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『リヴァ・アルカ ―世界を確定させるアンカーと最強たちの執着譚―』  作者: Ilir Noct
第四章「乾いた地平線 ― The Dry Horizon」

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交渉術

※この話には心理的支配・精神的暴力の描写が含まれます。




 夜中の2時だった。


 ノックがした。


 1回だった。


 リヴァはベッドに起き上がったまま、壁に背をもたせていた。眠れていなかった。眠ろうとして、夢が来た。夢から逃げて、起きていた。頬がまだ少し濡れていた。拭いていなかった。


「誰」


「俺だ」


 ヴィクトルだった。


 少し間があった。カイが出て行ってから、鍵を閉めていなかったことを思い出す。


「開いてる」


 ドアが開いた。


 ダークボルドーのシャツ。ボタンが一つ余分に開いていた。髪が乱れていた。普段しない乱れ方だった。顎の絆創膏はまだ貼ってあった。


 部屋に入った。ドアを閉めた。


 リヴァを見た。


 止まった。


「……泣いてたか」


「夢を見た」


「今日の夢か」


「グレイの夢と、…ほかにも何かいた」


「そうか」


 今夜の目が、少し違った。


 奥に何かが溜まっているような目だった。普段のヴィクトルではなかった。


 椅子を引いた。ベッドから少し離れた位置に座った。


 Sobranie Black Russianを取り出した。指先が、わずかに動いていた。


「吸っていいか」


「うん」


 火をつけた。一口吸った。深く吸った。普段より深かった。煙を吐いた。少しだけ、肩が落ちた。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 リヴァは膝を抱えていた。シャツの袖で頬を拭った。まだ少し震えていた。止まらなかった。


「ヴィクトル」


「ああ」


「なんで来たの」


 少し間があった。


「ローワンに言われた」


「ほんと?」


 ヴィクトルが煙草を指に挟んだまま、リヴァを見た。


 答えなかった。


 答えないことが、答えだった。


 リヴァは膝の上を見た。


 ヴィクトルの呼吸が、少し浅かった。気づいたら気になっていた。普段のヴィクトルは呼吸が見えない。それが今夜は見えた。


 変だと思った。


 でも夢がまだ頭の端にあった。グレイの声が残っていた。暗い部屋で一人でいるよりは、誰かがいる方がよかった。


 それだけだった。


 その判断が正しかったかどうか、このあと確かめることになる。






 ヴィクトルはしばらく黙っていた。


 Sobranie Black Russianを指に挟んで。煙を吐いて。私を見ていた。


「今日で何回目なんだ」


「なにが」


「あの状態になるの」


「…わからない。数えきれないくらい」


 ヴィクトルが自分の膝に肘をついて、煙草を持った方の手のひらを額に当てた。


 しばらく、何も言わなかった。長く息を吐いて、月明かりがにじんでいる床を見つめていた。


「今のお前は、入り口が開いている」


「……何の」


「俺なら今すぐにできる。グレイみたく時間がいらない」


「……なに、言ってるの」


「あいつは支配するために時間をかけている。俺は違う」


 椅子がきしむ。


 ヴィクトルが少し動くと、香水のにおいがする。


「お前が今何を怖がっているか、全部わかってる」


「……」


「設計された存在かもしれないという恐怖。自分の意思が本当に自分のものかわからないこと。毎日崩れて、毎日立ち上がって、それでもまだ足りないという焦燥」


「いまは、ヴィクトルが怖いよ」


「…そうだな。正しい」


 吸いかけの煙草を灰皿に置いた。煙はまだ上がっている。リヴァが吸った後の煙草が何本か灰皿に入っていた。


 ヴィクトルは立ち上がった。


「試していいか」


「……何を」


「俺がどこまでできるか」


「やめて」


「やめる理由を言え」


「何言ってるの、怖い」


「それは理由にならない」


 近づいてきた。


 椅子の前に来た。しゃがまなかった。立ったまま、見下ろした。






 ここから、ヴィクトルは変わった。


 穏やかさが消えた。余裕が消えた。残ったのは計算だけだった。


「呼吸が浅い」ヴィクトルが言った。「訓練が終わってからずっとそのままだ」


「……うん」


「息を吸え」


「嫌」


「吸え。酸素を入れろ。楽になる」


 吸った。


「吐け」


 吐いた。


「もう一回」


 吸う。吐く。


「……」


「楽になったな」


 椅子を引いた。私の正面に置いた。座った。膝が触れそうな距離だった。


 距離が縮まった。


 ゆっくりと。


 気づいていた。気づいていたのに、動けなかった。


 何かがおかしい。


「一度会ってから、お前のことをずっと調べてた」


 ヴィクトルが言った。低い声だった。


 手が、顎に触れた。角度を上げた。目が合った。


「…」


「全部は出てこなかった。でも、お前が知らないことも掴めた」


「なんで」


「…知りたかったから」


 顎から手が離れた。代わりに、頬に触れた。


 押しつけない。ただ、触れた。すぐ離れて、膝の前で手を組んだ。


「チョコレート好きだろ。とりわけ、リンツのミルク」


「うん」


「コーヒーはブラック派」


「…何の話?」


「間違いないよな」


「…うん」


「ヒールのパンプスが好きだろ?歩きにくくても履きたくなる」


「そうかも」


 いつの間にか、ヴィクトルの声だけが、頭に響いていた。


 ヴィクトルが組んだ手に顎を乗せていた。瞬きが少ないな、と思った。


「…トリガーが来るのが怖い。グレイが怖い」


「…うん」


「お前は、頑張った」


「……うん」


「お前は、ずっと戦っている」


「うん」


「このままだと一生、戦うことになる」


「…うん」


「疲れただろ」


「…そうかも」


 何度目かのYesを重ねた後、ヴィクトルはまっすぐこちらを見ていた。


 感情のない目。交渉中みたいな目。


「俺と行かないか」


「…」


 リヴァは目をそらした。


 それを見て、ヴィクトルは左目だけを細める。惜しい、とでも言ったげな目だった。






 ヴィクトルは立ち上がって、窓を見た。


「モルドバの北に、小さな村がある」


「……」


「人口が300人もいない。冬は雪が深い。夏は緑が多い」


 振り返った。


「そこで暮らせる」


 歩いてきた。私の前に来た。しゃがんだ。目線を合わせた。右手をリヴァの膝に置いた。


「記憶がなくていい。過去がなくていい」


「……ヴィクトル」


「俺が全部作れる」と遮るようにヴィクトルは言った。静かだった。「新しい名前。新しい過去。新しい書類。全部作れる」


「……」


「お前は生まれ直せる」


「そんなこと」


「できる」ヴィクトルは続けた。「トリガーも、殺しも、全部ない場所がある」


「……っ」


「息を吸え」


 吸った。


「吐け」


 吐いた。


「もう一回」


 吸う。吐く。


「そうだ」


 手が、髪に触れた。梳くように。ゆっくりと。


「村の朝は静かだ。鶏の声で起きる。窓から山が見える」


「……」


「暖炉がある。コーヒーをミルクで割って、砂糖を多く入れて飲む。時間を気にせず、ゆっくりと」


「……」


 車まで、たった十歩。空港までは40分の道のり。夜中なら尚更早い。


「見えるか」


「……見える」


「そこに、お前がいる」


「……ヴィクトル」


「うん」


「それ、本当に言ってる?」


「本当に言っている」


 呼吸が、またヴィクトルのリズムと合っていった。


 気づいていた。止められなかった。


「やめてよ」


「やめない。見ろ」


「わかったから、やめて」


「見ろ」とヴィクトルは言った。「見えるか、自分の本心が」


 涙が来た。来てほしくなかった。来た。


「トリガーで崩れるたびに、自分じゃない何かになる感覚」


「うん」


「その村には、トリガーがない」


「……」


「ないよな、返事をしろ」


「うん」


「誰もお前を崩さない」


「……っ」


「返事は?」


「うん、」


「そうだよな。お前はいつも正しい選択をしてきた」


 ヴィクトルがリヴァの隣に座る。体がヴィクトルに傾いた。


 顎をもって無理やり目を合わせられた。


「俺と来るだろ」


「…」


 涙で滲んで、よく見えなかった。


 ヴィクトルがどんな表情をしているか、わからなかった。


 しばらくの無言。リヴァはどうしてもその無言が耐えられなかった。


 ヴィクトルが、待っていた。リヴァの、次のアクションを。


「返事は?」


「……」首を振る。


「なぜ」


「仲間が」


「仲間は、お前がいなくても生きていける。もともとそうだっただろ。元に戻るだけだ」


「……」


「お前が来てから。カイが毎朝五時に起きるのはなぜだ」


「それは」


「お前のためだろ」


「……」


「お前がいることで、危険に晒されている人間がいる」


「やめて」


「やめない」


「やめてよ」


「アルノが毎晩2時に寝てるのは何故だ」


「ねえ、やめて」


「お前のために寝る間を惜しんでる」


「違う、」


「違うのか?」


「違く、…ない。やめて」


「お前が選ばない限り、やめない」


 涙が止まらなかった。








「俺と来い」


「…」


「組織を離れて、俺と来い」


「……できない」


「できる。俺は偽造師だ」


 静かに言った。


「書類上、お前は死亡する。俺が作る。追えない形で消える。モルドバに行く。誰も来ない」


「カイたちが」


「悲しむだろう。でもお前が生きているなら、幸せなら理解する」


「それは」


「お前が選ぶことだ」


 呼吸が乱れた。


「息を吸え」


「……っ」


「吸え」


 吸う。喉が痛い。


「吐け」


 吐く。


「頷け。俺と来るって、言え」




 リヴァは頷かなかった。


 その顔を見て、ヴィクトルは奥歯をかみしめた。






「……ここまでが」


 低く言った。


「いつもの俺の仕事だ」





 ヴィクトルの目の中に、何かが宿っていた。


 リヴァは、震えていた。


 逃げることや、誰かを呼ぶ選択肢は、はじめからなかった。丁寧にそれを築いてきたから。


 でも、手ごわい。あと少し。あと少しだと、思った。


 可哀想だ、と思った。これじゃ、グレイと同じじゃないか。


 そう思っても、止められなかった。


 交渉が予定通り進まないとき、必ずいつも次の手を考えていた。


 掌握できないなら、彼女にはこの手を使えばいい。簡単なことだ。きっとこういうときのために、彼女は簡単に設計されているのだから。


 ヴィクトルがジッポを開いた。


 カチン。


 リヴァの視界が揺れた。揺れたが、止まらなかった。


「なん、で」


 ヴィクトルはジッポを閉じた。開いた。


 カチン。


 リヴァが一秒止まった。戻った。


「どうして、」


 ヴィクトルはリヴァを見ていた。


 見ていた。


 止まった瞬間の顔を、見ていた。恐怖ではなかった。全部が遠くなる顔だった。自分がどこにいるかわからなくなる顔だった。


 何かが、頭の中で動いた。


 可哀想だ。


 またその言葉が来た。


 来て。


 そのまま、別の何かに変わった。


 変わるのが、自分でもわかった。わかったが、止まらなかった。


 この子は疲れている。毎日崩れて、毎日立ち上がって、設計されたかもしれないという恐怖を一人で持っている。それでも折れない。折れないのに、限界に近い。


 連れていけばいい。


 思った。


 本気で、思ってしまった。


 ジッポがある。トリガーを知っている。止まる瞬間を作れる。


 車まで10歩だ。空港まで40分。書類は作れる。記録は消せる。俺の伝手で国境を越えられる。


 誰にも止められない。


 ヴィクトルの中で、何かが静かに決まった。


 感情ではなかった。計算だった。冷静だった。それが余計に、まずかった。


 ヴィクトルはジッポをゆっくり閉じた。


 リヴァを見た。


 目が、変わっていた。


「……テキサスで」と彼は言った。低かった。「依頼人が」


「死なせはしなかった。でも、ギリギリだった」ヴィクトルは窓を見たまま言った。「戸籍も住所も経歴も、全部念入りに用意した。誰が見ても違和感ないくらいに」


 ヴィクトルはジッポを閉じた。開いた。


「二コラという女だった」ヴィクトルは窓を見たまま言った。「マフィアの幹部の娘。抜け出したがってた。書類を作って、経歴を作って、新しい名前で別の州に送り出す予定だった」


「……」


「出発の二日前...一昨日、彼氏が来た」ヴィクトルの声が少し変わった。「別れた男だと思っていた。違った。まだ繋がっていた。揉み合いになった」


「女は全部しゃべった」ヴィクトルは言った。「どこに行くか。誰が手伝っているか。全部」


「ヴィクトル、」


 リヴァが声を出した。ヴィクトルはジッポを閉じて、開いた。


 動けなくなる。


 最後まで聞け、と言われているようだった。


「俺の詰めが、甘かった」


 ヴィクトルがこんなに真剣に話すのは初めてだった。


「俺が用意した完璧な書類より、知ってる男の方を選んだ。だから、女は金で裏切られた。そして、…目の前で撃たれた」


 煙草を吸っていないのに、吸っているような息を吐いた。


「過去は変えられない。今日みたいな夜が」


 そこまで言いかけて、下を向いた。


「また来るのが、俺は怖い」


「……」


 さっきまでの目ではなかった。穏やかさが、消えていた。余裕が、消えていた。代わりにあったのは、静けさだった。何も揺れない、何も迷わない、静けさだった。


 ヴィクトルはジッポを閉じた。開いた。


「リヴァ」


 声も変わっていた。


 低かった。ゆっくりだった。一音ずつ、確認するように言った。



「”Isa”」



 世界が、沈んだ。


 音が消えた。視界が白くなった。全身の力が抜けて、部屋の床に落ちた。


 痛い。床が硬い。頭を打ってくらくらする。下にして倒れた腕が、しびれる。


 ヴィクトルが目の前に立っていた。見えていた。見えているのに、遠かった。


 ヴィクトルが一歩近づいた。


 リヴァを見下ろした。


「地位も金も、全部手に入れた。ここ(アルカ)を辞めて、自由になった。でも」


 一拍。


「アルカを辞めた理由と、同じことを繰り返してる、何度も」


 184センチが、真上から見ていた。表情がなかった。怒っていない。脅していない。ただ、見ていた。


「疲れた」


 ヴィクトルがしゃがんだ。暗くて顔が見えない。泣いているかもしれなかった。


「俺と、逃げよう」


 声が、耳の奥に直接来た。起き上がらなければ。そう思って、やっと動くようになってきた右腕を支えに、体を起こした。


 その時、ヴィクトルの右手が動いた。


 リヴァの左耳に触れた。指先が、耳たぶに触れた。


 体の芯から何かが抜けた。


「っ…」


 抗えない。背中を支えられる。ヴィクトルの顔が、目の前にあった。


 来るか、ともう一度言われた。


 ヴィクトルは一言、低い声で言った。



「”Mæl”」



 リヴァの中で、何かが落ちた。Isaとも違う。トリガーかもしれない、と分かった時には唇は動いていた。


 「……行き、ます」


 声が出た。


 自分の声だった。自分の意志じゃなかった。でも、自分の声で出た。


 ヴィクトルが止まった。


 一秒。


 二秒。


 動かなかった。


 三秒目に、何かが変わった。


「……待て」


 自分に言っていた。


 手が耳たぶから離れた。後ろに下がった。立ち上がった。


「待て、俺は」


 窓を向いた。両手で顔を覆った。


 しばらく、そのまま動かなかった。


 息が乱れていた。今夜初めて、乱れていた。


「……何を」


 独り言だった。


 リヴァには向けていなかった。


 ヴィクトルが自分自身に向かって言っていた。


 リヴァは言葉を紡いだ後、支えを失って横に倒れこんでいた。


 トリガーを使われた。今までのとは違う。


 「…どうしてヴィクトルが、知ってるの」


 ヴィクトルが、振り返った。憔悴しているような、見たことがない顔だった。


 床の上に膝をついた。


 リヴァが顔を上げた。ヴィクトルを見た。


 目が、揺れていた。


「……何をしたの」


 ヴィクトルは答えなかった。


 答えられなかった。


「ヴィクトル」


「……ああ」


「何をしようとしてたの」


 長い沈黙があった。


「お前を連れていこうとしていた」と彼は言った。「モルドバに。本気で」


 リヴァは何も言わなかった。


「できた」とヴィクトルは続けた。「もう少しで...。でもお前の意思じゃない」


「……なんで止まったの」


「お前の顔を見たから」ヴィクトルは砂利を見たままだった。「今のは、お前じゃなかった。お前が自分でやっている動きじゃなかった」


「……ヴィクトルが怖かった」


「そうだろうな」ヴィクトルはリヴァを見た。「知っておく、べきだ」


 リヴァは息を整えながら、ヴィクトルを見ていた。


 ヴィクトルは目を逸らさなかった。






 ヴィクトルは、しばらく動かなかった。


 また窓の方を向いていた。背中が見えた。肩幅の広い背中が、少し落ちていた。


「一つだけ」


「なに?」


「モルドバの話は、本当のことだ」


「……」


「俺が作った絵じゃない。本当にある場所だ。暖炉も、山も、川も、全部本当にある」


「…」


「今夜お前に見せたものは、嘘じゃない」


 窓の外が、少しずつ白んでいた。テキサスの夜明けが近かった。


「次は自分で選べ」とヴィクトルは言った。「俺に言わされないように」


「……選べるかわからない」


「いや。選べる」


「なんで」


「お前は手ごわかった。戻ってこられた」


「……戻ってきた?」


「カイたちのことを手放さなかった。目がずっとここにあった」


「……」


「それが、お前だ」






リヴァは、一度目線を外してから、またゆっくりヴィクトルを見た。


「…ずっと辛かったの?ヴィクトル」


 止まった。


 完全に止まった。


 それから、ヴィクトルはゆっくり振り返った。


 計算していない目だった。初めて見る目だった。


「……なんでそう思う」


「昨日会いに来た時から、辛そうだった」


 ヴィクトルは何も言わなかった。「ご飯に誘ったのも、傷ついてたからでしょ」


 窓を見た。しばらく見ていた。


 どこまでも何もない荒野。





「…村の名前は?」


「Copăceni」


「コパチェニ」


「ああ」


「……かわいい名前」



 テキサスの夜が、終わっていった。


 Sobranie Black Russianの残り香と、コパチェニという名前だけが、静かに部屋に残った。




 

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