カジノ
午後9時15分。Hyatt Regency Dallas、地下2階
ハイアットの正面玄関は使わなかった。
レッドが「こっちだ」と言って、駐車場の端にある業務用の通路に向かった。知っている歩き方だった。迷いがない。セキュリティが一人いたが、レッドと目が合った瞬間に軽く顎を上げた。顔見知りだった。
通路を抜けると、エレベーターがあった。
地下2階。
扉が開いた瞬間に、空気が変わった。
煙草の煙と、革と、何か重い香水の匂いが混ざっている。照明は低く、アンバーだった。天井が高い。むき出しのコンクリートに金属のダクトが走っていて、わざとそのままにしてある。テーブルはバカラとブラックジャックとルーレットが3列ずつ。端にスロットが数台あるが、誰も使っていない。客層が、そういう店ではなかった。
リヴァは一歩入って、止まった。
自分が浮いている感覚があった。
場の全員が、どこかで何かをやってきた人間の顔をしていた。年齢も国籍もバラバラだが、共通しているのは目だった。値踏みをしている目と、されることに慣れた目が、混在している。
「大丈夫か」とレッドが後ろから言った。小声だった。
「大丈夫」
「緊張してる」
「してない」
「肩が上がってる」レッドは小声のまま言った。「落とせ。」
リヴァは眉間にしわを寄せ、肩を落とした。
レッドが隣に並んだ。
改めて、横に立っているレッドを見た。
スーツだった。チャコールグレーのダブルブレスト。シャツはオフホワイト、タイなし。ポケットチーフが白。普段のジーンズからの落差が大きかったが、着こなしていた。肩幅が広すぎて、スーツが仕立てられたものでないと無理な体格だ。袖口のカフリンクスが鈍いシルバーだった。何かの紋章が入っている。古い。
「似合うね」とリヴァは言った。
「まあな」とレッドは言った。「テキサスに生まれたからってスーツを着ないわけじゃない」
無線が入った。カイだった。
『東側の壁、ポジションを取った』
次にイーサン。
『外周確認した。北出口に警備が一人増えた。把握しておけ』
「了解」とアルノが小声で返した。
アルノは3人の中で最も場に溶けていた。ネイビーの細身のスーツ、白シャツ、ガンメタリックのタイ。眼鏡のフレームは普段と同じ細いシルバーだが、会場の照明の中では主張しすぎず、むしろ知的に見えた。端末は持っていない。両手が空いている。それだけで動ける人間に見えた。入場した瞬間から、すでに室内を一周見ていた。目線だけで。
「ターゲットは奥のバーカウンター付近にいます」とアルノはリヴァに言った。「私が近づきます。30分ください」
「わかった」
「レッドはリヴァから離れないでください」
「言われなくても」とレッドは言った。
アルノが人混みに溶けた。
リヴァは自分の格好を一度だけ確認した。
ドレスはヴィクトルが用意したものだった。ディープエメラルドグリーン、膝丈。ホルターネックで背中が大きく開いている。素材はシルクジョーゼット、光が当たると少しだけ揺れる。アクセサリーはシンプルで、右手首にゴールドのバングルが一本だけ。靴はポインテッドトゥのスティレット、ブラック。ヒールが高い。歩きにくいが、走れないほどではない。それを確認してから選んだ。
髪は下ろしていた。普段は編み込むが、今夜は違う。
「行くか」とレッドが言った。
リヴァはバカラのテーブルに向かった。
最初は様子見のつもりだった。
バカラはシンプルなゲームだ。プレイヤーかバンカー、どちらの手札合計が9に近いかを当てる。カードは引かれる、引かれないが決まったルールで動く。客がやることは、どちらに賭けるかだけだ。考える余地が、ほとんどない。
それがリヴァには、少し不安だった。
考える余地がない分、何かが入り込む隙がある気がした。
チップを5枚買った。100ドル単位で、500ドル分。場に馴染むための金額だ。
レッドが後ろに立った。近い。肩がすぐそこにある。圧ではなく、ただそこにいる、という立ち方だった。
「バカラは初めてか」と小声で言った。
「初めて」
「難しくない。プレイヤーかバンカーに賭けるだけだ」
「知ってる」
「知ってるなら早い」レッドは少しだけ前に出た。リヴァの右耳の近くで言った。「最初は小さく張れ。場の流れを見る」
ディーラーがカードを配った。
リヴァはテーブルを見た。
バンカー側の手札。プレイヤー側の手札。数字が開かれる前に、どちらが高いか、わかった。
考えたわけではなかった。
ただ、わかった。
バンカーに賭けた。
バンカーが勝った。
もう一度。
プレイヤー。
プレイヤーが勝った。
隣の男が少しだけリヴァを見た。リヴァは気づかなかった。もう一度賭けていた。
バンカー。
勝った。
レッドが後ろから小声で言った。「お前、本当に当ててるのか」
「当たってる」
「3回連続で」
「うん」
「バカラで3回連続は」
「わかってる」
「わかってるならペースを落とせ」
リヴァはチップの額を下げた。
それでも当たった。
5回目が当たった時点で、テーブルに人が集まり始めた。他のテーブルの客が移動してくる。ディーラーが上司に目線を送った。上司が小さく頷いた。テーブルの交代はしない、という判断だった。
リヴァの前のチップが、いつの間にか積み上がっていた。
5百ドルが、いつの間にか3千二百ドルになっていた。
その頃、アルノが一度だけリヴァの隣を通り過ぎた。立ち止まりもせず、声もかけなかった。ただ、通りすがりにテーブルを一瞥した。チップの山を見た。
二歩進んで、止まった。
戻ってきた。
「リヴァ」と小声で言った。「なにしてる」
「バカラ」
「それはわかります」アルノは声をさらに落とした。
「止め方がわからない」
アルノが一拍、黙った。
「……今すぐ手を止めてください」
「止めたら目立つ」
「勝ち続けても目立ちます」アルノは眼鏡を直した。「どちらがマシかという話です」
レッドが後ろから割り込んだ。
「アルノ、そっちは」
「取れています。あと10分あれば確認できます」
「じゃあ十分だけ待ってくれ」レッドはアルノに言って、それからリヴァの肩に手を置いた。軽く。ジャケット越しに、重さだけが伝わる。「次の一回だけ張って、それで終わりにしろ」
「わかった」
リヴァはチップを全額、プレイヤーに置いた。
ディーラーがカードを配った。
プレイヤー側、8。
バンカー側、6。
プレイヤーが勝った。
レッドが肩から手を離した。
リヴァはその数字を見た。
意図していなかった。
それだけは、はっきりわかった。
勝とうとしていない。ただ、どちらが勝つかわかった。わかった方に賭けた。それだけだ。それだけのはずなのに、積み上がっている。
何かが、おかしい。
リヴァが、席を立とうとした。その直後だった。
見知らぬ男が、隣に座った。
断りはなかった。椅子を引く音もなかった。気づいたら隣にいた。レッドはアルノの方へ向いていた。
50代。男。スーツはチャコールブラウン。タイピンにダイヤが入っている。白髪交じりの髪を後ろに撫でつけている。動きに品がある。だからこそ、目だけが違和感だった。人間を値踏みすることに、慣れすぎた目だった。
男はポケットからジッポを取り出した。
開いた。
閉じた。
親指で蓋を弾く。開く。閉じる。リズムがある。癖だった。
リヴァは立ち上がろうとしていた。聞いてしまった。
思考が、止まった。
音が遠くなった。テーブルの照明が白く滲んだ。カジノの騒音が、どこか向こうに行った。ジッポの音だけが耳の中に残った。それだけが輪郭を持って、他の全部が薄くなった。
カードが配られた。
リヴァは動けなかった。
賭けていなかった。
まずい。
わかっていた。わかっているのに、体が言うことを聞かなかった。指が動かない。立ち上がれない。ジッポの音が、頭の中でまだ鳴っている。
男が横を見た。
「当てないのか」と英語で言った。南部訛りがある。声は静かだった。穏やかですらあった。
リヴァは答えられなかった。動けない。
男がリヴァを、今度はじっくりと見た。頭から、首から、肩から、ゆっくりと。品定めだった。隠す気がなかった。
「強いな」と男は言った。褒めていない声だった。「いくら勝った」
「関係ない」
「関係ある」男はチップを一枚、乱暴にテーブルに置いた。「俺が買う」
リヴァが男を見た。
「何を」
「お前を」男は真顔だった。「いくらだ。チップの3倍出そう」
テーブルが静まり返った。
ディーラーが視線を落とした。
周囲の客が、聞こえていないふりをした。
まずい。
リヴァの頭でその言葉だけが回った。動かないといけない。立たないといけない。わかっている。なのに足が床に縫いつけられたまま動かない。ジッポの音がまだ耳に残っている。
レッドはアルノの様子見をしにいっている。今はいない。どうして、いないの。
男の手がリヴァの腕を掴んだ。
交渉ではなかった。確認する前に所有する動きだった。指が食い込む。
その瞬間、男の背後で人が動いた。
カイだった。
スーツはチャコールブラック、シャツはホワイト、タイなし。ジャケットのボタンを一つだけ留めている。腕を組んでいない。両手が体の横にある。それだけで、動ける状態だとわかる立ち方だった。背が高い。男の隣に立つと、男がひと回り小さく見えた。
いつ入ってきたのか、わからなかった。外周にいるはずだった。それがいつの間にかテーブルの後方にいて、男の手首を後ろから掴んでいた。音がしなかった。移動した気配がなかった。ただ、気づいたらそこにいた。
カイは男の手首を掴んだまま、一言も言わなかった。
それが余計に怖かった。怒鳴らない。脅さない。説明しない。ただ立って、男を見ている。テーブルの照明の下、188センチが男の背後に立っていた。手首を掴む力加減が、痛みの手前で止まっていた。折れる前の、折れるとわかる圧だった。
男の顔が、初めて変わった。
視線が動いた。仲間を探した。
仲間が3人、椅子を引いた。
最初の1人がカイに向かった瞬間に、レッドが来た。
どこから来たのか、こちらもわからなかった。ビールを持っていた。通りがかりの顔をしていた。1人目の腕を取って、ほとんど動作なしで壁際に押した。音がしなかった。壁とレッドの体の間に挟まれた男が、声を出す前にレッドが耳元で何か言った。男が動かなくなった。
2人目が動いた。
カイが男の手首を離して向き直った。2人目の踏み込みを外側に流して、肘を取った。1秒かからなかった。2人目が床に膝をついた。
3人目が止まった。
レッドが振り返った。3人目と目が合った。レッドは笑っていた。声が出ない種類の笑い方だった。
3人目が後退した。
テーブルの周囲が、完全に静まり返っていた。
その時、イーサンが来た。
ポケットに手を入れたまま歩いてきた。急いでいない。男の正面に立った。189センチ、アッシュブラウンの髪、表情がない。腕を組んでいない。両手がポケットにある。それだけだった。それだけなのに、男が半歩下がった。
フォーマルとは言い難いが、ダークグレーのジャケットを羽織っていた。シャツはグレー、ノーネクタイ。ポケットに手を入れたまま、男たちの後方に立った。何も言わなかった。ただ、そこにいた。
イーサンは男を3秒見た。
それから、低い声で言った。
「どけ」
それだけだった。
説明しなかった。脅し文句を続けなかった。ただそれだけ言って、男から視線を外した。
男の顔から血の気が引いていた。
レッドがビールを持ち直し、イーサンの肩に腕を回す。
「やあ」とレッドは言った。男に向かって、明るい声で。「久しぶりだな、ビリー」
男が少し固まった。
「……レッド」
「悪いな」レッドはビールを一口飲んだ。「ここで会うとは思わなかった。この子、俺の連れだ」
「……知らなかった」
「ああ」レッドは笑ったまま言った。声は穏やかだった。目は笑っていなかった。「じゃあ、知っておいてもらえると助かる」
男が仲間を連れて、テーブルから離れた。
足が速かった。
カジノの喧騒が、少しずつ戻ってきた。
リヴァはまだ椅子に座っていた。
カイが隣に来た。リヴァの腕を見た。赤くなっていた。
「痛むか」
「平気」とリヴァは言った。声が少し低かった。
カイは何も言わなかった。1秒だけ腕を見て、それから前を向いた。離れなかった。
レッドがリヴァの後ろに立った。
「大丈夫か」
「大丈夫」
「さっき、止まってた」
「わかってる」
レッドは何も言わなかった。ただ、後ろに立ったまま動かなかった。
テーブルの照明が、変わらずアンバーに落ちていた。
「テキサスは狭い」と彼は言った。独り言のように。「どこに行っても知り合いがいる」
アルノから無線が入ったのは、それから8分後だった。
『取れました。出ましょう』
出口に向かった。
リヴァはチップを換金した。3200ドル。キャッシャーが無表情に紙幣を数えた。リヴァはそれを受け取った。自分の手の中にある紙幣を見た。
意図していなかった。
その事実だけが、手の中に残っていた。
レッドが後ろから言った。「飯代にしろ」
「こんなにいらない」
「テキサスのステーキは高い」
出口の扉を押した。
夜の空気が来た。
その瞬間、視界が白くなった。
音が消えた。
1秒。2秒。
戻った。
カイの声がした。「リヴァ」
「大丈夫」
「今、止まった」
「大丈夫」とリヴァはもう一度言った。「歩ける」
カイは何も言わなかった。ただ、半歩分だけ距離を詰めた。腕には触れなかった。触れる直前の距離にいた。
リヴァは歩いた。
夜のダラスが、いつもより少し遠かった。
”Control” - Halsey
執筆時点のドル円:1ドル=159円台(2026年4月)




