交渉術
※この話には心理的支配・精神的暴力の描写が含まれます。
テキサス拠点 リヴァの自室 午前二時八分。
二回、ノックがした。
リヴァはベッドに起き上がったまま、壁に背をもたせていた。眠れていなかった。眠ろうとして、夢を見て、頬がまだ少し濡れていた。
「誰」
「俺だ」
ヴィクトルだった。
少し間があった。
「開いてる」
ドアが開いた。
ダークボルドーのシャツ。ボタンが一つ余分に開いていた。髪が乱れていた。顎の絆創膏はまだ貼ってあった。
部屋に入った。ドアを閉めた。
リヴァを見た。
「……泣いてるのか」
「夢を見た」
「そうか」
ヴィクトルの目が、いつもより深い緑色に見えた。
ヴィクトルは椅子を引いた。ベッドから少し離れた位置に座った。
煙草を取り出した。
「吸っていいか」
「うん」
火をつけた。一口吸った。煙を吐いた。少しだけ、肩が落ちた。
リヴァは膝を抱えていた。シャツの袖で頬を拭った。
「ヴィクトル」
「ああ」
「なんで来たの」
ヴィクトルが煙草を指に挟んだまま、リヴァを見た。
答えなかった。
リヴァは膝の上を見た。
ヴィクトルの呼吸が、少し浅かった。普段の彼は、呼吸が見えない。
ヴィクトルはしばらく黙っていた。
煙草を指に挟んで、煙を吐いて、リヴァを見ていた。
「何回目なんだ」
「なにが」
「身体に反応が出るの」
「…わからない。数えきれないくらい」
ヴィクトルが自分の膝に肘をついて、煙草を持った方の手のひらを額に当てた。
しばらく何も言わなかった。長く息を吐いて、月明かりがにじんでいる床を見つめていた。
「今のお前は、入り口が開いている」
「……」
「俺なら今すぐにできる。グレイみたく時間がいらない」
「……何言ってるの」
「あいつは、恐怖で支配するために時間をかけている。俺は違う」
椅子がきしむ。
ヴィクトルが少し動くと、香水のにおいがした。いつもより甘い香りだった。
「お前が今何を怖がっているか、全部わかってる」
「……」
「設計された存在かもしれないという恐怖。自分の意思が本当に自分のものかわからないこと。毎日立ち上がって、それでもまだ足りないという焦燥」
吸いかけの煙草を灰皿に置いた。煙はまだ上がっている。リヴァが吸った後の煙草が何本か灰皿に入っていた。
ヴィクトルは立ち上がった。
「試していいか」
「……何を」
「俺がどこまでできるか」
近づいてきた。
椅子の前に来た。立ったまま、見下ろした。
「呼吸が浅い」ヴィクトルが言った。「訓練が終わってからずっとそのままだ」
「……うん」
「息を吸え」
「嫌」
「吸え。酸素を入れろ。楽になる」
吸った。
「吐け」
吐いた。
「もう一回」
吸う。吐く。
「……」
「楽になったな」
椅子を引いた。リヴァの正面に置いた。座った。膝が触れそうな距離だった。
距離が縮まった。
「一度会ってから、お前のことをずっと調べてた」
ヴィクトルが言った。
手が、顎に触れた。角度を上げた。目が合った。
「…」
「全部は出てこなかった。でも、お前が知らないことも掴めた」
「なんで」
「…知りたかったから」
顎から手が離れた。代わりに、頬に触れた。
押しつけない。ただ、触れた。すぐ離れて、膝の前で手を組んだ。
「チョコレート好きだろ。とりわけ、リンツのミルク」
「うん」
「コーヒーはブラック派」
「…何の話?」
「間違いないよな」
「…うん」
「ヒールのパンプスが好きだろ?歩きにくくても履きたくなる」
「そうかも」
いつの間にか、ヴィクトルの声だけが、頭に響いていた。
ヴィクトルが組んだ手に顎を乗せていた。瞬きが少なかった。
「…トリガーが来るのが怖い。グレイが怖い」
「…うん」
「お前は、頑張った」
間があった。
「カジノの任務も、あんな下世話な空間で、頑張ったよな」
「……うん」
「お前は、ずっと戦っている」
「うん」
「このままだと一生、戦うことになる」
「…うん」
「疲れただろ」
「…そうかも」
何度目かのYesを重ねた後、ヴィクトルはまっすぐこちらを見ていた。
「俺と行こう」
「…」
リヴァは目をそらした。
言葉は出なかった。
それを見て、ヴィクトルは左目だけを細めた。
ヴィクトルは立ち上がって、窓を見た。
「モルドバの北に、小さな村がある」
「……」
「人口は300人もいない。冬は雪が深い。夏は緑が多い」
振り返った。
歩いてきた。リヴァの前に来た。しゃがんだ。目線を合わせた。右手をリヴァの膝に置いた。
「記憶がなくていい。過去がなくていい」
「……ヴィクトル」
「俺が全部作れる」遮るようにヴィクトルは言った。「新しい名前。新しい過去。新しい書類。全部作れる」
「……」
「お前は生まれ直せる」
「そんなこと」
「できる」ヴィクトルは続けた。「トリガーも、殺しも、全部ない場所がある」
「……っ」
「息を吸え」
吸った。
「吐け」
吐いた。
「もう一回」
吸う。吐く。
「そうだ」
手が、髪に触れた。梳くように、ゆっくりと。
「村の朝は静かだ。鶏の声で起きる。窓から山が見える」
「……」
「暖炉がある。コーヒーをミルクで割って、砂糖を多く入れて飲む。時間を気にせず、ゆっくりと。……それ以外は、何も知らなくていい」
「……」
車まで、たった十歩。空港までは40分の道のり。夜中なら尚更早い。
「見えるか」
「……」
「そこに、俺とお前がいる」
「……ヴィクトル」
「うん」
「それ、本当に言ってる?」
「本当に言っている」
呼吸が、またヴィクトルのリズムと合っていった。
気づいていた。止められなかった。
「やめてよ」
「やめない。見ろ」
「わかったから、やめて」声を荒げた。
「見ろ」ヴィクトルは言った。「見えるか、自分の本心が」
涙が、ベッドのシーツに落ちた。
「トリガーで崩れるたびに、自分じゃない何かになる感覚」
「うん」
「その村には、トリガーがない」
「……」
「ないよな、返事をしろ」
「うん」
「誰もお前を崩さない」
「……っ」
「返事は?」
「うん、」何度も頷いた。泣いていて、頭が働かなかった。
「そうだよな。お前はいつも正しい選択をしてきた」
ヴィクトルがリヴァの隣に座る。体がヴィクトルに傾いた。
「お前まで、アルノやオラヴルのようになる必要はない」
顎をもって無理やり目を合わせられた。
「俺と来るんだろ」
涙で滲んで、よく見えなかった。
息が切れる。苦しい。
ヴィクトルがどんな表情をしているか、わからなかった。
しばらくの無言。
リヴァはどうしてもその無言が耐えられなかった。
ヴィクトルが、待っていた。リヴァの、次の行動を。
リヴァは首を振った。
ヴィクトルは小さく息を吐いた。
「…なぜ」
「カイが、みんなが」
「あいつらは、お前がいなくても生きていける。もともとそうだっただろ。元に戻るだけだ」
「……」
「お前が来てから。カイが辺りをずっと見回しているのはなぜだ」
「それは」
「お前のためだろ」
「……」
「お前が戦おうとするせいで、皆無理をしてる」
「やめて」
「やめない」
「やめてよ」リヴァの両手がヴィクトルに力なく当たった。
ヴィクトルが両手を取った。指が絡んだ。
ひどく温かくて優しい手だった。
「アルノが毎晩二時に寝てるのは何故だ」
「ねえ、やめて」
両手がヴィクトルと繋がっていて、流れ続ける涙を拭えない。
「ユキナガは何回、徹夜してた?」
「違う、」
「違うのか?」
「違く、…ないから、やめて」
「お前が選ばない限り、やめない」
涙が止まらなかった。
ヴィクトルは手を離した。
「俺と来い」
「…」
「組織を離れて、俺と来い」
「……できない、そんなこと」
「できる。俺の仕事は何だ」
リヴァは黙った。目が揺れた。
「言え。俺は何者だ」
「……偽造師」
「そうだ。お前は賢い」
静かに言った。
「書類上、お前は死亡する。俺が作る。追えない形で消える。モルドバに行く。誰も来ない」
「カイたちが」
「お前が生きているなら、…そこで幸せなら、理解する」
「それは」
「お前自身が、選ぶことだ」
呼吸が乱れた。
「息を吸え」
「……っ」
「吸え」
吸う。喉が痛い。
「吐け」
吐く。
「頷け。それだけでいい」
リヴァは頷かなかった。
その顔を見て、ヴィクトルは奥歯をかみしめた。
「……ここまでが」
低く言った。
「いつもの俺の仕事だ」
ヴィクトルがジッポを開いた。
リヴァの視界が揺れた。
「なん、で」
ヴィクトルはジッポを閉じた。開いた。
リヴァが一秒止まった。戻った。
「どうして、」
ヴィクトルはリヴァを見ていた。
「俺の伝手で、国境を越えられる」
呟いた。祈りのようだった。
ヴィクトルはジッポをゆっくり閉じた。
リヴァを見た。
「二コラという女だった」
ヴィクトルは窓を見たまま言った。
「マフィアの幹部の娘。誰が見ても違和感ないくらいに書類を作って、経歴を作って、新しい名前で別の州に送り出す予定だった」
「……」
「出発の二日前…一昨日、彼氏が来た」ヴィクトルの声が少し変わった。「別れた男だと思っていた。違った。まだ繋がっていた。揉み合いになった」
ヴィクトルは、まだ顎に貼ってある絆創膏を一度撫でた。
「女は全部しゃべった」ヴィクトルは言った。「どこに行くか。誰が手伝っているか。全部」
「ヴィクトル、」
リヴァが声を出した。ヴィクトルはジッポを閉じて、開いた。
動けなくなる。
最後まで聞け、と言われているようだった。
「俺の詰めが、甘かった」
声は小さかった。
「俺が用意した完璧な書類より、知ってる男の方を選んだ。だから、女は金で裏切られた。そして、…目の前で撃たれた」
煙草を吸っていないのに、吸っているような息を吐いた。
「過去は変えられない。今日みたいな夜が」
そこまで言いかけて、下を向いた。
「また来るのが、俺は怖い」
「……」
ヴィクトルはジッポを閉じた。開いた。
「リヴァ」
声も変わっていた。
低かった。ゆっくりだった。一音ずつ、確認するように言った。
「”Isa”」
世界が、沈んだ。
音が消えた。視界が白くなった。全身の力が抜けて、部屋の床に落ちた。
床が硬い。額を打った。
下にして倒れた腕が、しびれる。
ヴィクトルが目の前に立っていた。顔が上がらない。革靴しか見えない。
ヴィクトルが一歩近づいた。
リヴァを見下ろした。
「ガキの頃に夢見たもの、全部手に入れた。ここを辞めて、自由になった。でも」
ヴィクトルの声が震えていた。
「俺はずっと同じことを繰り返してる、何度も」
ヴィクトルが、真上から見ていた。表情がなかった。
「もう、疲れたんだ」
ヴィクトルがしゃがんだ。暗くて顔が見えない。泣いているかもしれなかった。
「俺と逃げよう」
やっと動くようになってきた右腕を支えに、体を起こした。
その時、ヴィクトルの右手が動いた。
もう一度、ジッポが鳴った。
体の芯から何かが抜けた。
「っ…」
抗えない。背中を支えられる。ヴィクトルの顔が、目の前にあった。
ヴィクトルは一言、低い声で言った。
「”Mæl”」
リヴァの中で、何かが落ちた。トリガーかもしれない、と分かった時には唇は動いていた。
「……はい」
声が出た。
自分の声だった。
ヴィクトルが止まった。
一秒。
二秒。
動かなかった。
三秒目に、何かが変わった。
「……待て」
手が離れた。後ろに下がった。立ち上がった。
「待て、俺は」
窓を向いた。両手で顔を覆った。
しばらく、そのまま動かなかった。
息が乱れていた。
「……何を」
リヴァには向けていなかった。
リヴァは支えを失って横に倒れこんでいた。
トリガーを使われた。今までのとは、違う。
「…なんで」
ヴィクトルが、振り返った。憔悴しているような、見たことがない顔だった。
床の上に膝をついた。
リヴァが顔を上げた。ヴィクトルを見た。
「……今、のは」
ヴィクトルは答えなかった。
「ヴィクトル」
長い沈黙があった。
「今のは、お前じゃなかった」
ヴィクトルは、しばらく動かなかった。
また窓の方を向いていた。背中が見えた。肩幅の広い背中が、少し落ちていた。
「……でも、今夜お前に見せたものは、嘘じゃない」
窓の外が、少しずつ白んでいた。テキサスの夜明けが近かった。
「次は自分で選べ」
ヴィクトルは言った。
「お前は戻ってこられた」
「……」
「カイたちのことを手放さなかった。目がずっとここにあった」
「……」
「それが、お前だ」
リヴァは、一度目線を外してから、またゆっくりヴィクトルを見た。
息が戻ってきていた。涙も、もう出ていなかった。袖で拭いた。
「…ずっと辛かったの?ヴィクトル」
止まった。
それから、ヴィクトルはゆっくり振り返った。
驚いた目だった。
「……なんでそう思う」
「一昨日会いに来た時から、辛そうだった」
ヴィクトルは何も言わなかった。
「ご飯に誘ったのも、傷ついてたからでしょ」
力なく笑った。
窓を見た。しばらく見ていた。
どこまでも何もない荒野。
「…村の名前は?」
「Copăceni」
「コパチェニ」
「ああ」
「……かわいい名前」
テキサスの夜が、終わっていった。
Sobranie Black Russianの残り香と、村の名前だけが、静かに部屋に残った。
”Adagio for Strings Op.11” / Samuel Barber




