第二部 カジノ:Hyatt Regency Dallas
午後九時十五分。Hyatt Regency Dallas、地下二階。
ハイアットの正面玄関は使わなかった。
レッドが「こっちだ」と言って、駐車場の端の業務用通路に向かった。
セキュリティが一人いたが、レッドと目が合った瞬間に軽く顎を上げた。顔見知りだった。
「今夜は面倒起こすなよ、レッド」
「俺じゃなくて中の連中に言え」
セキュリティが笑った。
通路を抜けると、エレベーターがあった。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
葉巻。煙草。こぼれたウイスキー。革と汗と、甘すぎる香水。
高い天井の下に、バカラとブラックジャックのテーブルが並んでいる。
金はかかっていた。品はなかった。
奥のテーブルで男が札束を投げた。ディーラーが無表情で数えている。その隣では、女が男の膝に横向きで座って煙草を吸っていた。
別のテーブルでグラスが鳴った。
「もう一回だ、クソが」
「さっきからそれしか言ってねえぞ」
笑い声が上がった。
床には乾ききっていない酒の跡があった。灰皿には葉巻が何本も押し込まれていた。給仕の胸元へ札を差し込もうとして手を叩かれている男がいた。
客層は、観光客の来る店のものではなかった。
値踏みをする目と、されることに慣れた目が、混在していた。
リヴァが一歩入った。
その目が、一斉にこちらに止まった。
札を見ていた男が手を止めた。グラスを傾けていた女が唇の動きを止めた。
「おい、レッド」
どこかから声が飛んだ。
「趣味変わったな」
別の男が笑った。
「いくらで買った女だ?」
レッドはそちらを見もしなかった。
「大丈夫か」レッドが後ろから小声で言った。
「大丈夫」
「姿勢が良すぎる。もっと力抜け」
リヴァは肩を落とした。
レッドが隣に並んだ。
チャコールグレーのダブルブレスト。シャツはオフホワイト、タイなし。胸のチーフが白。袖口のカフリンクスは鈍いシルバーで、古い紋章が入っていた。
普段のジーンズからの落差が大きかった。
レッドが少しだけ顔を向けた。
男が一人、前を横切った。
酔っていた。
リヴァの方を向いたまま歩いたせいで、肩がぶつかりそうになった。
レッドが半歩だけ前へ出た。
男との間に肩を入れた。
「前見ろ」
「悪い悪い」
男は笑って通り過ぎた。
ドレスはヴィクトルが用意したものだった。
ディープエメラルドグリーン。
床に向かって流れるロング丈で、歩くたびに裾が遅れてついてきた。
ホルターネックで、背中が大きく開いている。
右肩の刃物の傷が、ドレスのラインに沿って少しだけ覗いた。
レッドが何事もなかったように歩き出した。
「ヴィクトル、やりすぎたな」
「何が」
「俺が殴らなきゃいけない人数が増える」
「…殴らなきゃいいんじゃない?」
無線が入った。
カイだった。
『東側の壁、ポジションを取った』
リヴァがそちらを見た。
カイは室内の東側にいた。
チャコールブラックのスーツ。シャツはホワイト。タイなし。
壁際に立っていた。正確には、立とうとしていた。
女が一人、もう腕に絡んでいた。
シルバーの派手なドレスだった。片手にシャンパンを持っている。
「ねえ、ひとり?」
「仕事中だ」
「何の仕事?」
「見張り」
「私の?」
「違う」
女が笑った。
カイは女の腕を自分の腕から外した。
二秒後、戻ってきた。
今度は肩に手を置いた。
カイの眉間に皺が寄った。
女の背を、壁に押し付けた。女の頭の壁に腕を置いた。
「部屋は」
女は一拍止まって、言った。
「…1221」
「先に行ってろ」
女が笑って、カイの鼻先にキスをした。踵を返してカジノを出た。
カイが息を吐いて、リヴァの方を向いた。
『外周確認した。北出口に警備が一人増えた。把握しておけ』イーサンからの通信が来た。
「了解」アルノが小声で返した。
リヴァはアルノを見た。
一瞬、誰かわからなかった。
アルノは三人の中で最も場に溶けていた。
ネイビーの細身のスーツは同じだった。
ただ、ガンメタリックのタイはいつもより結び目が低い。第一ボタンが開いている。
左手にウイスキーのグラス。
右手にJPS。
煙草の灰が、いつもならないくらい長くなっていた。
「なんか変」リヴァが言った。
レッドが横で笑った。
「お前、できるなら普段からもう少し崩せよ」
「必要がありません」
アルノは灰を落とした。
灰皿ではなく、空になったグラスの中へ。
リヴァが見た。
「わあ」
「今夜だけです」
「やだそれ」
アルノが一瞬、目を伏せた。
「ターゲットがあなたに接触してきたら、私が三分以内に切ります」
「ちゃんと来るの」
「来ます。彼は今夜、必ずあなたに話しかける。それを利用します」
「私は…」
「自然にしていてください」
「ふりが、できないかも」
アルノはリヴァを一秒見た。
「……では、いつもの調子で構いません」アルノは眼鏡を直した。「むしろその方が、彼の興味を持続させます」
「興味…」
「つれない女性には、飽きずに話しかけてきます」
レッドが横で短く笑った。
「アルノ、お前容赦ないな」
「業務です。すぐ私が巻き取りますので」
「どうやって」
アルノは肩をすくめた。
「リサーチ済みです」
近くを通った女がアルノのグラスに自分のグラスを軽く当てた。
「楽しんでる?」
アルノがその女を見た。
「見てわからないですか」
「全然わかんない。私の部屋くる?」
「あとで」
女は一度アルノの灰色の髪を撫でてから、耳元で何かささやいた。そのまま笑って去った。
アルノはそちらを見もしなかった。
やがてアルノが人混みに溶けた。
歩き方に音がなかった。
ネイビーのスーツが、低い照明の中で一瞬で消えた。
後ろを通った男が振り返った。
もう一度見た。
レッドがその男を見た。
男が笑った。
「見るだけだろ」
「今のところな」
男は肩をすくめて離れた。
リヴァはバカラのテーブルに向かった。
レッドが椅子を引いた。リヴァが座った。
「お前の女か、レッド」横から男が言った。
レッドがそちらを見た。
「そう見えるなら、俺もまだ捨てたもんじゃないな」
「違うけど」リヴァが言った。
「お前、今それ言うな。俺の見栄が死ぬ」
笑いが起きた。
歩き出した瞬間、奥のバーカウンターにいた男が一度こちらを見た。すぐにグラスへ視線を戻した。
視線の止まり方が他の客と違った。
リヴァはテーブルに着いた。
チップを五枚買った。
五百ドル分。
レッドが後ろに立った。
「バカラは初めてか」
「初めて」
「プレイヤーかバンカーに賭けるだけだ。最初は小さく張れ」
隣の男がリヴァを見た。
「嬢ちゃん、次どっちだ」
リヴァは男を見た。答えなかった。
ディーラーがカードを配った。
リヴァはテーブルを見た。
バンカーに賭けた。
バンカーが勝った。
「お」
隣の男が声を上げた。
もう一人、後ろから覗き込んだ。
プレイヤー。
勝った。
「いいねえ」
三回目。
バンカー。
勝った。
「嬢ちゃん、次教えろよ。半分やる」
「いらない」
別の男が笑った。
「その顔で金まで持ってくのか。性格悪いな」
後ろでレッドが笑った。
隣の男の視線が、一瞬だけ手元に落ちて、顔に戻った。
レッドが後ろから小声で言った。
「バカラで三回連続は」
「わかってる」
「…わかってるならペースを落とせ」
リヴァはチップの額を下げた。
それでも当たった。
「まただ」
「おい、次どっちだ」
「俺も乗る」
「五回行ったらキスくらいしろよ」
誰かが言った。
レッドがすぐ返した。
「安い」
「じゃあいくらだ」
「お前には払えない」
「勝手に値段つけないで」
「ほら怒った。さらに高くなった」
テーブルの周りで笑いが起きた。
東側の壁際を見る。
カイはまだいた。
女が増えていた。
二人になっていた。
一人は赤いドレス。
もう一人は黒いミニドレスで、カイの肩に肘を置いていた。
「ねえ、軍人さん?」
「違う」
「警官?」
「違う」
「じゃあ殺し屋?」
「違う」
「何なら当たるの」
「触るな」
赤いドレスの女が笑いながらカイの腕にまた絡んだ。
カイが外した。
黒いドレスの女がシャツの襟元に指をかけた。
カイがその手首を掴んで外した。
「いい加減にしろ」
「怖ーい」
女は笑っていた。
「……部屋は」カイが言った。
「あたしたちどっちと?」
「二人とも」
「そんなに元気?」
「部屋に行ってろ」
「追い払いたいだけでしょー?」
カイは息を吐いた。
カイの視線は、その間もリヴァのテーブルからほとんど外れていなかった。
その時、奥のバーカウンターから男が動いた。
東側の壁際で、カイも位置を変えた。
女が腕に絡んだままついてきた。
カイが止まった。
「離せ」
女の腕を外した。
もう一人が笑った。
「やっぱり女いるじゃん」
カイは答えなかった。
テーブルへの導線を空けたまま、ハッチンスと正面入口の両方が見える位置へ移った。
男はバカラのテーブルの隣に立ち、ディーラーに頷いてから、自然な動きでリヴァの隣の椅子を引いた。
チャコールブラウンのスーツは丁寧に仕立てられ、タイピンに小粒のダイヤが光っていた。
「運がいいね」南部訛りの英語だった。穏やかな声。「どのくらい勝ってる」
「内緒」リヴァが答えた。
レッドが後ろで自然に笑った。
「こいつ、今日調子いいんですよ」レッドが気さくに言った。「あなたもバカラですか」
「ああ、まあ」
男はレッドより、まだリヴァを見ていた。
「どこから来た」
リヴァは一瞬止まった。
「日本」
「日本か。いいね」
ハッチンスがリヴァを上から下まで見た。
「日本人なら、白人の男に抱かれたいだろ」
「知らない」
ハッチンスが笑った。
「高そうで、面倒そうな女だな」
リヴァがハッチンスを見た。
「聞こえてる」
ハッチンスがリヴァを見た。
「聞かせてんだよ」声が低くなった。
リヴァは表情を変えずに視線を外した。
沈黙が続いた。
レッドが割り込んだ。
「彼女、シャイなんですよ」肩をすくめ、困ったように笑った。「俺が代わりにお礼を言っておきます。ありがとうございます」
「ボーイフレンド?」
「違います」
レッドが小さく息を吐いた。
苦笑いした。
「まあ、そういうことにはなってないですね。難しいんですよ、いろいろ」
「もう少し言うこと聞く女を選べよ」
リヴァがハッチンスを見た。
「誰に従うかは、私が決める」
ハッチンスが一拍止まった。
それから笑った。
「そういうことか」ハッチンスが言った。「名前は」
「リヴァ」
「ダニエルだ。ダニエル・ハッチンス。不動産をやってる」
ハッチンスがチップを一枚摘んだ。
「次はバンカーに千」
「やだ」
ハッチンスがまた笑った。
「本当に言うこと聞かないんだな」
ハッチンスがレッドを見た。
一拍あった。
助けを求める目だった。
「彼女、数字に強いんですよ。前に競馬場でも、こんな感じで」
リヴァが応じない以上、レッドが話し相手になるしかなかった。
それでもハッチンスは、視線を戻し続けた。
そこにアルノが来た。
通りすがりの顔をしていた。ウイスキーのグラスを片手に持ったまま、テーブルの脇に立ち、ディーラーに何か確認している風だった。
ハッチンスの背中側だった。
「ミスター・ハッチンス」アルノは自然な声で言った。「お待たせして申し訳ない。例の件で、少しお時間を」
言いながら、アルノはテーブル横のソファに腰を下ろして足を組んだ。
ハッチンスが振り返った。
「……誰だっけ」
「先月、マーティンからご紹介を頂いた者です」
眼鏡のフレームが照明を反射した。
上になった足先をゆっくり揺らした。
「あちらでお話しできれば。五分で終わりますよ」
ハッチンスがアルノを上から下まで見た。目を細めた。
「…成程。マーティンが、ね」
ハッチンスが一歩近づき、アルノの肩へ手を置いた。
「マーティンは趣味がいいな」
アルノは避けなかった。
眼鏡の奥で、金色の目が一度だけ細くなった。
「五分で済むのか?」
「ご希望なら、もう少し」
ハッチンスが目を細めた。
「それ、仕事の話か?」
「お好きなように解釈してください、Sir」
ハッチンスがアルノを見て、それからリヴァを見た。
少し迷う顔をした。
アルノが身を乗り出した。
ハッチンスのネクタイを指に取り、軽く引いた。
ハッチンスの身体がアルノの方へ向いた。
リヴァがハッチンスの背に隠れた。
「…喉が渇きました」
「グラス持ってるだろ」
アルノはさらにネクタイを引いて、笑った。
ハッチンスの喉が一度動いた。
「……その綺麗な顔を台無しにされても、後悔しないな?」
アルノが小さく笑って、ネクタイを離した。
ハッチンスがリヴァに向かって言った。
「またあとで話そう」
「やだ」
「……」
ハッチンスと、アルノが目を細めてリヴァを見た。
アルノがハッチンスの手を取った。
「行きましょう」
アルノはグラスを置いて、ソファから立ち上がった。
ハッチンスの視線が上がった。
「……思ったよりでかいな」
「支障がありますか、Sir?」
ハッチンスが立ったアルノを見上げた。
「……いや」
アルノが手を引いて歩きだした。
二歩目で、ハッチンスの手がアルノの腰に回った。
「…まあいいか」
カイの目は、またリヴァの周囲に戻っていた。
赤いドレスの女も戻ってきていた。
またカイの腕に絡んだ。
カイが目を閉じた。
女が笑った。
「ほんとに嫌なのね」
「ああ」
「そこまで言われると逆に楽しい」
「帰れ」
レッドがリヴァの隣に座った。
「……愛想笑いくらい、できないのか」
「できない」
「あの男、最後、ちょっと困ってたぞ」レッドは声に出さず笑った。「困ってたのに、それでもまた話したいって顔してた」
「……なんで」
「困らせて、それでもまた来たくなる女ってのは、たまにいる」
「意味わかんない」
「俺もわからん」
レッドはディーラーに合図して、自分のチップを買った。
「任務成功だ」レッドは小声で言った。「アルノが取り終わるまで、もう少しだ」
リヴァは頷いて、バカラのテーブルに視線を戻した。
”Control” - Halsey
執筆時点のドル円:1ドル=159円台(2026年4月)




