バーベキューハウス
夕方になっても、空はまだ明るかった。
テキサスの日暮れは遅い。午後7時を過ぎても地平線がオレンジで、影が長く伸びていた。
レッドのSilveradoが街に入った。
レッドのSilveradoは、乗り込んだ瞬間から匂いがした。革と、煙草と、微かにガソリン。シートは使い込まれていて、助手席の背もたれに浅いへこみがある。何度も同じ姿勢で誰かが座った跡だ。ダッシュボードの上にLucky Strikeの箱が一つ、無造作に置いてある。カップホルダーにコーヒーの跡が残っているが、カップはない。後部座席の足元に、折りたたまれたジャケットと、ロープが一本。理由は聞かなかった。
助手席にリヴァ、後部座席にカイ。イーサンのF-150が後ろに並んだ。信号待ちだった。
助手席にアルノがいた。
アルノははじめSilveradoに乗りこもうとしたが、ログハウスを出た直後にイーサンが「お前はこっちに来い」と言った。理由は言わなかった。アルノが少し止まってから乗り込んだ。
「なんでアルノを連れていったんだ」とレッドがイーサンに無線で言った。
「一番静かだから」とイーサンは返した。
「俺がうるさいとでも言いたいのか」
「言いたい」
「ひどいな」
無線が切れた。
カイがバックミラーでF-150を確認した。
F-150の車内は外から見ても整然としていた。ダッシュボードに何も置いていない。シートが直立に近い角度だった。アルノは乗り込んだ瞬間から端末を開いていた。イーサンは何も言わなかった。2人とも、沈黙が苦ではない種類の人間だった。
「なんか、合ってるね」とリヴァが言った。
「あの2人か」レッドはウィンカーを出した。「余分なことを言わないな」
「レッドは言う方?」
「俺は言う方だ」レッドは少し笑った。「だからイーサンとは長続きしてる。俺が全部しゃべって、あいつが全部聞いてる」
「それ、友達?」
「そうじゃなかったら何なんだ」
リヴァは少しの間考えた。
「確かに」
F-150が同じタイミングでウィンカーを出した。
「どこ行くか、2人で決めたの?」とリヴァが言った。
「知らない」とレッドは言った。「俺も決めてないから」
「なのについてきてる」
「ついてきてる」
「……イーサンって」
「ああいう奴だ」とレッドは言った。「説明しようとすると余計わからなくなる」
カイが窓の外を見た。
「どこで飯を食うんだ」
「今決める」とレッドは言った。「リヴァ、何食いたい」
「なんでもいい」
「なんでもいい、は答えになんない。テキサス来たんだから、テキサスのもの食え」
「テキサスのものって」
「肉だ」
「肉」
「肉しかない」
無線が入った。イーサンだった。
『俺が知ってる店がある』
「どこだ」とレッドが言った。
『ダウンタウンの裏。煙が出てる店』
「それだけか」
『充分だ』
レッドが笑った。
少し間があった。アルノの声が入った。
『……煙が出ている店というのは、衛生的に』
『問題ない』とイーサンが遮った。
『根拠は』
『何度も行って死んでいない』
無線の向こうで、アルノが一拍置いた。
『……わかりました』
レッドがまた笑った。今度は声が出た。
「イーサンの店に行くか」とレッドはリヴァに言った。
「煙が出てる店」
「旨い証拠だ」
「そういうもの?」
「テキサスではそういうもんだ」
F-150が前に出た。先導し始めた。
Silveradoがついていった。
Silveradoがダウンタウンの裏通りに入った。
レンガ造りの建物が続く通りで、看板に英語とスペイン語が混じっている。駐車場は砂利で、入口に大きな鉄のドアがある。
「ここだ」
降りると、肉の焼ける匂いがした。
スモークの香りが通りまで漏れていた。木とヒッコリーが混ざった、重くて甘い煙の匂いだった。
ドアを開けると、騒がしかった。
天井が高い。むき出しの梁に照明が吊るしてある。テーブルは大きく、見知らぬ人間が相席で座っている。壁際にカウンターがあって、そこで肉を選ぶ仕組みらしかった。
「テキサスのバーベキューハウスだ」とレッドは言った。「並んで選んで、好きなだけ取る。値段は重さで決まる」
「システムがある」とリヴァが言った。
「ある。ただ難しくない。見て、指さして、乗せてもらう。それだけだ」
カウンターに向かった。
大きなスモーカーから切り出された肉が並んでいた。ブリスケット、リブ、プルドポーク、ソーセージ。全部が茶色く、表面に黒いクラストがついている。スタッフが大きなナイフを持って待っていた。
「何にする」とレッドがリヴァに聞いた。
「全部」
「全部か」
「全部気になる」
「それでいい」レッドがスタッフに向かって顎で示した。「ブリスケットとリブを厚めに。ソーセージも二本。あとサイドは全種類」
スタッフが迷わず切り始めた。
カイが隣に来た。
「ブリスケットをもっと」と彼はスタッフに言った。英語が短くて正確だった。
「何グラム」
「見た目で多い方」
アルノが後ろから来た。カウンターを見た。
「……これは全部豚と牛ですか」
「そうだ」とレッドは言った。
「野菜は」
「サイドにコールスローがある」
「それだけですか」
「あとコーンブレッド」
アルノは一拍置いた。
「……コールスローをください」とスタッフに言った。
「それだけでいいのか」とレッドが言った。
「当面は」
「食ってみてから考えろ」
「考えてからにします」
イーサンが無言でカウンターに来た。ブリスケットを指さした。「厚め」それだけ言った。
テーブルに座った。
大きなトレーに肉が山になっていた。クラフトペーパーが敷いてあって、ソースが小瓶で三種類来た。
リヴァはブリスケットを一口食べた。
止まった。
「……なにこれ」
「旨いだろ」とレッドが言った。
「今まで食べたやつと違う」リヴァはもう一口食べた。「スモークの味が中まで入ってる」
「12時間かけて燻す。それだけだ」レッドがリブを手で持って食べ始めた。骨ごと持つ食べ方だった。「テキサスのバーベキューは時間で作る。急がない」
カイがブリスケットを切った。音がしないナイフの使い方だった。
イーサンが無言で食べていた。
アルノがコールスローを一口食べた。フォークを置いた。ブリスケットを見た。
「一口だけ」とリヴァが言った。
到底彼女には食べきれない量の肉の山を察し、アルノが言った。
「……一口だけ」とアルノは言った。リヴァはかなりの量の肉をアルノの皿にのせた。
切った。食べた。
何も言わなかった。
もう一口切った。
「アルノ」とリヴァが言った。
「何ですか」
「顔が変わった」
「変わっていません」
アルノはブリスケットをもう一口食べた。フォークを置いた。スタッフを呼んだ。
「ブリスケットを、もう少しいただけますか」
レッドが声を出して笑った。
食べ始めて30分が経った頃、レッドが立ち上がった。
「ちょっと待ってろ」
奥のカウンターに歩いていった。スタッフと何か話していた。笑い声が上がった。
戻ってきた時、瓶ビールを5本持っていた。
「店の人が「レッドが連れてきたなら特別に」って言ってた」とリヴァが言った。
「知り合いか」とカイが言った。
「ここら辺の奴はだいたい知ってる」レッドは瓶を配った。「生まれてからずっとテキサスだ。顔が広くなる」
「ダラス出身なのか」
「ダラスの少し外。小さい町だ。名前言っても知らないと思う」
「今も家があるのか」
「ある」レッドはビールを一口飲んだ。「一人で住んでる」
少し間があった。
リヴァがレッドを見た。
「一人で?」
「ああ」レッドは瓶を見た。「4年前まで2人だった」
テーブルが少しだけ静かになった。
「奥さん?」とリヴァは言った。
「ああ」レッドは短く言った。「病気だった。早かった」
誰も何も言わなかった。
イーサンがビールを一口飲んだ。それだけだった。言葉はなかったが、知っている、という静けさだった。
「悪い話をした」とレッドは言った。「忘れてくれ」
「忘れない方がいい気がする」
レッドがリヴァを見た。
「……そうか」と彼は言った。少し間を置いた。「じゃあ覚えておいてくれ」
「覚えておく」
レッドがビールを一口飲んだ。
「お前に会えてよかった」
「任務と訓練で来ただけ」
「それでもいい」レッドはビールを持ち上げた。「来た理由がなんでも、今夜ここにいる。それで充分だ」
リヴァは少しの間、レッドを見た。
「さっきも同じこと言ってた」
「本当のことだから何度言っても同じだ」
リヴァが少しだけ、口元を動かした。
カイがビールを置いた。力強い。
「レッド」
「何だ」
「それくらいにしろ」
「してる」
「してない」
「カイ、お前も飲め。顔が怖い」
カイは何も言わなかった。ビールを一口飲んだ。
アルノがブリスケットを3切れ目に切りながら、眼鏡を押し上げた。
「……賑やかですね」と彼は言った。
「テキサスはそういうとこだ」とレッドは言った。
「東京も似たようなものです、このメンバーでいると」
「そうか」レッドが笑った。「じゃあ俺たちは合うかもしれない」
「どうでしょうか」
「悪くないだろ」
アルノは答えなかった。
ブリスケットを口に入れた。
それが答えだった、とリヴァは思った。
テキサスの夜は長かった。
ログハウスに戻った頃、夜の10時を過ぎていた。
「明日の予定を確認します」とアルノが言った。
ブリーフィングルームは5月だというのに、肌寒かった。
「午前は近距離戦の訓練。レッドが担当します」
「俺か」とレッドが言った。
「あなたの専門領域です」
「まあそうだが」レッドはリヴァを見た。「転ぶかもしれないぞ」
「転ばない」
「まあ、やってみろ」
「午後は射撃場の続き」とアルノは続けた。「イーサンとカイの訓練も並行します」
イーサンが頷いた。
「夜は」とアルノは言った。一拍置いた。「カジノです」
空気が少し変わった。
「情報収集」とリヴァが言った。
「はい。密輸ルートの関係者がよく使う店があります。ダラスのダウンタウン、ハイアットの地下。ユキナガが事前に確認しています」
「俺たちの役割は」とカイが言った。
「リヴァが場に入ります。私が関係者に近づいて情報を取る。カイとイーサンは護衛で外周」
「俺は」とレッドが言った。
「あなたはリヴァの側にいてください。土地勘があるので、何かあった時の動線を頼みます」
「わかった」レッドは少しだけリヴァを見た。「ドレスアップだな、嬢ちゃん」
「そうなりますね」とアルノが言った。
「似合うだろうな」
「レッド」とカイが言った。
「何だ」
「それくらいにしろ」
レッドのため息。
イーサンが空を見た。
「風が変わった」と彼は言った。
全員が空を見た。
南から来ていた風が、少しだけ北に振れていた。
「明日の午前、気温が下がる」とイーサンは続けた。「補正が必要になる」
イーサンが建物に向かって歩き出した。
レッドが伸びをした。「早く寝るか」と独り言みたいに言って、後に続いた。
カイがリヴァの隣に来た。
「明日、転ぶな」
「転ばないよ」
「レッドの訓練は加減しない」
「カイもしないでしょ」
「怪我をするかもしれない」
「カイって心配性だね」
「事実を言っている」
リヴァは空を見た。星が多かった。
「カジノ」と彼女は言った。「ドレス、何があるかな?」
「アルノが把握してる」
「アルノに聞く」
「明日でいい」とカイは言った。「今日は寝ろ」
「うん」
カイが建物に向かって歩き出した。
リヴァは少しだけ、星を見た。
東京では見えない星が、テキサスにはある。
それだけで、少し遠くに来た気がした。




