ミント
全員のコーヒーが終わり、それぞれの作業に戻ったころ。
ログハウスは静かだった。
リヴァが共用スペースのソファに座っていた。水を飲んでいた。窓の外でテキサスの昼が熱気を帯びていた。昨日の戦闘を引き摺った呼吸は、もう意識しなくてもしなくなっていた。
このままなら少し眠れるかもしれない。そう思ってうとうとしていた。
物音がした。キッチンの方から。小さい音だった。
グラスを置いた。キッチンに向かった。ドアを開けた。
猫がいた。カウンターの上にいた。
グレーだった。青みがかったグレーだった。目が緑色だった。大きい目だった。
リヴァを見た。逃げなかった。
「……だれ」
猫は答えなかった。瞳の印象が強くて、思わず人間に対して話すように話しかけてしまった。カウンターの上で座ったまま、リヴァを見ていた。
カイが来た。キッチンに入った瞬間、止まった。
「何だ」
「猫」
「見ればわかる」カイは猫を見た。猫はカイを見た。「どこから入った」
「わからない」
「窓が開いていたか」
「さっきレッドが開けっ放しにしてた」
カイは猫を見た。猫はカイを見た。どちらも動かなかった。
「出せ」カイは言った。
「どうやって」
「抱えて外に出す」
「熱中症になっちゃう」
カイが猫に近づいた。猫は動かなかった。カイが手を伸ばした。
猫がカイの手に頭を押しつけた。
カイが止まった。手を引かなかった。引くきっかけを、猫の方が先に潰していた。
「……」
「懐いてる?」リヴァは言った。
「懐いていない」
「懐いてるよ」
猫がのどを鳴らし始めた。カイは手を引かなかった。
自室で少し仮眠をとったアルノが来た。まだクマが濃かったが、いつもの抜け目ないスーツ姿になっていた。
キッチンを見た。猫を見た。カイを見た。
「なんですか」アルノは眼鏡を押し上げた。「どこから」
「たぶんレッドが窓を開けっ放しにしてた」
「レッドに言います」アルノは猫を見た。「出しますか」
「カイに懐いた」
アルノが少し止まった。猫を見た。猫がアルノを見た。
「……ロシアンブルーですね」アルノは言った。
「詳しいの」
「いえ」アルノは猫に近づいた。猫の顎の下に指を伸ばした。「…」
猫がのどを鳴らした。アルノの指が、引くタイミングを失った。少しだけ、そこに留まった。
「……」
「アルノも懐かれてる」リヴァは言った。
「懐かれていません。確認しただけです」
アルノが手を引いた。眼鏡を押し上げた。
レッドが来た。全員がいるキッチンを見た。猫を見た。
「……俺のせいか」
「はい」アルノが言った。
「悪かった」レッドは猫を見た。「ただ」
「ただ」
「かわいいな」
「レッドまで」アルノは言った。
「しょうがないだろ。かわいいんだから」レッドは猫に近づいた。猫はレッドを見た。レッドが手を伸ばした。猫は逃げなかった。「テキサスの猫か。肝が据わってる」
レッドだけ、否定するところを最初から持っていなかった。手のひらで猫の背を一度撫でて、満足そうにしていた。
「テキサスの猫かどうかわかりません」
「テキサスにいるならテキサスの猫だろ。よしよし」
猫がのどをならした。
イーサンが来た。キッチンを見た。猫を見た。
イーサンは猫を見た。猫はイーサンを見た。三秒、見合った。
「野良か」
「わからない」
「首輪がない」イーサンは猫を見たまま言った。「痩せていない。毛並みがいい。迷子か」
「詳しいの、イーサン」
「昔飼ってた」イーサンは言った。それから何も足さなかった。
猫がイーサンの方に歩いた。カウンターの端まで来た。猫がイーサンの肩に前足を乗せた。
イーサンが止まった。降ろさなかった。空いた手を、猫の背にそっと添えた。
「……」
のどを鳴らした。
リヴァが少しだけ口元を動かした。
「イーサンも懐かれた」
「懐かれていない」
「肩に乗ってるよ」
降ろさなかった。
「そういや、近所のとこに子供産まれたって言ってた気がする。それかもな」レッドが言った。
「確認してもらえますか」アルノが言う。
「OK、テキサスは俺の庭だ」
ここまでで、リヴァは少しおかしくなった。昨日の夜、この同じ部屋で罠の可能性を話していた男たちが、今は猫一匹に順番に手を伸ばしている。誰も、それをおかしいと思っていない顔をしていた。
ヴィクトルが来た。全員がキッチンにいた。猫を見た。
「なんだ」
ヴィクトルは猫を見た。猫はヴィクトルを見た。ヴィクトルが手を差し出した。
猫は動かなかった。ヴィクトルの手を見た。それから顔を見た。近づかなかった。
「……」
「あれ、ヴィクトルだけ嫌われてる」リヴァは言った。
「今からだ」
「みんなには一瞬だったよ」
「俺には時間がかかる相手もいる」ヴィクトルは猫を見たまま言った。「焦らない」
「猫相手に」
「相手が誰でも同じだ」
猫はヴィクトルを見ていた。近づかなかった。一度、キッチンの全員を順に見回した。それから、リヴァの肩に乗った。
全員がキッチンにいた。
「名前」レッドが言った。
「まだ決まっていません」アルノが言った。
「グレーだから、グレーはどうだ」
みんなちょっと目をそらした。
「じゃあ」ヴィクトルは考えた。「ブルー」
「安直です」
「アッシュは」
「……」
アルノが少し間を置いた。
「リヴァ」彼は言った。
全員がリヴァを見た。
リヴァは猫を見た。猫はリヴァを見た。緑色の目だった。静かだった。
「……じゃあ、ミント」リヴァは言った。
少し間があった。
「ミント」カイが繰り返した。
「目の色が、ちょっとミントっぽい」
レッドが猫を見た。
「……確かに?」
「ミント」カイは言った。繰り返した。出せ、と言った男が、二度、名前を口にしていた。
猫がリヴァの方に歩いてきた。膝の上に乗った。
「……決まりですね」アルノは言った。
「ねぇアルノ」
「はい」
「日本に連れて帰れる?」
アルノは何も言わず、ヴィクトルを見た。
「………う」
ヴィクトルの余裕が、そこで初めて消えた。
検疫証明。輸入手続き。マイクロチップの登録履歴。狂犬病の抗体検査記録。日付を遡って、辻褄を合わせて、本物として通る書類。
これらがヴィクトルの頭を埋め尽くしていた。
それを作れる人間が、この部屋に一人しかいない。
「……」
ヴィクトルは猫を見た。猫はもう、ヴィクトルを見ていなかった。
前日も寝ていない。これで二徹が確定した。




