マツダ、アテンザ
東京拠点 共用スペース 午後十一時二分
灯りが一つだけついていた。
ユキナガはソファに座り、端末を膝に載せていた。
画面には男の顔写真と、短い照合結果が並んでいる。
『ダリ。姓はまだ取れてない』
端末から、ルカの声がした。
「出身はイランで確定」
『うん。傭兵歴はある。でも所属が何回か変わってる』
「そっか」
ユキナガは画面を一度スクロールした。
通信室の監視映像から切り出された横顔が表示されていた。
「……足取りは?」
『わかんない。追う?』
ユキナガの指が止まった。
「……一応」
共用スペースの奥で足音がした。
ユキナガは画面を閉じた。
『ユキ?』
「もういい。おやすみ、ルカ」
通話を切った。
リヴァが水を飲みに来たところだった。
「ユキナガ、終わった?惣一に依頼されてた解析」
「うん」ユキナガが伸びをした。「やっと」
「なんかみんな今日疲れてたね」
「カラムも胃腸炎?とかもう治ったらしいし」
ユキナガがモンスターエナジーの缶を置いた。ちょうど飲みきった所だった。
「リヴァ、ドライブ行かない?」
リヴァが止まった。
「……今から?」
「やっとルカたち帰ったし。一緒に居たい」
「……今日あんまりできなかったから、明日朝からカイとトレーニングしなくちゃだもん。もう寝ないと」
ユキナガが少し笑って、リヴァの袖を掴んだ。
「ちょっとだけ。お願い」
「……」
「アイス奢る」
「……ちょっとだよ」
駐車場に降りた。
11月に入ったばかりだった。空気がひんやりとしはじめている。
アテンザのソウルレッドが停まっていた。
深い赤だった。低く、長いシルエット。
「レースゲームの時のと同じだ」
「ちょっと違うけどね」
「赤、意外」
「そう?マツダだし赤でしょ」
「へー」
ユキナガが助手席のドアを開けた。
「どうぞー」
リヴァが乗り込んだ。シートが深かった。革の匂いがした。
ユキナガがエンジンをかけた。ディーゼルの低い振動が、シートから腰に上がってきた。
リヴァは薄いコットンのワンピースを着ていた。白に近いベージュ。膝丈で、浅いブーツを履いていた。
「遠くいかないで。車酔いする」
「わかってるよ」
首都高に乗った。
ユキナガが音楽をかけた。低い曲だった。
しばらく、ただ走っていた。
街灯がボンネットの上で等間隔に流れた。
「あんなことの後だし。なんか日常に戻りたくて」
「…うん」
音楽だけが、低く続いていた。
しばらくして、ユキナガが口を開いた。
「ローマ、生きててよかった。みんな」
「よかった」リヴァが言う。
「リヴァも戻ってきてよかった。俺はあんたがどれだけ重要人物かとか、わからないけど」
「⋯⋯私だって、知らないよ」
「俺が知ってるリヴァは、ここにいるリヴァだけだから」
「うん」
「みんな、あんたが居ないとダメになってるよな」
「⋯⋯何それ」
「みんな、リヴァで持ってる」
リヴァが、ユキナガを見た。
ユキナガは前を向いていた。
「⋯⋯」
「なのに、あんたはさ」
ユキナガが、そこで止まった。
「⋯⋯いや、いいや」
ウインカーの音がした。車はほとんどいなかった。
「だから、たまには、こうやって連れ出させて」
リヴァが、息を吐いた。
湾岸のコンビニに寄った。
二人で降りた。
冷えた夜気が、ワンピース越しの肌に触れた。
ユキナガがMarlboroを出した。
一本抜いた。
リヴァに、当たり前のように差し出した。
煙草を手で受け取って、咥えた。
ユキナガが、ライターを擦った。
手のひらで風を遮りながら、火を寄せた。
リヴァが、煙草の先を、ライターの火に合わせた。
火が、移った。
ユキナガが、火を消した。
ユキナガが、自分の一本に、火をつけた。
「⋯⋯」
「ん?」
「⋯⋯ううん」
リヴァが、煙を吐いた。
ユキナガが、笑った。
「警戒した?」
「⋯⋯」
「俺が、何かすると思った?」
「⋯⋯」
ユキナガが、顔を逸らして煙を吐いた。
二人でコンビニに入った。少し暖房が効いていた。
ユキナガが、アイスのケースの前で止まった。
「何味にする」
「⋯⋯いちご」リヴァは答えた。
「うん」
ユキナガが、ハーゲンダッツのストロベリーを取った。
「ご褒美と言ったら、これでしょ」
自分の分は、ハーゲンダッツのショコラミントエクストラ。
水も取った。
じゃがりこも、片手で取った。サラダ味。
「全部食べるの」
「もち」
ユキナガが全部持って、レジに向かった。
駐車場の縁石に、二人で座った。
「寒くない?車の中にする?」
「寒くない。車の中ぴかぴかだったから、こぼしたら怖い」リヴァが笑った。
「そんなんで怒んねえよ」ユキナガが笑った。
ハーゲンダッツの蓋を開けた。
夜の湾岸が、前に広がっていた。工場の灯りが遠かった。風が少しあった。ワンピースの裾が動いた。
リヴァが、スプーンを口に運んだ。
「変だよね、記憶がないのにアイスとかどうでもいい事は、どれ美味しかったとか覚えてる」
「食べた記憶は?」
「それは、ないんだよね」
「そか」
ピンク色のアイスが、少しずつ柔らかくなっていた。
ユキナガがチョコミントを食べていた。
二人で、しばらく無言だった。
じゃがりこを開けて、つまんだ。
塩気が、アイスの甘さの後で美味しかった。
「⋯⋯つみぶかい」
「だろ」
しばらく二人で、じゃがりこを食べていた。アイスが溶け始めていた。
「リヴァってチョコミントいける人?」
「…わかんない」
ユキナガが自分のアイスを半分すくって、リヴァのカップに入れた。
「⋯⋯いいよ」
「俺、おなか弱いから」
「嘘」
リヴァがユキナガを見た。
ユキナガは、ハーゲンダッツのカップを見ていた。
リヴァは自分のストロベリーを、ユキナガの方にすくって入れた。
「混ざったじゃん」
「ユキナガが先にやった」
リヴァがチョコミントをすくった。恐る恐る、木のスプーンの先にちょっとだけだった。
口に入れた。
「ぉ……」リヴァが固まった。
口を窄めた。目を強くつぶった。
「そんな顔初めて見た」ユキナガが笑った。
湾岸沿いを少し走った。
人気のない駐車スペースに停めた。
護岸の向こうに、橋の灯りが連なっていた。水面が光を吸っていた。
エンジンを切った。
外の音が、一気に遠くなった。
車内に海風の匂いが残った。
外に出た。
ユキナガがリヴァの手を取り、ボンネットの方に、軽く引いた。
リヴァがボンネットに軽く寄りかかった。
ユキナガがリヴァの正面に立った。
ユキナガの目が、リヴァの肩の線を辿った。
顔に戻った。
「⋯⋯」
ユキナガが片手をボンネットの上に置いた。
リヴァの横だった。
その手を止めて、ボンネットを見た。
「⋯⋯傷つけたくないな」
息を吐いた。
「⋯⋯後ろ、おいで」
ユキナガがそう言って、リヴァの手を取った。
後部座席のドアを開けた。
シートにリヴァを下ろした。
ユキナガが続いて入った。
ドアが閉まった。
外の音がもう一段遠くなった。
リヴァが見上げると、ユキナガの顔がすぐ上にあった。
「⋯⋯ちょっと、褒めて」
「⋯⋯」
リヴァがユキナガの髪に、指を入れた。
軽く撫でた。
ユキナガが目を閉じた。
「⋯⋯」
リヴァの手が髪から外れた。
ユキナガがその手を取った。指先を自分の方へ引き寄せ、唇を軽く当てる。
リヴァが息を止めた。
手を離したユキナガの指が、そのまま首筋へ移った。二本の指が皮膚へ触れ、脈を探すように位置を変える。
指先が止まった。
ユキナガはそこに触れたまま、リヴァの顔を見た。
「……速くなった。さっきより」
リヴァが目を伏せ、フロントガラスへ視線を逃がす。
「駄目。見て」
「……」
リヴァが目を上げた。
ユキナガはまだ首筋へ指を置いていた。目が合ってから、ようやく手を離した。
その手がワンピースの肩紐へ移る。
指を掛け、そのまま肩から外した。
露わになった肌へ視線を落とす。すぐには触れず、ユキナガは黙ったままそこを見ていた。
リヴァが目を伏せかける。
「こっち見て」
リヴァが目を上げるまで、ユキナガは動かなかった。
視線が戻る。
それを確かめてから、ユキナガが身体を寄せた。唇が肩へ触れる。
リヴァの呼吸が途切れた。
ユキナガが顔を上げる。
「俺の名前、呼んで」
リヴァの目が揺れた。
「……ユキナガ」
呼ぶ声が途中で掠れた。
ほんの少し眉を寄せ、それから口元を緩める。
「今のかわいい。好き」
言い終わる前に、もう一度近づいた。
リヴァが顔を逸らそうとする。
ユキナガの指が顎へ触れた。
「見て」
リヴァが目を開ける。
ユキナガの睫毛が近かった。さっきまでより呼吸が静かになっている。
「……ユキナガ」
その声に、ユキナガの目が一度細くなった。
その時、遠くを大型車が通った。
低い振動が路面から車体へ伝わり、二人とも動きを止める。
リヴァが目を開けた。
ユキナガはフロントウィンドウへ視線を向け、道路の先を確認した。大型車の音が遠ざかるまで外を見てから、リヴァへ顔を戻す。
「……声、抑えてね」
リヴァが何か言う前に、ユキナガがまた距離を詰めた。
肩へ触れ、首筋へ唇を寄せる。さっき指を置いていた場所だった。
リヴァの手がユキナガのシャツを掴んだ。
ユキナガの目がそこへ落ちる。
「……リヴァ」
ユキナガはしばらくリヴァを見ていた。
「好きって言って」ユキナガが言った。
「……」
「……悪い、ミスった」
ユキナガの目が落ちる。
「……止めなくていいよ、ユキナガ」
ユキナガが顔を上げた。
リヴァは目を逸らさなかった。
そのまま数秒見つめてから、ユキナガの手が腰を引き寄せた。
「……後で嫌にならないで」
「なんない」
ユキナガが唇を重ねた。
今度は途中で離れなかった。
リヴァの腕が首へ回る。ユキナガの手が背中へ入り、肩から落ちていた布がシートの上へ滑った。
遠くを走る車のライトが、フロントガラスを一度横切った。
ユキナガは顔を上げなかった。
車は東京へ戻っていた。
ユキナガが運転し、リヴァは助手席で窓の外を見ている。まだ太陽は沈んでいる。
ワンピースの肩紐がまだ少しずれていた。
信号で車が止まる。
ユキナガが横目でそれを見て、左手を伸ばした。指先で肩紐をつまみ、元の位置へ戻す。
肌へ触れないように、指がすぐ離れた。
「……ユキナガ」
「うん」
「ご褒美、なった?」
ユキナガは前を向いたまま笑った。
「……うん」
音楽が低く流れていた。
ユキナガの左手がセンターコンソールへ戻る。リヴァの膝の近くを通り、指先がそこで止まった。
触れなかった。
リヴァの手が動き、その指へ重なった。
ユキナガは前を向いたまま手を引かなかった。
信号が変わった。




