レッドとヴィクトルと組み手
レッドの部屋のドアをノックした。
「開いてる」
入った。
レッドはベッドに座って、Colt Pythonの手入れをしていた。シリンダーを外して、クロスで拭いていた。Lucky Strikeが灰皿で細く燃えていた。
「よう」
「……組み手したい」
「カイとアルノで足りなかったか」
「全員倒す」
「全員」
「うん」
レッドがシリンダーを戻した。パチン、と音がした。私を見た。
「何人倒した」
「カイに一回逃げられた。アルノは…倒しては、ないけど」
「逃げられた、って言い方がいいな」
「逃げたんだもん」
レッドが煙草を取り上げた。一口吸った。
「お前がまっすぐ来るのは知ってる。前に教えた時も同じだった。向かってく方向が真っすぐすぎる。アルバンとかそういうの相手には、それが一番効かない」
レッドが煙草を灰皿に置いた。立ち上がった。
「来い」
外だった。拠点の裏手。駐車場の端にSilveradoが停まっていた。
「来い。本気で」
踏み込んだ。腕を取ろうとした。
取れなかった。レッドが半歩だけ動いた。半歩だった。それだけで手が空を切った。
また動いた。角度を変えた。低く入った。
いなされた。痛くなかった。力もなかった。ただ、届かなかった。
もう一度。速く。本気で。
レッドの腕に弾かれた。体勢が崩れた。膝が地面についた。
アルバンの時は、これすらできなかった。届かないどころか、触れることもできなかった。今レッドに届かないのと、あの廃工場で動けなかったのは、同じ無力の別の濃さだった。
「立てるか」
「立てる」
立った。また入った。また流された。何度やっても、レッドはそこにいるのに、そこにいなかった。
「……掴めない」
「掴ませてないからな」
「本気でやってよ」
「やってるさ。お前の本気に、俺の本気で合わせてる」
息が上がっていた。レッドは上がっていなかった。
それが一番こたえた。
休憩になった。
レッドがSilveradoの荷台に腰をかけた。Lucky Strikeに火をつけた。煙が横に流れた。リヴァも荷台に腰をかけた。
「倒せない相手がいる。それを認めるところから始めろ」
「………」
「正直だな。…お前は本当に正直だ」
レッドが少しだけ笑った。
「倒せない相手から逃げることは恥じゃない。テキサスじゃそれを生き残りと呼ぶ」
「テキサスで?」
「……まあどこでもそうだ。俺がテキサス出身なだけで」
煙草を一口吸った。
「あの時は哀れだと思った」
「……」
「体格差も考えずにまっすぐ向かってくる。子猫がでかい犬に突っ込んでくみたいで」
「……子猫って」
「かわいかったぞ」
「かわいいは余計」
「じゃあ哀れだけ残す」
「それも嫌」
レッドが笑った。声が出た。
「お前と話してると飽きないな」
「……それ褒めてるの」
「それ以外何がある」
レッドが煙草を缶に押しつけた。消えた。
「ただ」と彼は言った。「あいつに勝てなくても、お前を逃がすことはできるはずだ」
「…逃がす」
「そうだ。倒せなくていい。逃げさせる。それが俺の仕事だ」
「……レッドがいない時は」
「その時のために教えてる。倒すより、逃げる方が難しい時がある。プライドを捨てないといけないからな」
「……」
「お前なんかは、特にな」
「そんなにわかる?」
「一目見ただけでわかった。だから初日、ステーキ屋を予約したんだがな」
レッドが少しだけ遠くを見た。
「……次来たら、俺がもう少し早く動く」
静かな声だった。いつもの軽い声じゃなかった。一回だけ、そういう顔をした。
「……なんか今日かっこいい」
「ようやく俺の魅力に気づいたか?」
「今の一瞬だけ」
「傷つくな」
「…普段もかっこいいよ」
「フォローがあまりにも下手だ」
レッドが荷台から降りた。
「リヴァ」
「何」
「次アルバンが来たら、逃げろ。倒そうとするな」
「……」
「倒せないのに向かうのは、猫が犬に突っ込むのと同じだ」
「かわいいって言ったじゃん」
「かわいいけど、見てられない」
それだけ言って、拠点に向かった。急がない歩き方だった。
テキサスの人間の、大きな歩き方だった。
ログハウス、キッチン。
「……ヴィクトルいた」
「いるさ。どうした?」
「アルバンに負けて悔しいから組手して」
「……俺としたいのか」
「したい」
外に出た。ヴィクトルがすんなり付き合ってくれるなんて、意外だった。傷つけたくないからやらない、とか言いそうだった。
「本気で」
「ああ」
「約束だよ」
「約束だ」
動いた。腕を取ろうとした。
ヴィクトルが軽く体をずらした。受け流された。痛くなかった。
「……あれ」
「来い」
また動いた。角度を変えた。低く入った。
ヴィクトルが腰に手を添えた。くるっと向きが変わっていた。
「っ、何今の」
「転ぶといけない」
「転ばないよ」リヴァがヴィクトルの手を振り払った。「ねえ、エスコートしてる」
「してない」
もう一度速く動いた。本気で。
ヴィクトルが避けた。ちゃんと速かった。エスコートじゃなかった。掴めなかった。レッドの時と同じだった。届かない。
「本気でやってよ」
「やってるさ」
「嘘つき」
「傷が増えてる。これ以上増やしたくない」
「……甘やかしてるよ」
「そうかもしれない」
否定しなかった。
リヴァが踏み込んだ。
今度は流されなかった。押さえられた。ヴィクトルの手がリヴァの腕を取っていた。角度が変わっていた。止まっていた。
「……っ」
「動くな」とヴィクトルは言った。低かった。「動くと痛い」
「何したの」
「関節を取った。こういうのもできる。一応」
距離が近かった。ヴィクトルの顔が、すぐそこにあった。
「悪かった。あの夜のこと」
「……気にしてない」
「俺が気にしている」ヴィクトルは少し間を置いた。「グレイと同じことをした。俺がずっと嫌っていたことを」
「同じじゃないよ」とリヴァは言った。
ヴィクトルは止まったままだった。
「……コパチェニの話は本当だ」と彼は言った。
「うん」
そこまで言って、ヴィクトルは黙った。表情は見えなかった。
リヴァも動かなかった。押さえられて動けなかった。
「……二コラが、今朝、搬送先の病院に襲撃されて死んだらしい」
「………」
腕を押さえた力が強い。動けない。顔が確認できない。
「ヴィクトル、ーーー」言葉を言いかけたとき、ヴィクトルが重ねた。
「……参ったか?」
「参ってない」
「動けないぞ」
「それでも参ってない」
ヴィクトルが少し笑った気がした。
少しの間があった。
「アルバンはなんて」とヴィクトルが言った。
「……いろいろ」
「何を」
「どこが好きかとか滾々と」リヴァは前を向いたまま言った。「言ってた」
ヴィクトルが止まった。
「そうか」
「うん」
一拍。
「……何考えてるの」
「ジェラシー」
「珍しい」
「お前が珍しいことを言わせるからだ」ヴィクトルは手を離した。一歩引いた。「俺を誘導するな」
「言わせてない」
「……気に食わない」
「それはもうアルバンに言って」
「あいつに言ったって意味ないだろ」
リヴァは少し間を置いた。また少し黙った。ヴィクトルはさっきからいつもの余裕がなかった。笑顔が消えていた。
Sobranieを取り出した。火をつけた。
しばらくお互い無言の時間が続いた。
「……参ったといわないなら、お前の勝ちでいい」
ヴィクトルが後ろを向いて立ち去ろうとした。
リヴァが首を傾げた。
「……それ、アルバンと同じことを言ってるよ」
ヴィクトルが振り返った。表情がなかった。
急に視界が変わった。背中が砂利についていた。冷たかった。
「...っ」
ヴィクトルがこちらを見下ろしていた。
目が、いつもより少し暗かった。
「……悪い、ムキになった」
少し間があった。
「勝敗は、よくわからん」
「よくわからんって」
「おやすみ」
「ちょっと待ってまだ昼」
振り返らなかった。煙草の煙を吐きながら、歩き出した。足音が遠ざかった。テキサスのグラウンドに、Sobranieの甘い煙だけが残った。
砂利に座ったまま、その背中が消えるのを見ていた。
「……」
風が、煙を連れて行った。
"Old Skin ft. Arnór Dan" / Ólafur Arnalds




