交渉術:Copăceni(コパチェニ)
※この話には心理的支配・精神的暴力の描写が含まれます。
ヴィクトルの目の中に、何かが宿っていた。
リヴァは、震えていた。
逃げることや、誰かを呼ぶ選択肢は、はじめからなかった。
ヴィクトルはこれまで、丁寧にそれを築いていた。
でも、手ごわい。とヴィクトルは思った。あと少し。あと少しだとも、思った。
可哀想だ、と思った。これじゃ、グレイと同じじゃないか。
そう思っても、止められなかった。
交渉が予定通り進まないとき、必ずいつも次の手を考えていた。
掌握できないなら、彼女にはこの手を使えばいい。簡単なことだ。きっとこういうときのために、彼女は簡単に設計されている。
ヴィクトルがジッポを開いた。
リヴァの視界が揺れた。揺れたが、止まらなかった。
「なん、で」
ヴィクトルはジッポを閉じた。開いた。
リヴァが一秒止まった。戻った。
「どうして、」
ヴィクトルはリヴァを見ていた。
見ていた。
止まった瞬間の顔を、見ていた。恐怖ではなかった。全部が遠くなる顔だった。自分がどこにいるかわからなくなる顔だった。
何かが、頭の中で動いた。
可哀想だ。
またその言葉が来た。
来て、そのまま。
別の何かに変わった。
変わるのが、自分でもわかった。わかったが、止まらなかった。
この子は疲れている。毎日崩れて、毎日立ち上がって、設計されたかもしれないという恐怖を一人で持っている。それでも折れない。折れないのに、限界に近い。
連れていけばいい。
思った。
本気で、思ってしまった。
ジッポがある。トリガーを知っている。止まる瞬間を作れる。
車まで10歩だ。空港まで40分。書類は作れる。記録は消せる。俺の伝手で国境を越えられる。
誰にも止められない。
ヴィクトルの中で、何かが静かに決まった。
感情ではなかった。計算だった。冷静だった。それが余計に、まずかった。
ヴィクトルはジッポをゆっくり閉じた。
リヴァを見た。
目が、変わっていた。
「……テキサスで」と彼は言った。低かった。「依頼人が」
「死なせはしなかった。でも、ギリギリだった」ヴィクトルは窓を見たまま言った。「戸籍も住所も経歴も、全部念入りに用意した。誰が見ても違和感ないくらいに」
ヴィクトルはジッポを閉じた。開いた。
「二コラという女だった」ヴィクトルは窓を見たまま言った。「マフィアの幹部の娘。抜け出したがってた。書類を作って、経歴を作って、新しい名前で別の州に送り出す予定だった」
「……」
「出発の二日前...一昨日、彼氏が来た」ヴィクトルの声が少し変わった。「別れた男だと思っていた。違った。まだ繋がっていた。揉み合いになった」
「女は全部しゃべった」ヴィクトルは言った。「どこに行くか。誰が手伝っているか。全部」
「ヴィクトル、」
リヴァが声を出した。ヴィクトルはジッポを閉じて、開いた。
動けなくなる。
最後まで聞け、と言われているようだった。
「俺の詰めが、甘かった」
ヴィクトルがこんなに真剣に話すのは初めてだった。
「俺が用意した完璧な書類より、知ってる男の方を選んだ。だから、女は金で裏切られた。そして、…目の前で撃たれた」
煙草を吸っていないのに、吸っているような息を吐いた。
「過去は変えられない。今日みたいな夜が」
そこまで言いかけて、下を向いた。
「また来るのが、俺は怖い」
「……」
さっきまでの目ではなかった。穏やかさが、消えていた。余裕が、消えていた。代わりにあったのは、静けさだった。何も揺れない、何も迷わない、静けさだった。
ヴィクトルはジッポを閉じた。開いた。
「リヴァ」
声も変わっていた。
低かった。ゆっくりだった。一音ずつ、確認するように言った。
「”Isa”」
世界が、沈んだ。
音が消えた。視界が白くなった。全身の力が抜けて、部屋の床に落ちた。
痛い。床が硬い。頭を打ってくらくらする。下にして倒れた腕が、しびれる。
ヴィクトルが目の前に立っていた。見えていた。見えているのに、遠かった。
ヴィクトルが一歩近づいた。
リヴァを見下ろした。
「地位も金も、全部手に入れた。ここを辞めて、自由になった。でも」
一拍。
「アルカを辞めた理由と、同じことを繰り返してる、何度も」
184センチが、真上から見ていた。表情がなかった。怒っていない。脅していない。ただ、見ていた。
「もう、疲れた」
ヴィクトルがしゃがんだ。暗くて顔が見えない。泣いているかもしれなかった。
「俺と、逃げよう」
声が、耳の奥に直接来た。起き上がらなければ。
そう思って、やっと動くようになってきた右腕を支えに、体を起こした。
その時、ヴィクトルの右手が動いた。
リヴァの左耳に触れた。指先が、耳たぶに触れた。
体の芯から何かが抜けた。
「っ…」
抗えない。背中を支えられる。ヴィクトルの顔が、目の前にあった。
来るか、ともう一度言われた。
ヴィクトルは一言、低い声で言った。
「”Mæl”」
リヴァの中で、何かが落ちた。Isaとも違う。トリガーかもしれない、と分かった時には唇は動いていた。
「……行き、ます」
声が出た。
自分の声だった。自分の意志じゃなかった。でも、自分の声で出た。
ヴィクトルが止まった。
一秒。
二秒。
動かなかった。
三秒目に、何かが変わった。
「……待て」
自分に言っていた。
手が耳たぶから離れた。後ろに下がった。立ち上がった。
「待て、俺は」
窓を向いた。両手で顔を覆った。
しばらく、そのまま動かなかった。
息が乱れていた。今夜初めて、乱れていた。
「……何を」
独り言だった。
リヴァには向けていなかった。
ヴィクトルが自分自身に向かって言っていた。
リヴァは言葉を紡いだ後、支えを失って横に倒れこんでいた。
トリガーを使われた。今までのとは違う。
「…なんで」
ヴィクトルが、振り返った。憔悴しているような、見たことがない顔だった。
床の上に膝をついた。
リヴァが顔を上げた。ヴィクトルを見た。
目が、揺れていた。
「……どうして、知ってるの」
ヴィクトルは答えなかった。
答えられなかった。
「ヴィクトル」
「……ああ」
長い沈黙があった。
「お前を連れていこうとしていた」と彼は言った。「本気で」
リヴァは何も言わなかった。
「できた」とヴィクトルは続けた。「もう少しで...。けどお前の意思じゃない」
「……」
「お前の顔を見たら」ヴィクトルは砂利を見たままだった。「今のは、お前じゃなかった。お前が自分でやっている動きじゃなかった」
「……ヴィクトルが怖かった」
「そうだろうな」ヴィクトルはリヴァを見た。「知っておく、べきだ」
リヴァは息を整えながら、ヴィクトルを見ていた。
「初めて、怖かった」
ヴィクトルは目を逸らさなかった。
ヴィクトルは、しばらく動かなかった。
また窓の方を向いていた。背中が見えた。肩幅の広い背中が、少し落ちていた。
「モルドバの話は、本当のことだ」
「……」
「今夜お前に見せたものは、嘘じゃない」
窓の外が、少しずつ白んでいた。テキサスの夜明けが近かった。
「次は自分で選べ」とヴィクトルは言った。「俺に言わされないように」
「……選べるかわからない」
「いや。選べる」
「なんで」
「お前は手ごわかった。戻ってこられた」
「……」
「カイたちのことを手放さなかった。目がずっとここにあった」
「……」
「それが、お前だ」
リヴァは、一度目線を外してから、またゆっくりヴィクトルを見た。
息が戻ってきていた。涙も、もう出ていなかった。袖で拭いた。
「…ずっと辛かったの?ヴィクトル」
完全に止まった。
それから、ヴィクトルはゆっくり振り返った。
初めて見る、驚いた目だった。
「……なんでそう思う」
「昨日会いに来た時から、辛そうだった」
ヴィクトルは何も言わなかった。「ご飯に誘ったのも、傷ついてたからでしょ」
窓を見た。しばらく見ていた。
どこまでも何もない荒野。
「…村の名前は?」
「Copăceni」
「コパチェニ」
「ああ」
「……かわいい名前」
テキサスの夜が、終わっていった。
Sobranie Black Russianの残り香と、村の名前だけが、静かに部屋に残った。




