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リヴァ・アルカ ―最強特殊部隊は、たった一人のアンカーを失えない―  作者: Ilir Noct
第四章「乾いた地平線 ― The Dry Horizon」

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Bach Cello Suite no. 5 in C minor

 時刻は夕方に近づいていた。


 イーサンが荷物を持って部屋から出てきたところだった。


 リヴァが声をかけた。


「イーサン、組み手したい」


「休め」即答だった。


「訓練ない日だから」


「だから休め」


 イーサンがリヴァを見た。


「その荷物はなに」


「一度家に戻る」


「近いの?」


「ああ。」


「どんな家?」


「…来るか」


「いいの?」


「アルノに言ってくる。車乗ってろ」


 鍵をリヴァに投げた。




 F-150に乗った。ヒューストン郊外を走った。街から離れていった。


「結構帰ってたの?」


「お前らがいるから拠点で寝泊まりしているだけだ」


「そうなんだ」




 平屋だった。広かった。庭があった。芝が手入れされていた。誰かが定期的に手入れをしているのかもしれなかった。


 ドアを開けた。埃っぽくなかった。でも、生活の温度がなかった。


 イーサンがキッチンに入った。しばらくして戻ってきた。皿を持っていた。チョコレートが並んでいた。紫のパッケージ。Cadbury Dairy Milkだった。クッキーはWalkersの赤タータンの箱にはいっていた。


「なんでこんなにあるの」


「これを拠点に持ってこようか考えていた」


「なんで」


「…レッドが、お前は女の子なんだと」


 リヴァは思わず笑った。


「なにがおかしい」


 そう言いながら、もう一度キッチンに戻っていった。


 部屋を見た。本棚があった。英語とアイルランド語が混じっていた。窓が大きかった。テキサスの夕陽が床に長く伸びていた。


「アイルランド語はじめてみた」


「国でも話す奴は少ない。教育や公的な場では使われる」


「だから英語普通んだ」


「普通だと、思ってる」


 イーサンの英語からは訛りを感じなかった。


 壁際に、二つのケースがあった。一つは立てかけてあった。チェロのケースだった。リヴァにはそれに何が入っているのかわからなかった。


 もう一つは棚の上だった。小さかった。剥げかけたシールが貼ってあったから、何となくわかった。バイオリンのケースだった。角が少し擦れて、蓋の上にうっすらと埃がかぶっていた。触られていない時間の長さが、そこにあった。


「バイオリンやるの」


「いや」イーサンはキッチンから答えた。感情が入っていなかった。「妹が」


「妹がいるの」


 少し間があった。


「もういない」


 リヴァはバイオリンのケースを見た。埃が、夕陽の光の中で少しだけ光っていた。触らなかった。


 イーサンが戻ってきた。皿を持っていた。テーブルに置いた。焼きたてのアップルパイがあった。


 リヴァはアップルパイを見た。


「手作り?」


「ああ」


「なんで作れるの」


 イーサンは少し間を置いた。


「一人だったから」彼は言った。「自分でやるしかなかった」


 リヴァはアップルパイを一口食べた。温かくて、甘かった。丁寧に作った味がした。


「……おいしい」


「そうか」


 リヴァを見た。バイオリンのケースを見ていることに気づいた。何も言わなかった。


「チェロは弾く」イーサンは言った。


 話を変えたのではなかった。続きだった。


 チェロのケースを手に取った。椅子を出した。ケースを開いた。深い茶色だった。古い木の色だった。光の当たり方で、少しだけ赤みが出た。


 松脂を取り出した。弓に当てた。丁寧だった。急がなかった。


 この作業に長い時間をかけてきた手の動き方だった。


 調弦を始めた。弦を一本ずつ確かめた。窓の外でテキサスの夕陽が傾いていた。部屋の中が、少しずつ橙になっていった。


 バイオリンのケースは、棚の上にあった。動かなかった。ただ、そこにあった。


「子供の頃から弾いてるの」


「途中で、やめた」


「なんで」


「軍にいたから」


 弦を確認した。一番高い弦を、半音下げた。


「退役してから、また始めた」


「何年ぶり」


「十二年」


 リヴァはその数字を聞いた。クッキーに手を伸ばした。


「……長いね」


「ああ」


「またすぐ弾けるもの?」


「弾けなかった」イーサンは弓を持った。「指が覚えていなかった」


「それでも続けたの」


「他にすることがなかった」


 静かに言った。それ以上言わなかった。




 弓がチェロに当たった。音が来た。暗かった。


 重くて、低くて、でも美しかった。


 リヴァはクッキーを持ったまま、食べるのを忘れた。


 テキサスの夕陽が床に伸びていた。イーサンの影が長かった。189センチが、全然違って見えた。


 曲が終わった。静かになった。


「……何の曲」


「バッハだ」彼は言った。「無伴奏チェロ組曲、第五番のプレリュード」


「暗い曲だった」


「ハ短調だ」


「でもイーサンに似合ってる」


 イーサンがリヴァを見た。


「なぜ」


「本当のことみたいだったから」


 イーサンは何も言わなかった。弓を下ろした。




 イーサンがリヴァを見た。


「あっち座れ」


 隣の部屋に視線とチェロの弓を向ける。


 リヴァは寝室に入った。ベッドの真ん中に座った。




 チェロを片付けたイーサンが入ってきた。リヴァを見た。止まった。


「……無防備だな」


「イーサンが座れって言ったのに」


 イーサンも隣に座った。腕を組んだ。


 部屋が静かだった。リヴァは部屋を見回した。


 本が積んであった。物が少なかった。


「アイルランドってどんなとこ」


 イーサンが少し止まった。


「雨が多い」彼は続けた。「一年中降る。霧みたいな雨だ」


「霧みたいな」


「顔に当たってもわからないくらい細かい。でも濡れる」


 部屋にアイルランドの国旗のついた置物が一つあった。金属の質感の、かごを押している女性のミニチュアだった。


 窓の外を見た。テキサスの乾いた夜があった。


「どうして軍に入ったの」


 イーサンは窓を見たままだった。「強くなりたかった」


「アイルランドで」彼は言った。静かだった。「家族全員を亡くした」


 リヴァは止まった。それ以上聞けなかった。イーサンも続けなかった。しばらく、部屋が静かだった。


 イーサンが口を開いた。自分から開いた。


「中東にいたとき負傷した」


「そうなの」


「除隊になった」


 イーサンはため息交じりに言った。「今は治ってる」


「リハビリも、お前のトリガー訓練程辛くはなかったと思う。悪かった」


 さらっと言った。


 リヴァはイーサンを見た。


「それ、気にしてたの」


「……事実を言っただけだ」


 リヴァは少し笑った。イーサンは窓を見た。


「…ドライファイアの訓練の方がきつかった」


「あれは基礎訓練だ」


 


 リヴァはベッドから立った。隣に座っていたイーサンの前に来た。立ったままで、イーサンの膝と膝の間。両手を伸ばした。


 むにゅっと、頬を両手で挟んだ。


イーサンが固まった。完全に固まった。


「……何をしている」


「むにゅってした」


「なぜ」


「したかったから」


 動かなかった。リヴァが手を離した。


 代わりに、頭に手を乗せた。ゆっくりと撫でた。


「よくやってきたね」


「……何が」


「色々」リヴァは続けた。「一人でここまで来て。軍行って、任務やって教官やって」


「普通のことだ」


「普通じゃない」


 イーサンは何も言わなかった。リヴァの手がまだ頭の上にあった。


撫でた。もう一度、ゆっくりと。


「……お前は」イーサンはやっと言った。「なんで、そういうことを言う」


「本当のことだから」


「俺のことを何も知らないだろう」


「さっき聞いた」


「それだけで」


「十分だよ」


 頭の上にある手首を、イーサンが左手で掴んだ。


 力が入っていなかった。ただ、掴んだ。ゆっくりと引いた。顔が近くなった。


 手首を口元に引き寄せ、唇を触れさせた。力がなかった。ただ触れた。


 それからゆっくり、唇が動いた。


 手首から内側に沿って、少しずつ下がってきた。


「……イーサン」


 返事がなかった。


 リヴァは動かなかった。唇がまた少し動いた。


 それからイーサンが顔を上げた。リヴァを見た。近い距離だった。




 片手が腰に来た。もう片方が背中に回った。


 一瞬だった。迷いがなかった。それがわかった。


 横に、倒された。ベッドに背中がついた。


 イーサンが上にいた。近かった。


 リヴァの倍はあろうかというイーサンの体重が動いて、ベッドのスプリングが軋んで、沈む音がした。


 いつものうっすらとした香水の香りが強かった。さっき部屋で見かけたペンハリガンの香水かもしれなかった。


 イーサンはリヴァを見ていた。表情がなかった。でも目が、違った。訓練の時でも、任務の時でも、チェロを弾いていた時でもない目だった。静かだった。静かなのに、重かった。


 イーサンの右手が動いた。左手はまだ腰にあった。リヴァの額に触れた。髪をゆっくりよけた。前髪が、指の間を通った。それから、親指が眉の上に来た。


眉頭から眉尻に向かって、ゆっくりとなぞった。


 何かが止まった。


「……っ」


「力を抜け」イーサンは言った。低かった。


 リヴァは何も言わなかった。言葉が出なかった。目を逸らそうとした。逸らせなかった。


 大きい手だった。訓練で分厚くなった手だった。でも動き方が違った。


 力を入れない。ただ、触れる。


「……うわわ」


「何だ」


「なんでもない」


 イーサンが少し目を細めた。指が、頬に移った。


骨格を確かめるように、ゆっくりと動いた。


 急がなかった。丁寧だった。異様に、丁寧だった。


 頬から顎に移った。親指が、顎の先に触れた。少し上を向かされた。


イーサンと目が合った。近かった。


 息がかかる距離だった。


「……っ、」


 声が出た。止められなかった。


左手がまだ腰にあった。動いていなかった。ただ、そこにあった。それだけで、動けなかった。




 ――ピンポン。


 玄関のチャイムが鳴った。二人とも止まった。もう一度鳴った。


 イーサンが体を起こした。窓を見る。カーテンは閉まっている。


 立ち上がった。何も言わなかった。代わりに、長い溜息をついた。


 イーサンが寝室を出て、玄関に向かった。ドアを開けた。カイだった。黒のジャケット。


片手にピザの箱を三つ重ねて持っていた。


 イーサンを見た。


「アルノから」カイは言った。「届けろと言われた」


 イーサンは少し間を置いた。


「……入れ」




 三人でテーブルについた。ピザの箱が開いた。カイはリヴァの向かいに座った。ピザを一切れ取った。食べた。何も言わなかった。


 しばらくして、口を開いた。


「リヴァ、何をしていた」


 平坦だった。


「…チェロ聴いてた」リヴァは言った。


 カイがイーサンを見た。イーサンはピザを食べていた。こちらを見なかった。


「寝室にいたな」


「うん」


「チェロを聴くのにか」


 カイがイーサンを見た。イーサンはピザを食べていた。


「……イーサン」


「なんだ」


「何をしていた」


「ピザを食べている」


「その前だ」


「チェロを弾いていた」


 カイは少し間を置いた。


「……その後だ」


 イーサンがピザを置いた。カイを見た。表情がなかった。


「話をしていた」


「寝室で」


「ああ」


「二人で」


「ああ」


 カイが水を一口飲んだ。


グラスをテーブルに戻した。少し強く戻した。


「それだけか」


「それだけだ」


 嘘ではなかった。嘘ではなかったが、全部でもなかった。


 イーサンはカイを見たまま、また静かにピザを取った。


「リヴァ」カイは少し間を置いた。「怪我はないか」


「ない」


「気分は」


「普通」


「本当か」


「本当だよ」


 カイがリヴァを見た。リヴァがカイを見た。


「カイ、ピザ食べてる?」


「食べている」


「一切れしか食べてない」


「腹が減っていない」


「じゃあなんで届けに来たの」


「アルノに言われた」


 リヴァはカイを見た。カイは前を向いた。ピザを取った。二切れ目だった。


 イーサンが水を一口飲んだ。窓の外にテキサスの夜があった。


 三人とも、しばらく何も言わなかった。



「イーサン」カイはまた言った。


「なんだ」


「…次はない」


 イーサンは少し間を置いた。


「お前に言われる筋合いはない」イーサンは言った。


 カイがリヴァのグラスに水を注いだ。頼まれていなかった。ただ、注いだ。カイはピザを食べた。三切れ目だった。イーサンはそれを見て、何も言わなかった。


 テキサスの夜が、三人の周りで静かに続いていた。

Cello Suite no. 5 in C minor BWV 1011 Bach


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