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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十五章「凍結回廊 ― Frozen Corridor」

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ただの営業マンの俺が謎組織に保護された件!



 俺の名前は花村庵(はなむら いおり)。27歳。ごく普通の営業マンだ。


 気づいたら謎の組織に誘拐されていて、命からがら逃げてきた。


 ……これ、あらすじ合ってる?


 今は毛布を掛けられ、スープの入ったカップを持っている。向かいには、さっき元警察だと言った人がいた。日本人がいて嬉しかったけど、なんか黙って俺を睨んでいる。


「具合どう?」


 金髪の人が話しかけてくれる。さっき190センチ近くありそうな男を、一人で担いでいった人だ。きっとすごく鍛えているんだろう。


 待て。イケメンすぎるな。何人なんだろう。てか、なんで日本語話せるんだ。


「体調は平気。さっきは本当にありがとう。中で日本語誰にも通じなくて困ってた」


 俺はコンソメスープを飲んだ。おいしい。外が寒かったから、余計に沁みる…。


「君はどこから来たの」


 顔を上げると、金髪の人の目が細くなっていた。あれ。怒ってる?声は優しいのに、なんか怖い。


「千歳烏山。東京の……世田谷区」


「なるほど」


「何人?なんで日本語話せるの?」


「イギリス人。高校の時の選択授業で日本語とってたの」


「へー、上手。警察ってすごいっすね」


「俺は警察じゃないよ」


 違った。さっきの人も元って言ってたし、ここは警察の場所ではないのか。じゃあ自衛隊とかそういうやつかな?


 金髪の人は椅子を引き、俺のそばに座った。黄色い目、綺麗だなあ。


「そこから、どうやってあの施設に?」


「いつもどおり営業で杉並区辺りを回ってたんだけど、途中で倒れたみたいで。24連勤だったからかな。気づいたら、檻の中に居て……」


 そうだ。誘拐。俺は誘拐されていたんだ。


「ここ、どこ?」


「ルクセンブルク」


 俺は口に入れたスープを慌てて飲み込んだ。


「は!?え!?ルクセンブルク!?……って、どこ!?」


「ヨーロッパ。フランスの隣だよ」


 せいぜい関東のどこかだと思っていた。寒いと思った。


「意味わからん……」


 向かいの元警察の人を見た。目が合ったが、何も言ってくれなかった。


「あの、さっきの人は。眼鏡の、大きい人。一緒に逃げてきた……」


「エリアスだね。今、うちの医者が診てるよ」


 エリアス。あの人、そういう名前だったのか。


 言葉が通じなかった。俺が先に捕まって戻された時、あの人はまだ部屋にいて、戻ってきた俺を見ても怒らなかった。そのあと、もう一度外に出してくれた。


 最後は俺に肩を預けていて、呼吸の音がずっと耳元でしていた。いい匂いがした。


「……よかった。かなり苦しそうだったから」


「君も休んでていいからね。俺はフィン。訳あって苗字が今ないんだ。君の名前は?」


 今、苗字がない。って言った?


 なんだ?海外はそういうのあるのかな?…まあいっか。


「花村庵」


「花村ね。生まれも東京?」


「いや、仙台。大学から東京に」


「どの?」


「帝京大学…だけど」


「今うち東大の研究者いるよ。後で紹介するね」


 なんだ?あてつけか?俺はそんな優秀じゃないぞ。同じ日本の大学でくくってはいけないだろ東大を。


「……えっとここは、どういう場所なんですか」


「まあそれは気にしないで」


 ???


 フィンは後ろへ手を出した。


「アオイ、書くものある?」


 元警察の人が立ち上がった。アオイというらしい。机から紙とペンを取り、フィンに渡すと、その後ろに立った。


「住所と生年月日、勤務先。連絡のつく人も書いてもらえる?」


 俺はカップをベッド脇へ置き、紙を受け取った。


 大使館とか、何か手続きがあるはずだ。


 いやー、よかった。どこかの組織に俺は拉致されたのか。突然。そんなこともあるのかな。……あるか?


 住所を書いている間も、アオイの視線を感じた。普段より丁寧に書いて、フィンに渡した。


「施設には、どのくらいいた?」


「分からない。時計がなくて。寝たり起きたりしてたから……二日くらいかもしれない」


 フィンが俺の書いた余白に書き足した。見ると英語の筆記体だった。か、かっこいい…。ガチ外人のメモ書き初めて見た。


「二日は推測ね。エリアスと会ったのは?」


「目が覚めた部屋。俺より先にいた」


 質問が続いた。


「最初に逃げた時も、一緒だった?」


「あの人が先に出してくれた。中にいた奴を倒して、行けって。俺は外で捕まったけど」


「連れ戻したのは二人?」


 俺は頷いた。あの時、左右から腕を掴まれたことは覚えている。


「その二人の顔は覚えてる?」


「一人なら。もう一人は、後ろにいたから……」


「じゃあ、顔を見た方から。髪の色と、覚えてる特徴を教えて」


 フィンはずっと同じ調子だった。俺が言葉に詰まっても急かさないし、話し始めれば頷いてくれる。ただ、曖昧に答えたところは、必ずもう一度聞かれた。


 営業でも、こういう人はいる。愛想よく話してくれるから手応えがあると思っていたら、いつの間にかこっちの説明にある穴を全部拾われている。あれに近かった。


 答え終える頃には、スープが冷めていた。俺がカップを持ち直すと、フィンは紙をまとめて立ち上がった。


「ありがとう。食べ物も持ってこさせるね」


 アオイが扉を開け、その前でこちらを向いた。


「基本的に、この部屋からは出ないでください。トイレ行く時は、声を掛けてもらえれば同行します」


「トイレも?」


「はい。お連れします」


 こわい…。なんも言えない…。警察って一回しか職質されたことしかないからあんまりわからん…。免許出したらすぐ終わったし。


「では。何かあったら声を掛けてください」


 二人が出ていき、扉が閉まった。


 俺は残ったスープを飲み切った。


 とりあえず、助かったんだよな。


「だれか花村くんに餌ーー」外でフィンの声がした。


「え、餌……?」


 聞き間違いかな。




 しばらくして扉が開いた。


 入ってきた人を見て、俺は毛布の下で足を引っ込めた。


 でかい。背も高いが、それ以上に肩と腕がすごかった。半袖から出ている腕に、ぱんぱんに筋肉が張っている。首にタオルを掛けていて、額には汗が残っていた。


 この人がいたら原宿で外人に絡まれても怖くないだろうなあ……。


 その人が、俺の前へ皿を出した。


「食うか」


 りんごだった。


 皮を剥いて、食べやすい大きさに切ってある。フォークまで添えてあった。


 丁度いい。最高。


「……」


 俺が受け取ると、その人はベッド脇の椅子を寄せ、皿を置けるようにしてくれた。椅子の背を掴む手が大きい。この手でりんごの皮を剥いたのか。まさかね。


「怪我はないか」


 視線が足元へ下りたので、俺は毛布を少し上げた。


「平気…です」


「よかった」


 顔は怖いままだった。


「カイ、ブリーフィングー」


 廊下から女性の声がした。


「うん」


 カイと呼ばれた人は、すぐにそちらを向いた。肩のタオルを直し、部屋を出ていく。


 返事かわい。


 多分警察的な組織ではあるんだよな。じゃなきゃあんな筋肉すごい人が普通に歩いてこない。


 りんごを一つ食べた。冷たくて甘かった。


 今度会ったら、もう少しちゃんと礼を言おう。


 食べ終えて毛布を掛け直すと、急に眠くなった。





 横になって目を閉じ、次に開けた時には、椅子に人がいた。


 車でパンをくれた人だった。カラムだ。


「え!」


 びっくりして飛び起きた。いつからそこに……。


 カラムはこちらを見た。


 何も言わなかった。


「……パン、ありがと」


 頷いてくれたので、言葉は通じているらしい。


 なんか喋んないと悪いな…。


「さっき、どこから乗ってきたの」


「……観測地点」


 日本語が帰ってきた。神。絶対通じないと思った。意味は分からないけど。


 カラムは膝の上へ目を落としていた。


「ずっと、見てた」


「俺たちが逃げたところ?」


「……その前から…十時間くらい」


 十時間ってなんだろう。監視カメラ映像を確認してる人?でもさっきの誘拐組織の人ではないんだよな?


「どこにいたの?わかんなかった」


「638メートル先」


「ん?」


「あんたは…窓の近くに、いた。頭、スコープから見えたから」


「スコープ?」


 カラムが顔を上げた。


「……ライフルの」


 俺は毛布を握った。


 ライフルって、銃…?FPSの話してる?ガチ?


 カラムが俺の手元を見ていた。


「寒い…?」


 指が震えていた。


「いや。寒くは、ない」


 カラムが立ち上がると、椅子に座っていた時よりさらに大きかった。


 俺に一歩近づいた。


「うわ、何、来ないで、殺さないで」


 反射で目を閉じた俺の膝に、何かが置かれた。


 小さいパンだった。車でもらったものと同じ。


「ぇ…」


 空になったカップを持ち、そのまま部屋を出ていった。


 パンもらった…。





 少し目を閉じてから顔を上げると、今度は女の人が目の前にしゃがんでいた。


 薄い紫がかった髪が見えた。俺の顔を下から覗き込み、毛布から出ていた腕を指でつついた。


 かわいい。


「たべもの余ってた。あげる」


 女神が何か差し出してくれた。


 差し出されたものを見た。


 納豆だった。


 白いパックが一つ、手の上に載っている。


 ……なんで?


「あ……なんで納豆?」


「お米、炊飯器見たけど売り切れ」


「そっか……」


 納豆は好きだ。家でも食べる。ただ、絶妙に、ちょっといらないかも…。


 俺が受け取らないでいると、女の人はパックを引っ込めた。顔が…女神が悲しそうな顔をしている。


 …でも今納豆は違う…。


 間があった。


「…あの。ここって何の組織なの」


 女神が右上を見て考えている。かわいい。


「えっと……物理コンサル?だったっけ」


「何ですかその物騒な感じは」俺は言った。「さっき来た人、ライフル持ってるって言ってたけど……」


「……んー……」


 女神がおそらく守秘義務で揺れている。ここは営業マンらしく、ラポール形成からだ!


「……脱出した時、エリアスが敵を倒してくれたんだ。ゲームみたいに」


「ゲーム?」リヴァが首を傾げた。


「十人くらいは吹き飛ばしてました。しかも脱臼してたんですよ、腕。昔姉がやってた、戦国無双みたいな感じで」


「なにそれ」


「ん?戦国無双?」


 リヴァが少し笑顔になった。


「最近ゲームやるよ、わたしも」


「へー!なんの?」


「グランツーリスモ?ってやつ」


「……なんか渋いね……?」


「リヴァ。一人で入らないでください」


 扉のところに、別の男が立っていた。


「戻ってください」


「ん」


 リヴァと呼ばれた子は雑に返事して立ち上がり、納豆を持って部屋を出ていった。


 行っちゃった……。


 男はその背中を見送ってから、俺へ向き直った。


 灰色の髪に、金色の瞳。眼鏡が似合っている。いかにもな白人さんだ…FFに出てきそう。やったことないけど。


「私はアルノといいます。花村さん。少し、施設の中について確認させてください」


 丁寧な人…。流暢だなあ。


 …でも笑わないなこの人。


 アルノは椅子に座り、机へ紙を置いた。


「閉じ込められていた部屋から、外へ出るまでの道順を教えてください」


「部屋を出て、廊下を……右だったかな。いや、戻された時は反対からだったから……」


 俺が考えている間、アルノは何も書かなかった。ペンを持ったまま、こちらを見ている。


「多分、右……」


「分からないところは、分からないで構いません。余計な推測は混ぜないでください。時間の無駄ですので」


 え怖。


「わかりません……」


 アルノが初めてペンを動かした。


「では、廊下へ出たあとに見えたものを」


「扉。他にも部屋があった。閉まってたから、中は見えなかったけど」


「その扉と、外へ出る扉の位置関係は覚えていますか」


 紙の上に線が引かれた。


 その後も、永遠とも思える時間答え続け、上司からノルマ詰められるような気持ちだった……。




 やがて紙をまとめる音がした。


「今日はここまでにします。ほかに思い出したことがあれば、教えてください」


 俺は頷いた。


「事務員さん、俺この後どうなるのでしょうか…」


「……」


 アルノが眼鏡を上げた。


「あれ」


「……指揮をとっています…」


 やばい!間違えた!!!!!


 大量の書類抱えてて眼鏡でピシッとしすぎてたから!事実確認する人?とか経理の人かなにかかと!!


「すみません!!偉い人とは知らなかった!それっぽく見えなかったから!顔が綺麗でシュッとしてて若くみえるから!!」


 アルノがこちらを見ずに立ち上がり、空いたりんごの皿を手に取った。


「……では」


 扉が閉まり、ようやく一人になった。


 お皿持って帰るんだ…偉い人なのに…


 俺は枕に背中を預けた。何も売り込んでいないのに、大事な商談を何件も続けたあとのような疲れ方をしていた。しかも、うまくいったのかどうか、一件も分からない。


 帰ったら仕事かあ……あの商談資料、まとめないとなあ。


 いや待てよ。ルクセンブルクから日本までどのくらいかかる?間に合うかな?一応後で電話かりて先方に連絡しよう。番号は…同僚に聞き出せばいいか。


 てかパソコン欲しい。社用スマホも……なくしたら始末書だよな。やだ…。誘拐されたって大袈裟に言おう。


 廊下の向こうで、さっきの女の子が誰かを呼んでいた。カイの声が返ってきた。何を話しているのかまでは聞こえない。




「よ」


 扉のところに男が立っていた。真っ赤なシャツ。どこで買えるんだそれ。白の髪に、緑の瞳。派手〜!


 近づいてくると香水の匂いがした。今まで入ってきた人たちとは、少し雰囲気が違った。


 紙コップを二つ持っていた。


「暇だろ。コーヒー飲むか」


「ありがとう」


 この人も日本語だ。すごい。


「どこの国の人?」


「モルドバ」


「……?」


 モルドバって何。そういう国がある?アメリカの中にあるやつ?あ、やべ。すごい失礼な反応しちゃってる。


「あー…いいよねモルドバ…」


「どこかわかってんのか」


「あう……」


 差し出されたカップを受け取った。男は椅子に座り、長い脚を組んだ。


 映画をみてるみたいだった。股下何センチ?


「……トレンディなかんじだね」


「何だその日本語。聞いたことない」


「あ、いや。かっこいいってこと。服とか、雰囲気が」


「そうか。ヴィクトルだ」


 名前までかっこいい。うに濁点とか憧れるなあ。


「モテそう…何担当の人?」


 ヴィクトルは少し笑った。


「どういう女が得意かって?」


「は?なんて?」


「俺ならただの事務員だ」


「嘘お!?こんな派手で!?」


 ヴィクトルはコーヒーを飲み、俺へ顔を向けた。


「お前、彼女は」


「いないよ」


「母親の旧姓は」


「……へ?」


「なんだ」


「佐伯だけど……何の確認?」


「身元。生まれは仙台だな。小学校は」


 俺が学校名を言うと、ヴィクトルは端末に何かを打ち込んだ。続いて卒業した年を聞かれ、中学と高校についても答えた。


「家族の連絡先、フィンに書いて渡したよ。会社も」


「見た。合ってるか確認中だ」


 ヴィクトルは画面から目を離さずに言った。


「早く助かりたいのに、嘘なんて言わない…」


「ああ。信じてるさ」


 なんだその言い回し…。




 扉が開き、若い男が端末を持って入ってきた。


 日本人。めっちゃ親近感ある見た目に安心した。いやでもジャニーズかなんかか?それとも韓国風ってやつ?随分なイケメンだ。


「ヴィクトル。そっちは?」


「追加は送った。ダメだ。あと頼んだユキ」


 ヴィクトルは立ち上がり、残ったコーヒーを飲んだ。男に椅子を譲るように脇へ寄ると、そのまま出ていった。


 ダメって何?怖いんですけど!


 俺が少し身体を起こすと、ユキと呼ばれた人は眉を寄せた。


「……なに」


「いや、日本人が何人かいて、心強いなと思って。こんなところまで来ちゃったから」


「は?じゃあまともに会話しろよクソ」


「え?クソ?なんでこんな歳下に怒られてる?ユキちゃん?」


「はあ?錯乱してんじゃねえよカス。こっちはお前の戸籍探して残業中なんだけど!」


「…戸籍?」


「出てこねえから、今声紋と指紋取り来たんだよ」


 ユキは椅子に座り、端末を机へ置いた。画面には、さっき俺が書いた住所が出ていた。


「これ」


「合ってるよ?部屋番号も」


「嘘つくな。ここにお前はいない。名前と生年月日でも出ない。大学の在籍も確認できなかったんだよ」


「何かの間違いでしょー流石に」


 俺は画面を覗き込んだ。充電が残り20%の表示が出た。


 ユキがそれを苛立ちながら消した。


 ポケットから煙草を取り出し、口の端に咥えて火をつけた。貧乏ゆすりすごい。


 俺はユキちゃんに手を出した。


「煙草ちょうだい」


「ん」ユキナガが一本とライターを手渡した。


 え。くれた。神。


 俺は火をつけて、おそらく二日ぶりの煙草を吸った。


 うめえええ


「落ち着いて話せ。ちゃんと」ユキが言った。「住んでる場所Googleマップで出せ」


 ユキは端末を向けた。


 俺は煙草の煙を吐いた。


「いや、住んでるよ?俺そこに家賃七万払ってる。管理費込みで」


「だから、名前も合わねえって言ってんだろ。手間かけさせやがって」


「偽名じゃない。花村庵だよ。会社に聞いてくれたら……」


 考えている間に、男の指が机を叩いた。


「煙草やったんだから、マジ喋れよまともに」


「……会社の部署と、上司の名前、書く。社員番号も覚えてるし、免許証もマイナンバーもあるよ…今手元にはないけど」


 ユキは俺の指紋を取ってから端末で顔写真を撮り、紙を持って立ち上がった。


「これで出なかったらマジで覚悟しとけ」


 え………?


 扉が閉まると、すぐに廊下から声がした。


「ルカーーーーー!!!俺の充電器どこやった!!」


「ごめんなくしたーーー」


「返せー!!!」


「むりぃーーー」


「怪我人寝てるから静かにして」もう一つ別の声がした。


「おちてたよーー」フィンの声がした。


「うるさいですよ」アルノの声を境に、扉が閉まる音がして少し静かになった。


 俺は机に残った紙を見た。さっき書いた住所が、ペンの跡で次の紙にまでへこんでいた。


 俺は机の端に置いてあった灰皿に灰を落とした。


 なんかこの煙草、甘いな…セッター吸いたい。


 戸籍の照会ってミス多いものなのかな……。でも、あの部屋、俺が住んでるのにおかしいよな。管理人のおじちゃんに直接会えたら話早いんだけどなあ。


 そうだ、実家に戻ったらわかるかもしれない。両親と、ばーちゃんが住んでる。


 会社とかはあれだ。庵秘義務みたいなのがあるから外部から照会とかかけられなくなってるのかも。きっとそうだ。




 しばらくして、トイレへ行きたくなった。


 扉を少し開けると、廊下にいたアオイがこちらを向いた。


「あの、トイレ行きたいんだけど」


「はい。こちらです」


 すぐに歩き出したので、俺は借りたスリッパを履いてついていった。


 廊下には、部屋の中より生活の気配があった。どこかで食器の音がして、人の話し声もする。料理の匂いもした。


 普通の家みたいだ。家にしては人が多すぎるけど。


 角を曲がったところで、着物の男と会った。


 黒い着物の男が湯呑みを持って歩いてくる。


 男がこちらを見たので、俺は壁際へ寄った。


「……」


 なんか、雰囲気やばい…?


 男は俺たちの横を通っていった。


「偉い人?」


「……」


 返事してくれない!てことは絶対そうでしょ!


 中小の社長とかそういうのっていろんな人がいるからな。そういう系なのかな。


 アオイは廊下の先の扉を示した。


「外で待ってます」




 トイレから出て、部屋に戻された。


「あの、俺、何か気に障ることした?」


 アオイが顔を上げた。眉間に皺が寄っている。


「特に話すことがないので」


 そう言って、足元へしゃがんだ。俺の包帯の端が剥がれているのを見つけたらしく、指で浮いたところを押さえてくれた。


 謎すぎね?


「触らずに待っていてください」


 扉が閉まり、俺は足をベッドへ上げた。




 次に来た人は、扉を叩いてから入ってきた。


「見せてもらっていいかな」


 柔らかい声だった。手には医療用品の入ったケースを持っている。


 さっきもガーゼ貼ってくれた人だ。オラヴルって言ったっけ。


 俺が毛布をよけると、オラヴルは椅子を寄せて座った。


「頭痛や吐き気は?」


「ない。ちょっと眠いくらい」


「少し眠れた?」


「うとうとはした。人が来るから、そのたびに起きてるけど」


 オラヴルは扉へ目を向け、また俺の足元へ視線を戻した。


「診終わったら、休ませるように伝えておくよ」


 やっと普通の人が来た……。なんか背が高すぎるのと目がブルーな、いかにもな外人だけど…。


 包帯を外す手元を見ながら、俺は身体を起こした。


「エリアスは。今、どうしてる?」


「寝てるよ。今すぐ危ないという状態ではない」


 俺は、ずっと上げていた肩を下ろした。


「よかった。……あの人がいなかったら、俺、出られなかったから」


 そこまで言って、俺は足元へ目を落とした。


「まだ礼も、ちゃんと言えてなくて」


「目が覚めたら、君が気にしていたことは伝えておくよ」


 オラヴルが傷に当たっていたガーゼを外した。端が引っ掛かり、俺は反射的に足を引いた。


 足首を掴まれた。


「動くな。傷が擦れる」


 え。足びくともしなくなった。


 力強っ……。


 顔を上げると、いつもの柔らかい声に戻った。


「もう終わるよ。少し染みたね」


 手が離れ、新しいガーゼが当てられた。


 ……この人もヤバめの人?


 この組織、なんなんだ…?


 オラヴルは包帯を留め、俺の足をそっと下ろした。


「このくらいならもう問題なさそうだね」


 結構血出てたと思ったけど…重症者いるしな。確かにそのうち治る。


「重症者いるのにこんなので呼んですみません…」


「これくらいなら手間にもならないよ。銃創でもないんだから」


「ん?」


 ケースを閉じる手つきは穏やかだった。


 ジューソーってなんだろ。医学用語かな。




 次に扉が開いた時、俺はまた背中を起こした。


「あ、さっきの……」


 戸口にいた男が、首を傾けた。


 戸籍のことで怒っていたユキって人に見えた。ただ、今は笑っている。畳んだ服を持っていた。


「流石に出たでしょ、住民票とかさ」


「それ、ユキじゃない?俺、ルカ」


「ん?」


「双子なんだ」


「あ、ごめん。そしたら間違えたかも」


「いいよ。似てるって言われるの俺は嬉しいし。着替え、ここに置くね」


 ルカは机へ服を載せた。上にタオルも置き、こちらへ向き直った。


「ユキ、何か言ってた?」


「俺の戸籍がないって。住所も大学も確認できないから、嘘つくなって怒られた」


「ああ。それは興味深いね」


 ん?まあ、そうか。たしかにそう。


 その時、廊下からフィンが顔を出した。


「ルカ。東大の」


 それだけ言って歩いて行った。


「ああ、大学生か!」


「ううんもう大学は出たよ」


「院生?」


「博士はもう取ったよ」


「ん?そんな歳?」


「24」


「???」


 ルカは机の上の服を指した。


「サイズが合わなかったら言って。別のを探すから。これユキのやつ」


「あ…ありがとう」


「大切に着てね。ユキのだから」


 そう言って出ていった。


 何言ってるかわからない。そもそも24で、博士は取れない。




 廊下の向こうから、声がした。


「カズマ、俺の端末触んな」


 さっき戸籍のことで怒っていた声、ユキちゃんだった。別の人が笑っている。何かを取り合っているのか、椅子の動く音がした。


 扉の前を足音が通り、フィンの声が聞こえた。


「アルノー、カラムの分のぶどうもある?」


「あります。本人に食べに来るよう言ってください」


「どこ居るの」


「知りません」


「あいつは葡萄食べない」カイの声がした。


「はー!?だっるあいつ」


 あれ。フィン、って優しい感じだったと思ったのになんか違う?


 普通にご飯の話をしている。


 仲はいいんだと思う。


 俺は着替えを膝へ置いたまま、扉を見ていた。


 隣の部屋でテーブルを叩く音が聞こえる。


「あーーーしんど。錯乱してんのかあいつ」


 なんか怖いこと聞こえた。ユキってひとこわい。聞こえてるよー…?


「落ち着けユキ。ほれ、いい酒買ってきた」


「うわああああヴィクトル最高ーーーー」


 うるさい……。


 でも、足には新しい包帯が巻かれている。ベッドは暖かいし、着替えももらった。腹も空いていない。


 自分の住所を証明できなくて、トイレには一人で行けない。


 俺……どうなるの?

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