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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第四章「乾いた地平線 ― The Dry Horizon」

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第二部 カジノ:Hyatt Regency Dallas




 午後九時十五分。Hyatt Regency Dallas、地下二階。


 ハイアットの正面玄関は使わなかった。


 レッドが「こっちだ」と言って、駐車場の端の業務用通路に向かった。


 セキュリティが一人いたが、レッドと目が合った瞬間に軽く顎を上げた。顔見知りだった。


「今夜は面倒起こすなよ、レッド」


「俺じゃなくて中の連中に言え」


 セキュリティが笑った。


 通路を抜けると、エレベーターがあった。


 扉が開いた瞬間、空気が変わった。


 葉巻。煙草。こぼれたウイスキー。革と汗と、甘すぎる香水。


 高い天井の下に、バカラとブラックジャックのテーブルが並んでいる。


 金はかかっていた。品はなかった。


 奥のテーブルで男が札束を投げた。ディーラーが無表情で数えている。その隣では、女が男の膝に横向きで座って煙草を吸っていた。


 別のテーブルでグラスが鳴った。


「もう一回だ、クソが」


「さっきからそれしか言ってねえぞ」


 笑い声が上がった。


 床には乾ききっていない酒の跡があった。灰皿には葉巻が何本も押し込まれていた。給仕の胸元へ札を差し込もうとして手を叩かれている男がいた。


 客層は、観光客の来る店のものではなかった。


 値踏みをする目と、されることに慣れた目が、混在していた。


 リヴァが一歩入った。


 その目が、一斉にこちらに止まった。


 札を見ていた男が手を止めた。グラスを傾けていた女が唇の動きを止めた。


「おい、レッド」


 どこかから声が飛んだ。


「趣味変わったな」


 別の男が笑った。


「いくらで買った女だ?」


 レッドはそちらを見もしなかった。


「大丈夫か」レッドが後ろから小声で言った。


「大丈夫」


「姿勢が良すぎる。もっと力抜け」


 リヴァは肩を落とした。


 レッドが隣に並んだ。


 チャコールグレーのダブルブレスト。シャツはオフホワイト、タイなし。胸のチーフが白。袖口のカフリンクスは鈍いシルバーで、古い紋章が入っていた。


 普段のジーンズからの落差が大きかった。


 レッドが少しだけ顔を向けた。


 男が一人、前を横切った。


 酔っていた。


 リヴァの方を向いたまま歩いたせいで、肩がぶつかりそうになった。


 レッドが半歩だけ前へ出た。


 男との間に肩を入れた。


「前見ろ」


「悪い悪い」


 男は笑って通り過ぎた。


 ドレスはヴィクトルが用意したものだった。


 ディープエメラルドグリーン。


 床に向かって流れるロング丈で、歩くたびに裾が遅れてついてきた。


 ホルターネックで、背中が大きく開いている。


 右肩の刃物の傷が、ドレスのラインに沿って少しだけ覗いた。


 レッドが何事もなかったように歩き出した。


「ヴィクトル、やりすぎたな」


「何が」


「俺が殴らなきゃいけない人数が増える」


「…殴らなきゃいいんじゃない?」


 無線が入った。


 カイだった。


『東側の壁、ポジションを取った』


 リヴァがそちらを見た。


 カイは室内の東側にいた。


 チャコールブラックのスーツ。シャツはホワイト。タイなし。


 壁際に立っていた。正確には、立とうとしていた。


 女が一人、もう腕に絡んでいた。


 シルバーの派手なドレスだった。片手にシャンパンを持っている。


「ねえ、ひとり?」


「仕事中だ」


「何の仕事?」


「見張り」


「私の?」


「違う」


 女が笑った。


 カイは女の腕を自分の腕から外した。


 二秒後、戻ってきた。


 今度は肩に手を置いた。


 カイの眉間に皺が寄った。


 女の背を、壁に押し付けた。女の頭の壁に腕を置いた。


「部屋は」


 女は一拍止まって、言った。


「…1221」


「先に行ってろ」


 女が笑って、カイの鼻先にキスをした。踵を返してカジノを出た。


 カイが息を吐いて、リヴァの方を向いた。


『外周確認した。北出口に警備が一人増えた。把握しておけ』イーサンからの通信が来た。


「了解」アルノが小声で返した。


 リヴァはアルノを見た。


 一瞬、誰かわからなかった。


 アルノは三人の中で最も場に溶けていた。


 ネイビーの細身のスーツは同じだった。


 ただ、ガンメタリックのタイはいつもより結び目が低い。第一ボタンが開いている。


 左手にウイスキーのグラス。


 右手にJPS。


 煙草の灰が、いつもならないくらい長くなっていた。


「なんか変」リヴァが言った。


 レッドが横で笑った。


「お前、できるなら普段からもう少し崩せよ」


「必要がありません」


 アルノは灰を落とした。


 灰皿ではなく、空になったグラスの中へ。


 リヴァが見た。


「わあ」


「今夜だけです」


「やだそれ」


 アルノが一瞬、目を伏せた。


「ターゲットがあなたに接触してきたら、私が三分以内に切ります」


「ちゃんと来るの」


「来ます。彼は今夜、必ずあなたに話しかける。それを利用します」


「私は…」


「自然にしていてください」


「ふりが、できないかも」


 アルノはリヴァを一秒見た。


「……では、いつもの調子で構いません」アルノは眼鏡を直した。「むしろその方が、彼の興味を持続させます」


「興味…」


「つれない女性には、飽きずに話しかけてきます」


 レッドが横で短く笑った。


「アルノ、お前容赦ないな」


「業務です。すぐ私が巻き取りますので」


「どうやって」


 アルノは肩をすくめた。


「リサーチ済みです」


 近くを通った女がアルノのグラスに自分のグラスを軽く当てた。


「楽しんでる?」


 アルノがその女を見た。


「見てわからないですか」


「全然わかんない。私の部屋くる?」


「あとで」


 女は一度アルノの灰色の髪を撫でてから、耳元で何かささやいた。そのまま笑って去った。


 アルノはそちらを見もしなかった。


 やがてアルノが人混みに溶けた。


 歩き方に音がなかった。


 ネイビーのスーツが、低い照明の中で一瞬で消えた。


 

 後ろを通った男が振り返った。


 もう一度見た。


 レッドがその男を見た。


 男が笑った。


「見るだけだろ」


「今のところな」


 男は肩をすくめて離れた。


 リヴァはバカラのテーブルに向かった。


 レッドが椅子を引いた。リヴァが座った。


「お前の女か、レッド」横から男が言った。


 レッドがそちらを見た。


「そう見えるなら、俺もまだ捨てたもんじゃないな」


「違うけど」リヴァが言った。


「お前、今それ言うな。俺の見栄が死ぬ」


 笑いが起きた。


 歩き出した瞬間、奥のバーカウンターにいた男が一度こちらを見た。すぐにグラスへ視線を戻した。


 視線の止まり方が他の客と違った。




 リヴァはテーブルに着いた。


 チップを五枚買った。


 五百ドル分。


 レッドが後ろに立った。


「バカラは初めてか」


「初めて」


「プレイヤーかバンカーに賭けるだけだ。最初は小さく張れ」


 隣の男がリヴァを見た。


「嬢ちゃん、次どっちだ」


 リヴァは男を見た。答えなかった。


 ディーラーがカードを配った。


 リヴァはテーブルを見た。


 バンカーに賭けた。


 バンカーが勝った。


「お」


 隣の男が声を上げた。


 もう一人、後ろから覗き込んだ。


 プレイヤー。


 勝った。


「いいねえ」


 三回目。


 バンカー。


 勝った。


「嬢ちゃん、次教えろよ。半分やる」


「いらない」


 別の男が笑った。


「その顔で金まで持ってくのか。性格悪いな」


 後ろでレッドが笑った。


 隣の男の視線が、一瞬だけ手元に落ちて、顔に戻った。


 レッドが後ろから小声で言った。


「バカラで三回連続は」


「わかってる」


「…わかってるならペースを落とせ」


 リヴァはチップの額を下げた。


 それでも当たった。


「まただ」


「おい、次どっちだ」


「俺も乗る」


「五回行ったらキスくらいしろよ」


 誰かが言った。


 レッドがすぐ返した。


「安い」


「じゃあいくらだ」


「お前には払えない」


「勝手に値段つけないで」


「ほら怒った。さらに高くなった」


 テーブルの周りで笑いが起きた。


 東側の壁際を見る。


 カイはまだいた。


 女が増えていた。


 二人になっていた。


 一人は赤いドレス。


 もう一人は黒いミニドレスで、カイの肩に肘を置いていた。


「ねえ、軍人さん?」


「違う」


「警官?」


「違う」


「じゃあ殺し屋?」


「違う」


「何なら当たるの」


「触るな」


 赤いドレスの女が笑いながらカイの腕にまた絡んだ。


 カイが外した。


 黒いドレスの女がシャツの襟元に指をかけた。


 カイがその手首を掴んで外した。


「いい加減にしろ」


「怖ーい」


 女は笑っていた。


「……部屋は」カイが言った。


「あたしたちどっちと?」


「二人とも」


「そんなに元気?」


「部屋に行ってろ」


「追い払いたいだけでしょー?」


 カイは息を吐いた。


 カイの視線は、その間もリヴァのテーブルからほとんど外れていなかった。


 その時、奥のバーカウンターから男が動いた。


 東側の壁際で、カイも位置を変えた。


 女が腕に絡んだままついてきた。


 カイが止まった。


「離せ」


 女の腕を外した。


 もう一人が笑った。


「やっぱり女いるじゃん」


 カイは答えなかった。


 テーブルへの導線を空けたまま、ハッチンスと正面入口の両方が見える位置へ移った。




 男はバカラのテーブルの隣に立ち、ディーラーに頷いてから、自然な動きでリヴァの隣の椅子を引いた。


 チャコールブラウンのスーツは丁寧に仕立てられ、タイピンに小粒のダイヤが光っていた。


「運がいいね」南部訛りの英語だった。穏やかな声。「どのくらい勝ってる」


「内緒」リヴァが答えた。


 レッドが後ろで自然に笑った。


「こいつ、今日調子いいんですよ」レッドが気さくに言った。「あなたもバカラですか」


「ああ、まあ」


 男はレッドより、まだリヴァを見ていた。


「どこから来た」


 リヴァは一瞬止まった。


「日本」


「日本か。いいね」


 ハッチンスがリヴァを上から下まで見た。


「日本人なら、白人の男に抱かれたいだろ」


「知らない」


 ハッチンスが笑った。


「高そうで、面倒そうな女だな」


 リヴァがハッチンスを見た。


「聞こえてる」


 ハッチンスがリヴァを見た。


「聞かせてんだよ」声が低くなった。


 リヴァは表情を変えずに視線を外した。


 沈黙が続いた。


 レッドが割り込んだ。


「彼女、シャイなんですよ」肩をすくめ、困ったように笑った。「俺が代わりにお礼を言っておきます。ありがとうございます」


「ボーイフレンド?」


「違います」


 レッドが小さく息を吐いた。


 苦笑いした。


「まあ、そういうことにはなってないですね。難しいんですよ、いろいろ」


「もう少し言うこと聞く女を選べよ」


 リヴァがハッチンスを見た。


「誰に従うかは、私が決める」


 ハッチンスが一拍止まった。


 それから笑った。


「そういうことか」ハッチンスが言った。「名前は」


「リヴァ」


「ダニエルだ。ダニエル・ハッチンス。不動産をやってる」


 ハッチンスがチップを一枚摘んだ。


「次はバンカーに千」


「やだ」


 ハッチンスがまた笑った。


「本当に言うこと聞かないんだな」


 ハッチンスがレッドを見た。


 一拍あった。


 助けを求める目だった。


「彼女、数字に強いんですよ。前に競馬場でも、こんな感じで」


 リヴァが応じない以上、レッドが話し相手になるしかなかった。


 それでもハッチンスは、視線を戻し続けた。




 そこにアルノが来た。


 通りすがりの顔をしていた。ウイスキーのグラスを片手に持ったまま、テーブルの脇に立ち、ディーラーに何か確認している風だった。


 ハッチンスの背中側だった。


「ミスター・ハッチンス」アルノは自然な声で言った。「お待たせして申し訳ない。例の件で、少しお時間を」


 言いながら、アルノはテーブル横のソファに腰を下ろして足を組んだ。


 ハッチンスが振り返った。


「……誰だっけ」


「先月、マーティンからご紹介を頂いた者です」


 眼鏡のフレームが照明を反射した。


 上になった足先をゆっくり揺らした。


「あちらでお話しできれば。五分で終わりますよ」


 ハッチンスがアルノを上から下まで見た。目を細めた。


「…成程。マーティンが、ね」


 ハッチンスが一歩近づき、アルノの肩へ手を置いた。 


「マーティンは趣味がいいな」


 アルノは避けなかった。


 眼鏡の奥で、金色の目が一度だけ細くなった。


「五分で済むのか?」


「ご希望なら、もう少し」


 ハッチンスが目を細めた。


「それ、仕事の話か?」


「お好きなように解釈してください、Sir」


 ハッチンスがアルノを見て、それからリヴァを見た。


 少し迷う顔をした。


 アルノが身を乗り出した。


 ハッチンスのネクタイを指に取り、軽く引いた。


 ハッチンスの身体がアルノの方へ向いた。


 リヴァがハッチンスの背に隠れた。


「…喉が渇きました」


「グラス持ってるだろ」


 アルノはさらにネクタイを引いて、笑った。


 ハッチンスの喉が一度動いた。


「……その綺麗な顔を台無しにされても、後悔しないな?」


 アルノが小さく笑って、ネクタイを離した。


 ハッチンスがリヴァに向かって言った。


「またあとで話そう」


「やだ」


「……」


 ハッチンスと、アルノが目を細めてリヴァを見た。


 アルノがハッチンスの手を取った。


「行きましょう」


 アルノはグラスを置いて、ソファから立ち上がった。


 ハッチンスの視線が上がった。


「……思ったよりでかいな」


「支障がありますか、Sir?」


 ハッチンスが立ったアルノを見上げた。


「……いや」


 アルノが手を引いて歩きだした。


 二歩目で、ハッチンスの手がアルノの腰に回った。


「…まあいいか」




 カイの目は、またリヴァの周囲に戻っていた。


 赤いドレスの女も戻ってきていた。


 またカイの腕に絡んだ。


 カイが目を閉じた。


 女が笑った。


「ほんとに嫌なのね」


「ああ」


「そこまで言われると逆に楽しい」


「帰れ」





 レッドがリヴァの隣に座った。


「……愛想笑いくらい、できないのか」


「できない」


「あの男、最後、ちょっと困ってたぞ」レッドは声に出さず笑った。「困ってたのに、それでもまた話したいって顔してた」


「……なんで」


「困らせて、それでもまた来たくなる女ってのは、たまにいる」


「意味わかんない」


「俺もわからん」


 レッドはディーラーに合図して、自分のチップを買った。


「任務成功だ」レッドは小声で言った。「アルノが取り終わるまで、もう少しだ」


 リヴァは頷いて、バカラのテーブルに視線を戻した。


”Control” - Halsey


執筆時点のドル円:1ドル=159円台(2026年4月)

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