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リヴァ・アルカ ―最強特殊部隊は、たった一人のアンカーを失えない―  作者: Ilir Noct
第四章「乾いた地平線 ― The Dry Horizon」

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交渉術:Copăceni(コパチェニ)

※この話には心理的支配・精神的暴力の描写が含まれます。

 ヴィクトルの目の中に、何かが宿っていた。


 リヴァは、震えていた。


 逃げることや、誰かを呼ぶ選択肢は、はじめからなかった。


 ヴィクトルはこれまで、丁寧にそれを築いていた。


 でも、手ごわい。とヴィクトルは思った。あと少し。あと少しだとも、思った。


 可哀想だ、と思った。これじゃ、グレイと同じじゃないか。


 そう思っても、止められなかった。


 交渉が予定通り進まないとき、必ずいつも次の手を考えていた。


 掌握できないなら、彼女にはこの手を使えばいい。簡単なことだ。きっとこういうときのために、彼女は簡単に設計されている。


 ヴィクトルがジッポを開いた。


 リヴァの視界が揺れた。揺れたが、止まらなかった。


「なん、で」


 ヴィクトルはジッポを閉じた。開いた。


 リヴァが一秒止まった。戻った。


「どうして、」


 ヴィクトルはリヴァを見ていた。


 見ていた。


 止まった瞬間の顔を、見ていた。恐怖ではなかった。全部が遠くなる顔だった。自分がどこにいるかわからなくなる顔だった。


 何かが、頭の中で動いた。


 可哀想だ。


 またその言葉が来た。


 来て、そのまま。


 別の何かに変わった。


 変わるのが、自分でもわかった。わかったが、止まらなかった。


 この子は疲れている。毎日崩れて、毎日立ち上がって、設計されたかもしれないという恐怖を一人で持っている。それでも折れない。折れないのに、限界に近い。


 連れていけばいい。


 思った。


 本気で、思ってしまった。


 ジッポがある。トリガーを知っている。止まる瞬間を作れる。


 車まで10歩だ。空港まで40分。書類は作れる。記録は消せる。俺の伝手で国境を越えられる。


 誰にも止められない。


 ヴィクトルの中で、何かが静かに決まった。


 感情ではなかった。計算だった。冷静だった。それが余計に、まずかった。





 ヴィクトルはジッポをゆっくり閉じた。


 リヴァを見た。


 目が、変わっていた。


「……テキサスで」と彼は言った。低かった。「依頼人が」


「死なせはしなかった。でも、ギリギリだった」ヴィクトルは窓を見たまま言った。「戸籍も住所も経歴も、全部念入りに用意した。誰が見ても違和感ないくらいに」


 ヴィクトルはジッポを閉じた。開いた。


「二コラという女だった」ヴィクトルは窓を見たまま言った。「マフィアの幹部の娘。抜け出したがってた。書類を作って、経歴を作って、新しい名前で別の州に送り出す予定だった」


「……」


「出発の二日前...一昨日、彼氏が来た」ヴィクトルの声が少し変わった。「別れた男だと思っていた。違った。まだ繋がっていた。揉み合いになった」


「女は全部しゃべった」ヴィクトルは言った。「どこに行くか。誰が手伝っているか。全部」


「ヴィクトル、」


 リヴァが声を出した。ヴィクトルはジッポを閉じて、開いた。


 動けなくなる。


 最後まで聞け、と言われているようだった。


「俺の詰めが、甘かった」


 ヴィクトルがこんなに真剣に話すのは初めてだった。


「俺が用意した完璧な書類より、知ってる男の方を選んだ。だから、女は金で裏切られた。そして、…目の前で撃たれた」


 煙草を吸っていないのに、吸っているような息を吐いた。


「過去は変えられない。今日みたいな夜が」


 そこまで言いかけて、下を向いた。


「また来るのが、俺は怖い」


「……」



 さっきまでの目ではなかった。穏やかさが、消えていた。余裕が、消えていた。代わりにあったのは、静けさだった。何も揺れない、何も迷わない、静けさだった。


 ヴィクトルはジッポを閉じた。開いた。


「リヴァ」


 声も変わっていた。


 低かった。ゆっくりだった。一音ずつ、確認するように言った。



「”Isa”」



 世界が、沈んだ。


 音が消えた。視界が白くなった。全身の力が抜けて、部屋の床に落ちた。


 痛い。床が硬い。頭を打ってくらくらする。下にして倒れた腕が、しびれる。


 ヴィクトルが目の前に立っていた。見えていた。見えているのに、遠かった。


 ヴィクトルが一歩近づいた。


 リヴァを見下ろした。


「地位も金も、全部手に入れた。ここ(アルカ)を辞めて、自由になった。でも」


 一拍。


「アルカを辞めた理由と、同じことを繰り返してる、何度も」


 184センチが、真上から見ていた。表情がなかった。怒っていない。脅していない。ただ、見ていた。


「もう、疲れた」


 ヴィクトルがしゃがんだ。暗くて顔が見えない。泣いているかもしれなかった。


「俺と、逃げよう」


 声が、耳の奥に直接来た。起き上がらなければ。


 そう思って、やっと動くようになってきた右腕を支えに、体を起こした。


 その時、ヴィクトルの右手が動いた。


 リヴァの左耳に触れた。指先が、耳たぶに触れた。


 体の芯から何かが抜けた。


「っ…」


 抗えない。背中を支えられる。ヴィクトルの顔が、目の前にあった。


 来るか、ともう一度言われた。


 ヴィクトルは一言、低い声で言った。



「”Mæl”」



 リヴァの中で、何かが落ちた。Isaとも違う。トリガーかもしれない、と分かった時には唇は動いていた。


 「……行き、ます」


 声が出た。


 自分の声だった。自分の意志じゃなかった。でも、自分の声で出た。


 ヴィクトルが止まった。


 一秒。


 二秒。


 動かなかった。


 三秒目に、何かが変わった。


「……待て」


 自分に言っていた。


 手が耳たぶから離れた。後ろに下がった。立ち上がった。


「待て、俺は」


 窓を向いた。両手で顔を覆った。


 しばらく、そのまま動かなかった。


 息が乱れていた。今夜初めて、乱れていた。


「……何を」


 独り言だった。


 リヴァには向けていなかった。


 ヴィクトルが自分自身に向かって言っていた。


 リヴァは言葉を紡いだ後、支えを失って横に倒れこんでいた。


 トリガーを使われた。今までのとは違う。


 「…なんで」


 ヴィクトルが、振り返った。憔悴しているような、見たことがない顔だった。


 床の上に膝をついた。


 リヴァが顔を上げた。ヴィクトルを見た。


 目が、揺れていた。


「……どうして、知ってるの」


 ヴィクトルは答えなかった。


 答えられなかった。


「ヴィクトル」


「……ああ」


 長い沈黙があった。


「お前を連れていこうとしていた」と彼は言った。「本気で」


 リヴァは何も言わなかった。


「できた」とヴィクトルは続けた。「もう少しで...。けどお前の意思じゃない」


「……」


「お前の顔を見たら」ヴィクトルは砂利を見たままだった。「今のは、お前じゃなかった。お前が自分でやっている動きじゃなかった」


「……ヴィクトルが怖かった」


「そうだろうな」ヴィクトルはリヴァを見た。「知っておく、べきだ」


 リヴァは息を整えながら、ヴィクトルを見ていた。


「初めて、怖かった」


 ヴィクトルは目を逸らさなかった。






 ヴィクトルは、しばらく動かなかった。


 また窓の方を向いていた。背中が見えた。肩幅の広い背中が、少し落ちていた。


「モルドバの話は、本当のことだ」


「……」


「今夜お前に見せたものは、嘘じゃない」


 窓の外が、少しずつ白んでいた。テキサスの夜明けが近かった。


「次は自分で選べ」とヴィクトルは言った。「俺に言わされないように」


「……選べるかわからない」


「いや。選べる」


「なんで」


「お前は手ごわかった。戻ってこられた」


「……」


「カイたちのことを手放さなかった。目がずっとここにあった」


「……」


「それが、お前だ」






 リヴァは、一度目線を外してから、またゆっくりヴィクトルを見た。


 息が戻ってきていた。涙も、もう出ていなかった。袖で拭いた。


「…ずっと辛かったの?ヴィクトル」


 完全に止まった。


 それから、ヴィクトルはゆっくり振り返った。


 初めて見る、驚いた目だった。


「……なんでそう思う」


「昨日会いに来た時から、辛そうだった」


 ヴィクトルは何も言わなかった。「ご飯に誘ったのも、傷ついてたからでしょ」


 窓を見た。しばらく見ていた。


 どこまでも何もない荒野。





「…村の名前は?」


「Copăceni」


「コパチェニ」


「ああ」


「……かわいい名前」



 テキサスの夜が、終わっていった。


 Sobranie Black Russianの残り香と、村の名前だけが、静かに部屋に残った。




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