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『リヴァ・アルカ ―世界を確定させるアンカーと最強たちの執着譚―』  作者: Ilir Noct
第四章「乾いた地平線 ― The Dry Horizon」

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34/50

カジノ

午後9時15分。Hyatt Regency Dallas、地下2階




 ハイアットの正面玄関は使わなかった。


 レッドが「こっちだ」と言って、駐車場の端にある業務用の通路に向かった。知っている歩き方だった。迷いがない。セキュリティが一人いたが、レッドと目が合った瞬間に軽く顎を上げた。顔見知りだった。


 通路を抜けると、エレベーターがあった。


 地下2階。


 扉が開いた瞬間に、空気が変わった。


 煙草の煙と、革と、何か重い香水の匂いが混ざっている。照明は低く、アンバーだった。天井が高い。むき出しのコンクリートに金属のダクトが走っていて、わざとそのままにしてある。テーブルはバカラとブラックジャックとルーレットが3列ずつ。端にスロットが数台あるが、誰も使っていない。客層が、そういう店ではなかった。


 リヴァは一歩入って、止まった。


 自分が浮いている感覚があった。


 場の全員が、どこかで何かをやってきた人間の顔をしていた。年齢も国籍もバラバラだが、共通しているのは目だった。値踏みをしている目と、されることに慣れた目が、混在している。


「大丈夫か」とレッドが後ろから言った。小声だった。


「大丈夫」


「緊張してる」


「してない」


「肩が上がってる」レッドは小声のまま言った。「落とせ。」


 リヴァは眉間にしわを寄せ、肩を落とした。


 レッドが隣に並んだ。


 改めて、横に立っているレッドを見た。


 スーツだった。チャコールグレーのダブルブレスト。シャツはオフホワイト、タイなし。ポケットチーフが白。普段のジーンズからの落差が大きかったが、着こなしていた。肩幅が広すぎて、スーツが仕立てられたものでないと無理な体格だ。袖口のカフリンクスが鈍いシルバーだった。何かの紋章が入っている。古い。


「似合うね」とリヴァは言った。


「まあな」とレッドは言った。「テキサスに生まれたからってスーツを着ないわけじゃない」


 無線が入った。カイだった。


『東側の壁、ポジションを取った』


 次にイーサン。


『外周確認した。北出口に警備が一人増えた。把握しておけ』


「了解」とアルノが小声で返した。


 アルノは3人の中で最も場に溶けていた。ネイビーの細身のスーツ、白シャツ、ガンメタリックのタイ。眼鏡のフレームは普段と同じ細いシルバーだが、会場の照明の中では主張しすぎず、むしろ知的に見えた。端末は持っていない。両手が空いている。それだけで動ける人間に見えた。入場した瞬間から、すでに室内を一周見ていた。目線だけで。


「ターゲットは奥のバーカウンター付近にいます」とアルノはリヴァに言った。「私が近づきます。30分ください」


「わかった」


「レッドはリヴァから離れないでください」


「言われなくても」とレッドは言った。


 アルノが人混みに溶けた。


 リヴァは自分の格好を一度だけ確認した。


 ドレスはヴィクトルが用意したものだった。ディープエメラルドグリーン、膝丈。ホルターネックで背中が大きく開いている。素材はシルクジョーゼット、光が当たると少しだけ揺れる。アクセサリーはシンプルで、右手首にゴールドのバングルが一本だけ。靴はポインテッドトゥのスティレット、ブラック。ヒールが高い。歩きにくいが、走れないほどではない。それを確認してから選んだ。


 髪は下ろしていた。普段は編み込むが、今夜は違う。


「行くか」とレッドが言った。


 リヴァはバカラのテーブルに向かった。





 最初は様子見のつもりだった。


 バカラはシンプルなゲームだ。プレイヤーかバンカー、どちらの手札合計が9に近いかを当てる。カードは引かれる、引かれないが決まったルールで動く。客がやることは、どちらに賭けるかだけだ。考える余地が、ほとんどない。


 それがリヴァには、少し不安だった。


 考える余地がない分、何かが入り込む隙がある気がした。


 チップを5枚買った。100ドル単位で、500ドル分。場に馴染むための金額だ。


 レッドが後ろに立った。近い。肩がすぐそこにある。圧ではなく、ただそこにいる、という立ち方だった。


「バカラは初めてか」と小声で言った。


「初めて」


「難しくない。プレイヤーかバンカーに賭けるだけだ」


「知ってる」


「知ってるなら早い」レッドは少しだけ前に出た。リヴァの右耳の近くで言った。「最初は小さく張れ。場の流れを見る」


 ディーラーがカードを配った。


 リヴァはテーブルを見た。


 バンカー側の手札。プレイヤー側の手札。数字が開かれる前に、どちらが高いか、わかった。


 考えたわけではなかった。


 ただ、わかった。


 バンカーに賭けた。


 バンカーが勝った。


 もう一度。


 プレイヤー。


 プレイヤーが勝った。


 隣の男が少しだけリヴァを見た。リヴァは気づかなかった。もう一度賭けていた。


 バンカー。


 勝った。


 レッドが後ろから小声で言った。「お前、本当に当ててるのか」


「当たってる」


「3回連続で」


「うん」


「バカラで3回連続は」


「わかってる」


「わかってるならペースを落とせ」


 リヴァはチップの額を下げた。


 それでも当たった。


 5回目が当たった時点で、テーブルに人が集まり始めた。他のテーブルの客が移動してくる。ディーラーが上司に目線を送った。上司が小さく頷いた。テーブルの交代はしない、という判断だった。


 リヴァの前のチップが、いつの間にか積み上がっていた。


 5百ドルが、いつの間にか3千二百ドルになっていた。


 その頃、アルノが一度だけリヴァの隣を通り過ぎた。立ち止まりもせず、声もかけなかった。ただ、通りすがりにテーブルを一瞥した。チップの山を見た。


 二歩進んで、止まった。


 戻ってきた。


「リヴァ」と小声で言った。「なにしてる」


「バカラ」


「それはわかります」アルノは声をさらに落とした。


「止め方がわからない」


 アルノが一拍、黙った。


「……今すぐ手を止めてください」


「止めたら目立つ」


「勝ち続けても目立ちます」アルノは眼鏡を直した。「どちらがマシかという話です」


 レッドが後ろから割り込んだ。


「アルノ、そっちは」


「取れています。あと10分あれば確認できます」


「じゃあ十分だけ待ってくれ」レッドはアルノに言って、それからリヴァの肩に手を置いた。軽く。ジャケット越しに、重さだけが伝わる。「次の一回だけ張って、それで終わりにしろ」


「わかった」


 リヴァはチップを全額、プレイヤーに置いた。


 ディーラーがカードを配った。


 プレイヤー側、8。


 バンカー側、6。


 プレイヤーが勝った。


 レッドが肩から手を離した。


 リヴァはその数字を見た。


 意図していなかった。


 それだけは、はっきりわかった。


 勝とうとしていない。ただ、どちらが勝つかわかった。わかった方に賭けた。それだけだ。それだけのはずなのに、積み上がっている。


 何かが、おかしい。


 リヴァが、席を立とうとした。その直後だった。


 見知らぬ男が、隣に座った。


 断りはなかった。椅子を引く音もなかった。気づいたら隣にいた。レッドはアルノの方へ向いていた。


 50代。男。スーツはチャコールブラウン。タイピンにダイヤが入っている。白髪交じりの髪を後ろに撫でつけている。動きに品がある。だからこそ、目だけが違和感だった。人間を値踏みすることに、慣れすぎた目だった。


 男はポケットからジッポを取り出した。


 開いた。


 閉じた。


 親指で蓋を弾く。開く。閉じる。リズムがある。癖だった。


 リヴァは立ち上がろうとしていた。聞いてしまった。


 思考が、止まった。


 音が遠くなった。テーブルの照明が白く滲んだ。カジノの騒音が、どこか向こうに行った。ジッポの音だけが耳の中に残った。それだけが輪郭を持って、他の全部が薄くなった。


 カードが配られた。


 リヴァは動けなかった。


 賭けていなかった。


 まずい。


 わかっていた。わかっているのに、体が言うことを聞かなかった。指が動かない。立ち上がれない。ジッポの音が、頭の中でまだ鳴っている。


 男が横を見た。


「当てないのか」と英語で言った。南部訛りがある。声は静かだった。穏やかですらあった。


 リヴァは答えられなかった。動けない。


 男がリヴァを、今度はじっくりと見た。頭から、首から、肩から、ゆっくりと。品定めだった。隠す気がなかった。


「強いな」と男は言った。褒めていない声だった。「いくら勝った」


「関係ない」


「関係ある」男はチップを一枚、乱暴にテーブルに置いた。「俺が買う」


 リヴァが男を見た。


「何を」


「お前を」男は真顔だった。「いくらだ。チップの3倍出そう」


 テーブルが静まり返った。


 ディーラーが視線を落とした。


 周囲の客が、聞こえていないふりをした。


 まずい。


 リヴァの頭でその言葉だけが回った。動かないといけない。立たないといけない。わかっている。なのに足が床に縫いつけられたまま動かない。ジッポの音がまだ耳に残っている。


 レッドはアルノの様子見をしにいっている。今はいない。どうして、いないの。


 男の手がリヴァの腕を掴んだ。


 交渉ではなかった。確認する前に所有する動きだった。指が食い込む。


 その瞬間、男の背後で人が動いた。


 カイだった。


 スーツはチャコールブラック、シャツはホワイト、タイなし。ジャケットのボタンを一つだけ留めている。腕を組んでいない。両手が体の横にある。それだけで、動ける状態だとわかる立ち方だった。背が高い。男の隣に立つと、男がひと回り小さく見えた。


 いつ入ってきたのか、わからなかった。外周にいるはずだった。それがいつの間にかテーブルの後方にいて、男の手首を後ろから掴んでいた。音がしなかった。移動した気配がなかった。ただ、気づいたらそこにいた。


 カイは男の手首を掴んだまま、一言も言わなかった。


 それが余計に怖かった。怒鳴らない。脅さない。説明しない。ただ立って、男を見ている。テーブルの照明の下、188センチが男の背後に立っていた。手首を掴む力加減が、痛みの手前で止まっていた。折れる前の、折れるとわかる圧だった。


 男の顔が、初めて変わった。


 視線が動いた。仲間を探した。


 仲間が3人、椅子を引いた。


 最初の1人がカイに向かった瞬間に、レッドが来た。


 どこから来たのか、こちらもわからなかった。ビールを持っていた。通りがかりの顔をしていた。1人目の腕を取って、ほとんど動作なしで壁際に押した。音がしなかった。壁とレッドの体の間に挟まれた男が、声を出す前にレッドが耳元で何か言った。男が動かなくなった。


 2人目が動いた。


 カイが男の手首を離して向き直った。2人目の踏み込みを外側に流して、肘を取った。1秒かからなかった。2人目が床に膝をついた。


 3人目が止まった。


 レッドが振り返った。3人目と目が合った。レッドは笑っていた。声が出ない種類の笑い方だった。


 3人目が後退した。


 テーブルの周囲が、完全に静まり返っていた。


 その時、イーサンが来た。


 ポケットに手を入れたまま歩いてきた。急いでいない。男の正面に立った。189センチ、アッシュブラウンの髪、表情がない。腕を組んでいない。両手がポケットにある。それだけだった。それだけなのに、男が半歩下がった。


 フォーマルとは言い難いが、ダークグレーのジャケットを羽織っていた。シャツはグレー、ノーネクタイ。ポケットに手を入れたまま、男たちの後方に立った。何も言わなかった。ただ、そこにいた。


 イーサンは男を3秒見た。


 それから、低い声で言った。


「どけ」


 それだけだった。


 説明しなかった。脅し文句を続けなかった。ただそれだけ言って、男から視線を外した。


 男の顔から血の気が引いていた。


 レッドがビールを持ち直し、イーサンの肩に腕を回す。


「やあ」とレッドは言った。男に向かって、明るい声で。「久しぶりだな、ビリー」


 男が少し固まった。


「……レッド」


「悪いな」レッドはビールを一口飲んだ。「ここで会うとは思わなかった。この子、俺の連れだ」


「……知らなかった」


「ああ」レッドは笑ったまま言った。声は穏やかだった。目は笑っていなかった。「じゃあ、知っておいてもらえると助かる」


 男が仲間を連れて、テーブルから離れた。


 足が速かった。


 カジノの喧騒が、少しずつ戻ってきた。


 リヴァはまだ椅子に座っていた。


 カイが隣に来た。リヴァの腕を見た。赤くなっていた。


「痛むか」


「平気」とリヴァは言った。声が少し低かった。


 カイは何も言わなかった。1秒だけ腕を見て、それから前を向いた。離れなかった。


 レッドがリヴァの後ろに立った。


「大丈夫か」


「大丈夫」


「さっき、止まってた」


「わかってる」


 レッドは何も言わなかった。ただ、後ろに立ったまま動かなかった。


 テーブルの照明が、変わらずアンバーに落ちていた。


「テキサスは狭い」と彼は言った。独り言のように。「どこに行っても知り合いがいる」




 アルノから無線が入ったのは、それから8分後だった。


『取れました。出ましょう』


 出口に向かった。


 リヴァはチップを換金した。3200ドル。キャッシャーが無表情に紙幣を数えた。リヴァはそれを受け取った。自分の手の中にある紙幣を見た。


 意図していなかった。


 その事実だけが、手の中に残っていた。


 レッドが後ろから言った。「飯代にしろ」


「こんなにいらない」


「テキサスのステーキは高い」


 出口の扉を押した。


 夜の空気が来た。




 その瞬間、視界が白くなった。


 音が消えた。


 1秒。2秒。


 戻った。


 カイの声がした。「リヴァ」


「大丈夫」


「今、止まった」


「大丈夫」とリヴァはもう一度言った。「歩ける」


 カイは何も言わなかった。ただ、半歩分だけ距離を詰めた。腕には触れなかった。触れる直前の距離にいた。


 リヴァは歩いた。


 夜のダラスが、いつもより少し遠かった。

”Control” - Halsey


執筆時点のドル円:1ドル=159円台(2026年4月)

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