カジノ:想定の範囲内
ディーラーがカードを配った。
リヴァはバンカーに賭けた。
勝った。
後ろで声がした。
「嬢ちゃん、次どっちだ」
「プレイヤー」
隣からチップが置かれた。
勝った。
「クソ。ほんとに当てやがった」
「次も頼むぞ」野次が飛んだ。
五回目が当たった時点で、テーブルの後ろに大きな人だかりができていた。
他の卓から、グラスを持ったまま移ってくる客もいた。バカラの椅子と椅子の間に男が肩を差し込み、後ろから女が煙草を持った手を伸ばしてチップの山を覗いた。
葉巻を咥えた男が、リヴァの肩越しから手元を見た。
「次当てたら俺が酒奢る」
「いらない」
「じゃあ抱いてやる」
笑いが起きた。
「……きもちわるい…」リヴァが小声で言った。誰も聞いていなかった。
ディーラーが上司を見た。上司は小さく頷いた。
ディーラーはカードを揃え、何事もなかったように次のゲームを準備した。
リヴァの前にはチップが積まれていた。
500ドルが、3200ドルになっていた。
アルノがリヴァの隣を通った。
左手にウイスキーのグラスを持っていた。タイの結び目は低いままだった。
「リヴァ」小声で言った。「なにしてる」
「止め方がわからない」
「……今すぐ手を止めてください」
「アルノ、そっちは」レッドが割り込んだ。
「あと十分あれば確認できます。ハッチンスは今、別室で電話中です。私はその間にもう一つ、裏を取ります」
「なんかされて無いだろうな?」
「問題ありません」
「本当だな?」レッドはアルノに言って、それからリヴァの肩に手を置いた。「次の一回だけ張って、それで終わりにしろ」
「わかった」
アルノが足早に戻って行った。
リヴァは自分の前にあるチップを両手で寄せた。
全部、プレイヤーへ置いた。
周りにいた野次の声が一段盛り上がった。
「馬鹿、全部とは言ってないだろ」レッドが言った。
後ろから男が身を乗り出した。
「いいぞ、嬢ちゃん」
「プレイヤーに二百」
「俺も」
左右からチップが続いた。テーブルに舞った。
ディーラーが配った。
プレイヤー側、8。
バンカー側、6。
次の瞬間、テーブルの周囲が沸いた。
「よっしゃ」
「最高だ」
「酒持ってこい」
その時だった。
左斜め後ろの客が半歩ずれた。
その隣の男も身体を引いた。
人の流れが一箇所だけ割れた。
誰かが近づいていた。
東側の壁際で、カイも一歩出た。
リヴァが振り向く前に、男が隣の椅子を引いた。
断りはなかった。
チャコールブラックのスーツに黒いシャツ。首元には金のチェーン。60歳近い外見。
髪は短く刈り上げていた。こめかみに古い傷が一本ある。
左右の指に複数の指輪。手の甲には色の褪せたタトゥー。
男はポケットからジッポを出した。
蓋を開いた。
閉じた。
親指でもう一度弾いた。
「……っ」
リヴァの指が椅子の背に掛かったまま止まった。
肩が動かなかった。
周囲の声が遠くなった。
東側でカイの顔がこちらを向いた。リヴァを見ていた。
赤いドレスの女がカイを覗き込んだ。
「どうしたの」
カイは返さなかった。
ディーラーが次のカードを配った。
リヴァの前に賭け金はなかった。
「当てねえのか」
男が言った。その声だけが、喧騒の中でリヴァの頭に響いた。
ジッポの蓋がまた開いて、閉じた。
乾いた金属音がした。
男の視線がリヴァの顔から下へ落ちた。
胸元をみてから、足の先まで全身を見た。
「こいつはいい」
男が笑った。チップを二枚投げた。
一枚がリヴァのチップの山に当たり、床へ落ちた。
「一晩いくらだ」
後ろの笑い声が切れた。
ディーラーはカードを揃えたまま、顔を上げなかった。
「その山の三倍出す。脚開いて、朝まで黙ってろ」
リヴァの手は立ちあがろうとしたまま、椅子の背に残っていた。
「おい」レッドがビール瓶を置いた。「その口を閉じろ」
男が横目で見た。
「なんだ。お前も買ったのか」
レッドが一歩出た。
男の手が先に伸びた。
リヴァの上腕を掴んだ。
「立て」
腕を引いた。
右のヒールが滑った。
椅子が後ろへ倒れた。
「金は払う。面倒くせえこと言わせんな」
腰がテーブルの縁に当たった。
男の右手がリヴァの首に移った。
そのまま勢いよくテーブルに押し倒された。
リヴァの背がフェルトについた。
「……っ離して」
カードが散った。誰かのグラスが床に落ち、音を立てて割れた。
積んでいたチップが崩れ、数枚がテーブルの縁を越えて床へ落ちた。
ディープエメラルドの裾が広がって、リヴァの太ももまで見えた。
男の左手がリヴァの太ももに触れた。
「おい」
男の手が止まった。
後ろから、別の手が重なっていた。
カイだった。
いつ来たのか、誰にもわからなかった。
表情はなかった。
男の手首を掴んでいた。
「離せ」
男が振り返った。
「誰だ、てめえ」
カイは答えなかった。
男の手を取って、後ろに回した。
骨が軋んで、男の顔が歪んだ。
「痛えな。離せ、クソ野郎」
カイがもう一段、手首を返した。
カイはリヴァを見た。
「立てるか」
カイが男を蹴り、リヴァと男の間へ入った。
男の仲間が四人、席を離れた。
椅子が続けて引かれた。
一人がジャケットの内側へ手を入れた。
レッドがビール瓶をテーブルに戻した。
「おっと、それは抜いたらダメだ」
男の手がさらに内側へ入った。
カイの掌がリヴァの腰の横へ触れた。
「伏せろ」
「え」
カイが片手でリヴァを持ち上げ、リヴァは革張りのボックス席へ背中から入った。
カイの膝がシートの縁に当たった。
片手を、リヴァの肩の横の背凭れについた。
身体が男たちとの間を塞いだ。
レッドが男との距離を詰めた。
ジャケットへ入っていた手首を取った。
腕を捻った。
男の頬がバカラテーブルへ落ちた。
レッドは腕を捻ったまま、頬をフェルトへ押さえた。
カードとチップが跳ねた。
「赤い方に百」
後ろから声が飛んだ。
レッドは男の腕を押さえたまま振り返った。
「三百にしろ。俺に失礼だろ」
二人目がカイへ踏み込んだ。
カイはリヴァの前を離れた。
一歩ずれた。
男の腕が空を切った。
カイの肘が上がった。
肩が入った。
男の膝が床についた。
三人目が右から回った。
「女一人に何人ついてんだよ。こいつ捕らえりゃいいだろうが」
男がリヴァへ手を伸ばした。
「きた」
リヴァは半歩だけ横へずれた。
「あ?」
男の手が肩の前を通った。
男が踏むはずだった場所には、もうリヴァはいなかった。
右足が床を捉え損ねた。
左足と交差して、上体が前へ流れた。
両手がバカラテーブルについた。
グラスが倒れた。
リヴァは一歩下がった。
レッドがそちらを見た。
「お。今のは褒めるぞ」
「真面目にやって」
「ずっとお前を褒めたかった」
リヴァはもう一歩下がった。重心を下げた。
カイが目だけをリヴァに向けた。
「リヴァ、出すな」
「はいはい」
リヴァが内腿に向かおうとした手を下ろした。
さっきの男がリヴァの方を見た。
東側の業務扉が開いて、外周にいたイーサンが入ってきた。
ジャケットのポケットに両手を入れたまま、その男の背後まで歩いた。
男が振り返った。
「何だ、お前は」
イーサンが一歩近づいた。
男の右手が止まった。
息を詰めた。汗が伝った。
ゆっくり手が下がった。
「思い出した。お前、ビリーじゃないか?」
レッドは伏せさせた男の腕を押さえたまま、笑った。
「随分、趣味が悪くなったな。気づかなかった」
「………レッド」男は言った。「てめえの女とは知らなかった」
レッドの口角が上がった。
「俺のじゃない」レッドは言った。「まだな」
カイが横のソファ席で、膝を床につけた男の腕を締め上げた。悲鳴が上がった。
「あ、弟子だ」レッドが締め上げられた男を見て、言い直した。「大事な教え子」
イーサンが裏口付近で捕らえた男を寝かせて、その上に座っていた。男に体重をかけて、男がうめき声をあげた。
「あ…仲間、だ」レッドがイーサンを見てから訂正した。
ビリーがカイを見た。
次にイーサン。
最後にリヴァ。
「帰れ」レッドは言った。「次にこの子を見たら、目を逸らせ」
「脅しか」
「違う」レッドは笑った。「生き方を教えてる」
間があった。
「昔みたいに、指から一本ずつ失くしたくねえだろ」
ビリーの顔から色が消えた。
レッドが男の腕を離した。
「連れて帰れ」
四人が離れた。
「覚えてろよ」
「覚えるのは、お前だ」カイが言った。
ビリーは返さなかった。
四人を連れて扉へ向かった。
歩く速度は速かった。
リヴァのドレスの裾が椅子の脚に引っかかっていた。
カイが屈んで外した。
「見せろ」
リヴァが顔を上げた。
首元に薄く指の痕が残っていた。
カイはビリーが消えた扉を見た。
立ち上がり、腰のホルスターに手を回しかけた。
イーサンが横目でそれを見た。
「殺すな」
「…まだ何もしてない」
手を戻して、息を吐いた。
赤いドレスの女が倒れた椅子を跨いで来た。
床に散ったチップを踏まないよう、ヒールの位置を一度変えた。
カイを見た。
「……やっぱり殺し屋じゃん」
「違う」
「じゃあ、そっちが仕事?」
女がリヴァへ目を移した。
シャンパンを一口飲んだ。
女はカイにメモを手渡した。番号が書いてあった。
笑って人混みへ戻った。
カイはその番号を見た。
「レッド」
「なんだ?」レッドが振り返った。
「やる。あと2112」
「おお」レッドはメモを受け取った。
イーサンがリヴァを見た。
「歩けるか」
「歩ける」
カイは正面入口を見た。
警備が二人に増えていた。
人垣もまだ解けていなかった。
リヴァがドレスを持ち上げた。
「行け」そう言って、カイが先に通路へ入った。
リヴァが続いた。
その後ろをレッド、イーサンが通った。
通路に出たところで、アルノが合流した。
第一ボタンは閉じていた。
タイは元の位置まで上がって、締め直されていた。
「お疲れ様でした」アルノは言った。「暴力的衝突はありませんでしたね」
「……そう、だな」レッドは言った。
イーサンは口角をあげた。
カイがアルノを一秒見た。
そのまま前を向いた。
出口の扉を押した。
夜の空気が来た。
その瞬間、リヴァの視界が白くなった。
音が消えた。
「リヴァ」
聞こえなかった。
「リヴァ」
音が戻った。
カイが目の前にいた。
「聞こえるか」
「……うん」
「俺が誰かわかるか」
「カイ」
イーサンがリヴァを見た。
「歩けるか」
「……ん」
「帰るぞ」
レッドが車の鍵を出した。
カイがリヴァの横についた。
誰も、それ以上は聞かなかった。




