手の人差し指が、強張った。
カイが横から覗き込んできた。
「能力を使うな」
リヴァのスコープを覗く目に、汗が入った。
「……」
「待て」
「………っ」
「今」
引いた。
センターから二十三センチずれていた。
「二十三センチだ」
「……」
「もう一度」カイは言った。「二キロ」
「……おに」
「走れ。五キロ」
三回目、センターから十五センチだった。
「……十五センチ」リヴァは言った。まだ息が上がっていた。
汗で背中が不快だった。
「改善した」カイは言った。
「息が乱れてても撃つ練習?」
「乱れた中でも待てるようになる練習だ」
少し間があった。
「これが……お仕置き?」
「基礎訓練だ」
「ひどい」
カイがスポッティングスコープをケースに戻した。
「今日はここまでだ」
「…今日?」
「明日もある」
「…毎日?」
「そうだ。明日からは朝六時開始」
リヴァは床に座った。
汗が首筋を伝った。
カイがタオルを投げてきた。
タオルを顔にかぶせた。
「ぅ…」
そのうめき声に、カイは答えてくれなかった。
AXMCの確認を始めていた。
リヴァのものを、自分のものと同じ丁寧さで確認していた。
「イーサンに聞いたの」
カイはリヴァを見た。
「イーサンならもっときついだろ」
「……確かに」
シミュレーター室に、空調の音だけが続いていた。




