灰色の目
廃工場だった。
ダラスの外れ。錆びたシャッター、コンクリートの壁、割れた窓。天井が高かった。床に砂埃が積もっていた。夕陽が割れた窓から斜めに入っていた。
オレンジの光が砂埃の粒子を照らして、空気が少し輝いていた。
アルバンが椅子を出した。リヴァの前に置いた。
「座れ」
「座らない」
アルバンは何も言わなかった。椅子を引いた。自分が座った。
リヴァは立ったままでいた。
「帰る」
「なぜ」アルバンはリヴァを見た。
「帰して」
「いてほしい」
押し問答だった。押し問答なのに、アルバンの声に熱がなかった。怒っていなかった。困っていなかった。ただ、そう思っている、という声だった。
アルバンが立ち上がった。
二メートルの真っ黒な壁が現れたようだった。リヴァとの身長差は三十八センチ。見上げると、高いと思った。
アルバンが跪いた。
膝をついたアルバンと、目線が同じになった。いや、少し下になった。見下ろす形になった。
手を伸ばした。迷いがなかった。悪意もなかった。ただ、伸びた。編み込みの端を、指先でそっと取ろうとした。
とっさだった。
打った。
平手だった。アルバンの左頬。乾いた音がした。
アルバンが動かなかった。打たれた後、首が少しだけ動いた。
リヴァを見た。
「……なんだ」
「触らないで」
「そうか」少し間があった。「嫌だったか」
「嫌」
「わからなかった」とアルバンは言った。「触っていいかどうか」
「わからなかったら触らないで」
「そうか」
手を下ろした。伸ばした方の手を見た。
上着を脱いだ。サングラスを外した。椅子に置いた。
目が見えた。
灰色だった。深い、濁りのない灰色だった。夜明け前の空に近い色で、光の加減で少しだけ違う色に見えた。感情が読めなかった。ただ、リヴァだけを見ていた。それ以外の何も見ていなかった。
跪いたままだったので、なんだか小さく見えておかしかった。
「組み手がしたかったのか」
「・・・は?」
「お前は弱いから俺がちょうどよく合わせられる」
「そういう問題じゃない、無理」
「怪我はさせない」
「だから」
「来い」
立ち上がった。
リヴァはため息をついた。
それから、踏み込んだ。
低く沈んだ。重心の下を取りに行った。
アルバンが沈んだ。同じ高さになった。
右腕を取られた。考える前に引かれていた。抵抗しようとした時にはもう腰を落とされていた。
重心が消えた。踏ん張る地面がなくなった感覚だった。肩に乗せられた。全部が一秒以下だった。
投げられた。
一本背負いだった。
体が宙を舞った。
背中から床に落ちた。
痛かった。
想像より痛かった。砂埃が積もっていたが、下はコンクリートだった。背中全体に衝撃が来た。息が出た。止まらなかった。
「……っ、」
しばらく、床についたまま動けなかった。咳が三回でた。
待って、何でこんなことをしてるんだっけ。
天井が見えた。梁に夕陽が当たっていた。
アルバンが来た。しゃがんだ。リヴァを見た。
「痛かったか」
「……痛いよ」
「そうか」
「わかってたならやめて」
「加減した」
「これが?」
「そうだ」
「下手くそ」
アルバンは立ち上がろうとしなかった。しゃがんだまま、リヴァを見ていた。
「新宿の、ビルの屋上にいたな」と彼は言った。
「……見てたの」
「見ていた」
「なんで」
「見たかったから」
「その時から知ってたの」
アルバンは答えなかった。
妙な沈黙があった。
リヴァはゆっくりと体を起こした。背中が痛かった。ただ、動けるようにはなっていた。
「……立てる」
アルバンが手を差し出した。
無視した。
自分で立った。
息を整えた。
汗が額から落ちた。シャツが背中に張り付いていた。
「もう一回」リヴァが言った。
「来い」
右から入った。
入れた、と思った瞬間に、アルバンの腰が動いた。体を低くした。リヴァの体を肩に乗せた。
背中が砂埃の床についた。さっきより柔らかかった。受け身を取っていた。ただ、動けなかった。
アルバンがリヴァの上にいた。
両腕を床に押さえられた。力が入っていなかった。ただ、押さえられた。それだけで動けなかった。
腕を動かそうとした。動かなかった。全部やった。全部、静かに止まった。
息が上がっていた。
アルバンが灰色の目で見下ろしていた。夕陽が割れた窓から差し込んでいた。
「参ったか」
「参ってない」
「動けないが」
「参ってない」
「なぜ」
「動けなくても参ってない」
近かった。吐息がかかる距離だった。
「お前の目が好きだ」
突然言った。
「……は?」
「お前の目が好きだ」もう一度言った。体は依然動かすことができない。
「……今?」
「いつ言えばいい」
「今じゃないことは確か」
押し倒されて腕を取られている。今だと、まずい気がする。
「お前の目は正面から来る。逃げない」
体を横に捻った。少しだけ隙ができた。その隙に膝を引いた。横から脇腹に向けて蹴り込んだ。
音がした。
アルバンの体重が一瞬だけ横にずれた。気がしただけかもしれない。
「当たった」アルバンは言った。「いい蹴りだ」
「…なんで喜んでるの」
「お前が当てたから」
「嬉しそうな顔には見えないけど」
「これが嬉しい顔だ」
全然そう見えなかった。
ずれた隙に腕を引き抜いた。引き抜けた。距離を取った。立った。息を整えた。
また動いた。右から入った。アルバンが受けた。押し返した。壁際まで下がった。追ってくる。横に逃げた。間に合わなかった。
腕を取られた。もう片方も取られた。後ろに回された。
「……っ」
アルバンが片手でリヴァの両手首を後ろでまとめた。片手だった。それだけで動けなかった。
体が前に傾いた。支えを失った膝が床についた。
「離して」
手首を引き抜こうと床を蹴ったが、背中に乗ったアルバンの重みに阻まれ、膝をコンクリートに擦りつけることしかできなかった。
「参ったか」
「参ってない」
アルバンが少し間を置いた。
顔が近くなった。耳の近くで、静かに言った。
「お前の声が好きだ」
「今は関係ない」
「参ったと言わない声が好きだ」
「……うるさい」
「いつから好きだったか、聞くか」
「聞かない」
「最初に見たときからだ」
「聞かないって」首を振る。「離して」
「参ったと言ったら」
「言わない」
「なぜ」
「悔しいから」
腕が痛い。指先がしびれてきた。まだ直っていない膝の擦り傷も痛い。
それでも力を入れ続けた。
動かなかった。
夕陽が割れた窓から入っていた。砂埃が光の中を漂っていた。廃工場の静けさの中で、自分の息だけが聞こえた。荒かった。上がっていた。
「どこが好きか、聞くか」
「聞かない」
「お前の芯が好きだ。折れない」
「……うるさい」
「今もそうだ。動けないのに諦めない」
「うるさい」
「お前の手が好きだ」
「……」
「引き金を引く前に、一瞬止まる」
少し間があった。
アルバンの声が耳の近くで続いた。低く、静かで、廃工場の空気に溶けるような声だった。
「怒った顔も好きだ」
「怒ってない」
「怒っている」
「……少し」
「それも」
力を入れた。また入れた。
動かなかった。
夕陽の角度が変わっていた。来た時より傾いていた。どのくらい時間が経ったかわからなかった。
息が上がっていた。
それでも入れ続けた。
「……っ、」
「参ったか」
「参ってない」
「動けないが」
沈黙があった。
アルバンがゆっくり手を離した。
膝に力が入らなかった。それでも立った。
アルバンを見た。
「……なんで離したの」
「お前が参ったと言わないから」
「どういうこと」
「お前の勝ちだ」
「……」
呼吸を整えた。膝とさっき顔についた汚れを払った。
「……組み手中に口説くな」
「なぜ」
「集中できないから」
「そうか」
「そうか、じゃなくて」
「次も口説く」
「もうやらない」
「またやる」
「……やらない」
「お前はまた向かってくる。さっきもそうだった」
リヴァは何も言わなかった。
「食事を作る」
「は?」
歩き出した。
悔しかった。
でも、勝ちだと言われた言葉が、少しだけ、頭に残っていた。
廃工場の隅に、道具があった。
カセットコンロが一台。鍋が一つ。缶詰がいくつか。水のタンク。
使い込まれた感じがあった。ここに何度も来ている人間の準備だった。
アルバンが鍋に水を入れた。火をつけた。缶詰を開けた。迷わなかった。
リヴァは壁際に立っていた。
「座れ」
今度は座った。
膝が痛かった。腕がまだしびれていた。
砂埃が積もっていたが、もうどうでもよかった。
アルバンが料理をしていた。背中が見えた。黒いシャツが動いていた。
「お前は何が嫌いか」
「……なんで」
「次に作る時のために」
次、という言葉が出た。
リヴァは少しの間、黙った。
「パクチー」
「わかった」
鍋が音を立て始めた。湯気が出てきた。
割れた窓から夜風が入ってきた。夕陽が消えていた。いつの間にか夜になっていた。
汗ばんだシャツが冷えて、背中から体温が奪われていく。
アルバンが器を二つ持ってきた。正面の椅子に座った。
スープだった。トマトと豆と肉が入っていた。スプーンが、器の中に刺さっていた。
「箸が、いるか」
「こんなものに箸つかわない」
リヴァは器を見た。
「食べないのか」
「……食べる」
一口食べた。温かかった。塩だけの味だった。それでも体に入ってきた。
「……食べれる」
「そうか」
二人で座って食べていた。
おかしな状況だった。誘拐されてきて、組み手をして、スープを食べている。
「…豆はあんま好きくない」
「そうか」
おかしいのに、不思議と嫌ではなかった。
それが一番おかしかった。
「帰りたい」
「わかっている」
「食べたら帰して」
「わかった」
急に味がしたように感じた。不自然に優しい味だった。




