明かりのない窓
テキサス拠点 共用スペース 午前七時三十分。
共用スペースにはコーヒーの匂いがしていた。レッドがカウンターでLucky Strikeに火をつけ、イーサンは窓際で手帳を見ていた。昨夜カジノには同行しなかったヴィクトルは、ソファの肘掛けに腰をかけてコーヒーを飲んでいる。カイは壁際に立っていた。
リヴァはテーブルについて、トーストをちぎっていた。食べた量は少なく、コーヒーも冷めていた。
アルノが端末を閉じ、顔を上げた。
「午前は状態を確認します。問題がなければ、午後から射撃を」
リヴァは頷こうとしたが、動きが遅れた。
古い絨毯と閉め切った部屋、煙草の匂いが浮かんだ。穏やかな男の声が耳に戻り、手の中でトーストが潰れた。
「リヴァ」
カイの声に、リヴァは瞬きをした。目の前にはテーブルがあり、アルノが座っていた。もう一度瞬きをして、口を開いた。
「……ごめん、平気」
声が掠れていた。カイはリヴァを見ていて、レッドも煙草を持ったまま動きを止めていた。ヴィクトルの視線は、潰れたトーストを握る手に向いていた。
「一旦休め」イーサンが言った。
アルノが頷いた。
「そうしましょう」
「……大丈夫だよ」リヴァは言った。
「そういう話じゃない」イーサンが言った。
リヴァは黙って手を開いた。膝へ落ちたパン屑を払おうとしたが、途中で手を止めた。
ヴィクトルがコーヒーカップをソファの横に置き、右手を顎へ上げた。絆創膏の上を指先で軽くなぞり、しばらく触れてから、もう一度リヴァを見た。
レッドが煙草を灰皿へ置いた。
「今朝報告した奴はどうする」
アルノはイーサンへ顔を向けた。
「二人で確認してください」
「OKだ」
イーサンが手帳を閉じた。
「目的は割れてるのか」
「いいえ。昨晩と今朝、近くを彷徨っていたのをレッドが捕らえただけです」
「あいつビリーんとこ居た奴だ」
イーサンが手のひらを開き、握り直した。アルノはそれを見て、一拍置いた。
「殺さないでください」
レッドが鼻で笑った。リヴァがテーブルに肘をつくと、イーサンが横を通った。
「少し横になってろ」
「……うん」
イーサンはレッドと外へ出た。
テキサス郊外 午前十一時十二分。
古い自動車修理工場のシャッターは途中まで開いていて、外から白い光が入っていた。大型の扇風機が首を振り、壁際のラジオから古いカントリーが低く流れていた。
昨夜、ビリーと一緒にいた男が椅子に座っていた。拘束はされていなかったが、ジャケットと拳銃、携帯電話は、少し離れた作業台に置かれていた。
「さて」レッドが言った。
男は出口へ目を向けた。そこにイーサンが立っているのを見て、ため息をついた。
「昨夜、俺たちを追ったな」レッドが言った。
「道が一緒だっただけだ」
「今朝も?」
男は答えなかった。
「ビリーに言われたか」
「違う」
「じゃあ誰だ」
「誰でもねえよ」
レッドは男を見た。
「女の写真、撮ったな」
男の目が一度動いた。
「いくらだった」
「……」
「いくらだ」
「……五千ドル」
レッドの手が止まった。
扇風機が首を振る間、二人は黙っていた。ラジオからカントリーが流れ続けていた。
「何に五千出した」
「写真だよ」
「写真一枚に?」
「車と、人数と、出た時間も」
レッドの表情から笑いが消えた。出口に立つイーサンも目を細めた。
「誰から来た」
「知らねえ番号」
「ビリーはこの話を知ってんのか」
「知らねえ。俺が勝手に受けた」
レッドはLucky Strikeを取り出し、火をつけた。
「何を頼まれた」
「何も」
「じゃあなんでここにいた」
「暇だったんだよ」
レッドが煙を吐いた。
「そうか」
作業台から携帯電話を取り、男へ向けた。
「開けろ」
「嫌だね」
レッドは男を見てから下を向き、ため息をついた。
「イーサン」
出口にいたイーサンが壁から背を離した。
「どこまで」
「任すわ」
「了解」
男が顔を上げた。
「おい、待て」
イーサンが近づく間に、レッドは携帯電話を作業台へ戻した。男が椅子から立とうとすると、イーサンの手が肩に置かれた。
ラジオの曲が変わる頃には、携帯電話のロックは解除されていた。レッドが作業台にもたれ、画面を見ていた。
「……なるほどな」
男は椅子に座り、両腕を力なく垂らしていた。シャツの襟は崩れ、鼻から流れた血が顎まで細く伸びていた。俯いたまま動かず、流しで手を洗うイーサンにも顔を向けなかった。指を伝う水は薄く赤く染まっていた。
レッドが画面を送ると、リヴァの写真に続いて、車と人数、カジノを出た時刻が出てきた。今朝届いた新しいメッセージには、同行している男の人数と行動時間、女が一人になる時間を求める内容があった。
レッドの指が止まった。
「……おい」
男は顔を上げなかった。
「これ、何に使うって聞いた?」
返事はなかった。イーサンがタオルで手を拭きながら足を踏み出すと、男はその音に顔を上げ、背筋を少し伸ばした。
「…聞いてない」
「五千ドルももらって?」
「……俺は、金が欲しかっただけ、」
レッドはしばらく男を見ていた。
「相手について知ってることは」
「何もない。信じてくれ、会ってない。声も聞いてない。全部メッセージだ」
男がまた下を向いた。
「……殺さないでくれ、嫌だ、金ももらってない」
「…へえ」レッドが端末を見ながら言った。
「お願いします、俺の金ならいくらでも払うから」
レッドがイーサンへ顔を向けた。
「だってよ」
イーサンは鼻で笑い、組んでいた腕を下ろして男へ近づいた。
「待て、待てお願いします!お願いだから!」
レッドは番号とやり取りを自分の端末へ送り、アルノへ転送してから画面を閉じた。
「帰れ」
男が顔を上げた。
「……いいのか」
「今のうちにな」
イーサンが男の襟首を掴んで立たせた。レッドが投げたジャケットを受け取ると、男は足早に出口へ向かった。何度も振り返り、二人が銃を持っていないか確かめながら歩いていたが、シャッターの前で足を止めた。
「あの女、結局何なんだ」
レッドが男を見た。
「懲りてねえな」
「躾けなおすか」イーサンが椅子を指差した。
男は小走りで出ていった。車の音が遠ざかると、レッドは煙草を咥えた。
「……俺だって知りてえよ」
火をつけ、煙を吐いてからイーサンを見た。
「怖えよお前」レッドが言った。
「生かしただろ」
レッドがまた煙を吐いた。
「女口説く時はあんなに丁寧なくせに」
「…今する話じゃないだろ」
二人はシャッターの外へ出た。
夜になり、レッドは煙草を吸いにログハウスの外へ出た。ライターを取り出したところで、カイに気づいて手を止めた。
カイはリヴァの部屋の窓が見える位置に立ち、腕を組んでいた。窓の明かりは消えていたが、そこから動く様子はなかった。
レッドはしばらくカイを見てからLucky Strikeに火をつけ、隣へ歩いていった。
「……何やってんだ、お前」
「見ている」
「何を」
「部屋を」
「電気消えてるぞ」
レッドは煙草を一口吸った。
「眠ってるよ」
「わかってる」
「わかってるなら中に入れ」
カイはその場に立っていた。レッドが足を止め、顔を見た。
「……オラヴルに、リヴァに付きまとうなと言われた」
レッドは笑って、窓へ目を向けた。
「偉いな。でも、もう少し離れようか。な」
「ここはリヴァから離れている」
レッドは黙ったあと、低く笑った。
「屁理屈こいてる」
煙草の煙が夜の空気に流れていった。レッドは笑いを収め、カイへ顔を向けた。
「お前さ」
カイは窓を見たままだった。
「相当やばいな」
レッドが手元を見ると、煙草は中央まで燃えていた。
「しょうがない」
カイの隣に立った。
「俺も付き合う」
「いい」
「お前一人にしたら、夜明けまでここにいそうだからな」
「……」
「ほんとにやばいな、お前」
「うるさい」
レッドは窓へ目を向けた。
「全員、あの子に対して必死すぎる」
「……」
「お前もな」
「俺はただ」
「ただ、何だ」
「無理を強いたくないだけだ」
「それが、彼女の望んだことでも?」
風が少し強くなり、窓の周りの木々が低く鳴った。
「アルノも、イーサンも、あの子を潰したいわけじゃない」
「……わかってる」
「どいつも敵じゃない」
レッドはカイを見た。
「わかってるなら、もう少し信用してやれ」
煙草を砂利へ落とし、靴底で踏み消した。
「明日に備えて寝ろ」
「もう少し」
「お前な」
レッドはポケットから新しい煙草を取り出した。箱へ目を落とし、カイを見てから、何も言わずに一本咥えた。
「お前も吸え」
「いらない」
「冷静になれ」
カイはため息をつき、Gauloisesを取り出した。擦ったマッチの火で、二人の顔が一瞬明るくなった。
並んで煙草を吸いながら、レッドが言った。
「これを吸い終わったら、二人で入るぞ」
カイは窓を見ていた。
「聞いてんのか?」
「……わかった」
「それでいい」
二人は明かりの消えた窓を見ていた。吐いた煙が夜に溶けていき、部屋の明かりはつかなかった。
”Oltremare” / Ludovico Einaudi




