看守
「……っは…」
胸元のベルトが張った。
エリアスは天井を見上げた。
視界がぼやけている。
左手首を留められた拘束具が、処置台の枠へ当たる。
右腕は身体の前で支えられ、肘の下に畳んだ布が入っていた。
「勝手に寝ることは許可していません」
声の方に視線を向けると、数人の気配があった。
額の血が、くすんだ金茶の髪を束にしていた。
オラヴルがガーゼを離すと、エリアスの顎に力が入った。開いた唇から、短く息が漏れた。
ヴィクトルは処置台の足元に立っていた。腕を組み、エリアスを見下ろしている。
「どこ見てる。目逸らすな」ヴィクトルが言った。
「こっちだよ」
オラヴルが顎を支えた。エリアスは歯を食いしばり細く息を吐き、処置台の横にいるアルノへ目を向けた。
「……う…っ」
アルノが一枚のカードを持ち上げた。顔写真の下に、エリアスの名が印刷されている。
「この職員証は、施設で渡されたものですね」
「……連れてこられてから、……渡された」
「では、あなたはあの組織の仲間なんですか」
「……違うよ」
「お前の経歴はさっき聞いた。レオポルドフで終身刑の連中を扱ってた看守だ。護送もやってたと。だから捕まった先でも、同じ仕事を任されたわけか」
エリアスはヴィクトルへ視線を移した。目の周りには汗が溜まり、頬へ乾いた血が引かれていた。
「……俺だってわからないよ。……3日前、気づいたらあの場所にいたんだから」
ヴィクトルが煙草の煙を吐いた。
「お前が何をやってたか聞いてる」
「人を、部屋から出した。抵抗されたら拘束して、引き渡したよ。終われば俺も……戻された」
エリアスは途中で息を吸い直した。
「……ちょっと、疲れてるんだ。休ませてくれないかな」
「まだそれは駄目かな」オラヴルが言った。
アルノがカードを机へ置いた。
「引き渡した相手は、毎回同じ人物でしたか」
エリアスは小さく息を吐いた。
「……違う人もいた。名前は聞いてないけど、顔は覚えてるよ」
「引き渡しのあと、収容者はどこへ運ばれましたか」
エリアスはアルノを見たまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺が見たのは、扉が閉まるところまでだよ」
アルノは端末へ記録し、画面を切り替えた。
オラヴルのガーゼが傷に触れた。エリアスの腹に力が入り、身体を起こそうとした肩がベルトに止められる。右腕を支えていた布がずれ、喉の奥で声が詰まった。
「……っ、は……」
「肩を動かさないで。さっきまで脱臼してた」
オラヴルは右腕の支えを直し、そのままエリアスの顔を覗き込んだ。エリアスは目を閉じ、息を吐く時に声が漏れた。
「目を開けて。こちらを見なさい」
灰茶色の目が開いた。オラヴルが顔を動かすと、その動きを追った。
「聞こえているね。続けて、アルノ」
エリアスの口元が曲がった。
「……参ったな」
オラヴルはエリアスの頬を伝った汗を拭った。顎を支えた手は離さなかった。
「……一緒に逃げた人は、どうしてる?」エリアスが言った。
アルノは端末へ伸ばしかけた手を止めた。
「別室で保護しています」
「……あの人も、拘束されてるの?」
エリアスはアルノの顔を見ていた。
「していません。その必要はないと判断しています」
エリアスは握っていた左手を開き、処置台へ下ろした。
「……よかった」
ヴィクトルが腕を組んだ。
「花村の心配してる場合じゃないぞ」
「花村……そんな名前なんだね。……日本人?ジャパニーズって繰り返してた」
「ああ」
アルノがヴィクトルを見て、眉を寄せた。
「勝手に情報を与えないでください」
「別にいいだろ」
アルノが息を吐いて、端末をエリアスへ向ける。倉庫の前に立つ男の画像が表示されていた。
「この人物は施設内で見ていますか」
エリアスが目を細めた。頭を浮かせかけ、オラヴルの手に止められる。
「よく、見えない」
オラヴルが机の端から綺麗に拭かれたエリアスの眼鏡を取った。細いフレームを掛け、耳の上に引っ掛かっていた髪を外した。
「はいどうぞ」オラヴルが言った。
エリアスは画像へ目を戻した。
「……その人だよ。カードを渡したのは」
ヴィクトルが処置台の横へ来た。腕を組んだまま、端末とエリアスの顔を見比べた。
「指示も、その人から受けてた」
「そいつより上の人間には会ったか」
「……上かどうかは、知らない。俺の話を聞いて、仕事を決めたのは、その人」
ヴィクトルが身を屈めた。エリアスは目を逸らさなかった。
「随分、そいつの言うことを聞いたんだな」
「初めに花村を逃がそうとしたとき、その人に腕捻られたんだ。それで脱臼した」
「まあ、口だけならなんとでも言えるな」
呼吸が切れた。エリアスは唇を閉じ、鼻から息を吸った。
間があった。
「……冗談やめてよ、…何人倒して出てきたと思ってるの」エリアスが吐息交じりに言った。
「へえ。何人だい?」オラヴルが言った。「君の肩は、僕が処置するまで脱臼したままだった。最初の脱出で外されたなら、そのあと何人も倒せる状態じゃないよ」
ヴィクトルが少し笑った。
「食い違ったな。花村は、お前に二度逃がされたと証言してる。その肩でどうやったんだ?」
エリアス息を吐いて、顔を顰めた。
ヴィクトルは身体を起こし、机の端末へ目をやった。
「スロバキア側の記録も当たった。三十三歳。レオポルドフ勤務。お前の申告した職員番号とも一致する人間は出てこなかったぞ」
エリアスの視線が止まった。
「なん……」
「部署も、仕事の内容も存在する。お前の履歴がない。借り物の経歴なら、ここでやめとけ」
「ちゃんと調べてよ…」
「うちの優秀な情報担当が調べた」
エリアスは口を開き、息を継いだ。眼鏡の縁を汗が伝い、頬へ落ちた。
「……そんな…はずはないんだ。その番号は、俺の……」
「それを確かめられないと言ってる」
「そしたらエリック……同居人に聞いて」
「お前がさっきも話してた、そいつの番号は使われてない」
「は………?」
エリアスの呼吸が止まった。
オラヴルはそれを見て、目を細めた。
エリアスは視線を下げずにいたが、呼吸は速くなっていた。胸が持ち上がるたびに、固定された右腕の指が曲がった。
「……っう、馬鹿げてるよ、どうしてそんな、」
オラヴルが首元へ指を添えた。しばらく触れてから手を下ろし、エリアスの額へ新しいガーゼを当てる。
エリアスの身体が硬くなった。左手が握られ、指の関節が白くなる。処置台へ押しつけられた踵が擦れた。
「……っ」
「息を止めないで。声が出るなら、出すといい」
エリアスはオラヴルを見た。口元にはまだ薄い笑みがあったが、息を吐くと頬が引きつった。
「拘束までして、三人がかりで俺を騙してる。……本当にたちが悪いね」
「不満そうだな。看守」ヴィクトルが言った。
オラヴルはガーゼを替えた。
「アルノ、進めて」
アルノが次の画像を表示した。倉庫へ入っていく別の男だった。
「この人物へ、収容者を引き渡したことはありますか」
エリアスは画面を見た。瞬きをして、もう一度顔を確かめた。
「……ある」
「場所を」
「廊下の奥。さっきの扉の前」
「その時、この男が持っていたものを教えてください」
エリアスの左手が処置台の上で開いた。掌には爪の跡がついていた。
返事の前に、長く息を吐いた。吸い直そうとしたところで額を押さえられ、喉から掠れた音が漏れた。眼鏡の奥で目が閉じた。
オラヴルが頬に触れた。
「まだ、終わってないよ」
エリアスは睫毛を持ち上げた。端末には男の画像があり、その横には次の画像が並んでいた。
アルノは端末を支えたまま待っていた。ヴィクトルも腕を組んだ姿勢を変えず、エリアスを見ている。
オラヴルの手が、顎を支え直した。
「まだ元気そうだな」ヴィクトルが言った。




