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リヴァ・アルカ ―最強特殊部隊は、たった一人のアンカーを失えない―  作者: Ilir Noct
第四章「乾いた地平線 ― The Dry Horizon」

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灰色の目

 廃工場だった。


 ダラスの外れ。錆びたシャッター、コンクリートの壁、割れた窓。天井が高かった。床に砂埃が積もっていた。夕陽が割れた窓から斜めに入っていた。


 オレンジの光が砂埃の粒子を照らして、空気が少し輝いていた。


 アルバンが椅子を出した。リヴァの前に置いた。


「座れ」


「座らない」


 アルバンは何も言わなかった。椅子を引いた。自分が座った。


 リヴァは立ったままでいた。


「帰る」


「なぜ」アルバンはリヴァを見た。


「帰して」


「いてほしい」


 押し問答だった。押し問答なのに、アルバンの声に熱がなかった。怒っていなかった。困っていなかった。ただ、そう思っている、という声だった。


 アルバンが立ち上がった。


 二メートルの真っ黒な壁が現れたようだった。リヴァとの身長差は三十八センチ。見上げると、高いと思った。


 アルバンが跪いた。


 膝をついたアルバンと、目線が同じになった。いや、少し下になった。見下ろす形になった。


 手を伸ばした。迷いがなかった。悪意もなかった。ただ、伸びた。編み込みの端を、指先でそっと取ろうとした。


 とっさだった。


 打った。


 平手だった。アルバンの左頬。乾いた音がした。


 アルバンが動かなかった。打たれた後、首が少しだけ動いた。


 リヴァを見た。


「……なんだ」


「触らないで」


「そうか」少し間があった。「嫌だったか」


「嫌」


「わからなかった」とアルバンは言った。「触っていいかどうか」


「わからなかったら触らないで」


「そうか」


 手を下ろした。伸ばした方の手を見た。


 上着を脱いだ。サングラスを外した。椅子に置いた。


 目が見えた。


 灰色だった。深い、濁りのない灰色だった。夜明け前の空に近い色で、光の加減で少しだけ違う色に見えた。感情が読めなかった。ただ、リヴァだけを見ていた。それ以外の何も見ていなかった。


 跪いたままだったので、なんだか小さく見えておかしかった。


「組み手がしたかったのか」


「・・・は?」


「お前は弱いから俺がちょうどよく合わせられる」


「そういう問題じゃない、無理」


「怪我はさせない」


「だから」


「来い」


 立ち上がった。




 リヴァはため息をついた。


 それから、踏み込んだ。


 低く沈んだ。重心の下を取りに行った。


 アルバンが沈んだ。同じ高さになった。


 右腕を取られた。考える前に引かれていた。抵抗しようとした時にはもう腰を落とされていた。


 重心が消えた。踏ん張る地面がなくなった感覚だった。肩に乗せられた。全部が一秒以下だった。


 投げられた。


 一本背負いだった。


 体が宙を舞った。


 背中から床に落ちた。


 痛かった。


 想像より痛かった。砂埃が積もっていたが、下はコンクリートだった。背中全体に衝撃が来た。息が出た。止まらなかった。


「……っ、」


 しばらく、床についたまま動けなかった。咳が三回でた。


 待って、何でこんなことをしてるんだっけ。


 天井が見えた。梁に夕陽が当たっていた。


 アルバンが来た。しゃがんだ。リヴァを見た。


「痛かったか」


「……痛いよ」


「そうか」


「わかってたならやめて」


「加減した」


「これが?」


「そうだ」


「下手くそ」


 アルバンは立ち上がろうとしなかった。しゃがんだまま、リヴァを見ていた。


「新宿の、ビルの屋上にいたな」と彼は言った。


「……見てたの」


「見ていた」


「なんで」


「見たかったから」


「その時から知ってたの」


 アルバンは答えなかった。


 妙な沈黙があった。


 リヴァはゆっくりと体を起こした。背中が痛かった。ただ、動けるようにはなっていた。


「……立てる」


 アルバンが手を差し出した。


 無視した。


 自分で立った。




 息を整えた。


 汗が額から落ちた。シャツが背中に張り付いていた。


「もう一回」リヴァが言った。


「来い」


 右から入った。


 入れた、と思った瞬間に、アルバンの腰が動いた。体を低くした。リヴァの体を肩に乗せた。


 背中が砂埃の床についた。さっきより柔らかかった。受け身を取っていた。ただ、動けなかった。


 アルバンがリヴァの上にいた。


 両腕を床に押さえられた。力が入っていなかった。ただ、押さえられた。それだけで動けなかった。


 腕を動かそうとした。動かなかった。全部やった。全部、静かに止まった。


 息が上がっていた。


 アルバンが灰色の目で見下ろしていた。夕陽が割れた窓から差し込んでいた。


「参ったか」


「参ってない」


「動けないが」


「参ってない」


「なぜ」


「動けなくても参ってない」


 近かった。吐息がかかる距離だった。


「お前の目が好きだ」


 突然言った。


「……は?」


「お前の目が好きだ」もう一度言った。体は依然動かすことができない。


「……今?」


「いつ言えばいい」


「今じゃないことは確か」


 押し倒されて腕を取られている。今だと、まずい気がする。


「お前の目は正面から来る。逃げない」


 体を横に捻った。少しだけ隙ができた。その隙に膝を引いた。横から脇腹に向けて蹴り込んだ。


 音がした。


 アルバンの体重が一瞬だけ横にずれた。気がしただけかもしれない。


「当たった」アルバンは言った。「いい蹴りだ」


「…なんで喜んでるの」


「お前が当てたから」


「嬉しそうな顔には見えないけど」


「これが嬉しい顔だ」


 全然そう見えなかった。


 ずれた隙に腕を引き抜いた。引き抜けた。距離を取った。立った。息を整えた。




 また動いた。右から入った。アルバンが受けた。押し返した。壁際まで下がった。追ってくる。横に逃げた。間に合わなかった。


 腕を取られた。もう片方も取られた。後ろに回された。


「……っ」


 アルバンが片手でリヴァの両手首を後ろでまとめた。片手だった。それだけで動けなかった。


 体が前に傾いた。支えを失った膝が床についた。


「離して」


 手首を引き抜こうと床を蹴ったが、背中に乗ったアルバンの重みに阻まれ、膝をコンクリートに擦りつけることしかできなかった。


「参ったか」


「参ってない」


 アルバンが少し間を置いた。


 顔が近くなった。耳の近くで、静かに言った。


「お前の声が好きだ」


「今は関係ない」


「参ったと言わない声が好きだ」


「……うるさい」


「いつから好きだったか、聞くか」


「聞かない」


「最初に見たときからだ」


「聞かないって」首を振る。「離して」


「参ったと言ったら」


「言わない」


「なぜ」


「悔しいから」


 腕が痛い。指先がしびれてきた。まだ直っていない膝の擦り傷も痛い。


 それでも力を入れ続けた。


 動かなかった。


 夕陽が割れた窓から入っていた。砂埃が光の中を漂っていた。廃工場の静けさの中で、自分の息だけが聞こえた。荒かった。上がっていた。


「どこが好きか、聞くか」


「聞かない」


「お前の芯が好きだ。折れない」


「……うるさい」


「今もそうだ。動けないのに諦めない」


「うるさい」


「お前の手が好きだ」


「……」


「引き金を引く前に、一瞬止まる」


 少し間があった。


 アルバンの声が耳の近くで続いた。低く、静かで、廃工場の空気に溶けるような声だった。


「怒った顔も好きだ」


「怒ってない」


「怒っている」


「……少し」


「それも」


 力を入れた。また入れた。


 動かなかった。


 夕陽の角度が変わっていた。来た時より傾いていた。どのくらい時間が経ったかわからなかった。


 息が上がっていた。


 それでも入れ続けた。


「……っ、」


「参ったか」


「参ってない」


「動けないが」


 沈黙があった。


 アルバンがゆっくり手を離した。


 膝に力が入らなかった。それでも立った。


 アルバンを見た。


「……なんで離したの」


「お前が参ったと言わないから」


「どういうこと」


「お前の勝ちだ」


「……」


 呼吸を整えた。膝とさっき顔についた汚れを払った。


「……組み手中に口説くな」


「なぜ」


「集中できないから」


「そうか」


「そうか、じゃなくて」


「次も口説く」


「もうやらない」


「またやる」


「……やらない」


「お前はまた向かってくる。さっきもそうだった」


 リヴァは何も言わなかった。


「食事を作る」


「は?」


 歩き出した。


 悔しかった。


 でも、勝ちだと言われた言葉が、少しだけ、頭に残っていた。




 廃工場の隅に、道具があった。


 カセットコンロが一台。鍋が一つ。缶詰がいくつか。水のタンク。


 使い込まれた感じがあった。ここに何度も来ている人間の準備だった。


 アルバンが鍋に水を入れた。火をつけた。缶詰を開けた。迷わなかった。


 リヴァは壁際に立っていた。


「座れ」


 今度は座った。


 膝が痛かった。腕がまだしびれていた。


 砂埃が積もっていたが、もうどうでもよかった。


 アルバンが料理をしていた。背中が見えた。黒いシャツが動いていた。


「お前は何が嫌いか」


「……なんで」


「次に作る時のために」


 次、という言葉が出た。


 リヴァは少しの間、黙った。


「パクチー」


「わかった」


 鍋が音を立て始めた。湯気が出てきた。


 割れた窓から夜風が入ってきた。夕陽が消えていた。いつの間にか夜になっていた。


 汗ばんだシャツが冷えて、背中から体温が奪われていく。


 アルバンが器を二つ持ってきた。正面の椅子に座った。


 スープだった。トマトと豆と肉が入っていた。スプーンが、器の中に刺さっていた。


「箸が、いるか」


「こんなものに箸つかわない」


 リヴァは器を見た。


「食べないのか」


「……食べる」


 一口食べた。温かかった。塩だけの味だった。それでも体に入ってきた。


「……食べれる」


「そうか」


 二人で座って食べていた。


 おかしな状況だった。誘拐されてきて、組み手をして、スープを食べている。


「…豆はあんま好きくない」


「そうか」


 おかしいのに、不思議と嫌ではなかった。


 それが一番おかしかった。


「帰りたい」


「わかっている」


「食べたら帰して」


「わかった」


 急に味がしたように感じた。不自然に優しい味だった。

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