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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第四章「乾いた地平線 ― The Dry Horizon」

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カジノ:想定の範囲内



「クソ。ほんとに当てやがった」


「何者だこいつ」


 五回目が当たった時点で、テーブルの後ろに大きな人だかりができていた。


 他の卓から、グラスを持ったまま移ってくる客もいた。バカラの椅子と椅子の間に男が肩を差し込み、後ろから女が煙草を持った手を伸ばしてチップの山を覗いた。


 葉巻を咥えた男が、リヴァの肩越しから手元を見た。


「次当てたら俺が酒奢る」


「いらない」


「じゃあ抱いてやる」


 笑いが起きた。


「……きもちわるい…」リヴァが小声で言った。誰も聞いていなかった。


 ディーラーが上司を見た。上司は小さく頷いた。


 ディーラーはカードを揃え、何事もなかったように次のゲームを準備した。


 リヴァの前にはチップが積まれていた。


 500ドルが、3200ドルになっていた。


 アルノがリヴァの隣を通った。


 左手にウイスキーのグラスを持っていた。タイの結び目は低いままだった。


「リヴァ」小声で言った。「なにしてる」


「止め方がわからない」


「……今すぐ手を止めてください」


「アルノ、そっちは」レッドが割り込んだ。


「あと十分あれば確認できます。ハッチンスは今、別室で電話中です。私はその間にもう一つ、裏を取ります」


「なんかされて無いだろうな?」


「何かとは」


「……なんでもない」


 リヴァの肩に手を置いた。


「次の一回だけ張って、それで終わりにしろ」


「わかった」


 アルノが足早に戻って行った。


 リヴァは自分の前にあるチップを両手で寄せた。


 全部、プレイヤーへ置いた。


 周りにいた野次の声が一段盛り上がった。


「馬鹿、全部とは言ってないだろ」レッドが言った。


 後ろから男が身を乗り出した。


「いいぞ、嬢ちゃん」


「プレイヤーに二百」


「俺も」


 左右からチップが続いた。テーブルに舞った。


 ディーラーが配った。


 プレイヤー側、8。


 バンカー側、6。


 次の瞬間、テーブルの周囲が沸いた。


「よっしゃ」


「最高だ」


「酒持ってこい」


 その時だった。


 左斜め後ろの客が半歩ずれた。


 その隣の男も身体を引いた。


 人の流れが一箇所だけ割れた。


 誰かが近づいていた。


 東側の壁際で、カイも一歩出た。


 リヴァが振り向く前に、男が隣の椅子を引いた。


 断りはなかった。


 チャコールブラックのスーツに黒いシャツ。首元には金のチェーン。60歳近い外見。


 髪は短く刈り上げていた。こめかみに古い傷が一本ある。


 左右の指に複数の指輪。手の甲には色の褪せたタトゥー。


 男はポケットからジッポを出した。


 蓋を開いた。


 閉じた。


 親指でもう一度弾いた。


「……っ」


 リヴァの指が椅子の背に掛かったまま止まった。


 立とうとしたはずだった。膝が動かなかった。


 椅子を掴んでいる指へ力を入れても、指先の感覚が薄い。男がすぐ隣にいることも、その手がこちらへ向くことも見えているのに、身体が距離に反応しなかった。


 周囲の声が遠くなった。


 さっきまで背後に集まっていた客が、少しずつ場所を空けていく。


 葉巻を咥えていた男が口を閉じた。別の卓から来ていた女がグラスを胸元へ引いた。


 誰も男に声をかけなかった。


 東側でカイがこちらを向いた。


 リヴァを見た瞬間、その顔から表情が消えた。


 赤いドレスの女がカイを覗き込んだ。


「どうしたの」


 カイは返さなかった。


 ディーラーが次のカードを配った。


 リヴァの前に賭け金はなかった。


「当てねえのか」


 男が言った。


 その声が、喧騒から切り離されたように耳へ入った。


 ジッポの蓋が開いて、閉じる。


 乾いた金属音がした。


 男の視線がリヴァの顔から胸元へ落ちた。そのまま脚まで眺め、口元を歪める。


 チップを二枚投げた。


 一枚が積まれたチップに当たり、床へ転がった。


「一晩いくらだ」


 後ろの笑い声が消えた。


 ディーラーはカードを揃えたまま顔を上げなかった。


「その山の三倍出す。脚開いて、朝まで黙ってろ」


 リヴァは椅子を掴んだまま息を吸った。


「……触らないで」


 震えて、声にならなかった。


「聞こえねえな」


 男が目を細めて、笑った。


「一晩で帰したことあんのかよ」


 後ろから男の声がした。


 ビリーは笑った。


「いい子にしてりゃ返すさ」


「おい」


 レッドがビール瓶を置いた。


「その口を閉じろ」


 ビリーが横目で見た。


「なんだ。お前も買ったのか」


 レッドがこちらへ動いた。


 同時に、ビリーの仲間が二人、椅子から離れた。


 一人がレッドとの間へ入る。


 もう一人は東側へ身体を向け、ジャケットの内側へ手を入れた。


 カイの足が止まった。


 視線が、その手元へ落ちる。


 レッドもそちらを見ると、口元から笑みが消えた。


 その一瞬に、ビリーの手が伸びた。


 リヴァの上腕を掴んだ。


「立て」


 腕を引かれた。


 右のヒールが床を滑った。


 椅子が倒れた。


 リヴァは空いている手で男の胸を押したが、腕に力が入らない。


「……離して」


 ビリーがその手を見て笑った。


「さっきの威勢はどうした?」


 腕を強く引かれ、腰がバカラテーブルの縁に当たった。


「急に弱々しくなったな。そっちの方が似合ってるぞ」


 リヴァが身体を捻る。


 ビリーの手が上腕から首へ移った。


「やめて……」


「声まで変わったじゃねえか」


 顔を覗き込まれた。


「最初からそうしてりゃ可愛げがあったのにな」


 息を吸う前に押された。


 リヴァの背がフェルトへ落ちた。


「……っ」


 カードが散った。


 誰かのグラスが床へ落ち、割れた。


 積まれていたチップが崩れ、テーブルの縁からいくつも転がる。


 緑のドレスの裾が乱れ、片方のヒールが脱げた。


 リヴァは起き上がろうとしたが、ビリーが左手首を掴み、フェルトへ押しつけた。


「逃げんなよ。せっかく見物人もいる」


 ビリーが周囲へ視線をやった。


「こういうのが趣味なら、皆に見てもらうか?」


 誰も笑わなかった。


 さっきまでテーブルを囲んでいた客が、さらに距離を取った。


 リヴァが手首を引こうとした。


「……やめて」


「その顔で頼まれてもな」


 ビリーが口元を歪めた。


「金積まれて澄ましてた女が、押さえつけられた途端これか。随分かわいいじゃねえか」


 喉へ強く圧がかかった。


「あ……っ」


「いい子にしてろって言ってんだろ」


 リヴァの右手が動いた。


 ドレスの内側、内腿へ向かう。


 数センチ進んで止まった。


 指が動かない。


 ビリーの目が、その手へ落ちた。


「何だ。まだ何か隠してんのか」


 リヴァの伸ばした手に、ビリーが指を絡めて頭上に置いた。


 東側でカイが動いた。


 ジャケットへ手を入れていた男も、同時に肩を動かした。


「抜くな」


 カイの声だった。


 男の手が止まる。


 レッドがその男へ身体を向けた。


 ビリーはそちらを見なかった。


 リヴァの手を押さえたまま、顔を近づける。


「本当綺麗な顔だな」


 リヴァは顔を背けた。


 ジッポが一度開け閉めされ、テーブルに置かれた。


 また呼吸が浅くなる。


 ビリーはその顔を眺め、低く笑った。


「参加したい奴、チップ一枚でいいぞ」


 男の手がドレスへ伸びた。


「お家の人に言え、もう帰れなくなったって」


 そこに、別の腕が重なった。


 男の手が止まった。


「離せ」


 カイだった。


 ビリーが振り返った。


「誰だ、てめえ」


 カイは一度リヴァを見てから、ビリーへ視線を戻した。


「お家の人、だ」


「は?旦那か?」


「……いや」


 カイはビリーの手を取った。


 そのまま後ろへ回す。


 骨が軋み、ビリーの顔が歪んだ。


「痛えな。離せ、クソ野郎」


 カイがさらに手首を返した。


 ビリーの身体がテーブルから離れる。


 カイはリヴァとの間へ入った。


「立てるか」


 リヴァはすぐに返事ができなかった。


 カイの視線が一度、顔に戻る。


「リヴァ」


「……うん」


 カイがビリーを蹴り離した。


 男の仲間が四人、席を離れた。


 椅子が続けて引かれた。


 一人がジャケットの内側へ手を入れた。


 レッドがビール瓶をテーブルに戻した。


「おっと、それは抜いたらダメだ」


 男の手がさらに内側へ入った。


 カイの掌がリヴァの腰の横へ触れた。


「伏せろ」


「え」


 カイが片手でリヴァを持ち上げ、リヴァは革張りのボックス席へ背中から入った。


 カイの膝がシートの縁に当たった。


 片手を、リヴァの肩の横の背凭れについた。


 身体が男たちとの間を塞いだ。


 レッドが男との距離を詰めた。


 ジャケットへ入っていた手首を取った。


 腕を捻った。


 男の頬がバカラテーブルへ落ちた。


 レッドは腕を捻ったまま、頬をフェルトへ押さえた。


 カードとチップが跳ねた。


「赤い方に百」


 後ろから声が飛んだ。


 レッドは男の腕を押さえたまま振り返った。


「三百にしろ。俺に失礼だろ」


 二人目がカイへ踏み込んだ。


 カイはリヴァの前を離れた。


 一歩ずれた。


 男の腕が空を切った。


 カイの肘が上がった。


 肩が入った。


 男の膝が床についた。


 三人目が右から回った。


「女一人に何人ついてんだよ。こいつ捕らえりゃいいだろうが」


 男がリヴァへ手を伸ばした。リヴァは息を吐いて、男に向いた。


「きた」


 リヴァは半歩だけ横へずれた。


「あ?」


 男の手が肩の前を通った。


 男が踏むはずだった場所には、もうリヴァはいなかった。


 右足が床を捉え損ねた。


 左足と交差して、上体が前へ流れた。


 両手がバカラテーブルについた。


 グラスが倒れた。


 リヴァは一歩下がった。


 レッドがそちらを見た。


「お。今のは褒めるぞ」


「真面目にやって」


「ずっとお前を褒めたかった」


 リヴァはもう一歩下がった。重心を下げた。


 カイが目だけをリヴァに向けた。


「リヴァ、出すな」


「……うん」


 リヴァが内腿に向かおうとした手を下ろした。


 さっきの男がリヴァの方を見た。


 東側の業務扉が開いて、外周にいたイーサンが入ってきた。


 ジャケットのポケットに両手を入れたまま、その男の背後まで歩いた。


 男が振り返った。


「何だ、お前は」


 イーサンが一歩近づいた。


 男の右手が止まった。


 息を詰めた。汗が伝った。


 ゆっくり手が下がった。


「思い出した。お前、ビリーじゃないか?」


 レッドは伏せさせた男の腕を押さえたまま、笑った。


「随分、趣味が悪くなったな。気づかなかった」


「………レッド」男は言った。「てめえの女とは知らなかった」


 レッドの口角が上がった。


「俺のじゃない」レッドは言った。「まだな」


 カイが横のソファ席で、膝を床につけた男の腕を締め上げた。悲鳴が上がった。


「あ、弟子だ」レッドが締め上げられた男を見て、言い直した。「大事な教え子」


 イーサンが裏口付近で捕らえた男を寝かせて、その上に座っていた。男に体重をかけて、男がうめき声をあげた。


「あ…仲間、だ」レッドがイーサンを見てから訂正した。「お前ら嫉妬すんなよ…」


 ビリーがカイを見た。


 次にイーサン。


 最後にリヴァ。


「帰れ」レッドは言った。「次にこの子を見たら、目を逸らせ」


「脅しか」


「違う」レッドは笑った。「生き方を教えてる」


 間があった。


「昔みたいに、指の骨折られたく無いだろ」


 ビリーの顔から色が消えた。


 レッドが男の腕を離した。


「連れて帰れ」


 四人が離れた。


「覚えてろよ」


「覚えるのは、お前だ」カイが言った。


 ビリーは返さなかった。


 四人を連れて扉へ向かった。


 歩く速度は速かった。




 リヴァのドレスの裾が椅子の脚に引っかかっていた。


 カイが屈んで外した。


「見せろ」


 リヴァが顔を上げた。


 首元に薄く指の痕が残っていた。


 カイはビリーが消えた扉を見た。


 立ち上がり、腰のホルスターに手を回しかけた。


 イーサンが横目でそれを見た。


「殺すな」


「…まだ何もしてない」


 手を戻して、息を吐いた。



 赤いドレスの女が倒れた椅子を跨いで来た。


 床に散ったチップを踏まないよう、ヒールの位置を一度変えた。


 カイを見た。


「……やっぱり殺し屋じゃん」


「違う」


「じゃあ、そっちが仕事?」


 女がリヴァへ目を移した。


 シャンパンを一口飲んだ。


 女はカイにメモを手渡した。番号が書いてあった。


 笑って人混みへ戻った。


 カイはその番号を見た。


「レッド」


「なんだ?」レッドが振り返った。


「やる。あと2112」


「おお」レッドはメモを受け取った。



 イーサンがリヴァを見た。


「歩けるか」


「歩ける」


 カイは正面入口を見た。


 警備が二人に増えていた。


 人垣もまだ解けていなかった。


 リヴァがドレスを持ち上げた。


「行け」そう言って、カイが先に通路へ入った。


 リヴァが続いた。


 その後ろをレッド、イーサンが通った。


 通路に出たところで、アルノが合流した。


 第一ボタンは閉じていた。


 タイは元の位置まで上がって、締め直されていた。


「お疲れ様でした」アルノは言った。「暴力的衝突はありませんでしたね」


「……そう、だな」レッドは言った。


 イーサンは口角をあげた。


 カイがアルノを一秒見た。


 そのまま前を向いた。


 

 出口の扉を押した。


 夜の空気が来た。


 その瞬間、リヴァの視界が白くなった。


 音が消えた。


「リヴァ」


 聞こえなかった。


「リヴァ」


 音が戻った。


 カイが目の前にいた。


「聞こえるか」


「……うん」


「俺が誰かわかるか」


「カイ」


 イーサンがリヴァを見た。


「歩けるか」


「……ん」


「帰るぞ」


 レッドが車の鍵を出した。


 カイがリヴァの横についた。


 誰も、それ以上は聞かなかった。

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