↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第四章「乾いた地平線 ― The Dry Horizon」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

53/246

灰色の目





 廃工場だった。


 ダラスの外れ。錆びたシャッター、コンクリートの壁、割れた窓。天井が高かった。床に砂埃が積もっていた。夕陽が割れた窓から斜めに入っていた。


 オレンジの光が砂埃の粒子を照らして、空気が少し輝いていた。


 アルバンが椅子を出した。リヴァの前に置いた。


「座れ」


「座らない」


 アルバンは何も言わなかった。椅子を引いた。自分が座った。


 リヴァは立ったままでいた。


「帰る」


「なぜ」アルバンはリヴァを見た。


「帰して」


「いてほしい」


 押し問答だった。押し問答なのに、アルバンの声に熱がなかった。


 アルバンが立ち上がった。


 身長差は三十八センチあった。見上げる形になった。


 アルバンが跪いた。


 膝をついたアルバンを見下ろす形になった。


 手を伸ばした。アルバンが編み込みの端を、指先でそっと取ろうとした。


 リヴァの体が動いた。


 とっさだった。


 打った。


 アルバンの左頬。乾いた音がした。


 アルバンが動かなかった。打たれた後、首が少しだけ動いた。


 リヴァを見た。


「……なんだ」


「触らないで」


「そうか」少し間があった。「嫌だったか」


「嫌」


「わからなかった」アルバンは言った。「触っていいかどうか」


「わからなかったら触らないで」


「そうか」


 手を下ろした。伸ばした方の手を見た。


 上着を脱いだ。サングラスを外した。椅子に置いた。


 目が見えた。


 濁りのない灰色だった。夜明け前の空に近い。感情が読めなかった。ただ、リヴァだけを見ていた。


 跪いたままだったので、なんだか小さく見えておかしかった。


「組み手がしたかったのか」


「……は?」


「合わせる」


「そういう問題じゃない、無理」


「怪我はさせない」


「だから」


「来い」


 アルバンが立ち上がった。


「……したら帰して」


 アルバンは何も言わなかった。


 リヴァはため息をついた。



 それから、踏み込んだ。


 低く沈んだ。重心の下を取りに行った。


 アルバンが沈んだ。同じ高さになった。


 右腕を取られた。考える前に引かれていた。抵抗しようとした時にはもう腰を落とされていた。


 重心が消えた。肩に乗せられた。全部が一秒以下だった。


「わ、」


 投げられた。


 一本背負いだった。


 体が宙を舞った。


 背中から床に落ちた。


 想像より痛かった。砂埃が積もっていたが、下はコンクリートだった。背中全体に衝撃が来た。息が出た。止まらなかった。


「……っ」


 しばらく、床についたまま動けなかった。


 咳が三回でた。


 天井が見えた。梁に夕陽が当たっていた。


 アルバンが来た。しゃがんだ。


「痛かったか」


「……わかってたならやめて」


「加減した」


「これが?」


「そうだ」


「下手くそ」


 アルバンは立ち上がろうとしなかった。しゃがんだまま、リヴァを見ていた。


「新宿の、ビルの屋上にいた」アルバンは言った。


「……見てたの」


「見ていた」


「なんで」


「見たかったから」


「その時から私のこと、知ってたの」


 沈黙があった。


 リヴァはゆっくりと体を起こした。背中が痛かった。ただ、動けるようにはなっていた。


 アルバンが手を差し出した。


 手は取らなかった。


 自分で立った。



 息を整えた。


 汗が額から落ちた。シャツが背中に張り付いていた。


「もう一回」リヴァが言った。


 右から入った。


 入れた、と思った瞬間に、アルバンの腰が動いた。体を低くした。リヴァの体を肩に乗せた。


 背中が砂埃の床についた。さっきより柔らかかった。受け身を取っていた。ただ、動けなかった。


 アルバンがリヴァの上にいた。


 両腕を左右に取られ、床に押さえられた。力が入っていなかった。それだけで動けなかった。


 息が上がっていた。


 アルバンが灰色の目で見下ろしていた。夕陽が割れた窓から差し込んでいた。


「参ったか」


「参ってない」


「動けないが」


「動けなくても参ってない」


 近かった。吐息がかかる距離だった。


「お前の目が好きだ」アルバンは言った。


「……は?」


「お前の目は正面から来る。逃げない」


「……今?」


「いつ言えばいい」


「今じゃないことは確か」


 両腕を取られて押し倒されている。今だと、まずい気がする。


 体を横に捻った。少しだけ隙ができた。その隙に膝を引いた。横から脇腹に向けて蹴り込んだ。


 音がした。


 アルバンの体重が一瞬だけ横にずれた。気がしただけかもしれない。


「当たった」アルバンは言った。「いい蹴りだ」


「……なんで喜んでるの」


「お前が当てたから」


「嬉しそうな顔には見えないけど」


 ずれた隙に腕を引き抜いた。引き抜けた。距離を取った。立った。息を整えた。



 また動いた。右から入った。アルバンが受けて、押し返した。


 腕を取られた。もう片方も取られた。後ろに回された。


 体が前に傾いた。支えを失った膝が床についた。


「離して」


 手首を引き抜こうと床を蹴ったが、アルバンの重みに阻まれ、膝をコンクリートに擦りつけることしかできなかった。


「参ったか」


「参ってない」


 アルバンが少し間を置いた。


 顔が近くなった。耳の近くで、静かに言った。


「お前の声が好きだ」


「今は関係ない」


「参ったと言わない声が好きだ」


「……うるさい」


「いつから好きだったか、聞くか」


「聞かない」


「最初に見たときからだ」


「聞かないって」首を振る。「離して」


「参ったと言ったら」


「言わない」


「なぜ」


「悔しいから」


 腕が痛い。指先がしびれてきた。


 それでも力を入れ続けた。


 動かなかった。


 夕陽が割れた窓から入っていた。砂埃が光の中を漂っていた。廃工場の静けさの中で、自分の息だけが聞こえた。荒かった。上がっていた。


「どこが好きか、聞くか」


「聞かない」


「お前の芯が好きだ。折れない」


「……うるさい」


「今もそうだ。動けないのに諦めない」


「うるさい」


「お前の手が好きだ」


「……」


「引き金を引く前に、一瞬止まる」


 少し間があった。


 アルバンの声が続いた。


「怒った顔も好きだ」


「怒ってない」


「怒っている」


「……少し」


「それも」


 力を入れた。


 動かなかった。


 夕陽の角度が変わっていた。来た時より傾いていた。どのくらい時間が経ったかわからなかった。


 息が上がっていた。


 それでも入れ続けた。


「……っ、」


「参ったか」


「参ってない」声を荒げた。


「動けないが」


 沈黙があった。


 アルバンがゆっくり手を離した。


 膝に力が入らなかった。それでも立った。


 アルバンを見た。


「お前が参ったと言わないから」


「何」


「お前の勝ちだ」


 間があった。


 呼吸を整えた。膝の汚れを払った。


「……組み手中に口説かないで」


「口説く?」


「集中できないから、やめて」


「そうか」


「そうか、じゃなくて」


「次も…口説く」


「もうやらない」


「またやる」


「……やらない」


「お前はまた向かってくる。さっきもそうだった」


 リヴァは何も言わなかった。


「食事を作る」


「…は?」


 アルバンは踵を返した。歩き出した。



 廃工場の隅に、道具があった。


 カセットコンロが一台。鍋が一つ。缶詰がいくつか。水のタンク。


 アルバンが鍋に水を入れた。火をつけた。缶詰を開けた。迷わなかった。


 リヴァは壁際に立っていた。


「座れ」


 今度は座った。


 膝が痛かった。腕がまだしびれていた。全身汚れていたし、汗だくだった。


 椅子に砂埃が積もっていたが、もうどうでもよかった。


 アルバンが料理をしていた。背中が見えた。黒いシャツが動いていた。


「お前は何が嫌いか」


「……なんで」


「ラムは知っている」


「なんで知ってるの」


「フォアグラも」


 リヴァは少しの間、黙った。


「……パクチー」


「わかった」


 鍋が音を立て始めた。湯気が出てきた。


 割れた窓から夜風が入ってきた。夕陽が消えていた。いつの間にか夜になっていた。


 汗ばんだシャツが冷えて、背中から体温が奪われていく。


 アルバンが器を二つ持ってきた。正面の椅子に座った。


 スープだった。トマトと豆と肉が入っていた。スプーンが、器の中に刺さっていた。


「箸が、いるか」


「こんなものに箸つかわない」


 リヴァは器を見た。アルバンも見た。


「食べないのか」


「……食べる」


 一口食べた。温かかった。塩だけの味だった。それでも体に入ってきた。


 二人で座って食べていた。


 おかしな状況だった。誘拐されてきて、組み手をして、スープを食べている。


「……豆はあんま好きくない」


「そうか」


「帰りたい」


「わかっている」


 急に味がしたように感じた。不自然に優しい味だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。