おいしいパスタやさん
朝七時、キッチンにリヴァが入った。
カイがコーヒーを淹れていた。人数分、ちゃんとあった。
リヴァが入ってきた瞬間に一杯をリヴァの前に置いた。何も言わなかった。
レッドがパンを焼いていた。イーサンが座っていた。ヴィクトルがカウンターに背をもたせていた。
アルノが最後に来た。
頬の腫れがまだ残っていた。昨日より青くなっていた。
「痛そう」リヴァは言った。
「問題ありません」
「嘘だ」レッドは言った。
「レッドも大丈夫なの」リヴァが聞いた。
「俺は完治。一晩」
「今日の予定を話します」彼は言った。「情報が固まり次第、ブリーフィングをします。おそらく明後日夜が任務になります」
「了解」イーサンが言った。
レッドがパンを皿に並べてテーブルに置いた。全員が座った。
パンを半分ちぎって、バターを乗せてリヴァに差し出した。
「…ありがとう」一口食べた。美味しかった。パンが硬かった。「昨日、アルバンのとこでスープだされた」
「どんな」カイが聞いた。
「…まめスープ」
レッドはイーサンにパンを差し出した。イーサンが受け取った。バターはついていなかった。
「あれ?昨夜帰ってきてから、お前ヴィクトルに飯を作って貰ってなかったか」レッドは言った。
一拍。
リヴァはパンを飲み込み、言った。
「…あんまり美味しくなかったから」
全員が少しだけ止まった。
「まずかったのか」レッドは言った。
「豆が…」
ヴィクトルが笑った。アイスコーヒーを片手に持った。いつものコーヒーに、氷を入れていた。
「姫には、カチョエペペをごちそうした」彼は言った。「ペコリーノとパルミジャーノを半々で、黒胡椒は挽きたて。生パスタがなかったからリングイネを使った。バターを少し」
「うちのキッチンにペコリーノがあったのか」レッドが言う。
「あった。賞味期限が怪しかったが」
「……問題があります」アルノが言う。
「問題なかった。うまかった」ヴィクトルはコーヒーを飲んだ。
「んまかった」リヴァは言った。
アルノが眼鏡を押し上げた。何か言いかけて止めた。
「次はカルボナーラも作れる」ヴィクトルはリヴァに言った。
リヴァの目が輝いたのを、カイは見逃さなかった。
「……にしてもよく帰ってきたな、お前」ヴィクトルは言った。
「うん」
「あいつに平手打っといてよく」
全員がまたリヴァを見た。
「え、打ったの?」レッドは言った。
「打った」
「アルバンに?」
「蹴りも入れた、…一回だけ」
イーサンの方を見た。こっちを見て言うな、という顔をしていた。
レッドが少しの間、黙った。
「……よく生きてたな、本当に」
「殺す気はなさそうだったから」
「そうじゃなくて」レッドが頭をかいた。「お前がよく打てたな、という話だ」
「腹が立ったの」
「そうじゃなくてだな」
ヴィクトルがSobranieを取り出して火をつけた。
「その後は」イーサンは言った。
「組み手しようって言われた」
「…謎だ…」レッドが言う。
カイがコーヒーカップを置いた。
「リヴァ」
「何」
「今日は外に出るな」
「休みだし出ない」
「シャワーも」
「カイ」
「なんだ」
「シャワーは一人で行かせて」
「……ドアの外で待つ」
「それはやめて」
レッドが笑った。声が出た。
「カイ、さすがに過保護すぎるだろ」彼は言った。
「過保護じゃない」
「昨夜も部屋の前をわざわざ通ってただろ」
「一回だ」
「認めるのか」ヴィクトルは言った。
カイが黙った。
イーサンがコーヒーを一口飲んだ。
「カイ」イーサンは言った。「リヴァは帰ってきた」
イーサンは背もたれに寄りかかった。
「少しは気を休めろ」
カイがリヴァを見た。リヴァがカイを見た。リヴァは笑っていた。
「……わかってる」
テキサスの朝の光が、窓から白く入っていた。
シャワーを浴びた。
自室のベッドに座った。
「……やっぱ、むかつく」
リヴァは小さく言った。
組み伏せられた感覚が、まだ体に残っていた。
参ったと言わなかったから勝ちだと言われた。納得はしていなかった。
何より、ペースを乱された。
立ち上がった。
誰かを捕まえなければならなかった。
廊下に出た。
カイの部屋のドアをノックした。
「何だ」
「ねえ、組み手したい」
ドアが開いた。カイが出てきた。リヴァを見た。顔を見た。
「今か」
「今。これから全員倒しに行く」
「…体は」
「げんき」
「アルバンの件で」
「関係ない。まずカイと勝負」
カイは少しの間、リヴァを見た。
「……外で待ってろ」
「本気でいく」リヴァが構えた。
「ああ」
動いた。
カイは速かった。アルバンより読みやすかった。でも、重かった。一発受けたら終わりの重さがあった。
動くたびに、首筋に汗が光っていた。
避け続けた。
「アルバンにどう負けた」
「組み伏せられた」
「どこで取られた」
「後ろから腕を両方抑えられて、床に膝をついた」
カイが動いた。
腕を取られた。
「っ」
「こうか」
動けなかった。また膝が付いた。あっさり同じ体勢にされた。
「ここに力を入れろ」
腰の位置を変えられた。
「そっちじゃない。こっちだ」
少し動けた。逃げた。
「なるほど」
「もう一回やる」
また取られた。
今度は逃げることができた。
「できた」
「まだだ。続ける」
続けた。
何度も取られた。何度も逃げた。だんだん逃げられるようになってきた。
リヴァの息が上がっていた。
「……アルバンは組み手中に何を言っていた」
カイが前を向いたまま言った。
「え」
「何か言ってたのか」
少し間があった。
「…口説かれた」
「何て」
「聞く?」
「聞く」
カイに向き直って、正面に立った。目は合わせなかった。
「……最初に見たときから好きだったとか、芯がどうとか、…目がどうとか」
カイが動いた。
腕を取られた。反応が遅れた。今度は逃げられなかった。
「っ、」
後ろに回された。
背中に、カイの体温が広がった。熱かった。
「他には」
「怒った顔が好きとか、参ったと言わないところがいいだとか」
カイが少し間を置いた。
後ろに回された手が、汗ばんでいた。
「……声は」
「え?」
「声が好きと言われたか」
「…言ってた、かも」
「……そうか」
腕の力が少し強くなった。
耳のそばに、低く息があった。くすぐったかった。
「カイ、」
「他には」
「……それくらいだよ」
沈黙があった。
気付いたら床に膝をついていた。さっきと同じ体勢だった。
でも、アルバンのときと少し違った。
「……カイ」
「なに」
「なんかむかついてる?」
少し間があった。
「むかついていない」腕にかかる力をさらに強くした。「……終わるか」
「参ってない」
カイが息を一つ吐いた。
「……お前は」
低く言った。
「なに」
「参ったと言わないところは、俺も知っている」
腕の力が、少しだけ緩んだ。
逃げるには十分だった。
でも、逃げなかった。
カイの声が、耳の近くで続いた。
「アルバンが言ったことは全部、俺も知っている」
「……カイ」
「目のことも。声のことも。折れないところも」
「……」
「俺の方が見ている」
部屋が静かだった。
カイが手を離した。
立ち上がった。膝についた汚れを払った。
カイを見た。
窓の外を見ていた。
「……カイ」
「なに」
「ありがとうね」
「何が」
「練習、付き合ってくれて」
カイが少し間を置いた。
「……Gauloises吸ってくる」
「うん」
「お前も来るか」
少し驚いた。
「……行く」
「ああ」
カイが急にしゃがんだかと思うと、体が浮いた。
カイに抱き上げられながら、扉に向かった。
「ねぇ自分で歩ける」
「知ってる」
カイが煙草を吸いながら外の空気を入れていた。
その隣に立った。リヴァもMarlboroを持っていた。
「アルノには勝てると思う?」
「……なんで」
「頬、腫れてるからちょっとは鈍くなるんじゃない」
カイが少し間を置いた。
Gauloisesの煙が上がった。
「……まあ」
「まあ?」
「俺は止めない」
「止めないんだ」
カイが窓の外を見た。
アルノの部屋をノックした。
「何ですか」
「アルノ、組み手しよ」
しばらく間があった。
「……今ですか」
「うん」
ドアが開いた。
アルノが出てきた。
「焦らず体を休めたらどうですか」
「こういう時は体動かす方がいいの」
アルノは眼鏡をかけていた。
書類を持っていた。
リヴァは頬を見た。少し腫れていた。
「……軽くね」
「軽く、というのは」
「顔が痛そうだから」
「痛くありません」
アルノが書類をドアの内側に置いた。
眼鏡を外した。部屋に戻した。
「外で待っていてください」
向き合った。
アルノは背筋が完璧だった。構えていなかった。
「構えないの」
「必要がないので」
踏み込んだ。
アルノが動いた。
気づいた時には、肘が脇腹に入っていた。
「っ、いて」
「重心が前に出すぎています」
「…速」
「前傾になる癖があります。カイとの訓練で出た癖です」アルノは眼鏡を押し上げようと手をあげた。そこには何もなかった。「…次」
リヴァは息を整えた。
アルノはほとんど息が上がっていなかった。
首筋に薄く汗が滲んでいた。
頬の腫れが、動いた拍子に少し赤くなっていた。
「……頬、大丈夫?」
「問題ありません」
「痛そう」
アルノが少し間を置いた。
「珍しいね、アルノが避けられないって」
「あの体格差では、一定の条件下で不可能な場合があります」
今度は右から入って、途中で左に切り替えた。
アルノの動きが少しだけ遅れた。
腕に触れた。
触れた、と思った瞬間に、体が浮いていた。
足払いだった。
「っ、」
床についた。
受け身を取った。
見上げると、アルノが立っていた。
乱れていなかった。
「……今のは何」
「切り替えに対応しました。踏み込みの深さです」
「……全部読まれてる」
「読みやすい動き方をしています」
「厳しい」
「事実を言っています」
アルノが手を差し出した。
引き上げられた。
立った。
膝の汚れを払った。
「カイに、アルノなら倒せるかもって言われたのに」
アルノが少しだけ止まった。
「……カイが?」
「うん」
「そう言ったんですか」
「まあ、…みたいな感じで」
アルノが眼鏡のない目で、廊下の向こうを見た。
「……いい加減にしろ」
小さく言った。
敬語じゃなかった。
「アルノ?」
「……」
「また教えてくれる?」
アルノが止まった。
振り返らなかった。
「私は教えられるほどのことはできません。レッドに教わってください。あっちはプロですから」
廊下に出た。
カイが壁に背を預けていた。
「どうだった」
「勝ては、しなかった」
「そうか」
「知ってたでしょ」
「……まあ」
「アルノにチクっといた」
「…」
「カイが勝てそうって言ったって伝えたら、いい加減にしろってタメ語になってた」
カイが少しだけ口の端を動かした。
「……そうか」
カイが歩き出した。
「どこ行くの」
「シャワーだ」
廊下を歩きながら、カイはリヴァの横顔を見た。
「おかえり」カイは小さく言った。
リヴァには聞こえなかった。




