泣き上戸
東京拠点 共用スペース 午前一時四十八分。
次の日の夜。
キッチンの手元灯だけが点いていた。音を絞ったテレビがついたまま、ローテーブルには空になったビール缶がいくつも転がっている。夕食の名残の小皿と、レモンを切った小さなナイフもそのまま残っていた。
アオイはソファの端に座っていた。Tシャツにスウェットパンツ姿で、片手に缶を持っている。
二階から降りてきたリヴァは、空のグラスを持ってキッチンへ向かいかけた。ソファの前を見て足を止める。
「……アオイ、まだ飲んでたの」
アオイが顔を上げた。
「一人でやってるだけなので、気にしないでください……」
リヴァはローテーブルを見た。空き缶は足元にも増えていた。
「そんなに飲んでるの、初めて見た」
「誰のせいだと……」
「え?」
リヴァが近づく。アオイはその腕を掴み、強く引いた。リヴァの身体が傾き、そのまま隣へ座る。
「うわ」
「座ってください」
「酔うとそうなるタイプ?」
「あなたが自分の価値を分かってないからです」
「……」
アオイは持っていた缶をテーブルへ置いた。
「なんでこんなに愛されてて、自分の価値を下に見積もるんですか」
「レナートのこと?」
「その間、自分がどんな気持ちで待ってたと思ってるんですか」
「……ごめ」
「アルノやカイに死ぬほど詰められました。そりゃそうです。止めるべきでした」
リヴァは手の中のグラスへ目を落とした。
「でも少し進んだよ」
「そんなの自分でやらなくていいんですよ!言ってくれたら、自分があの教授に尋問でもなんでも――」
途中で声が詰まった。
アオイが目元を手の甲で拭う。濡れた手を見て眉を寄せたが、次の涙がすぐに頬を伝った。
「俺に死ぬなとか言うくせに、自分の価値は分かってないじゃないですか!自分のことそんな雑に扱うなよ!」
リヴァが顔を覗き込む。
「……なんで泣いてるの」
「……うう……俺、あなたからの呪いのせいで死ねないんです」
「……」
アオイは鼻を啜った。涙を拭っても、また落ちてくる。
「フィンも殺さないといけなくなっちゃったし」
「……?」
「ローマでは全滅しそうだったし……カイはいなくなるし、ヴィクトルもいなくなるし、あなたもいなくなるし」
「……うん」
アオイは俯いた。
「俺だけ、ほとんど何もなかったんですよ」
リヴァは黙って隣にいた。
アオイの視線がローテーブルへ落ちる。空き缶の間に残っていたナイフを取った。
リヴァの手を掴み、その柄を握らせる。両手でリヴァの手を包むと、そのまま自分の方へ引いた。
「アオイ」
「……」
アオイは泣いたままリヴァを見た。
「……リヴァなら、いいです」
両手に力が入る。
「殺してください」
「やめて、アオイ」
「早く」
「やだ。せっかく生き残ってるのに」
「見てください」
リヴァが目を合わせた。
「飲みすぎ、アオイ」
「早くしろって!」
リヴァが強く手を引いた。ナイフを外し、そのまま床へ投げる。硬い音を立ててローテーブルの向こうまで滑った。
アオイの両手が宙に残った。
二人とも動かなかった。アオイは肩で息をしながら床を見ていた。
廊下から足音がした。
フィンが共用スペースへ入ってくる。床に落ちたナイフを見てから、泣いているアオイへ目を移した。
「まだ起きてたんだ」
リヴァが振り返った。
「フィン」
フィンはそのままリヴァのそばへ来た。
リヴァの頬に手を添えて上を向かせ、唇を重ねた。
「は?おい」
アオイの声が飛んだ。
フィンが離れ、アオイを見る。
「何?アオイ」
アオイはリヴァの袖を掴み、自分の方へ引いた。
「なんで今、」
フィンが二人を交互に見た。
「……二人で何してたの?」
「フィンには関係ないです」
「冷たいじゃん」
アオイは涙を拭いもせず、リヴァの袖を握り直した。
「こっちはっ……朝まで、待ってたんですよ」
フィンが少し眉を上げる。
「それ、俺のせいじゃないでしょ」
「知らねえよ。お前が触ってんの見たらムカつくんだよ」
フィンがアオイを見た。
「アオイ、リヴァのこと好きなの?」
「話逸らすな!」
フィンは少し黙った。
「ふーん」
リヴァの腰へ腕を回し、そのまま自分の膝へ座らせる。髪を肩から退け、首筋へ唇をつけた。
「っねえ、フィン」リヴァが身を捩った。
「お前、マジでやめろ」
アオイが身を乗り出した。
「レナート教授といたんだって?」
「……」
「顔はいいけどさ、顔だけじゃん。あんな教授」
「頭もいい」リヴァが言った。「はず」
「そんなこと言っちゃうんだ?お仕置きしなきゃかな」
フィンがもう一度口づけようとしたところで、リヴァがアオイを見た。
アオイは据わった目でリヴァを見ていた。
リヴァはフィンの肩を押した。
「フィン、やめてあげて……」
リヴァはフィンの膝から降り、そのままアオイの後ろへ行った。
「アオイ」
「……は?」
返事を待たず、アオイを後ろから抱きしめた。
アオイの身体が固まった。
フィンも止まった。
「……へ?」
さっきまでフィンを睨みつけていたアオイは、何も言えなくなった。
リヴァはアオイの頭へ手を置き、乱れた髪を撫でる。
「辛かったねー」
「……」
「よしよし」
もう一度撫でられると、アオイの肩から力が抜けた。フィンへ向けていた荒い顔も消え、俯いたままされるがままになっている。
リヴァが髪を撫でるたび、アオイは少しずつ力が抜けた。
フィンの口元には、まだ薄い笑みが残っていた。
目の奥だけが冷えていた。
「……」
リヴァはそちらを見ず、アオイの後頭部をもう一度撫でた。
「もう寝なよ」
アオイが小さく頷いた。
リヴァはアオイから離れ、空のグラスを持ち直した。
「じゃ、おやすみー」
そのまま足早に階段へ向かう。
途中で一度も振り返らず、足音が二階へ消えていった。
アオイはしばらく階段を見ていた。
「面倒くさがられた……」
袖で涙を拭いて、視線を戻す。
フィンはさっきと同じ場所に立っていた。
笑っていた。
「さて。今夜は寝かさないよ、泣き上戸のアオイ。たっぷり聞こうか」
「え……俺、今危機的状況……?」
「リヴァのこと、いつから好きなの?」
アオイは目の前の缶を一口飲んだ。乱暴にテーブルに置く。
「…知りませんよ」
「じゃあナイフで何してたの」
「……」
「まだ朝までは時間あるね」
「ああ…尋問される……」
アオイは目から落ちた雫を袖で拭った。
フィンはアオイの頭を一度撫でた。
「大丈夫、優しくするよ」
「う……怖い…」
「話したらすぐ終わるからね」
「リヴァ……助けてください…」




