Bach Cello Suite no. 5 in C minor
時刻は夕方に近づいていた。
イーサンが荷物を持って部屋から出てきたところだった。
リヴァが声をかけた。
「イーサン、組み手したい」
「休め」即答だった。
「訓練ない日だから」
「だから休め」
イーサンがリヴァを見た。
「その荷物はなに」
「一度家に戻る」
「近いの?」
「ああ。」
「どんな家?」
「…来るか」
「いいの?」
「アルノに言ってくる。車乗ってろ」
鍵をリヴァに投げた。
F-150に乗った。ヒューストン郊外を走った。街から離れていった。
「結構帰ってたの?」
「お前らがいるから拠点で寝泊まりしているだけだ」
「そうなんだ」
平屋だった。広かった。庭があった。芝が手入れされていた。誰かが定期的に手入れをしているのかもしれなかった。
ドアを開けた。埃っぽくなかった。でも、生活の温度がなかった。
イーサンがキッチンに入った。しばらくして戻ってきた。皿を持っていた。チョコレートが並んでいた。紫のパッケージ。Cadbury Dairy Milkだった。クッキーはWalkersの赤タータンの箱にはいっていた。
「なんでこんなにあるの」
「これを拠点に持ってこようか考えていた」
「なんで」
「…レッドが、お前は女の子なんだと」
リヴァは思わず笑った。
「なにがおかしい」
そう言いながら、もう一度キッチンに戻っていった。
部屋を見た。本棚があった。英語とアイルランド語が混じっていた。窓が大きかった。テキサスの夕陽が床に長く伸びていた。
「アイルランド語はじめてみた」
「国でも話す奴は少ない。教育や公的な場では使われる」
「だから英語普通んだ」
「普通だと、思ってる」
イーサンの英語からは訛りを感じなかった。
壁際に、二つのケースがあった。一つは立てかけてあった。チェロのケースだった。リヴァにはそれに何が入っているのかわからなかった。
もう一つは棚の上だった。小さかった。剥げかけたシールが貼ってあったから、何となくわかった。バイオリンのケースだった。角が少し擦れて、蓋の上にうっすらと埃がかぶっていた。触られていない時間の長さが、そこにあった。
「バイオリンやるの」
「いや」イーサンはキッチンから答えた。感情が入っていなかった。「妹が」
「妹がいるの」
少し間があった。
「もういない」
リヴァはバイオリンのケースを見た。埃が、夕陽の光の中で少しだけ光っていた。触らなかった。
イーサンが戻ってきた。皿を持っていた。テーブルに置いた。焼きたてのアップルパイがあった。
リヴァはアップルパイを見た。
「手作り?」
「ああ」
「なんで作れるの」
イーサンは少し間を置いた。
「一人だったから」彼は言った。「自分でやるしかなかった」
リヴァはアップルパイを一口食べた。温かくて、甘かった。丁寧に作った味がした。
「……おいしい」
「そうか」
リヴァを見た。バイオリンのケースを見ていることに気づいた。何も言わなかった。
「チェロは弾く」イーサンは言った。
話を変えたのではなかった。続きだった。
チェロのケースを手に取った。椅子を出した。ケースを開いた。深い茶色だった。古い木の色だった。光の当たり方で、少しだけ赤みが出た。
松脂を取り出した。弓に当てた。丁寧だった。急がなかった。
この作業に長い時間をかけてきた手の動き方だった。
調弦を始めた。弦を一本ずつ確かめた。窓の外でテキサスの夕陽が傾いていた。部屋の中が、少しずつ橙になっていった。
バイオリンのケースは、棚の上にあった。動かなかった。ただ、そこにあった。
「子供の頃から弾いてるの」
「途中で、やめた」
「なんで」
「軍にいたから」
弦を確認した。一番高い弦を、半音下げた。
「退役してから、また始めた」
「何年ぶり」
「十二年」
リヴァはその数字を聞いた。クッキーに手を伸ばした。
「……長いね」
「ああ」
「またすぐ弾けるもの?」
「弾けなかった」イーサンは弓を持った。「指が覚えていなかった」
「それでも続けたの」
「他にすることがなかった」
静かに言った。それ以上言わなかった。
弓がチェロに当たった。音が来た。暗かった。
重くて、低くて、でも美しかった。
リヴァはクッキーを持ったまま、食べるのを忘れた。
テキサスの夕陽が床に伸びていた。イーサンの影が長かった。189センチが、全然違って見えた。
曲が終わった。静かになった。
「……何の曲」
「バッハだ」彼は言った。「無伴奏チェロ組曲、第五番のプレリュード」
「暗い曲だった」
「ハ短調だ」
「でもイーサンに似合ってる」
イーサンがリヴァを見た。
「なぜ」
「本当のことみたいだったから」
イーサンは何も言わなかった。弓を下ろした。
イーサンがリヴァを見た。
「あっち座れ」
隣の部屋に視線とチェロの弓を向ける。
リヴァは寝室に入った。ベッドの真ん中に座った。
チェロを片付けたイーサンが入ってきた。リヴァを見た。止まった。
「……無防備だな」
「イーサンが座れって言ったのに」
イーサンも隣に座った。腕を組んだ。
部屋が静かだった。リヴァは部屋を見回した。
本が積んであった。物が少なかった。
「アイルランドってどんなとこ」
イーサンが少し止まった。
「雨が多い」彼は続けた。「一年中降る。霧みたいな雨だ」
「霧みたいな」
「顔に当たってもわからないくらい細かい。でも濡れる」
部屋にアイルランドの国旗のついた置物が一つあった。金属の質感の、かごを押している女性のミニチュアだった。
窓の外を見た。テキサスの乾いた夜があった。
「どうして軍に入ったの」
イーサンは窓を見たままだった。「強くなりたかった」
「アイルランドで」彼は言った。静かだった。「家族全員を亡くした」
リヴァは止まった。それ以上聞けなかった。イーサンも続けなかった。しばらく、部屋が静かだった。
イーサンが口を開いた。自分から開いた。
「中東にいたとき負傷した」
「そうなの」
「除隊になった」
イーサンはため息交じりに言った。「今は治ってる」
「リハビリも、お前のトリガー訓練程辛くはなかったと思う。悪かった」
さらっと言った。
リヴァはイーサンを見た。
「それ、気にしてたの」
「……事実を言っただけだ」
リヴァは少し笑った。イーサンは窓を見た。
「…ドライファイアの訓練の方がきつかった」
「あれは基礎訓練だ」
リヴァはベッドから立った。隣に座っていたイーサンの前に来た。立ったままで、イーサンの膝と膝の間。両手を伸ばした。
むにゅっと、頬を両手で挟んだ。
イーサンが固まった。完全に固まった。
「……何をしている」
「むにゅってした」
「なぜ」
「したかったから」
動かなかった。リヴァが手を離した。
代わりに、頭に手を乗せた。ゆっくりと撫でた。
「よくやってきたね」
「……何が」
「色々」リヴァは続けた。「一人でここまで来て。軍行って、任務やって教官やって」
「普通のことだ」
「普通じゃない」
イーサンは何も言わなかった。リヴァの手がまだ頭の上にあった。
撫でた。もう一度、ゆっくりと。
「……お前は」イーサンはやっと言った。「なんで、そういうことを言う」
「本当のことだから」
「俺のことを何も知らないだろう」
「さっき聞いた」
「それだけで」
「十分だよ」
頭の上にある手首を、イーサンが左手で掴んだ。
力が入っていなかった。ただ、掴んだ。ゆっくりと引いた。顔が近くなった。
手首を口元に引き寄せ、唇を触れさせた。力がなかった。ただ触れた。
それからゆっくり、唇が動いた。
手首から内側に沿って、少しずつ下がってきた。
「……イーサン」
返事がなかった。
リヴァは動かなかった。唇がまた少し動いた。
それからイーサンが顔を上げた。リヴァを見た。近い距離だった。
片手が腰に来た。もう片方が背中に回った。
一瞬だった。迷いがなかった。それがわかった。
横に、倒された。ベッドに背中がついた。
イーサンが上にいた。近かった。
リヴァの倍はあろうかというイーサンの体重が動いて、ベッドのスプリングが軋んで、沈む音がした。
いつものうっすらとした香水の香りが強かった。さっき部屋で見かけたペンハリガンの香水かもしれなかった。
イーサンはリヴァを見ていた。表情がなかった。でも目が、違った。訓練の時でも、任務の時でも、チェロを弾いていた時でもない目だった。静かだった。静かなのに、重かった。
イーサンの右手が動いた。左手はまだ腰にあった。リヴァの額に触れた。髪をゆっくりよけた。前髪が、指の間を通った。それから、親指が眉の上に来た。
眉頭から眉尻に向かって、ゆっくりとなぞった。
何かが止まった。
「……っ」
「力を抜け」イーサンは言った。低かった。
リヴァは何も言わなかった。言葉が出なかった。目を逸らそうとした。逸らせなかった。
大きい手だった。訓練で分厚くなった手だった。でも動き方が違った。
力を入れない。ただ、触れる。
「……うわわ」
「何だ」
「なんでもない」
イーサンが少し目を細めた。指が、頬に移った。
骨格を確かめるように、ゆっくりと動いた。
急がなかった。丁寧だった。異様に、丁寧だった。
頬から顎に移った。親指が、顎の先に触れた。少し上を向かされた。
イーサンと目が合った。近かった。
息がかかる距離だった。
「……っ、」
声が出た。止められなかった。
左手がまだ腰にあった。動いていなかった。ただ、そこにあった。それだけで、動けなかった。
――ピンポン。
玄関のチャイムが鳴った。二人とも止まった。もう一度鳴った。
イーサンが体を起こした。窓を見る。カーテンは閉まっている。
立ち上がった。何も言わなかった。代わりに、長い溜息をついた。
イーサンが寝室を出て、玄関に向かった。ドアを開けた。カイだった。黒のジャケット。
片手にピザの箱を三つ重ねて持っていた。
イーサンを見た。
「アルノから」カイは言った。「届けろと言われた」
イーサンは少し間を置いた。
「……入れ」
三人でテーブルについた。ピザの箱が開いた。カイはリヴァの向かいに座った。ピザを一切れ取った。食べた。何も言わなかった。
しばらくして、口を開いた。
「リヴァ、何をしていた」
平坦だった。
「…チェロ聴いてた」リヴァは言った。
カイがイーサンを見た。イーサンはピザを食べていた。こちらを見なかった。
「寝室にいたな」
「うん」
「チェロを聴くのにか」
カイがイーサンを見た。イーサンはピザを食べていた。
「……イーサン」
「なんだ」
「何をしていた」
「ピザを食べている」
「その前だ」
「チェロを弾いていた」
カイは少し間を置いた。
「……その後だ」
イーサンがピザを置いた。カイを見た。表情がなかった。
「話をしていた」
「寝室で」
「ああ」
「二人で」
「ああ」
カイが水を一口飲んだ。
グラスをテーブルに戻した。少し強く戻した。
「それだけか」
「それだけだ」
嘘ではなかった。嘘ではなかったが、全部でもなかった。
イーサンはカイを見たまま、また静かにピザを取った。
「リヴァ」カイは少し間を置いた。「怪我はないか」
「ない」
「気分は」
「普通」
「本当か」
「本当だよ」
カイがリヴァを見た。リヴァがカイを見た。
「カイ、ピザ食べてる?」
「食べている」
「一切れしか食べてない」
「腹が減っていない」
「じゃあなんで届けに来たの」
「アルノに言われた」
リヴァはカイを見た。カイは前を向いた。ピザを取った。二切れ目だった。
イーサンが水を一口飲んだ。窓の外にテキサスの夜があった。
三人とも、しばらく何も言わなかった。
「イーサン」カイはまた言った。
「なんだ」
「…次はない」
イーサンは少し間を置いた。
「お前に言われる筋合いはない」イーサンは言った。
カイがリヴァのグラスに水を注いだ。頼まれていなかった。ただ、注いだ。カイはピザを食べた。三切れ目だった。イーサンはそれを見て、何も言わなかった。
テキサスの夜が、三人の周りで静かに続いていた。
Cello Suite no. 5 in C minor BWV 1011 Bach




