転んだ、一回だけ
朝6時半、レッドがドアをノックした。
「起きてるか」
「起きてる」
「五分で外に来い」
外に出ると、空が白かった。日の出から間もない時間で、影がまだ長く、地面が冷えていた。イーサンが昨夜言った通り、気温が下がっていた。
「ウォーミングアップは」
「した」
レッドがグラウンドの中央に立っていた。手ぶらだった。肩がやけに大きい。
リヴァとの距離は、三歩分しかない。
それでも、世界が違う。
「今日は俺の担当になった。ちょっとは近接もやらせとけってさ」
スナイパーは遠距離の職業だ。だが戦場では、必ず最後に近くなる。
イーサンがそう言っていた。
「見せろ」と彼は言った。「細かい話は後だ。構えろ」
リヴァが構えた。
レッドの肩幅は、彼女の視界の半分を占めている。
踏み込まれたら、そのまま視界ごと押し潰されそうな距離だった。
レッドが一歩距離を取り、リヴァの周囲をゆっくり回った。
「どこかで習ったか?」
「カイに」
「カイか」レッドは少し考えた。「似てるな。脇が締まってる。いいか悪いかで言うと悪くない。ただ」
リヴァの後ろに回った。
「重心が高い。もう少し落とせ」
レッドの手が、肩に触れた。
押したわけでもないのに、身体が半歩ずれる。
重い。
触れられただけで、空間の圧が変わる。
リヴァが膝を曲げた。
「そこだ」レッドが前に戻った。「近距離は全部そこから始まる。重心が高いと崩される。お前みたいに小柄なら特にそうだ」
「小柄じゃない」
「俺より低い」
「皆が大きすぎる」
「テキサスではこれが普通だ」
リヴァはいつの間にか汗をかいていた。息が上がっている。疲労感が消えない。
「お前が的あてが得意なのは初日でわかった」
レッドが正面に立った。続ける。
「足りないのは、当てる前に殺されない動きだ」
レッドからいつもの笑顔が消えていた。
「いくぞ。俺が動く。お前はどこでも好きなところに返せ」レッドは肩を回した。「カイとやる時と同じだと思うな。俺は崩しから入る。スタイルが違う」
「どう違う」
「やってみればわかる」
レッドが動いた。
速かった。
体の大きさに対して動きが軽かった。右から来ると思ったら左で、リヴァの重心の外に入った。返す前に肩が押されて、一歩踏み出した。
「止まれ」とレッドが言った。「今何が起きたかわかるか」
「入られた」
「どこから」
「左側から」
「なんで入られた」
リヴァは少し考えた。
「重心が右に動いた」
「なぜ」
「……右が来ると思ったから」
「正解だ」レッドは頷いた。「俺は右を見せてから左に入る。癖だ。ただ、だいたいそれで入れる。なぜかわかるか」
「見せてから入るから」
「右を見せた瞬間、相手の重心が右に動く。人間はそうできてる。それを使う」レッドは少し下がった。「もう一度いくぞ」
二度目。
次の踏み込みは、足音がない。
地面は同じはずなのに、
リヴァの身体だけが勝手に反応している。
後ろに下がるべきではないと分かっている。
だが、先に重心が動いてしまう。
崩れる方向に誘導されていると気づくころにはもう遅かった。
「惜しい」とレッドが言った。リヴァの横にいた。「速い。でも少し遅い。もう一度」
3度目。
リヴァが返した瞬間、足が浮いた。
視界が一瞬だけ回る。
地面が近い。
掌をつく。
骨に衝撃はなかった。
止まる場所が奪われた感じがする。
レッドが立っている。
同じ場所に見えるのに、もう届かない。
グラウンドの端で、カイが一歩動いた。
止まった。
レッドがすでに手を差し出していた。リヴァがそれを取るのを見て、カイは元の場所に戻った。何も言わなかった。腕を組み直しただけだった。
「転んだな」と彼は言った。笑っていた。
「…転んじゃった」
「一回目だな」レッドはリヴァを引き起こした。手を離した。「ただ今のは悪くなかった。返す判断は正しかった。体が追いついてなかっただけだ」
「体を追いつかせる方法は」
「繰り返すしかない」とレッドは言った。「頭で理解しても体が動かない間は意味がない。今日一日で体に入れる」
レッドがいつの間にか来ていたカイに向かって言う。
「見てたか」
「見てた」とカイは言った。
「どう思う」
「悪くない」カイはリヴァを見た。「重心の修正が早かった。2度目と3度目で変わってた」
「そうだろ」とレッドは言った。「飲み込みが速い。だから転ばせた」
「なぜ」
「転んだ経験がないと怖がるようになる。早めに転ばせておいた方がいい」
カイは少しの間、レッドを見た。
「……わかった」
リヴァは二人を見た。
「続ける」と彼女は言った。
「ああ」レッドが正面に戻った。「今度は強度を上げる」
「さっきよりも?」
「文句あるか」
「ない」
レッドが笑った。今度は静かな笑い方だった。
「いいな」と彼は言った。独り言みたいに。「お前が来てよかった」
レッドはそう言った。まるで戦術の評価みたいに。
リヴァは聞こえなかったふりをした。
構えた。
「なあ」とレッドが言った。
リヴァは構えたまま答えなかった。
「お前、俺に勝とうとしてるだろ」
返さなかった。
「…それをやめろ」
「なんで」
「成立しないから」レッドは肩を一度回した。ゆっくりした動作だった。「体格差がある時点で、正面の力勝負は最初からお前の負けだ」
「……」
「お前が全力の愛で押し倒そうとしても、俺は立っていられる」
「…」
「わかるか」
「例えが嫌」
レッドが笑った。
「正面から向かってくるな。そういうもんだってこと」
「でも、向かわないと返せない」
「それが間違いだ」レッドは一歩踏み出した。攻撃ではなかった。ただ、距離を変えた。「聞け。大男の動きってのはな、自分の重さで成立してる。例えば100キロの人間が踏み込む時、その力は脚から腰から肩まで全部が乗ってる。それを真正面で止めようとすると、止める側は同じだけの力がいる。」
もう一歩、レッドが動く。
「お前にはそんな力はない」レッドの声は怒っていなかった。ただ、乾いていた。「向かうんじゃなくて、ずらせ」
「何を」
「相手が動くための条件を」
レッドがリヴァの右肩に触れた。押していない。二本の指が、ただ乗っただけだった。それだけで軸が動いた。わずかに、だが確実に。
「踏み込む前に、人間は重心を動かす。どこに踏み込むか、体が先に決めるんだ」レッドは触れたまま言った。「その決定を、一瞬だけ狂わせればいい。押す必要はない。ずれればいい」
指が離れた。
「目線だ」と彼は続けた。「大男が踏み込む直前、視線が一瞬だけ固まる。どこに入るか決めた瞬間だ。そこを見ろ。その前に動け。向かうんじゃなく、ずれろ。体を外に逃がしながら、重心の支えだけ消す」
「支えを消す」
「踏む予定だった場所が消えれば、どんなでかい奴でも一瞬崩れる」レッドは少し下がった。「その一瞬だけでいい。お前がやることはそれだけだ。勝たなくていい。一秒だけ立てなくすればいい」
リヴァは少し黙っていた。
「やってみる」
「来い」
リヴァが踏み込んだ。
レッドは待った。
来た瞬間、受けた。
壁のように動かなかった。リヴァの踏み込みがレッドの体に吸い込まれて、そのまま止まった。押し返しもしなかった。ただそこにいた。それだけで、リヴァが止まった。
レッドが少しだけ顔を歪めた。笑いではなかった。困ったような、少し痛ましいような顔だった。
「……そりゃ無理だ」と彼は言った。
声が低かった。責めていなかった。
「わかるか。今お前がやったこと」
リヴァは答えなかった。
「踏み込んだ。速かった。判断も悪くなかった。ただ」レッドは自分の体を見た。「俺は動いてない。お前の力が全部俺の重さに消えた。これは技術の問題じゃない。数字の問題」
「わかってる」
「わかっててやったのか」
「一回、確認したかったから」
レッドは少しの間、リヴァを見た。
それから、短く息を吐いた。笑っていた。声には出なかった。
「……正直だな」と彼は言った。レッドは腕を組んだ。「どうだった」
「壁って感じ」
「そうだろ」
レッドは短く頷いた。
「大男ってのは、だいたい壁役なんだ」
リヴァはレッドの顔を見た。
「それがわかれば充分だ」と彼は言った。「体で知ったなら、頭で聞くより早い」
グラウンドの端で、カイが腕を組んで見ている。
何も言わなかった。
ただ、視線が少し変わっていた。レッドを見ていた。訓練のやり方を、確認するような目だった。
「もう一度やる」とリヴァが言った。
「今度は向かってくるな」とレッドは言った。「ずれろ。条件を壊せ」
「わかった」
「壊せたら、俺が褒めてやるから」
「褒めなくていい」
「褒めたい」
リヴァが無言で構えた。軽口に付き合う余裕が消えていた。
それから、立っていられなくなるまで何度も地面に転がされた。
ようやく解放されたときには、テキサスの強い日差しはすでにオレンジ色に染まり始めていた。
テーブルの上に、コーヒーが人数分置かれていた。アルノが入れた。誰も頼んでいないが、気づいたらあった。
「怪我は」
「ない」とリヴァは言った。
「転んだと聞きましたが」
「一回だけ」
アルノは眼鏡を押し上げた。
「見せてください」
リヴァは手を出した。手のひらに砂利の跡が薄く残っていた。アルノが確認した。
「消毒します」
「いい」
有無を言わさずされることになった。
レッドがそれを見ていた。
「アルノ、お前いいな」と彼は言った。
「何がですか」
「面倒見がいい」
「業務です」アルノはリヴァの手に消毒液を当てた。「あなたこそ、訓練の強度は適切でしたか」
「適切だった」
「本人が転んでいますが」
「転ぶのも訓練のうちだ」
「理屈はわかります」アルノは手当てを続けた。「手が痛むようなら明日に影響が出ます」
「影響ない」とリヴァが言った。
アルノが少し間を置いた。
「……影響がないことを前提に、確認しています」
リヴァはアルノを見た。
先日あんなに夜中起こされてボロボロにされたのに…とこっそり思った。
きっと彼の中でロジックがあるのだろう。
「怒ってる?」
「怒っていません。心配しています」アルノは手当てを終えた。
アルノは何も言わなかった。道具をケースに戻した。
レッドが口を挟まなかった。
カイも何も言わなかった。ただ黙って水筒の蓋を開けた。
アルノは端末を一度確認して、置いた。
「では」とアルノは言った。「明日の話をします」
誰も返事をしなかった。
「明日は訓練は無し。代わりに新しい任務が入っています」
リヴァ以外は既に簡単に聞いていたみたいだった。
「ターゲットはダラ・ハッチンス。58歳、ダラス在住。不動産業の看板を掲げていますが、実態はフィクサーです。ギャング系の資金と人間を繋ぐ仕事をしている。直接手を下すタイプではない。弱みを握って動かすタイプです」
レッドがコーヒーを一口飲んだ。
「知らん奴だな」
「ハッチンスが持っている情報の一部を確認したい」アルノは続けた。「日本に戻ってからの案件に関係する可能性がある。その確認だけです。排除も接触記録も残さない。取れれば十分」
「その情報って」とリヴァは言った。
「詳細は今は関係ありません」アルノは言った。「日本に戻ってから話します。明日は私が動けば終わる話です」
それ以上説明しなかった。
リヴァは少し眉を動かしたが、何も言わなかった。
「ハッチンスはハイアットの地下カジノに週2回来ます。明日がその日です。バーカウンター付近に陣取って、女性の同伴者がいる客に近づく癖がある。話しかけるための口実を探している。そういう男です」
「つまり」とレッドは言った。「俺とリヴァが囮か」
「そうです」アルノは言った。「リヴァにバカラのテーブルに座っていてもらいます。レッドがエスコート役。ハッチンスの注意がそちらに向いている間に、私が接触して情報を取る。30分もあれば十分です」
「自然にしてればいいんだね」リヴァが言った。
「はい。何回かバカラで遊んでいてください」
アルノが端末を畳んだ。
「カイとイーサンは外周と室内待機。何もなければ何もしなくていい。暴力的衝突の可能性は低いので、今回はそういう案件ではありません」
カイは何も言わなかった。
「以上です」アルノは言った。「簡単な話です」
レッドがソファに背を預けた。
「撃たなくていい夜ってのは貴重だ」と彼は言った。
「そうですね」アルノは珍しく、少しだけ同意するような間を置いた。「そういう日です」
窓の外で、夕陽がようやく沈み始めていた。
テーブルのコーヒーから、湯気が細く上がっていた。




