Bar Bifröst
ユキナガ・トウマが初めてバーカウンターに立ったのは、十七歳の秋だった。
場所は歌舞伎町の、路地を一本入ったところにある小さいバーだった。
"Bar Bifröst"
地下に続く入り口に、小さく筆記体で書かれていた。
店長は六十過ぎの男で、昼間は何をしているのかわからなかった。夜だけそこにいた。
「グラス磨け」と言われて、磨いた。
「シェイカー振れ」と言われて、振った。
「ここで見たことは外で話すな」と言われて、話さなかった。
三つ目だけ、今でも守っている。
一つ目と二つ目は、教わる必要もなくなった。
現在。
新拠点のバーカウンター。引っ越しの時、セッティングを最優先でやってもらった場所だ。
ユキナガは午後11時を過ぎた頃に、モニタールームから移動してきた。
眠れない時の対処法として、ユキナガはカウンターに立つ。
棚の在庫を確認した。
スピリッツは揃っている。バランタイン、ゴードン、ヘネシーが定位置。最近リヴァが気に入っていたベルモットがやや少ない。シロップは自家製のものが三種類、冷蔵庫に入っている。
シェイカーを取り出して、氷を入れた。
ライムを切り、シェイカーを振り始めた時、足音がした。
キッチンのドアが開いた。
「起きてた」ユキナガは言った。振り返らなかった。
「なんか、眠れない」彼女は言った。
「いろいろ、あったもんな」
ユキナガはシェイカーを止めた。グラスに注いだ。淡い琥珀色の液体が、氷なしで落ちていく。
彼女がカウンターの椅子に座った。カウンターの向こう側に、ユキナガがいる。
「それ何?」リヴァが聞いた。
「ペーパープレーン。苦みと甘みと酸味が全部ある感じかな」
「飲む」
「結構アルコール入ってるよ」
「少しなら」
「……弱めにする」
ユキナガはグラスをもう一つ出した。シェイカーを洗った。
ユキナガはシェイカーを振った。10秒で止めて、グラスに注いだ。彼女の前に置く前に、カウンターの上に下ろした。
彼女はすぐに取って、一口飲んだ。
「……美味しい」
ユキナガも自分のグラスを持った。
少しの間、二人とも何も言わなかった。換気の音だけがある。
「ユキナガは来ないんでしょ」彼女が言った。
「アメリカには行かない」
「寂しい」
ユキナガが少し止まった。
「……それ言うなよ」
「美味しいお酒が飲めなくなる」
「なんだよ」ユキナガはグラスを置いた。「正直な奴」
リヴァがまた一口飲んだ。
「ま。俺英語漬けの生活してたら死にそうだし」ユキナガは言った。カウンターに肘をついた。
彼女は少しの間、グラスを見た。
「……そういえば、カイに言われたんだけど」
「何?」
「俺、お前の膝で寝てないよな」
リヴァはユキナガを見た。首を傾げた。
「?」
「いや、カイが変な夢見ただけだよな。ごめんごめん忘れて」ユキナガが笑った。「あいつやばいよなマジで」
ユキナガはグラスを置いた。カウンターの下から、違うボトルを出した。自分用にだけ、バーボンをストレートで注いだ。
「ねえ、永平寺って、知ってる」
「なにそれ」
「福井県のね、でっかい寺。あそこの近くに、子供の頃住んでた」ユキナガは窓の外を見た。「静かなとこ」
言いながら、リヴァの目の前のカウンターに灰皿とMarlboroの箱を置いた。
ポケットからライターを出して、その横に置いた。
「好きだった?」リヴァが聞いた。
「いいとこだよ。でも、合わなかった」ユキナガはバーボンを一口飲んだ。「俺、夜型だから。あそこは夜に起きてると、なんか罪悪感があった」
リヴァが箱から一本出して、火をつけた。
火が付いた瞬間、手が伸びてきた。
ユキナガがリヴァの手から、火のついた煙草を取った。
「もらい」
ユキナガはそのままその一本を吸いはじめた。
「ねえ」
リヴァはしばらく肩を落として見ていたが、あきらめてもう一本箱から出して火をつけた。
「十五の時に歌舞伎町に入り込んだ。親に言わずに」
「中学生じゃん」
「中学は出たよ」ユキナガはバーボンを見た。「決まった時間に学校行くのがなんか本当に無理。社不すぎて」
ユキナガは笑っていた。リヴァは笑わなかった。
「…怒られた?」
「最初は探された。でも、諦めたんだと思う」ユキナガは煙を吐いた。「プロが探して見つけられなかったから、俺才能あるかもって思った」
彼女はグラスを両手で持ちながら、ユキナガを見ていた。
「ま。親的には問題なかったよ、弟が優秀だったから」
リヴァは真剣に聞いている顔だった。頷きもせず、相槌もなく、ただ聞いていた。
「しばらくふらふらしてたけど、ホストやってみたり」ユキナガは少し笑った。「でも、なんか違った」
「なにが」
「場を作るより、飲み物を作る方が性に合ってた」ユキナガはシェイカーを見た。「それでバーテンになった」
「四年って言ってたね」
「うん。カウンターの内側ってさ、守られてる感じがするんだよな。ここは俺の領域、みたいな」
「今もじゃん」リヴァが言った。「モニタールーム」
「まあ、似てるかも」
彼女は煙草を指に挟んだまま、グラスを一口飲んだ。
ユキナガはバーボンを回した。
「機械系は?」
「五年以上はやってる。バーの常連だった怪しい人に、ちょっと触ってみろって言われたのが始まり」
「それでハッカーになっちゃうんだ」
「案件手伝ったりしてたら突然、採用って言われた。で、今」
「コアってひと?」
「さあ。Highlightずーっと吸ってる、裏っぽい人」
「そうなんだ」
「そこからはアルノ引継ぎで、この生活が始まった」
リヴァはひとつ気づいて、首を傾げた。
「待って…なんかそれだと計算が合わない気がする」
「まあ…雇った方も多分わかってたよ」ユキナガは自分の顔を指した。「これ、子供の頃からこういう顔なんだよな。年不詳って言うか」
「今も年齢わかりにくい」
「二十四だよ」
「知ってるよ」
「じゃあ言うな」
「ごめん」
ユキナガは口角を上げた。
「悪いと思ってないだろ」
二人で同じタイミングで煙を吐いた。
一瞬、静かになった。
「私、ユキナガより年上かな」
「そう思う?」
「二十四って聞くと、若いなって思う」
「じゃあ、敬語使おうか?」
「嫌すぎる」
リヴァは笑った。
「どうする?ほんとは十六でした。とか言ったら」ユキナガが言った。
「いろいろまずい」
リヴァは煙草とお酒を交互に見た。
「元ホストの予想は?」
「年齢当てって外すと機嫌悪くなるやつ?」
「ならない」
「それが一番信用できない」
ユキナガは首に手を当てて、視線を外した。
どう言葉を返せばいいか、考えている素振りだった。
「んー…二十二くらいじゃない」
間があった。
「…本気であてて」
リヴァはカウンターに肘をついた。
正面で向き合った。
ユキナガは目を細めた。
つられてリヴァも目を細めた。
しばらくそのままだった。
煙草の灰が落ちた。
沈黙に耐え切れなくなって、リヴァが目を泳がせた。
「……二十五」
リヴァは笑った。
「ユキナガって、二十五っぽいなって思ったら二十二って言うんだ」
ユキナガがグラスを洗い始めた。
「…ドンピシャだったらご褒美ちょうだいよ」
「答え合わせ、いつか出来たらね」
「眠くなってきた」リヴァが言った。
グラスの中身が半分になっていた。
「強かった?」
「大丈夫。多分」
ユキナガはグラスを回収した。カウンターの外側に出た。
「部屋まで送る」
「いいよ」
「送る」
「ユキナガ」
「お前に何かあったら、誰に何言われるか分かったもんじゃない」
「……わかった」
ユキナガはグラスを棚に戻して、カウンターを出た。
階段を上がって、廊下を並んで歩いた。
「リヴァが酔っ払って転んだなんて言ったら、カイに胸ぐら掴まれそう」
「そんなことしないでしょ」
「アルノにもめちゃくちゃ怒られそうだし」
「えー」リヴァが笑った。
「オラヴルとかきっと死ぬほど冷たいトーンで詰めてくる」
ユキナガは前を向いたまま言った。
「……俺も、心配なんだよ」
彼女が横を見た。
ユキナガは見なかった。廊下の先を見たまま歩いた。
部屋のドアの前で止まった。
「ユキナガ」
「うん」
「帰ってきたら、また作って」
「今日のやつ?」
「それか、ユキナガが選んだやつ」
ユキナガは少しの間、彼女を見た。
何か言いかけて、止まった。
ユキナガが下を向いた。
「……帰ってきたら作る」
「約束」
「約束な」
ユキナガはリヴァの部屋の前で、まだ立っていた。
「一回部屋入れて」
「嫌」
即答に、ユキナガが笑った。
「知ってた」
「じゃあなんで言うの」
「毎回ちゃんと断ってくれるか確認」
「何それ」
「酔ってても変わらないか見たかった」
リヴァが少し眉を寄せる。
「合格」
「テストだったの?」
「いや」ユキナガは笑った。「ちょっと口説いてた」
リヴァは困ったようにため息をついた。
「おやすみ」
「ん」ユキナガが踵を返した。
足取りはゆっくりだった。
ドアが、閉じた。
”Karin” / Bohren & der Club of Gore
参考レシピ:ペーパープレーン(Paper Plane)
バーボン:22.5ml
Aperol:22.5ml
Amaro Nonino:22.5ml
フレッシュレモンジュース:22.5ml




