高円寺
閑話
昼過ぎだった。
リヴァは共用スペースのテーブルで、左手の爪にマグネットジェルを塗っていた。
テーブルには、小さなジェルの容器と細い磁石、コットンが散らばっていた。
薄い紫の上に、青紫の細かな光が浮いていた。細い磁石を爪の横へ寄せると、光がゆっくり動いて円を描いた。
少し離して左手を見る。右手はもう終わっていた。
光の位置が気に入らなかった。もう一度磁石を近づけた。
ライトの中に手を入れた。
そこへユキナガが来た。
「ハマってるじゃん、ネイル」
「かわいくない?」
リヴァは光から出して、ネイルを見せた。
「へーかわいい」ユキナガは一本煙草を取り出して火をつけた。「道具買ったんだ」
リヴァは爪をライトに戻した。
「カイに買ってもらった」
ユキナガが一度黙った。
「……カイに?」
「外出申請めんどくさいって言ったら」
「それで一式買ってくんの?」
「ヴィクトルに頼むまでもない、って」
リヴァが手をライトから出して、トップジェルを塗り始めた。
ユキナガが笑いながら、煙を吐いた。
「でもマグネット怒られない?アルノに」
リヴァはユキナガに視線を戻した。
「要確認」
ユキナガが笑った。
「せっかく可愛くしたなら、一緒に高円寺行かない?シーシャバーがあるんだよ。いい店」
「シーシャって何」
「水タバコ。煙を水に通して吸う。フルーツの匂いがする」
「吸ったことない」
「じゃあ行こう。七時に出よう」
その時、廊下からアルノが来た。
書類を数枚持っていた。共用スペースのプリンターに寄り、出力された紙を確認している途中で二人を見た。
「どこに行くんですか」
「高円寺。シーシャ」
「……私も行きます」
「え、アルノが?」
「情報収集です」
アルノは紙を揃えて、端をテーブルに二度当てた。
「許容?」リヴァはアルノにネイルを見せた。
アルノが一歩リヴァに近づいて、爪を覗き込んだ。
「その程度の光沢なら」
共用スペースのドアが開いた。
カイが来た。黒いTシャツの襟元が少し汗で濡れていた。地下から上がってきたらしく、片手にタオルを持っている。
「カイ、どうしたの」
「下のプロテインが切れた」
棚から大袋を取り出した。
その途中で、テーブルの上を見た。
「使えたか」
「うん」
リヴァが左手を上げた。
「見て。マグネット」
カイが爪を見た。
「光るんだな」
「かわいいでしょ」
「ああ」
「これでシーシャ行ってくる」
カイはプロテインの袋を持ち上げた。
「俺も行く」
「お前、シーシャ吸わねえじゃん」ユキナガが言った。
「吸わない」カイは言った。「お前が行くから行く」
七時に出た。
武蔵境から中央線で二十分ほど。高円寺の夜の商店街は人が多かった。
歩き始めて三十秒で、すれ違った女性グループが振り返った。リヴァは気づかなかった。次のすれ違いで、また振り返られた。
「なんか見られてる?」リヴァは言った。
「そりゃそうだろ」ユキナガは言った。
カイが前を歩いていた。長身と広い肩が、雑多な看板の中で浮いていた。人混みの中でも空間ができていた。アルノがその隣にいた。高円寺でスーツだった。顔立ちも周りと違う。
「カイとアルノが並んで歩いてたら道空くから」ユキナガは言った。「慣れた」
飲み屋の客引きが声をかけようとした。カイが通り過ぎた。声が出なかった。
シーシャバーは路地の奥にあった。薄暗く、低いソファが並んでいた。甘い匂いが空気に溶けていた。
ユキナガがメニューを開いた。
「フレーバー何がいい?ミント、ダブルアップル、ローズ…」
「ミント」リヴァは言った。
「だと思った。俺はダブルアップル。アルノは」
「私もダブルアップルで」
「OK。カイは酒な」
ユキナガはカイにはジンロックを頼んだ。
シーシャが二台運ばれてきた。リヴァが吸った。
「……なにこれ」
「いいでしょ」
アルノがホースを受け取った。
炭の位置を少しだけ直した。煙の量が安定した。
一口吸った。
「……悪くありません」
「やっぱシーシャ行くんじゃん、その感じ」
「日本では初めてです」
一時間ほど経った頃、女性二人が来た。一人がカイの隣に、もう一人がアルノの隣に座った。
「お二人で来てるんですか」一人がカイに言った。頬が赤かった。
「いや」
「筋肉すごい。触ってもいい?」
「駄目だ」
「なんでダメなの?」
「……いや」
もう一人がアルノに向いた。
「外国の方ですか」
「はい」アルノは端末を見たまま言った。
「お仕事は」
「コンサルタントです」アルノは端末を閉じた。女性を見た。「あなたは」
アルノと目が合って、女性の視線が止まった。口が少し開いたまま、数秒固まっていた。
「あなたは何の仕事をしていますか」もう一度アルノが言った。
「あ。え、私ですか。……普通にOLです」
「このあたりの方はどういう仕事の方が多いですか」
アルノが視線を端末に戻した。
「え?……アニメの会社とか多いです、かね?」
「ここには誰と来ることが多いんですか」
アルノが端末に何かを打ち込んでいた。
「えと…友達とか…?」
「固定ですか」
リヴァがユキナガに小声で言った。
「なんか尋問してない?」
「そう見える」ユキナガは言った。「でも端末見てる」
「ながらで仕事してる」
「やばすぎ」
カイの隣の女性がまだ話しかけていた。
「ねえねえ休みの日は何してるのー?」
「仕事だ」
「え、休みの日だよ?」
「そうだ」
「日本語苦手?ハーフ?」
「……」
「まあいいやかっこいい。この後どっか行かない?」
「何故」
「何故……?」
アルノが端末を見ながら小声でカイに言った。
「もう少し愛想よくしたらどうですか」
リヴァがカイを見た。カイがリヴァを見た。
目が合った。
カイが少し眉を動かした。困っていた。
リヴァは笑いをこらえた。
二人がやがて戻っていった。
「アルノさ」ユキナガが言った。「女の人相手でもそれなんだ」
「何がですか」
「リヴァにはネイル見て『手が綺麗に見えます』とか言うのに」
アルノが端末から顔を上げた。
「今の方から、手について意見を求められましたか」
「……そういう話じゃねえよ」
しばらくして、今度はユキナガにさっきの女性二人が近づいてきた。
「ねえ、隣いいですか」
「いいですよ」ユキナガは言った。
声が変わっていた。
「シーシャ、詳しいんですか」
「いや?全然。でも甘いの似合いそう。ストロベリーミントとか。さっぱりしてるけど甘みがあっておいしいですよ」
相手が笑う半拍前に、ユキナガが先に笑っていた。
女性の一人が端末を差し出した。
ユキナガは何も聞かず、連絡先を入れた。
リヴァがカイに小声で言った。
「ユキナガ、敬語使えたんだ」
「元ホストだろ」
カイが言った。腕を組んで、ユキナガの方を見もしなかった。
女性二人が席に戻った後、ユキナガがこちらに向き直った。
「リヴァごめん、怒んないで?」
「なんで怒るの?」
「……」
「元ホストは使わないんだな」カイが言った。
ユキナガは椅子に座りなおして、ホースを持って足を組んだ。
「別に。あれ、言うほど受けないよ」
夜が更けていった。
中央線に乗った。夜の車内は空いていた。四人で並んで座った。リヴァはシーシャの煙の匂いを、まだ少し感じていた。
「また来たい」リヴァは言った。
「いつでも行こ」ユキナガは言った。
「アルノは」
「……来てもいいです」アルノは窓の外を見ながら言った。
「ナンパされに来るんだ」
「違います」
ユキナガが笑った。カイが小さく息を吐いた。
夜の中央線が、静かに続いていた。




