"Isa"
執務室のドアが開いていた。
アルノとオラヴルがいた。
デスクの上に資料が広がっていた。アルノが端末に向かっていた。ジャケットを脱いでいた。白いシャツの袖が、左だけ折り上げられていた。
JPSが灰皿に刺さっていた。吸いかけのまま、消えていた。
オラヴルはソファに座っていた。Dunhillを指に挟んでいた。
カイが入ってきても、二人とも顔を上げなかった。
「彼女の状態は」オラヴルが言った。
「寝かせた」
「わかりました」
アルノが端末から目を離さなかった。
カイが腕を組んで、アルノを見た。
「何がわかったんだ」
カイの言葉で部屋の温度が冷えた。
「…座ってください」アルノは言った。
「立ったまま聞く」
アルノが端末から目を上げた。カイを見た。
間があった。
先に目を外したのはアルノだった。
「……構いません」
オラヴルが煙草を一口吸った。煙を吐いた。
「古ノルド語なら、íss。氷だ」オラヴルは言った。
「何と言った」
「Isa」
「静止や束縛を連想させる」
「仕込んだのはグレイか」
「彼じゃない」オラヴルが言った。
「誰だ」
オラヴルは答えなかった。
煙草を持つ指が、少しだけ強くなった。
「心当たりがあるなら言え」
「ない」
カイはオラヴルを見た。
数秒、そのままだった。
「……明日、リヴァには」アルノが言いかけた。
「状態を見てからにしよう」オラヴルが遮った。
「同席する」カイは言った。
「構いません」
カイが顔を上げてアルノの顔を見た。
「俺が決める」
アルノがカイを見た。目を細めた。
「何をですか」
「明日、リヴァに何を話すか」
「彼女はあなたの所有物ではありません」
カイが一歩、アルノに近づいた。
「お前の所有物でもない」
アルノの表情は変わらなかった。
オラヴルはため息をついた。
カイが続けた。
「グレイの部屋で起きたことを、お前は聞こえていた」
「途中からは」
カイの顎が少し上がった。
「それでも止めなかった」
「はい」
カイがもう一歩近づいた。
「正しかったと言ったな」
オラヴルは足を組んで、煙草を吸っていた。動かなかった。
「同じ条件であれば、同じ判断をします」
カイの手がデスクの端に置かれた。
「泣いてても」
「はい」
「助けを求めても」
アルノが一拍置いた。
「生命に直接関わる兆候がなければ」
カイの指に力が入った。
「本気で言ってるのか」
「私はあくまで、生存を優先しました」
部屋が静かになった。
カイがアルノを見た。
アルノは視線を外さなかった。
「精神は回復出来ます」
カイの手がデスクから離れた。
アルノの胸元を掴んだ。
「情報が足りなければ、今後彼女を死なせる可能性だって--」
カイの腕が動いた。
アルノの身体が後ろへ飛んだ。
背中から壁に当たった。
鈍い音がした。
壁際の額縁が跳ねた。
「……っ」
アルノが息を詰めた。
そのまま壁に背を預け、しゃがみ込んだ。
アルノがカイを見上げた。
「……それで?」口角を上げた。「判断が変わると思いますか?」
カイの目が細くなった。
廊下から足音がした。
「アルノ、解析の——」
ユキナガがドアのところで止まった。
「……何してんの」
カイがもう一度アルノの胸ぐらを掴んで、立たせようとした。アルノがカイの腕を掴んだ。
ユキナガの眉が寄った。オラヴルを向いた。
「なんで止めないの」
オラヴルはただその様子を見ていた。
「アルノが悪いからね」
「……ええ?…そうなの?」
ユキナガはカイを見た。
「カイ、待て」ユキナガが言った。「お前に殴られたら洒落になんない」
カイは止まらなかった。
アルノも退かなかった。
「彼女が泣いた。それで、あなたは何を変えろと言っているんです」
カイの指に力が入った。
「その結果、必要な情報を失って、次に彼女が死ねば」
一拍置いた。
「あなたは責任を取れるんですか」
カイの腕が動いた。
アルノの後頭部が、もう一度壁につく寸前で止まった。
「……お前」
「取れないでしょう」
「アルノ、煽んなって!」ユキナガが言った。
アルノはカイから視線を外さなかった。
「あなたは彼女の泣き声を聞いたから怒っている」
「……」
「私は、その後に彼女を生かす方法を考えています」
カイの表情が変わった。
ユキナガが息を呑んだ。
「短絡的ですね」
カイがアルノを壁へ押しつけた。
鈍い音がした。
「もう一度言え」
「何度でも」
アルノの息が乱れていた。
カイの拳が握られた。
アルノがその拳を横目で見て、目を細めた。汗が頬を伝った。
「待て、カイ」ユキナガが一歩出た。
「ユキナガ」
オラヴルが言った。
「そこにいなさい」
ユキナガが振り返った。
「いや、でも」
オラヴルがソファの肘おきを二度叩いた。
ユキナガが止まった。
アルノはカイを見ていた。
「彼女に必要なのは、正しい判断ではなく、あなたに慰めてもらうことだったと?」
カイが拳を握った。
オラヴルが立ち上がった。
「カイ」
カイがオラヴルを見た。
「怒ってる君に、明日のリヴァのことを決めさせる気はないよ」
カイの眉が動いた。
「俺は守るだけだ」
「違うだろう?」
オラヴルは煙草の火を消した。
「それは彼女を守ることじゃない。彼女の代わりに決めてる」
カイは何も言わなかった。
アルノから手を離した。
オラヴルはアルノを見た。
「アルノ」
アルノが顔を上げた。
「君はもっと悪いよ」
アルノの目が止まった。
「自分の判断が正しかったと確認するために、まだ仕事を続けてる」
「違います」
「喋るな」
アルノが止まった。
オラヴルの声は変わらなかった。
「僕は今、君の言い訳は聞いてない」
アルノは黙った。
「彼女は薬を入れられた。自分でも理解できない反応を引き出された。泣いて、震えて、今やっと眠った」
オラヴルは二人を見た。
「どちらが正しかったか決めるのは、今やるべきことかい?」
誰も答えなかった。
「くだらない」
オラヴルが言った。
沈黙があった。
「カイ、もう終わりにしなさい」
「でも、--」
「終わりだ」
カイが少しの間、オラヴルを見た。
カイが視線を外した。ドアに向かった。
ユキナガが道を空けた。
ドアが閉まった。
「……俺、解析結果置いて帰っていい?」ユキナガが言った。
「もう寝なさい」
「うん」
端末をデスクの端に置いた。
ユキナガも出ていった。
ドアが閉まった。
部屋が静かになった。
アルノは壁際に座ったままだった。
片膝を立てていた。
顔を少し伏せていた。
「馬鹿だろ、お前」オラヴルが言った。
アルノはしばらく何も言わなかった。
空調の音が響いた。
「……もっと早く、止めてください」
アルノが言った。
「一度は痛い目見るべきだと思ったよ」
「……」
「言い方」
アルノが両膝を立てて、顔を伏せた。
「…彼女を守るために、彼女の情報が必要です」
オラヴルは下を向いた。
「彼女は何者なのか、どうしても知りたい」
オラヴルは新しい煙草に火をつけた。
一歩アルノに寄った。
「みせて」
アルノは顔を上げた。
「オラヴル、私は……」
「立ちなさい」
アルノは一拍止まってから、壁に手をついて立ち上がった。
アルノに自分の口にあった煙草を咥えさせた。
オラヴルはアルノの背中を軽く触った。
「痛いところは?」
「…ありません」
アルノは煙を吐いた。
「よし」
「オラヴル、-」
アルノはオラヴルを見上げた。
「ヴィクトルみたいになるな」オラヴルは言った。
アルノは目を伏せた。




