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『リヴァ・アルカ ―世界を確定させるアンカーと最強たちの執着譚―』  作者: Ilir Noct
第四章「乾いた地平線 ― The Dry Horizon」

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33/50

転んだ、一回だけ

 朝6時半、レッドがドアをノックした。


「起きてるか」


「起きてる」


「5分で外に来い」


 外に出ると、空が白かった。日の出から間もない時間で、影がまだ長く、地面が冷えていた。イーサンが昨夜言った通り、気温が下がっていた。


「ウォーミングアップは」


「した」


 レッドがグラウンドの中央に立っていた。手ぶらだった。肩がやけに大きい。


 リヴァとの距離は、3歩分しかない。


 それでも、世界が違う。


 ”スナイパーは遠距離の職業だ。だが戦場では、必ず最後に近くなる。”


 昨日イーサンがそう言っていた。



 


「近距離戦の訓練だ」と彼は言った。「まず、お前が何をするか見せろ。構えろ」


 リヴァが構えた。


 レッドの肩幅は、彼女の視界の半分を占めている。


 踏み込まれたら、視界ごと潰れる距離だ。


 レッドが一周、回った。


「どこかで習ったか?」


「カイに」


「カイか」レッドは少し考えた。「似てるな。脇が締まってる。いいか悪いかで言うと悪くない。ただ」


 リヴァの後ろに回った。


「重心が高い。もう少し落とせ」


 レッドの手が、肩に触れた。


 押したわけでもないのに、身体が半歩ずれる。


 重い。


 触れられただけで、空間の圧が変わる。


 リヴァが膝を曲げた。


「そこだ」レッドが前に戻った。「近距離は全部そこから始まる。重心が高いと崩される。お前みたいに小柄なら特にそうだ」


「小柄じゃない」


「俺より低い」


「皆が大きすぎる」


「テキサスではこれが普通だ」


 リヴァが少しだけ口を動かした。


「お前が的あてが得意なのは昨日でわかった」


 レッドが正面に立った。続ける。


「足りないのは、当てる前に殺されない動きだ」


 レッドからいつもの笑顔が消えていた。


「いくぞ。俺が動く。お前はどこでも好きなところに返せ」レッドは肩を回した。「カイとやる時と同じだと思うな。俺は崩しから入る。スタイルが違う」


「どう違う」


「やってみればわかる」


 レッドが動いた。


 速かった。


 体の大きさに対して動きが軽かった。右から来ると思ったら左で、リヴァの重心の外に入った。返す前に肩が押されて、一歩踏み出した。


「止まれ」とレッドが言った。「今何が起きたかわかるか」


「入られた」


「どこから」


「左側から」


「なんで入られた」


 リヴァは少し考えた。


「重心が右に動いた」


「なぜ」


「……右が来ると思ったから」


「正解だ」レッドは頷いた。「俺は右を見せてから左に入る。癖だ。ただ、だいたいそれで入れる。なぜかわかるか」


「見せてから入るから」


「右を見せた瞬間、相手の重心が右に動く。人間はそうできてる。それを使う」レッドは少し下がった。「もう一度いくぞ」


 二度目。


 次の踏み込みは、足音がない。


 地面は同じはずなのに、


 リヴァの身体だけが勝手に反応している。


 後ろに下がるべきではないと分かっている。


 だが、先に重心が動いてしまう。


 崩れる方向に誘導されていると気づくころにはもう遅かった。


「惜しい」とレッドが言った。リヴァの横にいた。「速い。でも少し遅い。もう一度」

 3度目。


 リヴァが返した瞬間、足が浮いた。


 視界が一瞬だけ回る。


 地面が近い。


 掌をつく。


 骨に衝撃はなかった。


 止まる場所が奪われた感じがする。


 レッドが立っている。


 同じ場所に見えるのに、もう届かない。


 グラウンドの端で、カイが一歩動いた。


 止まった。


 レッドがすでに手を差し出していた。リヴァがそれを取るのを見て、カイは元の場所に戻った。何も言わなかった。腕を組み直しただけだった。


「転んだな」と彼は言った。笑っていた。


「…転んじゃった」


「言っただろ」


「一回だけ」


「まあそうだな」レッドはリヴァを引き起こした。手を離した。「ただ今のは悪くなかった。返す判断は正しかった。体が追いついてなかっただけだ」


「体を追いつかせる方法は」


「繰り返すしかない」とレッドは言った。「頭で理解しても体が動かない間は意味がない。今日一日で体に入れる」


 レッドがいつの間にか来ていたカイに向かって言う。


「見てたか」


「見てた」とカイは言った。


「どう思う」


「悪くない」カイはリヴァを見た。「重心の修正が早かった。二度目と3度目で変わってた」


「そうだろ」とレッドは言った。「飲み込みが速い。だから転ばせた」


「なぜ」


「転んだ経験がないと怖がるようになる。早めに転ばせておいた方がいい」


 カイは少しの間、レッドを見た。


「……合理的だ」


「ありがとよ」


 リヴァは二人を見た。


「続ける」と彼女は言った。


「ああ」レッドが正面に戻った。「今度は強度を上げる」


「さっきよりも?」


「文句あるか」


「ない」


 レッドが笑った。今度は静かな笑い方だった。


「いいな」と彼は言った。独り言みたいに。「お前が来てよかった」


 レッドはそう言った。まるで戦術の評価みたいに。


 リヴァは聞こえなかったふりをした。


 構えた。


「なあ」とレッドが言った。


 リヴァは構えたまま答えなかった。


「お前、俺に勝とうとしてるだろ」


 返さなかった。


「…それをやめろ」


「なぜ」


「成立しないから」レッドは肩を一度回した。ゆっくりした動作だった。「体格差がある時点で、正面の力勝負は最初から終わってる。お前が一番強い状態で、俺が半分の力で受けても、数字が合わないんだ」


「知ってる」


「正面から向かってくるな。そういうもんだ」


「向かわないと返せない」


「それが間違いだ」レッドは一歩踏み出した。攻撃ではなかった。ただ、距離を変えた。「聞け。大男の動きってのはな、自分の重さで成立してる。例えば100キロの人間が踏み込む時、その力は脚から腰から肩まで全部が乗ってる。それを真正面で止めようとすると、止める側は同じだけの力がいる。」


 もう一歩、レッドが動く。


「お前にはそんな力はない」


「わかってる」


「わかってるなら向かってくるな」レッドの声は怒っていなかった。ただ、乾いていた。「向かうんじゃなくて、ずらせ」


「何を」


「相手が動くための条件を」


 レッドがリヴァの右肩に触れた。押していない。二本の指が、ただ乗っただけだった。それだけで軸が動いた。わずかに、だが確実に。


「踏み込む前に、人間は重心を動かす。どこに踏み込むか、体が先に決めるんだ」レッドは触れたまま言った。「その決定を、一瞬だけ狂わせればいい。押す必要はない。ずれればいい」


 指が離れた。


「目線だ」と彼は続けた。「大男が踏み込む直前、視線が一瞬だけ固まる。どこに入るか決めた瞬間だ。そこを見ろ。その前に動け。向かうんじゃなく、ずれろ。体を外に逃がしながら、重心の支えだけ消す」


「支えを消す」


「踏む予定だった場所が消えれば、どんなでかい奴でも一瞬崩れる」レッドは少し下がった。「その一瞬だけでいい。お前がやることはそれだけだ。勝たなくていい。一秒だけ立てなくすればいい」


 リヴァは少し黙っていた。


「やってみる」


「来い」


 リヴァが踏み込んだ。


 レッドは待った。


 来た瞬間、受けた。


 受けた、というより、受け止めた。壁のように。動かなかった。リヴァの踏み込みがレッドの体に吸い込まれて、そのまま止まった。押し返しもしなかった。ただそこにいた。それだけで、リヴァが止まった。


 レッドが少しだけ顔を歪めた。笑いではなかった。困ったような、少し痛ましいような顔だった。


「……そりゃ無理だ」と彼は言った。


 声が低かった。責めていなかった。


「わかるか。今お前がやったこと」


 リヴァは答えなかった。


「踏み込んだ。速かった。判断も悪くなかった。ただ」レッドは自分の体を見た。「俺は動いてない。お前の力が全部俺の重さに消えた。これは技術の問題じゃない。数字の問題」


「わかってる」


「わかっててやったのか」


「一回、確認したかったから」


 レッドは少しの間、リヴァを見た。


 それから、短く息を吐いた。笑っていた。声には出なかった。


「……正直だな」と彼は言った。レッドは腕を組んだ。「どうだった」


「壁ってかんじ」


「そうだろ」


「動かなかった」


「動く気がしなかっただろ」


「うん」リヴァは少し間を置いた。「動かない前提でやる」


 レッドが頷いた。今度は静かな頷き方だった。


「それがわかれば充分だ」と彼は言った。「体で知ったなら、頭で聞くより早い」


 グラウンドの端で、カイが腕を組んで見ている。


 何も言わなかった。


 ただ、視線が少し変わっていた。レッドを見ていた。訓練のやり方を、確認するような目だった。


「もう一度やる」とリヴァが言った。


「今度は向かってくるな」とレッドは言った。「ずれろ。条件を壊せ」


「わかった」


「壊せたら、俺が褒めてやるから」


「褒めなくていい」


「褒めたい」


 リヴァが無言で構えた。軽口に付き合う余裕が消えていた。


 テキサスの朝の光が、赤い土の上で白く伸びていた。影がまだ長かった。


 



 午前が終わった頃、アルノがログハウスから出てきた。


「怪我は」


「ない」とリヴァは言った。


「転んだと聞きましたが」


「一回だけ」


「それは怪我がないとは言わない」


「擦り傷」


 アルノは眼鏡を押し上げた。


「見せてください」


「いい」


「見せてください」


 リヴァは手を出した。手のひらに砂利の跡が薄く残っていた。アルノが確認した。


「消毒します」


「いい」


「します」


 されることになった。


 レッドがそれを見ていた。


「アルノ、お前いいな」と彼は言った。


「何がですか」


「面倒見がいい」


「業務です」アルノはリヴァの手に消毒液を当てた。「あなたこそ、訓練の強度は適切でしたか」


「適切だった」


「本人が転んでいますが」


「転ぶのも訓練のうちだ」


「理屈はわかります」アルノは手当てを続けた。「ただ、午後も射撃があります。手が痛むようなら影響が出ます」


「影響ない」とリヴァが言った。


 アルノが少し間を置いた。


「……影響がないことを前提に、確認しています」


 リヴァはアルノを見た。


「怒ってる?」


「怒っていません。心配しています」アルノは手当てを終えた。「違います」


「違わない気がする」


 アルノは何も言わなかった。道具をケースに戻した。


 レッドが口を挟まなかった。


 カイも何も言わなかった。ただ黙って水筒の蓋を開けた。


「昼飯はログハウスの中だ」とレッドが言った。「イーサンが何か言ってたか」


「午後の準備をしていると言っていました」とアルノは言った。


「食いながらブリーフィングか」


「そうなると思います」


「じゃあ入るか」


 全員がログハウスに向かった。


 テキサスの午前の光が、赤い土の上に白く落ちていた。


 リヴァは右手を少しだけ見た。


 痛くはなかった。


 本当に、なかった。





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