要継続監視
東京、新拠点。
午後2時だった。
ユキナガの作業室は防音で、窓がない。常に画面が複数点いている。サーバーラックが壁際に3台並んでいる。冷却ファンの音が低く回っている。本人が「ここが一番落ち着く」と言っていた。暗くて静かで、全部が繋がっている場所だ。
カズマが入ってきたのは、ユキナガが席を外した隙だった。
理由は特になかった。
暇だったから。それだけだった。
端末が開いたままになっていた。ユキナガのメインの作業端末だ。画面にコードが走っていた。何かの処理が走ったままになっていた。ウィンドウが12枚開いていた。全部が違うことをやっていた。
カズマは端末を見た。
触った。
一つだけ、ウィンドウを開いた。
その瞬間、ドアが開いた。
ユキナガは3秒、動かなかった。
コーヒーを持ったまま、入口に立っていた。
カズマを見ていた。
端末を見ていた。
どのウィンドウを、何秒触ったかを、正確に把握していた。それだけの準備が、この部屋には常にある。入室ログ、操作ログ、カメラが二台。カズマが触れた瞬間から、全部が記録されていた。
3秒が終わった。
「出ろ」
声が変わっていた。
普段のユキナガではなかった。軽さが消えていた。バーテン時代の、歌舞伎町の、夜の声だった。
「別に——」
「今すぐ出ろ」
カズマが出た。
ドアが閉まった。
静かだった。
カズマは廊下を歩いた。自室に戻った。ソファに転がった。スマートフォンを取った。
アプリを開こうとした。
開かなかった。
もう一回。
開かなかった。
電波はある。Wi-Fiも繋がっている。ただ、何も開かなかった。SNSのアプリが全部、起動した瞬間に落ちた。
再起動した。
変わらなかった。
財布を取った。カードを取った。自販機に向かった。
カードを当てた。
弾かれた。
Suicaを取った。当てた。
残高不足、と出た。
昨日チャージしたばかりだった。
電子マネーが全部止まっていた。クレジットも、デビットも、QRコードも、全部はじかれた。コンビニでも、駅でも、どこでも同じだった。
現金を持っていなかった。
この十年、現金で払ったことがほとんどなかった。全部キャッシュレスで済んでいた。
今、それが全部使えなかった。
部屋に戻った。
スマートフォンを確認した。通話はできた。通話だけはできた。
SNSは全部落ちる。検索もできない。マップも開かない。音楽アプリも落ちる。配達アプリも起動した瞬間に落ちる。ゲームも落ちる。ブラウザを開くと、白い画面が出て、そこで止まる。
通話だけが、生きていた。
もう一日が経った。
ユキナガが作業室のドアを開けた。
カズマが廊下に立っていた。
「謝りに来た」とカズマは言った。
ユキナガはカズマを見た。ブルーの髪、いつものセット。目が、笑っていなかった。
「何秒触ったか知ってる?」
「……知らない」
「4秒」とユキナガは言った。「4秒で、お前が何を見ようとしたか全部わかった。見せなかったけど」
「それは」
「俺の端末に触れた時点でログが走る」ユキナガは壁に背をもたせた。「誰が、いつ、どこを、何秒。全部残る。拠点の入退室も、廊下のカメラも、全部俺が管理してる」
「……知らなかった」
「知らなかったじゃ済まない仕事をしてる」ユキナガの声は軽かった。軽いのに、温度がなかった。「俺が管理しているのは端末だけじゃない。この拠点の通信全部、外部との接続全部、全員のデバイスの稼働状況も、全部俺の画面に出てる。」
ユキナガが、続ける。
「ちなみに。今この瞬間、お前の体温は36.4、昨日より0.2度高い。心拍数は88、高め」笑わず、続けていく。「HRVは38な。普段は45前後なのに。高ストレスの証拠」
「……」
「お前が朝何時に覚醒して、何のアプリを何分使って、どこに電話したか。俺が見ようと思えば全部見える」
カズマは何も言わなかった。
「謝罪は受け取った」と彼は言った。「3日で解除する。電話つながるのは、初犯だから温情な」
「……」
「次やったら3日じゃ済まさない」ユキナガは中に入りかけて、止まった。振り返らなかった。「俺に勝てると思ってる?」
カズマは答えなかった。
一拍あった。
「お前のフィールドと俺のフィールドは違う。お前が刃物を持ってる場所では俺は勝てない。俺のフィールドでは、お前は最初から詰んでる。だから邪魔するな」
カズマがまた黙った。
「あと」
「何」
「リヴァの左手の傷」
カズマが少し固まった。
「組織としての処分は、アルノから聞いてるだろ」
「……ああ」
「俺からも言う」ユキナガの声が、一段落ちた。「次に傷つけたら、3日じゃなくて、もっと根本的なことをする。スマホじゃなくて、お前が存在してる証拠を全部消す。戸籍、免許、保険、口座。過去も、未来も、全部」
「……それは」
「できるから言ってる」とユキナガは言った。「わかったらどっか行け」
ドアが閉まった。
廊下が静かになった。
カズマはしばらく、閉まったドアを見ていた。
その夜、ユキナガが作業室で端末を見ていた。
画面の端に、小さいウィンドウが一つ開いていた。
カズマの行動ログだった。
今日の動線、通信履歴、アプリを開こうとした時間・回数。全部が出ていた。
ユキナガは画面を見た。
しばらく見た。
ウィンドウを閉じた。
閉じた後、少しだけ考えた。
開き直した。カズマが今、リヴァに電話をかけている。
カズマのファイルに、一行だけ追記した。
”要継続監視。リヴァとの接触に注意。”
保存した。
閉じた。
コーヒーを一口飲んだ。
マルボロメンソールに火をつけた。煙を吐いた。
画面に戻った。
別の仕事を始めた。
それだけだった。
カズマは知らない。
自分のファイルに何が書かれているか、知らない。
知らないまま、武蔵境拠点にいる。
カズマはスマートフォンを持って、発信した。
テキサスの番号だった。
ログハウスのキッチンで、リヴァはコーヒーを飲んでいた。
スマートフォンが鳴った。カズマだった。
出た。
「よかった繋がった」
普段より少しだけ、元気がなかった。
「何」
「聞いてよ」
「聞いてる」
「スマホ使えないの。3日間」
「何があったの」
「ユキナガの端末、ちょっと触ったら」
「ユキナガ?」
「ちょっとだよ。見ただけだよほぼ。そしたら全部止まった。SNSも、カードも、Suicaも、電子マネー全部。現金持ってないから買い物もできない。コンビニも行けない。駅も行けない。配達アプリも動かない」
「それは自業自得じゃ」
「そうなんだけど」カズマは少し間を置いた。「通話だけ生きてて。それで電話した」
「なんで私に」
「お前は出るから」
テーブルの向こうでアルノが端末を見ていた。通話を聞いていた。
「カズマ」と私はアルノに向かってスマホを指で刺した。
「聞こえています」とアルノは言った。端末から目を上げなかった。
「ユキナガの端末を触ったらしい」
「それで?」
「3日間、全部のキャッシュレスが使えなくなってる」
アルノが少しだけ止まった。
「……3日間で済んでいるんですね」
「え」
「以前、アルカにいた職員が同じことをしました」アルノは端末に戻った。「その方は翌日付で辞表を出しました。本人の意思で」
通話の向こうで、カズマが黙った。
「……本人の意思で?」とカズマは言った。
「ええ。その後消えました。確かめようにも、電話すら通じない」とアルノは言った。「3日間で済んでよかったですね」
「……そっか」
「それと」とアルノは続けた。「処分は、伝えましたね」
「……ああ」
「3ヶ月、単独任務は凍結です。確認しましたね」
「確認した」
「よろしい」
アルノが端末に戻った。
通話の向こうでカズマが少し間を置いた。
「カズマ」と私は言った。
「何」
「ユキナガに謝った?」
「謝った」
「ちゃんと?」
「ちゃんと謝った。怖かった」
「そりゃそうでしょ」
「お前って」とカズマは言った。
「何」
「なんか、話しやすいな。普通に話せる」
「普通に話してるよ」
「それがいいんだよな」カズマは少し間を置いた。「テキサス、楽しんでるか」
「楽しいかどうかはわからない」
「訓練ばっかりか」
「そう」
「まあそうだろうな」カズマは言った。「俺もたまには訓練したい。ナイフの」
「嫌だ」
「なんで」
「怖い」
「俺ってそんなに怖いか」
「怖い」
カズマが笑った。軽い笑い方だった。
「じゃあな」と彼は言った。「また電話していいか」
「別に」
「別にって、いいってことだよな」
「好きにすれば」
「好きにする」とカズマは言った。
通話が切れた。
アルノが端末を閉じた。
「カズマという人間は」と彼は言った。
「うん」
「あなたと仲が良いと思っているみたいですね」
「そうみたい」
「あなたはどう思っているんですか」
少し考えた。
「わからない」と私は言った。「怖いけど、嫌いじゃないよ」
「それが彼との距離感として一番正確だと思います」とアルノは言った。「これ以上近づかないでください」
「わかった」
「本当にわかっていますか」
「わかった」
アルノが端末をまた開いた。
コーヒーが冷めていた。
テキサスの昼の光が、キッチンの窓から白く入っていた。




