交渉術
※この話には心理的支配・精神的暴力の描写が含まれます。
夜中の2時だった。
ノックがした。
1回だった。
リヴァはベッドに起き上がったまま、壁に背をもたせていた。眠れていなかった。眠ろうとして、夢が来た。夢から逃げて、起きていた。頬がまだ少し濡れていた。拭いていなかった。
「誰」
「俺だ」
ヴィクトルだった。
少し間があった。カイが出て行ってから、鍵を閉めていなかったことを思い出す。
「開いてる」
ドアが開いた。
ダークボルドーのシャツ。ボタンが一つ余分に開いていた。髪が乱れていた。普段しない乱れ方だった。顎の絆創膏はまだ貼ってあった。
部屋に入った。ドアを閉めた。
リヴァを見た。
止まった。
「……泣いてたか」
「夢を見た」
「今日の夢か」
「グレイの夢と、…ほかにも何かいた」
「そうか」
今夜の目が、少し違った。
奥に何かが溜まっているような目だった。普段のヴィクトルではなかった。
椅子を引いた。ベッドから少し離れた位置に座った。
Sobranie Black Russianを取り出した。指先が、わずかに動いていた。
「吸っていいか」
「うん」
火をつけた。一口吸った。深く吸った。普段より深かった。煙を吐いた。少しだけ、肩が落ちた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
リヴァは膝を抱えていた。シャツの袖で頬を拭った。まだ少し震えていた。止まらなかった。
「ヴィクトル」
「ああ」
「なんで来たの」
少し間があった。
「ローワンに言われた」
「ほんと?」
ヴィクトルが煙草を指に挟んだまま、リヴァを見た。
答えなかった。
答えないことが、答えだった。
リヴァは膝の上を見た。
ヴィクトルの呼吸が、少し浅かった。気づいたら気になっていた。普段のヴィクトルは呼吸が見えない。それが今夜は見えた。
変だと思った。
でも夢がまだ頭の端にあった。グレイの声が残っていた。暗い部屋で一人でいるよりは、誰かがいる方がよかった。
それだけだった。
その判断が正しかったかどうか、このあと確かめることになる。
ヴィクトルはしばらく黙っていた。
Sobranie Black Russianを指に挟んで。煙を吐いて。私を見ていた。
「今日で何回目なんだ」
「なにが」
「あの状態になるの」
「…わからない。数えきれないくらい」
ヴィクトルが自分の膝に肘をついて、煙草を持った方の手のひらを額に当てた。
しばらく、何も言わなかった。長く息を吐いて、月明かりがにじんでいる床を見つめていた。
「今のお前は、入り口が開いている」
「……何の」
「俺なら今すぐにできる。グレイみたく時間がいらない」
「……なに、言ってるの」
「あいつは支配するために時間をかけている。俺は違う」
椅子がきしむ。
ヴィクトルが少し動くと、香水のにおいがする。
「お前が今何を怖がっているか、全部わかってる」
「……」
「設計された存在かもしれないという恐怖。自分の意思が本当に自分のものかわからないこと。毎日崩れて、毎日立ち上がって、それでもまだ足りないという焦燥」
「いまは、ヴィクトルが怖いよ」
「…そうだな。正しい」
吸いかけの煙草を灰皿に置いた。煙はまだ上がっている。リヴァが吸った後の煙草が何本か灰皿に入っていた。
ヴィクトルは立ち上がった。
「試していいか」
「……何を」
「俺がどこまでできるか」
「やめて」
「やめる理由を言え」
「何言ってるの、怖い」
「それは理由にならない」
近づいてきた。
椅子の前に来た。しゃがまなかった。立ったまま、見下ろした。
ここから、ヴィクトルは変わった。
穏やかさが消えた。余裕が消えた。残ったのは計算だけだった。
「呼吸が浅い」ヴィクトルが言った。「訓練が終わってからずっとそのままだ」
「……うん」
「息を吸え」
「嫌」
「吸え。酸素を入れろ。楽になる」
吸った。
「吐け」
吐いた。
「もう一回」
吸う。吐く。
「……」
「楽になったな」
椅子を引いた。私の正面に置いた。座った。膝が触れそうな距離だった。
距離が縮まった。
ゆっくりと。
気づいていた。気づいていたのに、動けなかった。
何かがおかしい。
「一度会ってから、お前のことをずっと調べてた」
ヴィクトルが言った。低い声だった。
手が、顎に触れた。角度を上げた。目が合った。
「…」
「全部は出てこなかった。でも、お前が知らないことも掴めた」
「なんで」
「…知りたかったから」
顎から手が離れた。代わりに、頬に触れた。
押しつけない。ただ、触れた。すぐ離れて、膝の前で手を組んだ。
「チョコレート好きだろ。とりわけ、リンツのミルク」
「うん」
「コーヒーはブラック派」
「…何の話?」
「間違いないよな」
「…うん」
「ヒールのパンプスが好きだろ?歩きにくくても履きたくなる」
「そうかも」
いつの間にか、ヴィクトルの声だけが、頭に響いていた。
ヴィクトルが組んだ手に顎を乗せていた。瞬きが少ないな、と思った。
「…トリガーが来るのが怖い。グレイが怖い」
「…うん」
「お前は、頑張った」
「……うん」
「お前は、ずっと戦っている」
「うん」
「このままだと一生、戦うことになる」
「…うん」
「疲れただろ」
「…そうかも」
何度目かのYesを重ねた後、ヴィクトルはまっすぐこちらを見ていた。
感情のない目。交渉中みたいな目。
「俺と行かないか」
「…」
リヴァは目をそらした。
それを見て、ヴィクトルは左目だけを細める。惜しい、とでも言ったげな目だった。
ヴィクトルは立ち上がって、窓を見た。
「モルドバの北に、小さな村がある」
「……」
「人口が300人もいない。冬は雪が深い。夏は緑が多い」
振り返った。
「そこで暮らせる」
歩いてきた。私の前に来た。しゃがんだ。目線を合わせた。右手をリヴァの膝に置いた。
「記憶がなくていい。過去がなくていい」
「……ヴィクトル」
「俺が全部作れる」と遮るようにヴィクトルは言った。静かだった。「新しい名前。新しい過去。新しい書類。全部作れる」
「……」
「お前は生まれ直せる」
「そんなこと」
「できる」ヴィクトルは続けた。「トリガーも、殺しも、全部ない場所がある」
「……っ」
「息を吸え」
吸った。
「吐け」
吐いた。
「もう一回」
吸う。吐く。
「そうだ」
手が、髪に触れた。梳くように。ゆっくりと。
「村の朝は静かだ。鶏の声で起きる。窓から山が見える」
「……」
「暖炉がある。コーヒーをミルクで割って、砂糖を多く入れて飲む。時間を気にせず、ゆっくりと」
「……」
車まで、たった十歩。空港までは40分の道のり。夜中なら尚更早い。
「見えるか」
「……見える」
「そこに、お前がいる」
「……ヴィクトル」
「うん」
「それ、本当に言ってる?」
「本当に言っている」
呼吸が、またヴィクトルのリズムと合っていった。
気づいていた。止められなかった。
「やめてよ」
「やめない。見ろ」
「わかったから、やめて」
「見ろ」とヴィクトルは言った。「見えるか、自分の本心が」
涙が来た。来てほしくなかった。来た。
「トリガーで崩れるたびに、自分じゃない何かになる感覚」
「うん」
「その村には、トリガーがない」
「……」
「ないよな、返事をしろ」
「うん」
「誰もお前を崩さない」
「……っ」
「返事は?」
「うん、」
「そうだよな。お前はいつも正しい選択をしてきた」
ヴィクトルがリヴァの隣に座る。体がヴィクトルに傾いた。
顎をもって無理やり目を合わせられた。
「俺と来るだろ」
「…」
涙で滲んで、よく見えなかった。
ヴィクトルがどんな表情をしているか、わからなかった。
しばらくの無言。リヴァはどうしてもその無言が耐えられなかった。
ヴィクトルが、待っていた。リヴァの、次のアクションを。
「返事は?」
「……」首を振る。
「なぜ」
「仲間が」
「仲間は、お前がいなくても生きていける。もともとそうだっただろ。元に戻るだけだ」
「……」
「お前が来てから。カイが毎朝五時に起きるのはなぜだ」
「それは」
「お前のためだろ」
「……」
「お前がいることで、危険に晒されている人間がいる」
「やめて」
「やめない」
「やめてよ」
「アルノが毎晩2時に寝てるのは何故だ」
「ねえ、やめて」
「お前のために寝る間を惜しんでる」
「違う、」
「違うのか?」
「違く、…ない。やめて」
「お前が選ばない限り、やめない」
涙が止まらなかった。
「俺と来い」
「…」
「組織を離れて、俺と来い」
「……できない」
「できる。俺は偽造師だ」
静かに言った。
「書類上、お前は死亡する。俺が作る。追えない形で消える。モルドバに行く。誰も来ない」
「カイたちが」
「悲しむだろう。でもお前が生きているなら、幸せなら理解する」
「それは」
「お前が選ぶことだ」
呼吸が乱れた。
「息を吸え」
「……っ」
「吸え」
吸う。喉が痛い。
「吐け」
吐く。
「頷け。俺と来るって、言え」
リヴァは頷かなかった。
その顔を見て、ヴィクトルは奥歯をかみしめた。
「……ここまでが」
低く言った。
「いつもの俺の仕事だ」
ヴィクトルの目の中に、何かが宿っていた。
リヴァは、震えていた。
逃げることや、誰かを呼ぶ選択肢は、はじめからなかった。丁寧にそれを築いてきたから。
でも、手ごわい。あと少し。あと少しだと、思った。
可哀想だ、と思った。これじゃ、グレイと同じじゃないか。
そう思っても、止められなかった。
交渉が予定通り進まないとき、必ずいつも次の手を考えていた。
掌握できないなら、彼女にはこの手を使えばいい。簡単なことだ。きっとこういうときのために、彼女は簡単に設計されているのだから。
ヴィクトルがジッポを開いた。
カチン。
リヴァの視界が揺れた。揺れたが、止まらなかった。
「なん、で」
ヴィクトルはジッポを閉じた。開いた。
カチン。
リヴァが一秒止まった。戻った。
「どうして、」
ヴィクトルはリヴァを見ていた。
見ていた。
止まった瞬間の顔を、見ていた。恐怖ではなかった。全部が遠くなる顔だった。自分がどこにいるかわからなくなる顔だった。
何かが、頭の中で動いた。
可哀想だ。
またその言葉が来た。
来て。
そのまま、別の何かに変わった。
変わるのが、自分でもわかった。わかったが、止まらなかった。
この子は疲れている。毎日崩れて、毎日立ち上がって、設計されたかもしれないという恐怖を一人で持っている。それでも折れない。折れないのに、限界に近い。
連れていけばいい。
思った。
本気で、思ってしまった。
ジッポがある。トリガーを知っている。止まる瞬間を作れる。
車まで10歩だ。空港まで40分。書類は作れる。記録は消せる。俺の伝手で国境を越えられる。
誰にも止められない。
ヴィクトルの中で、何かが静かに決まった。
感情ではなかった。計算だった。冷静だった。それが余計に、まずかった。
ヴィクトルはジッポをゆっくり閉じた。
リヴァを見た。
目が、変わっていた。
「……テキサスで」と彼は言った。低かった。「依頼人が」
「死なせはしなかった。でも、ギリギリだった」ヴィクトルは窓を見たまま言った。「戸籍も住所も経歴も、全部念入りに用意した。誰が見ても違和感ないくらいに」
ヴィクトルはジッポを閉じた。開いた。
「二コラという女だった」ヴィクトルは窓を見たまま言った。「マフィアの幹部の娘。抜け出したがってた。書類を作って、経歴を作って、新しい名前で別の州に送り出す予定だった」
「……」
「出発の二日前...一昨日、彼氏が来た」ヴィクトルの声が少し変わった。「別れた男だと思っていた。違った。まだ繋がっていた。揉み合いになった」
「女は全部しゃべった」ヴィクトルは言った。「どこに行くか。誰が手伝っているか。全部」
「ヴィクトル、」
リヴァが声を出した。ヴィクトルはジッポを閉じて、開いた。
動けなくなる。
最後まで聞け、と言われているようだった。
「俺の詰めが、甘かった」
ヴィクトルがこんなに真剣に話すのは初めてだった。
「俺が用意した完璧な書類より、知ってる男の方を選んだ。だから、女は金で裏切られた。そして、…目の前で撃たれた」
煙草を吸っていないのに、吸っているような息を吐いた。
「過去は変えられない。今日みたいな夜が」
そこまで言いかけて、下を向いた。
「また来るのが、俺は怖い」
「……」
さっきまでの目ではなかった。穏やかさが、消えていた。余裕が、消えていた。代わりにあったのは、静けさだった。何も揺れない、何も迷わない、静けさだった。
ヴィクトルはジッポを閉じた。開いた。
「リヴァ」
声も変わっていた。
低かった。ゆっくりだった。一音ずつ、確認するように言った。
「”Isa”」
世界が、沈んだ。
音が消えた。視界が白くなった。全身の力が抜けて、部屋の床に落ちた。
痛い。床が硬い。頭を打ってくらくらする。下にして倒れた腕が、しびれる。
ヴィクトルが目の前に立っていた。見えていた。見えているのに、遠かった。
ヴィクトルが一歩近づいた。
リヴァを見下ろした。
「地位も金も、全部手に入れた。ここを辞めて、自由になった。でも」
一拍。
「アルカを辞めた理由と、同じことを繰り返してる、何度も」
184センチが、真上から見ていた。表情がなかった。怒っていない。脅していない。ただ、見ていた。
「疲れた」
ヴィクトルがしゃがんだ。暗くて顔が見えない。泣いているかもしれなかった。
「俺と、逃げよう」
声が、耳の奥に直接来た。起き上がらなければ。そう思って、やっと動くようになってきた右腕を支えに、体を起こした。
その時、ヴィクトルの右手が動いた。
リヴァの左耳に触れた。指先が、耳たぶに触れた。
体の芯から何かが抜けた。
「っ…」
抗えない。背中を支えられる。ヴィクトルの顔が、目の前にあった。
来るか、ともう一度言われた。
ヴィクトルは一言、低い声で言った。
「”Mæl”」
リヴァの中で、何かが落ちた。Isaとも違う。トリガーかもしれない、と分かった時には唇は動いていた。
「……行き、ます」
声が出た。
自分の声だった。自分の意志じゃなかった。でも、自分の声で出た。
ヴィクトルが止まった。
一秒。
二秒。
動かなかった。
三秒目に、何かが変わった。
「……待て」
自分に言っていた。
手が耳たぶから離れた。後ろに下がった。立ち上がった。
「待て、俺は」
窓を向いた。両手で顔を覆った。
しばらく、そのまま動かなかった。
息が乱れていた。今夜初めて、乱れていた。
「……何を」
独り言だった。
リヴァには向けていなかった。
ヴィクトルが自分自身に向かって言っていた。
リヴァは言葉を紡いだ後、支えを失って横に倒れこんでいた。
トリガーを使われた。今までのとは違う。
「…どうしてヴィクトルが、知ってるの」
ヴィクトルが、振り返った。憔悴しているような、見たことがない顔だった。
床の上に膝をついた。
リヴァが顔を上げた。ヴィクトルを見た。
目が、揺れていた。
「……何をしたの」
ヴィクトルは答えなかった。
答えられなかった。
「ヴィクトル」
「……ああ」
「何をしようとしてたの」
長い沈黙があった。
「お前を連れていこうとしていた」と彼は言った。「モルドバに。本気で」
リヴァは何も言わなかった。
「できた」とヴィクトルは続けた。「もう少しで...。でもお前の意思じゃない」
「……なんで止まったの」
「お前の顔を見たから」ヴィクトルは砂利を見たままだった。「今のは、お前じゃなかった。お前が自分でやっている動きじゃなかった」
「……ヴィクトルが怖かった」
「そうだろうな」ヴィクトルはリヴァを見た。「知っておく、べきだ」
リヴァは息を整えながら、ヴィクトルを見ていた。
ヴィクトルは目を逸らさなかった。
ヴィクトルは、しばらく動かなかった。
また窓の方を向いていた。背中が見えた。肩幅の広い背中が、少し落ちていた。
「一つだけ」
「なに?」
「モルドバの話は、本当のことだ」
「……」
「俺が作った絵じゃない。本当にある場所だ。暖炉も、山も、川も、全部本当にある」
「…」
「今夜お前に見せたものは、嘘じゃない」
窓の外が、少しずつ白んでいた。テキサスの夜明けが近かった。
「次は自分で選べ」とヴィクトルは言った。「俺に言わされないように」
「……選べるかわからない」
「いや。選べる」
「なんで」
「お前は手ごわかった。戻ってこられた」
「……戻ってきた?」
「カイたちのことを手放さなかった。目がずっとここにあった」
「……」
「それが、お前だ」
リヴァは、一度目線を外してから、またゆっくりヴィクトルを見た。
「…ずっと辛かったの?ヴィクトル」
止まった。
完全に止まった。
それから、ヴィクトルはゆっくり振り返った。
計算していない目だった。初めて見る目だった。
「……なんでそう思う」
「昨日会いに来た時から、辛そうだった」
ヴィクトルは何も言わなかった。「ご飯に誘ったのも、傷ついてたからでしょ」
窓を見た。しばらく見ていた。
どこまでも何もない荒野。
「…村の名前は?」
「Copăceni」
「コパチェニ」
「ああ」
「……かわいい名前」
テキサスの夜が、終わっていった。
Sobranie Black Russianの残り香と、コパチェニという名前だけが、静かに部屋に残った。




