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『リヴァ・アルカ ―世界を確定させるアンカーと最強たちの執着譚―』  作者: Ilir Noct
第四章「乾いた地平線 ― The Dry Horizon」

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誰とご飯に行く?

閑話


 テキサスの夕暮れは溶けるように終わる。


 オレンジが赤褐色に変わる頃、ログハウスの外の段差にリヴァが座っていた。


 AXMCの分解清掃をしていた。バレルを外して、クリーニングロッドにパッチを巻いて、内側を通す。一往復。パッチを替えて、もう一往復。単純な作業だが、手が動いている間は頭が静かになる。訓練の後は、その時間が必要だった。


 膝がまだ少し痛かった。砂利に崩れた時の跡だ。アルノが消毒をしてくれた。


 砂利を踏む音がした。


 ヴィクトルだった。


 マセラティから降りてきた。ダークボルドーのジャケット、白シャツ、タイなし。左顎の下に絆創膏が一枚貼ってあった。アメリカにも置いてあるらしい。日本で見たときと塗装の色と、サイズが違った。


「よお」と彼は言った。リヴァを見た。「終わったか」


「さっき」


「俺も終わった」ヴィクトルは顎の絆創膏を指先で軽く触れた。「向こうで少し揉めた。大したことない」


「顎」


「当たり所が悪かっただけだ」ヴィクトルはリヴァの隣の段差に腰を下ろした。「お前こそ、顔色が悪い」


「訓練だった」


「どんな訓練だ」


「色々」


 ヴィクトルはリヴァを横目で見た。分解されたAXMCのパーツが段差の上に並んでいた。丁寧に並んでいたが、几帳面な並べ方ではなかった。


「飯、行かないか」と彼は言った。


「いつ」


「今夜。二人で」


 リヴァはクリーニングロッドを止めた。ヴィクトルを見た。ヴィクトルが続ける。


「悪いか」


「悪くないけど」


「じゃあ行こう」ヴィクトルは立ち上がりかけた。「連れていきたい店がある」


「どんなとこ」


「料理は普通だ」とヴィクトルは言った。迷わなかった。「ただ、ステージがいい。古いバーで、床が傾いている。椅子もバラバラで、テーブルの高さが全部違う。それでも満席になる。ブルースのライブがある時だけ」


「ブルース」


「生で聴くと違う」ヴィクトルは少し間を置いた。「録音じゃ拾えない音がある。ギターの弦が震えてる空気が、胸の中まで来る。ああいう音は、暗くて狭い場所じゃないと出ない」


「なんで知ってるの」


「前ダラスに来た時にたまたま入った」ヴィクトルは顎の絆創膏を軽く触った。「また行きたいと思ってた。行こう」


 ログハウスのドアが開いた。


 カイだった。


 ヴィクトルとリヴァを見た。一秒、止まった。


「何してる」


「飯の話をしてた」とヴィクトルが言った。


 カイがリヴァを見た。リヴァがカイを見た。


「俺も行く」とカイは言った。


「お前は、誘ってない」


「関係ない」


 レッドがログハウスから出てきた。Lucky Strikeを唇に挟んでいた。火はまだついていない。ヴィクトルを見た。


「おう。いつ来た」


「今しがた」ヴィクトルは顎の絆創膏を示した。「仕事終わりだ。顔出そうと思って」


「奇遇だな」レッドは煙草に火をつけた。「俺もちょうど。飯の話をしようとしてた」


 言いながら、レッドがリヴァの方を向く。カイがまた、「俺も行く」と言おうとしていた。


「いや。俺が先だ」カイの声よりもヴィクトルの方が早く出た。


「こういうのは先着順じゃないだろ」レッドが言う。


 その時、イーサンが外に出てきた。American Spiritを手に持っていた。全員を見た。何も言わなかった。


 ヴィクトルがイーサンを見た。


「お前は何だ」


「イーサンだ」


「それは知ってる。なんでそこに立ってる」


「参加する」


「飯の話に?」


「ああ」


 ヴィクトルは全員を見回した。それからリヴァを見た。


「お前の周り、いつもこうなのか」


「だいたい」


「大変だな」


「慣れた」




「決めよう」とレッドが言った。煙草を一口吸った。「誰がリヴァと飯に行くか」


「俺だ」とヴィクトルが言った。「俺が先に言った」


「俺が行く」とカイが言った。


「俺にも行く理由がある」とレッドが言った。


 イーサンは何も言わなかった。ただそこに立っていた。


「じゃあ素直にテキサスらしく。拳で決着するか」とレッドが言った。


 ちょうどアルノがログハウスの窓を少し開けた。外を見た。


「アルノも参加するか?」とヴィクトルがアルノに言った。


「バカ言え」とアルノが即座に言った。


 アルノは少しの間、全員を見た。元軍人達と、ヴィクトル。殴り合いなんて死にに行くようなものだった。


「……5分で終わらせてください。夕食前に報告書があります」


 窓が閉まった。




 イーサンが袖をまくった。


 カイがコンバットナイフをベルトから外した。置いた。


 レッドが首を鳴らした。


 ヴィクトルはジャケットを脱いだ。「まあ、軽くやる程度だが」


 リヴァはAXMCのバレルを拭きながら、4人を見た。


 カイが視線に気づいた。


「見なくていい」


「あんまり怪我しないでね」


 カイは何も言わなかった。




 最初の動きはヴィクトルからだった。


 レッドに向かって入った。軽い足取りだった。


 レッドが受けた。ヴィクトルの腕を取った。流した。ヴィクトルが体を回してかわした。


「意外と悪くないな」とレッドが言った。


「”意外と”は余計だ」


 その隙にカイがイーサンに向かった。


 低く入った。体を沈めて重心を取りに行った。イーサンが対応した。体重を乗せて止めた。止まりきらなかった。カイが半歩押した。


 2人が鍔迫り合いになった。


 ヴィクトルがレッドから離れた。イーサンの背後に回ろうとした。


 その瞬間、イーサンがカイから離れてヴィクトルに向いた。腕を取った。そのまま関節を極めた。


 音がした。関節の音ではなく、ヴィクトルが声を出した音だった。


「待て待て待て」


 イーサンが止めた。


「ガチじゃないか」とヴィクトルは言った。腕を戻しながら。「笑えない痛さだぞそれは」


「素手だと言った」


「いきなり関節技は聞いてない」


「関係あるのか」


「大アリだ」ヴィクトルは腕を回した。「降参だ。俺は降りる」


「早いな」とレッドが言った。


「賢いと言ってくれ」とヴィクトルは言った。「無理な戦いはしない主義だ」


 レッドが笑った。


 ヴィクトルがリヴァの方を向いた。


「お前に言っておく」と彼は言った。「俺が一番まともだ。間違いない。いきなり関節技かけてくる人間と飯に行く必要はない」


「お前が降参したんだろ」とイーサンが言った。


「あくまで撤退だ。恥ずかしくない」




 3人が残った。


 レッドとカイとイーサンだった。


 レッドがイーサンに向かった。正面から見せて、最後の一歩で右に切った。イーサンの体格を正面で受けないための動きだった。昨日リヴァに教えたやり方と同じ構造だった。


 イーサンが読んでいた。重心の外に入った。


 レッドが腕を取られた。取られたが抜いた。半分だけ。


「読まれた」とレッドは言った。笑っていた。「お前、訓練見てただろ」


「見ていた」


「いいなって思ったか?」


「使える動きだ」


「褒めるな、照れる」


 カイが横から入った。レッドに向かった。レッドの背後を取ろうとした。


「おいおい、順番があるだろ」とレッドが言った。


「ない」


 レッドがカイに肘を張った。カイが外した。2人が分かれた。


 その隙にイーサンがレッドの腕を完全に取った。関節を狙った。


 レッドが体を沈めた。腕を抜こうとした。抜けなかった。


「力すごいな」と彼は言った。声は平静だった。抜けないのに平静だった。「これ、抜けるもんか?」


「抜けない」


「ああ…そう…」


 その時、カイがイーサンの側面に入った。体を沈めて支えを狙った。レッドが命拾いした。


 イーサンがレッドから離れてカイに向いた。カイの腕を取った。横に振った。


 カイが砂利に転がった。


「……っ」


 すぐに立ち上がった。


「速いな」とレッドが言った。カイに向かって。


 レッドが背後から来た。イーサンの右肩を両手で取った。体重を全部乗せた。


 投げた。


 イーサンの背中が砂利に叩きつけられた。重い音がした。


「よし」とレッドは言った。短く言った。息が完全に上がっていた。


 カイが即座に飛んだ。イーサンを押さえた。片膝をついた。汗が砂埃と混じって首筋を伝っていた。


「……っ」


 数秒あった。


 イーサンが動きを止めた。天を向いたまま、長く息を吐いた。


「……ああ」


 降参ではなかった。認めた音だった。


 ヴィクトルが砂利に腰を下ろしたまま、3人を見ていた。


「……丈夫だな」と彼は言った。静かな声だった。


 誰も返さなかった。


 カイが立ち上がった。


 レッドが右手首をゆっくり回した。


「大健闘だろ、これ」と彼は言った。誰にでもなく。


 砂利に倒れているイーサンが言った。


(こす)い」


「2人でかかってきたのはそっちだ」とレッドは言った。


「組んだわけじゃない」とカイは言った。「結果がそうなっただけだ」


「同じだろ」


「違う」


 イーサンが起き上がった。首を回した。それから、カイを見た。


「…1つ聞いていいか」


「ああ」


「2019年、沖縄沖の合同演習。SEAL側の狙撃手で、水中浸透後に橋頭堡(きょうとうほ)を制圧したチームがいた」


 カイは何も言わなかった。


「そのチームが撤退ルートで、対抗部隊の支援艇を転覆させた」イーサンは首の後ろを押さえながら言った。「機関銃座ごと沈めた。俺はその時、対抗部隊の狙撃支援をしていた」


 少し間があった。


「……お前か」とイーサンは言った。


「そうだ」とカイは言った。


 レッドが後ろから言った。


「それ、演習の後に問題になったやつじゃないか。支援艇は本物だったろ」


「判断ミスじゃない」とカイは言った。「撤退ルートの封鎖を優先した。艇を沈めれば動けなくなる。それだけだ」


「対抗部隊の指揮官が報告書に書いたって聞いた」とレッドは言った。「『想定外の判断』って」


「想定外にしか見えない判断が、正解の場合がある」


 イーサンが砂利を一度踏んだ。


「狙撃支援で完璧に封じられていた」と彼は言った。淡々としていた。「その状態でルートを消された。どこにも出られなかった。あの演習で初めて、詰められた」


「お前が対抗側だったのか」とカイは言った。


「そうだ」


「仕留めた覚えがある」


「2回、判定された」とイーサンは言った。「その後艇が沈んだ。終わった」


 少しの間、2人が互いを見た。


「なんで今まで言わなかった」とカイは言った。


「確信がなかった」イーサンは短く答えた。「今夜、投げた後の入り方でわかった。同じだった」


「世間が狭いな」


「テキサスより狭い」とイーサンは言った。


 カイは何も言わなかった。言わない代わりに、続きだと言わんばかりに、レッドに踏み込んだ。




 ヴィクトルがリヴァの隣に来て、腰を下ろした。


「男くさくて敵わねえな」


「でも勉強になる」


「俺が関節かけられた時は心配したか?」


「一瞬」


 ヴィクトルが笑った。静かな笑い方だった。


 それから少し間を置いて、声を落とした。


「今日の訓練、きつかったか」


 リヴァはバレルを拭く手を止めた。


「なんで」


「やっぱり顔色がいつもと違う」ヴィクトルは顎の絆創膏を触りながら言った。「目の下が少しくぼんでる。眠れてないか、消耗してるかのどちらかだ」


 リヴァはヴィクトルを見た。


「両方かも」


「そうか」ヴィクトルは前を向いた。それ以上聞かなかった。「飯はちゃんと食え。…俺が最初に誘ったんだけどな」


「うん」


「覚えておいてくれ」




 カイがリヴァの前に来た。


 後ろでレッドが、「やってらんねえわ」と言いながら息も絶え絶えに四つん這いになっていた。


 どうやら、体力勝負でカイが勝ったらしかった。


 シャツに砂埃が混じっていた。少し足取りがいつもより重い。


 リヴァの前に来て、まっすぐ向いて、左膝を地面につく。


 カイが少しだけリヴァを見上げる体制になった。


「勝った」と彼は言った。息が乱れないよう、精一杯呼吸を制御していた。


「うん」


 リヴァがサーモボトルを差し出した。


 カイが受け取った。一口飲んで、返した。


「飯、行く」


「おなかすいてきた」


「2人で」


 空気が変わった。


 レッドの手首を回す動作が止まった。


 イーサンが砂を払う手を止めた。


 ヴィクトルが目を細めた。


「全員で行く」と彼女は言った。


 全員がリヴァを見た。


「2人でと」とカイが言った。


「全員で行く」とリヴァは繰り返した。「今夜は」


 間があった。


「……わかった」とカイは言って、立ち上がった。


「テキサスに来て、ヴィクトル含めてはみんなでご飯行ってない」とリヴァは言った。バレルを最後に一度拭いて、パーツを並べた。「それだけ」


 ヴィクトルが立ち上がった。


「俺が店を決めよう」と彼は言った。「降参した分の仕事はする」


「お前テキサスに住んでないだろ」とレッドが言った。


「住んでなくても知ってる」


 レッドとヴィクトルが言い合い始めた。


 カイがリヴァの横に立った。


「全員でか」と彼は言った。小声だった。まだ言っていた。


「だってカイとは拠点でずっと一緒に食べてるじゃん」


「外食は違う」


 カイは少しの間、リヴァを見た。


「……次は2人で行く」


「そうなったらね」


「…」


 リヴァはAXMCのパーツを一つずつケースに戻し始めた。


 テキサスの夕暮れが、砂利の上に長い影を作っていた。


 言い合いの声が続いていた。


 遠くで、風が変わっていた。






 店はダウンタウンから少し外れた場所にあった。


 駐車場が砂利だった。看板が手書きだった。入口に布のカーテンがかかっていた。


「本当に店ですか」とアルノが言った。


「店だ」とレッドは言った。「信じろ」


 どうやら、レッドの圧にヴィクトルが負けたようだった。


 中に入ると、狭かった。テーブルが6つしかない。天井に電球が裸で下がっていた。壁にサッカーの試合が映っているテレビがあった。音が出ていた。スペイン語だった。


 厨房から煙が出ていた。ラードの匂いがした。玉ねぎと、チリと、ライムが混ざった匂いがした。


 テーブルに座った。7人でテーブル二つをくっつけた。


「そういえば、カズマはメキシコ出身っていってたっけ」


「ええ。血が入ってましたね」アルノが答えた。


 メニューが来た。スペイン語と英語が混じっていた。


「何を頼む」とレッドが全員に言った。


「全部気になる」と私は言った。


「一昨日と同じことを言ってるな」とレッドは言った。笑っていた。「じゃあ全部頼もう。テーブルに乗るだけ」


 カイがメニューを見ていた。


「チキンファヒータ」と彼は言った。


「それだけか」とレッドが言った。


「それだけだ」


「ビーフも頼め」


「チキンでいい」


「遠慮するな」


「遠慮していない」


 イーサンがメニューを置いた。


「カルネアサダ」と彼は言った。「それだけだ」


「なんか似てるな、お前ら」とレッドが言った。


 イーサンとカイが同時にレッドを見た。


「似ていない」と2人が同時に言った。


 レッドが笑った。


 ヴィクトルがメニューを閉じた。


「俺はエンチラーダ。それとマルガリータ。リヴァも飲むだろ。2杯で」


「明日も訓練があります」


「一杯だけだ」


「一杯が二杯になる」


「ならない」


「あなたの場合はなります」


 ヴィクトルがアルノを見た。アルノがヴィクトルを見た。


「……1杯だけ」とヴィクトルは言った。





 店員が来た。年配の女性だった。英語ではなくスペイン語で「何にしますか」と言った。


 アルノが答えた。スペイン語だった。


 女性の顔が変わった。警戒が消えた。


 アルノが続けた。テーブル全員分を、スペイン語で注文した。途中で女性が何か言った。アルノが頷いた。また何か言った。女性が笑った。


 女性が厨房に向かった。


「何を話したの」とリヴァが聞いた。


「今日のおすすめを聞きました」とアルノは言った。「カルネアサダは今夜仕込んだばかりだそうです。チキンは昨日の残りだと」


 カイがアルノを見た。


「チキンファヒータと言った」


「変更しました。ビーフのほうが状態がいいので」


「……」


「カルネアサダです。おそらく悪くない」


 レッドが感心した顔をしていた。


「アルノ、スペイン語も喋れるのか」


「話せます」


「いつから」


「大学の頃から。ただ」アルノは眼鏡を押し上げた。「このあたりの訛りは少し特殊です。メキシコ北部の流れが混じっている」


「それを言ったら笑ってたな」とヴィクトルが言った。リヴァがヴィクトルも話せるの?と視線を向けると、肩をすくめた。


「ご主人がチワワ州の出身だそうです。40年前にテキサスに来た」


「なんでそんな話になった」とレッドが言った。


「会話の流れです」


 レッドが煙草を取り出した。


「何カ国語喋れるんだ」


「日常会話以上なら7つです」とアルノは言った。「日本語、ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、アラビア語。ロシア語は読めますが話すのは怪しい」


 ヴィクトルがロシア語で言った。


「Ты языковой маньяк。」たまにいるんだよな、こういうやつ、というニュアンスだった。


 アルノが少し間を置いてから返した。


「…Нужный язык — выученный язык。」必要だっただけです、という意味だった。


 ヴィクトルが眉を上げた。


「教科書みたいな文だな」


「伝わっていれば十分です」


「教えてやろうか」


「結構です。今は中国語で手一杯なので」


「言語マニアめ」


「اخرس。」うるさい、という意味だった。


 テーブルが少し静かになった。リヴァがアルノを見た。


「なにそれ」


「アラビア語です」


「今度教えて」


「習得に2000時間かかりますよ」


「………」


 リヴァがヴィクトルを見た。


「なんでヴィクトルはロシア語話せるの」


「モルドバにいるとき、子供の頃から両方あった。ロシア語も普通に使う」とヴィクトルは言った。「公用語はルーマニア語だが」


「ヴィクトルは何か国語話せるの」


 ヴィクトルは少し笑った。答えなかった。


「秘密だ」




 料理が来た。


 テーブルが埋まった。チキンファヒータ、カルネアサダ、エンチラーダ、チーズクエサディーヤ、グアカモレ、サルサが3種類、コーンチップが山盛り、トルティーヤが籠に入っている。


 確かに乗り切れないくらいあった。


「頼みすぎ」と私は言った。


「レッドがテーブルいっぱい頼めと」


「俺のせいか」


「ええもちろん」


「テキサス流だな」


 コーンチップを一枚取った。グアカモレにつけた。食べた。


 美味しかった。


「なにこれ」


「グアカモレだ」とレッドが言った。「アボカドとライムとシラントロ」


「おいしい」


「だろ。テキサスのメキシカンはそういうもんだ」


 カイがファヒータを食べていた。黙って食べていた。ただ、ペースが速かった。うまいということだと思った。


「カイ、んまい?」


「うまい」


「よかった。カイが言うの珍しいね」


 カイは何も言わなかった。ファヒータをもう一口食べた。


 イーサンがカルネアサダを切っていた。薄く切って、トルティーヤに乗せていた。サルサをかけた。食べた。


 何も言わなかった。


 ただ、手を止めなかった。うまい時のイーサンは手が止まらない。昨日のバーベキューで覚えた。


 ヴィクトルがマルガリータを飲んでいた。一口だけ飲んで、グラスを置いた。それからエンチラーダを食べた。


「うまいな」と彼は言った。


「だろ」とレッドが言った。「テキサスにしかない」


「同意する」


 アルノがコーンチップを一枚だけ取った。グアカモレにつけた。少しだけつけた。食べた。何も言わなかった。


 食べ終わった頃、テーブルがだいぶ空になっていた。


 食べ切れなかった。それでも、かなり減っていた。


 レッドがコーヒーを頼んだ。全員分。


 来たコーヒーは濃かった。エスプレッソに近い濃さだった。


「これも本場?」


「テキサスのメキシカンのコーヒーはこういうもんだ」


「濃い」


「濃い方がうまい」


「そうかもしれない」


 全員がコーヒーを飲んでいた。


 誰も何も言わなかった。


 テレビでサッカーの試合が続いていた。スペイン語の実況が流れていた。


 外から夜風が入ってきた。砂埃の匂いがした。


 テキサスの匂いだ、と思った。


 最初に来た日は、全部が遠かった。東京では見えない星が見える、とだけ思った。


 今は少し違う感じがした。


 遠くはない。ただ、ここにいる。


「リヴァ」とレッドが言った。


「何」


「テキサス、どうだ」


 少し考えた。


「砂埃の匂いがする」


「それは良いのか?悪いのか?」


「……悪くないと思う」


 レッドが笑った。


「そりゃよかった」と彼は言った。


 カイが私を見た。何も言わなかった。


 ただ、見た。それだけだった。


 テキサスの夜が、裸電球の下で静かに続いていた。

”Tin Pan Alley” / Stevie Ray Vaughan

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